第20話


 所々に刺繍の飾り物が壁にかけられた石の廊下をアースを挟むようにして歩きながら、マルカは兵士が追ってこないのを目で確認していた。


「危なかったな……」


 ついてくる人影がないことを確かめて、小さく呟く。


「アース」


 歩調を合わせて歩きながら側にいるアースの耳にしか聞こえないように、シリオンは囁いた。


「塔の脱走は、反逆罪になるのか?」


「うん……」


 小さくアースは頷く。


「一応王立だし、創設理由が王家の要職につく賢者を育てるためだからね。十賢になると、王家の機密事項にも色々かかわるから……やめて塔を出るには、王家の認めた国への就職の許可を取った上で、必要なら忘却の術をかけてって手順になるんだ」


「なんで今回はそれができなかったんだ?」


 不思議そうにマルカが後ろから尋ねる。


「うん……本当はまだ見習いの年だから、就職は自由という権利もあるんだけど、やっぱり十賢だから―――いらないことも知りすぎたかな」


 ―――こういえば、それらしいだろう。


 思ったとおり、マルカとシリオンは「ふうん」とそんなものかと納得してくれている。


 本当はやめたくてたまらなかったから、できるだけ王家の最重要と思われる部分には関わらないように気をつけていた。そうでないと、シリオンが迎えに来てくれても、塔から出してもらえなくなる。


 既に、十賢の内の半数は、もう生きた最重要機密だ。そうなると、他者との面会さえ審査が厳しい。


「塔の事情はともかく。辞めたいという者を辞めさせないのは、いくらなんでも狭量だな」


 腕を組みながらシリオンが呟く。


「ああ、まったく。シー・リオンならやめたいと言えば、尻を蹴ってでも追い出すか、その場で叩き殺すかの二者択一なのに。逃げられたのならあっさり諦めろと言いたい」


 マルカも後ろから同調する。


「なんだかんだ二人って気が合ってるよね」


 アースがくすっと苦笑をすると、シリオンは一瞬苦虫を噛み潰したように唇を曲げ、マルカはだろうと弾けて笑った。


 派手ではないが、磨き込まれた廊下の先に、やっと教えられた部屋の番号をかかれた扉が見えてくる。ぱっと見た感じは、赤茶色の小洒落た雰囲気だ。けれど、先ずシリオンが扉を開けると、中を見回した。そして、アースを入れてから、もう一度、扉の前で廊下を見張るマルカと目で頷きあってから、扉を閉める。


「まったくマルカの奴!  あいつは邪魔したいのか守っているのかさっぱりわからん!」


 マルカを通路に残して、部屋の扉を閉めるや否や、シリオンは我慢していたことを吐き出すように叫んだ。


 それに思わず笑みがもれてしまう。


「彼女はきっとシリオンのことがとても好きなんだよ」


「いや、あいつは俺で遊んでいるだけだ。見たか、ここぞとばかりにからかいまくってくれて!」


 そう言って口を尖らせている姿は昔と何も変わらない。


 ―――随分姿は大きくなったけれど、昔のままのシリオンだ。


 だから、ほっとした。


 中に入って見回すと、部屋の中央には小さな丸い机と椅子が二脚置いてある。そして、奥には木で作った寝台が二つ。よく使い込まれてはいるが、ベッドの木材は黒光りするほど磨きこまれ、上には清潔なシーツがぴんと張られている。


 布団にかけられた柄は夫婦用を意識してのものなのだろう。白抜きでお揃いの山百合を描かれた薄い緑とオレンジの寝具は、並んでいるだけでアースの気持ちを重たくする。


「夕飯は、マルカが持ってくるように手配しておいた。これで暫くは二人きりの時間を楽しめるな」


 やっと二人になれたことが嬉しいように、シリオンは無造作に椅子に腰かけると、うーんと伸びをした。そして破顔をしている。


「そうだね」


 だから部屋に設えられた棚に荷物を置くと、アースはあまり寝台を見ないようにして、部屋の反対側の広い窓を開けた。


 水滴がたくさんついていた窓を大きく開けると、外には湯気がたちこめていた。見れば天然の岩を集めて作られた小さな浴槽があり、そこに先ほど見た水車が送っているのだろう。各部屋の横に伸びる温泉の水路から細い筒が渡され、竹にも似た先端から絶えず浴槽にお湯を送り続けている。


「へえ、温泉があるよ」


 初めて見る温泉に、アースは物珍しそうに屈むと、手を湯にちゃぽとつけてみる。


 熱すぎず、いい湯加減だ。


 座って上を眺めると、一階だがバルコニー風になっているそこからは、張り出した屋根の向こう遠くに夕空が見え、わずかにアルペーヌの雪をいただいた山頂が覗いている。


 その白い雪が誰かの髪を思い出す。


 ―――そんなことはない。


 必死にその思いを振り払うように、アースはお湯から手を引き出した。


 そんなはずはない。


 だから自分に言い聞かせて、顔に塗られた化粧を浴槽の湯で洗って落とした。


 落ちた化粧は一瞬だけ湯を汚したが、すぐに側の排水路に吸い込まれて消えていってしまう。


 だから、化粧を落として、ふうと息をついた。


「ねえ、シリオン」


 自分の中で何かに区切りをつけるように、後ろの部屋にいるシリオンに声をかける。


「うん? どうした?」


 それに椅子に座ったままシリオンは返事を返した。


「今夜はここで泊まるんだよね?」


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