第19話
やがて、西に下りた太陽が、高いアルペーヌから伸びる尾根の一つにかかろうとする頃、三人の馬はアルペーヌの関所のすぐ手前にある温泉についた。
そこまでは、緑の野山が広がる道沿いにいくつかの農家が点在し、ところどころで森がアルペーヌ山と繋がりながら広がっている、のどかな辺境の姿だった。
荷車が二台すれ違うのにも困るぐらいの道を、羊を飼っている人々が穏やかに行きかい、峻厳なアルペーヌの山から流れてくる白い雲が、羊たちの上をゆっくりと通り過ぎていく。
馬を止めて登ってきた道を眺めれば、遥かな下のほうに町がたまった水のように固まりあい、空には畑や森を過ぎていく夕焼けの風だけが優しい。
遠くから夕刻を告げる教会の鐘が響いてくる。
きっとその音が交代の合図なのだろう。道の先にある石造りの関所の門の上では、うーんと背筋を伸ばして新しく来た仲間と会話をする兵士の姿が見えた。
兵士がいるのは、アルペーヌの切り立った尾根から連なる長い石の壁の上だ。左に見える岩壁から石は連なり、それはこの二百メートル程先にある断崖にまで続いている。
山の崖から崖の。人が通れるのはおよそここしかない狭いここに、アルペーヌの関所はあった。夕暮れの中で見ても、あちこちに見張りの兵士が立ち、交代の挨拶と談笑をしている。
国境の関所とはいえ、ここから先は、馬がようやく一頭通れるほどの道しかないからだろう。国境近くにも関わらず、ひどくくつろいだ雰囲気だ。
だが、それも仕方がないのだろう。関所を越えた少し先には、夏には羊たちの放牧場になる広い草地が広がってはいるが、ほとんどは針葉樹に覆われた深い山道だ。
しかもアルペーヌの山頂近くになると、その草木さえ絶えて、夏でも白い雪が積もる峻厳な山脈なため、ここの関所の役目はせいぜい犯罪者が山越えをしないかの監視と、山から熊や狼が下りてきたときの捕獲といったところなのだ。
だからさりげなく観察した関所から目を動かすと、少し手前の道から奥まったところに、旅行客たちの行きかう建物が見えた。土の割れ目から白い煙が吹き出し、その側で大きな水車が、ゆっくりと水を建物に沿った水路に流し込んでいる。
ごとんと回る音がするたびに、その水車からあがる湯気が、白に茶が混じった石で作られた建物を包んでいく。
アーチ型になった入り口から、赤茶のレンガで作られた玄関が覗き、何人かの男女が中に笑いながら入っていくのが見える。
「これがアルペーヌの温泉かあ」
誰かの手記に書かれていた通りの外観に、アースは感慨深げに見上げた。
けれとも、着くや否やシリオンは馬を下りると、その玄関に向かって歩き出して行ったではないか。
「シリオン?」
―――どうしたんだろう?
関所の兵士もこちらには気がついていないし、まだ急ぐほど足元が暗いわけでもない。
確かにアルペーヌの山陰で急速に薄暗くなってはきていたが、まだ夕暮れ時だ。
不思議に思い見つめていると、受付に行ったシリオンが突然叫ぶように声を出した。
「主人! 部屋を二つだ!」
それに恰幅のいい温泉宿の主人が振り向き、すぐに愛想よく答える。シリオンの身なりでおそらく余程裕福な商人と踏んだのだろう。金づるは大歓迎、それが上下に握りしめた両手に表れている。
「へい! お一人様用ですか? それとも、お二人様?」
「二人部屋と一人部屋だ!」
ばんと手を受付に叩きつける勢いで言われた言葉に、後から一緒に入ってきたマルカから「くそっ。出し抜かれた」という不穏な言葉が聞こえる。
そのシリオンの後ろに立つ二人に気がついたのだろう。主人は目を大きく開けると、すぐにそれを大きな笑みに変えた。
「これはこれは。どちらもとびきりの美人ですなあ。お客さん両手に花ですね。で、どちらが奥様で?」
「こいつに決まっている!」
ぐいっとアースの肩を掴むと、ほとんど叫んだ。
―――周りの目が痛い……。
「ほう、美人の奥様ですな。もうお一方は、お姉さんか妹さんで? なんなら三人一緒の家族部屋にもできますが」
ここで返答次第では、確実に同室だろう。
後ろを見ると、ふふん、だから愛人設定にしておけばいいのにと言わんばかりのマルカの表情が目に入る。
―――まあ、疑われないためなら妹か姉がいいのだろうけれど。
シリオンならともかく、妻であるアースの姉ということにしておけば、別室でも疑われないと思うけどと、その答えを口に出そうとした時だった。
「―――従姉妹だ」
―――更にもう一つ遠くにした!
マルカがちっと舌打ちをするのが聞こえる。
「だから部屋を二つだ!」
「じゃあ、お客さんのは家族風呂がついた夫婦用のお部屋にしておきますね。一人部屋にはあいにく温泉はついていないんですが、その一階の奥に広い温泉がありますから何度でも入ってください」
そういうと、部屋番号のついた鍵を二つと、入浴用の薄い布で作った湯帷子を三枚渡してくれる。人前で入浴する習慣がない国だから、入るときにはこれを身に着けて入れということなのだろう。
「よし!」
ふっとシリオンが勝利の笑いを浮かべた時だった。
「おい、宿の主人はいるか?」
「はいよ。何だね、関所の兵隊さんがこっちになんて。疲れをとりに入りに来てくれたのかい?」
そっと受付を離れた三人には目もやらずに兵士が入ってくると、手に持っていた一枚の紙を掲げて主人の前に立つ。
「そうしたいところだが、都から急な伝令が来てな。なんでも塔の十賢が逃げたらしい」
「十賢様? そりゃあ大変なことだ」
捕まれば反逆罪になるんじゃなかったかねと目を丸くしている主人に気がつかれないように、アースは頭を覆っている布でそっと顔を隠した。
「だから国を出る前に、見つけ次第捕まえろとのお達しだ。この宿に膝まである長い黒髪の男は来なかったか? 手配書によると、黒髪に黒目の整った容貌の若い男らしいが」
「そんな長い髪のお客は来ませんでしたよ。第一、男でそんな長い髪のお客がいたら忘れませんさあ」
「そりゃそうだな。まさかこんな田舎に来るとも思えんし。まあ、でも一応それらしいのがいないかだけ注意しておいてくれ」
その会話の流れに、アースは盾になって自分をうまく隠してくれているシリオンとマルカの後ろでほっと息をついた。
なんとか兵士の目につかないように、この場を離れなければ。けれどそう思ったときだった。
「ああ、よかった。兵隊さん」
突然、近くの農民と思しき年をとった男が入ってくると、受付にいた兵士を見て話し出す。
「昨日から、関所向こうの山の草地に羊を連れて行った旦那がまだ帰ってこないと、ピエールのおかみさんが騒いでいてのう。ちょっと見てきてもらえんかね?」
「ピエールなら、遅くなったらしょっちゅう草地の山小屋に寝泊りしているだろう。どうせ今回も茸採りに夢中になって、明日帰るつもりなんじゃないか?」
「わしらもそう言ったんだがのう。とにかく、あのかみさんは心配性じゃから」
明らかに兵士たちの注意がそれている。だから今のうちにと、三人はアースを包むようにして玄関から奥へと動き出した。
シリオンがアースの肩を抱き、マルカが背後を守るようにして玄関からの通路を奥へと進んでいく。
「とにかく明日だ。明日になっても帰らなかったら、山小屋を見てきてやるから」
そう農民に言い聞かせている声が通路の奥に遠くなっていく。けれども、三人が角を曲がる一瞬に、農民から顔をあげた兵士の目に留まった。
「おい」
と宿の主人に話しかける。
「今のすごい美人たちだな。今夜のお客か?」
「ああ、どうやら金持ちの商人の奥さんとその従姉妹らしいですよ」
主人は掴んだ金づるを自慢するように、兵士に話した。「へえ」と興味をもった兵士に対しても、にこにことしながら。
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