第21話
「今夜はここで泊まるんだよね?」
「ああ」
そう言って、やっとシリオンは奥に二つある寝台に気がついたらしい。急に口ごもったと思うと、ちょっと困ったように目を伏せて、並んだ寝台から視線を逃がしている。
前日も一緒に野宿をしたが、そこにある物で奇妙に相手を意識してしまうことはある。特に自分に恋をしているシリオンには、夫婦用の寝台なんかはまさにそうだろう。
「じゃあさ」
とアースは空を見上げていった。
「一緒に温泉に入らない?」
「え?」
さすがにこの言葉にはシリオンが目を開いた。そしてものすごい勢いで振り向く。
「だって―――疲れたでしょう?」
だから着ていたドレスのボタンをはずして、持っていた湯帷子を羽織る。
その動作の一つ一つが儀式のようだ。
「い、いや。その俺は―――あとでいい」
ひどく困ったような声だ。困惑と迷いと、自分で自分を言い聞かせるための葛藤の混じった声。
完全に女物のドレスを脱いで、その下の服も落とした。そして素肌の上に白い湯帷子一枚を羽織り、前開きの襟を軽くかき合わせる。横についた小さな紐で腰を縛るが、手は今のところ普通どおりに動いてくれる。
―――大丈夫だ、シリオンだもの。
ずっと待っていた。
叶うのならずっと一緒にいたい。
―――一緒にいるために必要なら――
こんなことはなんでもない筈だ。
だから決意すると、アースは窓から中に姿を現した。髪も包んでいた布をほどいて編んでいたのを解くと、長い髪がふわりと風に翻る。
「アース」
ごくりとシリオンが唾をのみ込むのがわかった。
女性の化粧と衣装を脱いでもどうやらシリオンの目に映る美しさが損なわれることはなかったようだ。アースは意識してはいないが、むしろ中性的になった分だけ、その白い肌から透き通るように美しい色香が立ち昇る。
男にしては、日に焼けていない細い手足。
それが湯帷子の袖や裾から覗きながらシリオンに近づいてくる。
「シリオン」
懐かしい呼び名で呼びかけた。自分自身で相手の名前を確かめるように。
「お前……」
そして伸ばした片手を、急にぎゅっと握られた。
「わかっているのか? 俺は本気でお前に恋している」
「うん、知ってる」
掴まれた腕の熱さは痛いほどだ。
「俺はお前に触れたい。いつでもだ。お前の側にいたい。口付けしたい。お前の全てを俺のものにして、ほかの誰にも渡さないように俺を焼きつけてしまいたい激情と戦っている!」
「うん。―――だから、いいよ」
自分から口付けをねだるように、唇を近づけた。
「僕の胸に触れたいと言ったよね? シリオンならいいよ―――」
―――シリオンならいい。
それは嘘偽りのない本音だった。
だから見上げたアースの瞳に応えるように、顎を掴んだシリオンの唇が迷いながらゆっくりと降ってくる。
「アース……」
はっきりと欲を含んだ声だった。
唇が重ねあわされ、それ何度か角度をかえて交じり合わされる。最初は軽く、やがてそれでは足りないように唇の中、もっと奥深くまでへと。
「アース……アース」
唇が幾度も合わさる間に何度も名前を呼ばれた。
―――大丈夫、これはシリオンだから。
大好きなシリオン。それなら、きっとこういうことだってなんともない。
髪をいとおしげに口付けられ、そのまま奥にあった寝台に連れて行かれると、そこに座ったままもう一度口付けられた。
「ん……」
息が苦しくて、少しだけ声がこぼれる。けれど、シリオンはアースの頬に唇を移すと、もれてきた声さえ愛しくてたまらないように、何度も同じところに口付けを繰り返す。
「好きだ。今も、昔も――お前だけだ」
そう耳元で囁かれると、ゆっくりと背を寝台に倒された。
背中に冷たいシーツが当たる感覚に背筋が震える。
けれども、シリオンの唇はゆっくりとアースの首元に移動すると、そこに自分の恋の証を刻むように、幾度も丹念に行き来する。
その感覚に必死に瞼を閉じた。
―――大丈夫。
それなのに、背中の下に散らばった黒髪に乗った自分の体がゆれるたびに、指先が冷えていく。
「アース」
囁かれ、首筋をたどる唇は愛おしそうなのに、その指が自分の湯帷子を広げる衣擦れの音に、思わず叫びだしそうになる。
手が胸に触れた途端、背中が跳ねた。体の上にかぶさる黒い影。その影を見た瞬間どうしようもない寒気が全身を走り抜けていく。
服を脱がせる音、自分の腕にからまりつく寝台に散らばった髪。ほどけかけて、体に絡まる衣。
そして肌にじかにふれる冷たい寝具。
その全てに、心の奥底からどうしようもない恐怖が駆け上がってくる。
―――怖い!
どうしても指先が震えだすのを止められない。
―――嫌だ! 怖い怖い怖い!!
歯をかみ締めて、必死で繰り返す言葉が漏れないようにした。それでも、瞼を閉じて体をこわばらせる事以外に、体を駆け抜ける震えに耐えることができない。
どれくらいたったのか。ふと、自分の首を辿っていた唇の感触がないことに気がついた。
不思議に思い、固く閉じていた目を薄く開けると、目の前には端整に整ったシリオンの顔が、その翡翠の瞳に怒りを湛えてアースを見つめているではないか。
「お前は俺を馬鹿にしているのか」
まるで地の底から絞り出すように低い声だった。出会ってからは聞いたことのなかった声音に、シリオンの怒りの大きさに気がつく。
「シリオン……」
よく見れば、寝台に横たわる自分の姿は、まだ前を僅かにはだけられたぐらいで、腰紐すらも解かれてはいない。けれどシリオンはアースの上から起き上がると、勢いよく立ち上がった。
「不愉快だ! 俺はそんなお前はいらん!」
「シリオン!」
慌てて名前を呼ぶ。けれどシリオンはもう立ち上がると、アースに背を向けて、部屋の扉の方へと歩いて行ってしまうではないか。
「ごめん、待って! 待って、シリオン!」
必死に手を伸ばして名前を呼んだ。けれども、叫んだ声は、無情にも叩きつけられるように閉められた木の扉によって遮られてしまう。
それにアースの伸ばした腕の先から、崩れる様に手が落ちていった。
―――ごめん、シリオン……。
怒らせるつもりじゃなかった。本当にシリオンならと思ったのだ。
―――それなのに。
「おまえさあ、一体なにがしたいの?」
ふわんと空中に寝転がりながら現れたヒイロは、空中で肩肘をついたまま心底あきれたといった風に寝台に座るアースに話しかけてくる。
「ずっとあの幼馴染を待っていたんだろ? それで受け入れる決心もしたっていうのに。あんな生贄みたいな顔をされちゃあ、そりゃあ怒りたくもなるってもんだろう」
馬鹿かと相変わらず悪態をつくヒイロに、アースは俯いたままぽつりと言葉を返した。
「―――怖いんだ」
「あん?」
それにヒイロはやっと少し真面目な顔になり、空中に座りなおす。そしてアースを見つめ直した。
「お前、まさか―――」
それに終に心の堰が切れてしまった。震える体を両手で抱きしめるのと同時に、叫びが迸ってくる。
「怖い! シリオンを受け入れて、それでもし二度とシリオンを信頼できなくなったら―――! そう思うと怖くてたまらない!」
―――あのイシュラ王子の時のように。
「お前―――まだあの時のことを」
だから、わずかに唇を噛んだヒイロに、アースは目元に滲んだ涙を指で拭いながら答えた。
「シリオンは大丈夫―――何度も、心に言い聞かせたのに駄目なんだ。シリオンを二度と暖かい目で見れないかもしれない。どうしても背中からそんな恐怖が這い上がってきて……体が震えてしまう」
―――けれど、それでシリオンを怒らせてしまった……。
小さく肩を震わせるアースを、ヒイロはただ小さく唇をかみ締めながら見つめることしかできなかった。
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