第6話 待っていた日


 イシュラ王子との僅かな隙間から、体を庭園に駆けこませると、アースは重いドレスを必死に両手で掴みながら走る。


「シリオン……!」


 ずっと、夢見て待っていた。


 いつか、きっと来てくれる。


 ――強引で、我がままだけれど、絶対に行くと約束してくれた。


 彼と一緒に生きた数日間は、親が死んでからのほかのどの時よりも幸せだった。転べば、悪態をつきながらも手を伸ばしてくれ、先に行けば怒り、後ろになれば待っていてくれた。初めて、親以外の人の温もりで幸せになった記憶。


 いつまでも側にいて一緒に歩きたいと思っていたのに。


 ――それなのに、迎えに来てくれたシリオンを危険に晒すことになるなんて……。


「シリオン、ごめん……ごめん!」


 無事でいて。


 必死で中庭の整備された小道を走り抜けたが、それでは遠回りになりすぎる。少しでも早く行こうと、庭の草の間をくぐり、近道の木の間を走るのに、ドレスのレースが梢に引っかかってしまう。フラウに怒られるのもかまわずに、それが木の枝で破れるのにまかせて走り抜けると、先程の東屋ではまだシー・リオンが少し項垂れた表情で腰かけていた。


 はあと溜息をついて片手に顔を埋めているのは、やはり求婚が失敗したことに落ち込んでいるのだろうか。


 ――いた!


 まだ無事だと、ほっとしたのも束の間。梢の間に暮れかけていく陽の光を浴びて僅かに輝く細い銀が見える。


 座っているシー・リオンの斜め上の木の間。遠くにある太い枝の間に、葉に隠れた黒い人影が構える矢尻が夕日を弾いて輝いているのがはっきりと目に映った。


「シリオン! 危ない!」


 今にも射られようとしているそれに向かって、走り出す。防ぎたい。だけど。


 それと同時だった。矢尻が引かれた弓から発射されたのは。


 矢は真っ直ぐにシー・リオンの心臓を狙っており、引かれた弦の速度のまま皇帝の胸へと向かっていく。


 必死に駆け出した。驚きに目を見張ったシー・リオンの前で、微かな鈍い音がすると、矢はアースの肌を貫いてその右腕に突き刺さっていく。


 痛いとも、怖いとも感じなかった。


 ただ、目を開くとシー・リオンが真っ青な顔で、庇った自分の崩れていく体を抱きとめようとしてくれている。


「――――‼」


 言いたいことの全てを飲み込んだ、シリオンの一瞬唇を噛んだ姿を確かめて、アースは腕を焼く痛みを感じながらもほっとしていた。


「よかった…………君が無事で……」


 イシュラ王子から守ることができた。


 なぜなのだろう。彼はいつの頃からか自分のこととなると、周りの全てを排除していくように変わってしまった。その感情が何から来るのかはわからない。けれども、シリオンだけは彼から守ることができた。赤く濡れた右手の冷たい感触よりも、ただ抱きとめてくれた両腕の温かさだけが心に喜びとなって沁み込んでくる。 


「衛兵! すぐに暗殺者を捕えろ!」


 頭の上で、シー・リオンが大声で遠ざけていた警護の者達を呼びつけている。


「あの木の上だ! 絶対に捕まえろ! ――――俺の大切な人を傷つけた‼」


 まるで迸るように叫んでいる。だけど、その叫ぶ言葉に、僅かにアースは目を見開いた。


 そしてシー・リオンは血だらけになったアースを両手で抱え上げると、腕の中で荒い息を繰り返しているアースの瞼を閉じさせまいと必死に言葉を紡ぐ。


「アース! お前アースだな⁉ 隠したって無駄だぞ、俺をシリオンって呼ぶのはお前だけだ!」


 それにアースは息が乱れながらも、弱々しい苦笑をこぼす。


「あーあ、ばれちゃった……こんな女装の変な姿では会いたくなかったのに……」


「ふざけるな! 俺がお前を手に入れるために、今までどれだけの血を流してきたと思っている! それなのに再会した途端、お前がまた俺の前で血を流すなんて。俺が俺を許すことができると思っているのか⁉」


 手当てをしながらの激しい表情に、アースはくすっと笑った。


「僕は昔怪我したことなんてとっくに忘れていたのに……そんなに君は、苦しんでいてくれたんだ」


「当たり前だ! 二度とお前に怪我はさせない! お前に血を流させない強い男になると決めて、その決意だけでここまで来たんだ! それなのに――また、お前は俺の前で血だらけになっている……」


 それがどれほどの無念だったのか。シー・リオンの細かく震えた拳を見つめれば、離れていた間を知らないアースにさえ、今の気持ちが痛いほど伝わってくる。


「大丈夫だよ……急所や腱はそれているから。それより君の苦しんでいる姿の方が痛いよ……」


 だから、大丈夫な左手をそっと肩に回す。それに、シリオンは碧の瞳を苦しげにゆがめながら、きつくアースをみつめた。


「俺を苦しめたくないなら、二度と傷つくな! 俺は――――俺は……お前だけを守りたくてここまで来たんだ……!」


「うん……」


 だから、アースはことんと懐かしい幼馴染の今は逞しくなった胸に顔を寄せた。


「ごめん……手紙をくれていたの、知らなかったんだ……知っていれば、こんな変な恰好じゃなく会えたのに……」


「間者から手紙を妨害されているらしいことは訊いていた。どんな恰好でもいい、俺はお前に会いたかった。……ずっと……ずっと、お前にだけ会いたかったんだ! お前の存在だけが、孤独の中で、俺を支えるたった一つの灯だったんだ!」


「それは僕も同じだよ……」


 いつか絶対に迎えに行く――別れ際の言葉だけが、一人きりの塔で、孤独に耐えながらする修業の支えだった。イシュラが自分を周りから切り離せば、切り離すほど、ただその約束と昔の面影だけが自分の拠り所になっていった。


 もう、子供時代の他愛もない約束と笑って捨てられないほど。


 ――いつかきっと寄り添える魂がいると確信していたから。


 言葉にのせられない思いをこめるように、アースはそっとシー・リオンの肩を抱きしめる。


 その思いを受け止めるように、シー・リオンは腕の中のアースを抱きしめると、想いを伝えるように深く口づけた。


 優しい黄昏に包まれて受け止める口づけは、男同士だと言うのに、不思議と少しも不快に感じない。


「俺は、お前を愛している。昔お前が俺に手を伸ばしてくれたあの日から、俺はお前以外の誰も見ることができなくなった」


 突然の告白にアースはくすっと笑ってしまう。


「そっか。君が女に縁がなくなったのも、妙に求愛のセンスが悪くなったのも全部僕のせいなのか。――だったら責任を取らないとね」


「もちろんだ。まさか取らないつもりだったのか?」


 ――取らせるつもり満々……。


 この自信だけはどうにかならないかなと思うが、それだけの実績を積んでここに来ているから笑いしか出てこない。


「僕を連れて帰ってくれるの?」


 この国から。そしてイシュラ王子の手元から――。


「当たり前だ。お前を帝国に迎えに来た。そして二度と迂闊に怪我なんてしないように、どれだけ俺がお前を大切に思っているか、じっくりと教えてやらないとな」


 これだけ自信家なのに、抱き上げた後、ちらっと不安そうに、まさか十賢の座に未練はないよなと確認してくる顔が可愛くて、どうしようもない。


「いいよ。十賢なんて未練がない。それより君と生きていきたい」


 その言葉に、二階の窓辺で事の成り行きを見守っていたフラウが婚約消滅に万歳三唱をして親指をたてている。フラウの横に立つサウル大臣と近衛隊長は完全に涙目だが、さすがにこれは許してもらうしかない。


 ただ、夕日が沈んでいく遠くから犯人を捕まえた警護の者達が戻ってくる声が聞こえた。


 きっと捕まえた犯人の口からイシュラ王子の名前が出てくることはないだろうが、今後のこともあるから、シリオンにはいずれ説明しなければならないだろう。


 帝国の皇帝である彼なら、きっとイシュラ王子も卑劣な手以外ではシリオンを排除はできない筈だし。そんな手は、これからは使わせない。


 ほっとアースは唇を緩めた。


「行こう。傷を手当てをしないとな」


けれど、言ったシリオンはアースの笑顔を不思議そうに覗き込む。


「なんだ? どうした?」


 昔は自分と同じくらいの身長だったのに、いつのまにか自分を軽々と抱え上げられるぐらい成長している。同じ男として羨ましいような恥ずかしいような変な気分だ。


 でも、それも自分のために鍛えたから――と思うと、ふっとアースは笑ってしまったのだ。


「いや、本当に皇帝陛下になったんだなと思って……」


 だから微笑んで答えたのに、それが気に食わなかったらしい。


「シリオンと昔のように呼ばないと、今度は俺の名前しか呼べないように、じっくりと手取り足取り教えてやるから覚悟しろ」


「え……? ちょっとシリオン!? それはちょっと、待った……」


 宣言された言葉に暴れながら、それでも抱えられて連れて行かれる中でこぼれた笑顔は、きっと知の塔についてから最高に幸せなものだろう。


 ――だって、ずっと待っていたから。


 この腕にもう一度抱きしめられて、互いに笑い合えるのを。


 いつか、この日に出会えるのを待っていたから。

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