第二話 王都脱出
第7話
シリオンに抱えられてアースが入ったのは、王宮でシリオンに与えられた客間だった。
客間と言っても、賓客用の五間続きになっている広い部屋だ。壁には金細工の蔦飾りがランプの光に瞬き、孔雀石で作られた床に敷かれた真紅の絨毯は、蔦模様を描きながら客人達の足を長い毛足でゆっくりと受け止めている。
けれど柔らかな絨毯に急いで足を沈めながら、シリオンは連れてきたアースを抱えたまま大きな声で叫んだ。
「ガルディ! 侍医はいるか!?」
皇帝用の部屋だけあって、部屋の中にはたくさんの人間がずらりと控えている。
ガルディと呼ばれたのは、おそらく栗色の髪を片側で束ねて、眼鏡をかけている人物だろう。しかし、彼がシー・リオンの声に目をあげるのと同時に、侍従や侍女達もきゃあと表情を変えている。
むしろ眼鏡の位置を変えただけのガルディの反応の方が、冷静でアースは急にいたたまれなくなった。
なにしろ――今、自分がしているのは女装なのだ。
「ちょっと……シリオン、おろしてくれないか?」
明らかに好奇の色を湛えている侍女や侍従の瞳は誤解をしている。
――あの皇帝陛下が!! 女性を自ら抱きかかえて!!
どう見ても、瞳がそう語っているのは否定できない。
「グッジョブです、陛下」
無表情に近く、そう呟くガルディにシリオンは否定さえしない。
「俺もそう思う。だが、今は先に侍医を呼んでくれ」
「違うだろう!!」
――絶対に言っている内容がずれている!
その証拠に侍女たちは、
「陛下が女性と!」
「あの、陛下が!」
これは春の目覚め。それとも、天変地異の前触れかしらとかなり不穏な囁きを繰り広げている。
「失礼ですが、陛下。その方は?」
きゃあきゃあという黄色い声の中で、むしろ冷静に尋ねてくるガルディの視線がたまらない。くいっと指で持ち上げた分厚い眼鏡の奥から覗き込むように見つめてくる。
「ああ、話していたアースだ。やっと私の側に得られた」
けれど、話しながら手を握ってくるシー・リオンはひどく幸せそうで、唇がかすめるようにアースの黒い髪に触れていく。
しかし、たくさんの人の前でされているのにいたたまれなくなるのと同時に、包み込むような碧の瞳に、何も抗議をあげることができなくなってしまう。
けれども、その途端、侍女たちの黄色い声がいっそう大きなどよめきに変わった。
最早潮騒のうねりか何かのようだ。
「え? なに、この反応?」
「そうですか。私はてっきり陛下が、これまでの生き様に反して求婚した姫君の魅力の虜になられたのかと」
そんな侍女たちの反応は、当然のことかのように背後に受け流し、ガルディは改めてシー・リオンに深く礼の姿勢をとった。
「貴方様の偏執ぶりを甘く見ておりました。御無礼をお許しください」
「俺の執着を甘く見るな。アースがそこらの女に負けると思うのか」
「いや、今の言葉の問題はそこじゃないような……」
――むしろシリオン!! 自分の趣向をどうとられているかの方に問題意識を持ってほしい!
だいたい偏執って言葉を使われた時点で、おかしいだろう。
思わずアースは頭を抱えたが、次のガルディの言葉ではっとした。
「侍医は今すぐ呼びに行かせます。しかし、幼い頃約束されたアース様は、男の方だったとお伺いしていましたが……」
ガルディの言葉に、アースは自分の格好に目を落とした。
傷の手当てをするために椅子に下ろされたとはいえ、自分の姿には気まずさしか感じない。
胸から足を覆っているのは、どうみても華麗な姫君の衣装だ。男だと知られて見られるとかなり滑稽なのは間違いない。
じっとみつめてくる周囲の眼差しがむしろ痛くて、どこか穴があれば隠れたいぐらいだ。
「そういえば、アース。よく似合っているが、なんで姫のふりなんかしていたんだ?」
けれどシー・リオンは、きょとんと俯いたアースの黒い瞳を覗き込んだ。
見つめてくる邪気のない碧の瞳に、申し訳なさがこみあげてくるが、黙っているわけにもいかない。
ぎゅっと拳を一度握りしめ、息を吐き出すのと同時に渋々口を開いた。
「フラウが……政略結婚は嫌だから僕になんとかシリオンが断るようにしむけてほしいって頼まれて……」
やっぱり、傷つくかなとアースはシー・リオンの瞳を覗き込んだ。
いくら政略結婚で、自分に会いたいための結婚だったと言われても、皇帝にまで上り詰めた相手からの求婚を嫌がられていたと知れば、男としてのプライドは傷つくだろう。
シー・リオンになんと詫びればいいだろう。
アースが黒い瞳に悩みを浮かべた時、けれどもシー・リオンは目を二三度ぱちぱちとすると、いきなり破顔した。
「それは、なんとも思い切ったことをする姫君だ。普通、自分の名誉を考えて、男に頼むなんて考えつきもしないだろうに」
――あれ?
「怒らないの?」
記憶にあるシリオンは、自分が馬鹿にされたらすぐに怒る気性の激しい少年だった。今だって、自分が怪我をしただけで怒ったり、泣いたり、すごく感情の起伏が激しいのに。
「怒る? なぜ?」
けれどもシー・リオンはそのアースの質問の意図が本当にわからないらしい。
少し顔を横に傾けて、心配そうに見つめるアースの頬に手を伸ばすと、しかし嬉しそうに美しい笑みを浮かべる。
「お蔭で俺はお前に出会えた。お前をもう一度抱きしめることができた。こんな幸せを手に入れられたのに――どうして怒る必要があるんだ?」
――その笑顔は反則だ!!
まるで青い空いっぱいに白い花が舞っているかのように、爽やかで清涼感に満ちた笑みだ。生きていることが嬉しくて、その幸福を最大限に感じているかのような笑み。
――そんな顔をされたら、こっちまで幸せになってしまう!!
何て必殺技を身につけてくるんだとアースは、今の笑顔に眩暈を感じながら、側に来た侍医に傷口のある右腕をとられていた。
「はい、陛下。仲がよろしいところを失礼しますよ」
初老の医師は、軽く挨拶をすませると、アースの血だらけになった腕を持ち上げて、慣れた仕草で、真紅に染まったドレスの生地を鋏で切り開いていく。
もう最初の新緑の色を留めてはいない布が腕から落ちると、医師は水に浸した白布で傷口を綺麗に拭いていく。
「ふうむ。腱や神経にダメージはありませんし、毒の気配もありませんな。少し縫っておけば大丈夫でしょう」
「痕が残るのか?」
シー・リオンのひどく悔しそうな顔に、医師はおやと顔をあげる。
「珍しいことを気にされますな。大丈夫、二針ほどなので、ほとんど痕にはなりますまい」
うまく縫いますよ、と医師は安心させるようにシー・リオンに頷く。
それにシー・リオンの体からほっと息がこぼれた。
「頼む」
それでも、白い手は体の横で握りしめられたままだ。
「シリオン」
右腕を医師に預けながら、反対側の手をそっとアースはシー・リオンに伸ばした。
色を失ったように白い頬に指で触れ、ゆっくりと安心させるように笑いかける。
「僕は――シリオンが来てくれて本当に嬉しかった」
その言葉に、シー・リオンの表情に僅かに紅が戻ってくる。まるで指の先から温もりが伝わって、それが頬を染めたかのようだ。
「アース……」
「本当はね、来てくれるか不安だった。手紙をくれてるのを知らなかったし、十賢だと塔から出られないから。だから、協力したら国から出してくれると言うフラウの話にのってこんな恰好をしてしまったんだけど……もう待ちきれないから、僕が君を捜しに行こうと思っていたんだ」
「アース」
驚いたようにシー・リオンが頬の上に置かれたアースの細い指先を握りしめる。
「君に――会いたかった」
ただ、それが全てと言うようにアースが言葉に想いの全てをのせて呟くと、後ろできゃあ! と激しい歓声があがる。けれども、シー・リオンはそんな騒ぐ侍女たちに怒りもしない。
できないのだ。
今のアースの笑みの一言で、完全に茹蛸状態になって、ただ、その手をしっかりと握りしめている。
その間に、医師は手早く治療を終わらせてしまっていた。
「はい、できましたよ」
素早い縫合術に包帯まで自分で手際よく終わらせた様子から見て、おそらく彼は軍医なのだろう。
「俺も――逢いたかった……!」
「陛下、続きは二人っきりでやってください。それと腕の傷が治るまでは、彼は酒も運動も禁止ですからね」
「わかっとるわ。小さい頃からお前に何年同じことを言われ続けたと思っているんだ!」
はあと医師は小さな溜息をついた。
「運動はこの場合、陛下によく申し上げる強化鍛錬以外ですが」
「無理して夜中に走らせたりせん! いくら俺でも、怪我人相手に剣の演習につきあえなんて無茶なことは言わんわ!」
だめだなこりゃという感じで、医師が乾いた笑いをしながら鞄の中に薬をしまっていく。
「そうですな、今夜はせいぜいおとなしく思い出話ぐらいにしといてくださいね」
医師の忠告の意味がわかって、侍女たちはひどく不満そうにブーイングをしている。
――わかりたくない!
それなのに、なんだかわかってしまうのが、悲しいのだが。なのに肝心のシー・リオンが全く分かっていない様子なのが、まったくどうしたものか。
――一体、帝国内で毎日どんな言動をしていたんだ!!
まあ、なんとなく予想はつく。
おそらくストレートな彼のことだ。
――色々感情をぶっちゃけてしまっているんだろうなあ……本人自覚なしに。
「なんなんだ、いったい」
それなのに、本当に言葉の意味がわからないようで、腕組みをして少し口を曲げている彼を可愛いと思ってしまうのは自分ながらどうしたものなのか。
――まあ、いいか。
正直急に恋を告げられた自分の気持ちはまだよくわからない。
――でも、シリオンといたいのは本当だし……。
彼の自分を見つめてくる微笑みも眼差しも、その思いも全部が嬉しいと感じてしまうのも真実だから。
だから、許されるのなら少しでもその隣に長くいたい。
シリオンと自分との感情の間に、たとえ温度差があるかもしれないとしても――それだけは、本当だから。
ふわりと笑ったアースの微笑みを見て、こちらをブーイングしながら見ていた侍女たちが、急にそれをそれをやめて、動きを止めた。
一瞬息をするのも忘れてアースの微笑みに魅入っていたが、やがてはっとするといそいそと動き始める。
「陛下、ではアース様と今夜は同じ部屋でお休みでよろしいですか?」
そう尋ねるのは、年若い侍女だ。
「ああ、そうだな。もうこの国に用はないが、出立は明日になってからでかまわないだろう」
「じゃあ、早速隣の部屋をご用意いたしますね」
言葉の最後にハートマークでも飛んでいそうな声音である。けれども、アースはその言葉を聞き逃さなかった。
「明日出立?」
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