第8話

「明日、出発?」


「ああ。もともとお前に会えたらすぐに連れて帰るつもりだったからな。まだ不穏な情勢が続いているのに、あまり長く国外にとどまるのは避けたい」


「そう……だね」


 ――さっきのイシュラ王子の件もあるし……。


 一刻も早く帝国に戻った方が賢明だろう。


「わかった。じゃあ、僕も荷物をとってくる」


 そう言って立ち上がるアースにシー・リオンは不思議そうに顔を傾ける。


「何も持っていかなくても大丈夫だぞ? お前の部屋はもう帝国に用意してあるし、身の回りの物はひととおり揃えてある。ほかに必要なものがあれば、なんでも帝国で揃えられる。お前が好きな本もできうる限り集めたし――身一つで来てくれるだけでいいんだ」


 ――それは求婚の台詞だろう!


「なんで、必要でないところではそう言うセリフがさらっとでちゃうかなあ……」


 けれども溜息をつきながら呟いた言葉をシー・リオンは誤解したらしい。


「必要でないことはないだろう! 俺がお前のなにかを目的で迎えに来たとでも思っているのか!?」


「思わない。全然思わないけど――持っていきたいものがあるんだ」


 もう、困ってしまう。なんでこんなに感情が激しいんだろうと、苦笑しかこぼれてこない。


「俺以外でお前に必要なもの?」


 ――あ、なんか微妙に拗ねている……。


 それが丸わかりで可愛くなってきた。


「必要じゃないよ。でも、ただ持っていきたい。あれは、形見だから――」


 声を少し落として呟いたことで、シー・リオンの顔に閃くような変化が起こった。


「あ、ああ……そうだったな……」


 幼い頃アースがずっと握っていた産みの母がくれたお守り。アースにとっては、それだけが幼い頃の宝物だった。


 幼いシリオンは、アースのその姿に怒りを抱いていたがが、しかし複雑な家庭環境を話してしまったことで取りに戻りたいと言い出せなかったアースの気持ちに気がついたのだろう。


「わかった。だが、それを持ったらすぐに帰ってこい。今更説得されて塔に残るなんて心変わりを起こしたとしても、絶対に許さんからな」


「そんなことを心配していたの? あるわけないよ、君を待っていたのに」


 そう答えるとシリオンの頬が僅かに赤く染まって面白い。


「ついでに服を着替えて来るよ。このドレスじゃあんまりだしね」


「一緒に塔まで行くが」


「女の子を夜送るわけじゃないんだから。あ、でもこの恰好が人目につかないように外套だけ貸してくれると助かるよ」


 さすがについさっき暗殺騒ぎがあったシリオンに、あまり出歩いてほしくはない。ましてやここは、イシュラ王子にとっては手の内だ。


 思いっきり不満そうなシリオンを残し、アースはガルディから全身を覆う外套だけを借りると外へと歩き出した。


 夏用の灰茶の外套は全身をどうにか覆ってはくれるが、分厚くはない。せいぜい旅の間の夜霧を遮る程度のものだ。


 それでも、自分のドレス姿を見られずにすむと思うと、アースはかなりほっとしていた。


 知の塔は王宮の敷地の一番西の外郭にあるが、着くまでにはやはり門や通路を通るたびに人目を避けることができない。だから結い上げていた髪をくずしてほどき、噴水で顔を洗って化粧を落とすと、どうにか首から上だけはいつもの姿に戻った。


「はあ」


 白粉が顔の上からなくなっただけで、ひとごこちがつける。


「なんで女性は毎日あんなのを塗って平気なのか理解できない……」


 素肌の上を吹いていく夕風の爽やかさが、とても心地よい。


 行儀が悪いなとは思ったが、ドレスの袖で顔をぐいっと拭う。そして、いくつかの星が瞬き出した空の下を、西にある知の塔に向って歩き出した。


 とにかく化粧から解放されただけでも天国だ。


 さらにシリオンと話せて、お互いに相手を必要としていたのがわかり、これ以上ないくらいに気分がいい。


 夕暮れの塔の前には衛兵が立っていたが、外套から出した顔を見て、すぐに十賢の一人だとわかったのだろう。さっと門を開いてくれたのに、笑顔さえこぼれる。


「ご苦労様」


 ーーこれが逆に外出の時なら、どこに行くのか王族が同行するのかと、うるさくて仕方がないのに……。


 だから、どうしてもしかめっ面になってしまうのだけどと笑いながら、今夜は職務に忠実な彼らに笑顔で手を振って入っていく。


 ――まあ、これも今日までだしね。


 だから、鼻歌を歌いたい気分で入った塔の中は、ちょうど夕食の時間ということもあり、どうやらみんな一階の奥にある食堂に集まっているようだった。奥から光とともに漏れて聞こえてくる賑やかな声に、あとでみんなにお別れの挨拶に行こうと考えながら、アースは自分の部屋へと向かう階段に急いだ。


 薄暗がりの中で、螺旋状に繋がる階段をいくつも登るが、もう夜になるだけに所々の壁にかけられた蝋燭の明かりだけでは、かなり足元が頼りない。


 ――そうだ。あとで、長にも挨拶に行かないと。


 突然十賢をやめると言えば、びっくりするかもしれないが、いずれ外に出て働きたい旨は伝えてあるから、高齢でも心臓が止まるほど驚くということはないだろう。


 ――むしろ、よく就職先を見つけたと両肩を叩いて激励されそうだ……。


 既に自分の六倍は生きている長だが、たとえこの先十倍に記録更新されても多分驚けそうにない。


「いや、むしろ僕より長生きしそうな方だから」


 そんなわけあるかいっと頭の中で長の面影に反論されるのにくすっと笑いを浮かべながら、アースは自分の部屋の扉を開けようとした。その時だった。


 重厚な黒樫の扉の暗がりから、誰かの腕がアースの腕を強く引いてきたのは。


「あっ!」


 逃げる暇もなかった。


 怪我をした右腕を庇っていたのが災いしたのかもしれない。古びた扉のノブを掴んでいた左手を暗闇から無理矢理引かれ、そのまま部屋の暗がりに引きずり込まれる。


「なにを……!」


 叫ぶ一瞬になにかが左腕に嵌められたのを感じた。


 冷たい金属と石の感触がかちりと腕に嵌り、そのままアースの皮膚を捕える。


 腕を掴まれた方向に咄嗟に目をやると、廊下からの光に冷たい紫の双眸が煌めいているではないか。


 それを視界にとらえた途端、アースは必死に腕を捻った。


 黒髪に包まれた全身ごと腕を振り回し、自分の手をその襲撃者から取り戻す。


「イシュラ王子……!」


 通路からの明かりにははっきりとイシュラ王子の白金の髪が、雪のように冷たく輝いているのが目に映る。


「お前はどこにもやらない」


 告げられる声音にぞっとする。


 なんの感情も読み取れない。それなのに、まるで黒い沼の中から湧いてくる泡のように、自分の心にいくつもの恐怖の波を盛り上げていく。


「誰にもやらない。十賢をやめるのも認めない。お前は生涯俺とこの国のものだ」


「違う!」


 違う――それなのに、この人には何度言ってもわかってもらえない。


「僕はシリオンの所へ行く! もう約束した! 十賢もやめる!」


「やめるなど認めると思うのか?」


 漆黒の闇から伸びてきた手が、アースの黒髪を掴み、捩じりあげた。


「くっ……!」


 あまりの痛みに顔がゆがむ。


 だけどたかが髪だ。抜けたところで、痛いだけで致命傷を負うわけではない。


 無理矢理体勢を変えると、素早く片手でイシュラ王子の腕を叩こうとする。


 けれども元々武術の心得などない。体術を幼い頃から学んできた王子の前ではあっさりとかわされ、逆に平手で殴られた。


 口の端に血の香りがするのがわかる。


「誰にもやらないといっただろう。お前はとうに俺のものなのだから――」


 それなのにと、アースの顎を捕えた手がぎりっと骨を砕くように強くなるのを感じる。


「あんな男に唇を触らせるなんて――」


 ――嫌だ!


 近づいてくる顔が怖気がするほど嫌だ。


 指が触れられている顎でさえ、恐ろしくてたまらない。


 吐き気がするほどの嫌悪――それはもう恐怖と紙一重といってもいいほどの。


「触るな!」


 思わず必死で突き飛ばした。


 女ではない。どんなにひ弱でも、男の全身の力で突き飛ばせば、相手を僅かでも自分から押しやることはできる。


 けれども、扉の前に突き飛ばされたイシュラ王子は、ちょっとよろめいたぐらいの様子で、アースの抵抗を酷薄な笑みで見つめている。


「お前にはもっと仕置きが必要だな」


 肩で息をつき、全身で抵抗を示しているアースの姿を、ふんと鼻で嘲笑う。


「いいだろう。お前が俺に泣いて許しを請うまで、ここから出るのを許さん」


 はっとその声に顔をあげる。


 けれども、その間に重厚な黒樫の扉は無残にも閉められ、明かり一つついていない暗闇の中に鍵の閉まる音がする。


 力いっぱい扉を叩いたが、返ってくるのは自分の手を打ちつけた痛みだけだ。


「無駄だ。俺が命じない限り、この扉は誰にも開けられん。十賢用の部屋には、必要ならば王族以外を排除する鍵の呪いがかけられていることは知っているだろう。お前はもう誰の目にも触れさせん」


 扉の向こうから告げる冷酷な声音に、アースの心臓が引き裂かれるような恐怖を感じた。


 ――誰にも……。


 シリオンにも……――二度と会えない。


「い、嫌だ! 嫌だ、出してくれ!!」


 激しく扉を叩いたが、まるで金属の板になってしまったように扉は何の反応も返さない。


 いくらドアノブを回しても、まるで鍵をかけられたかのように動かない。 


 ――シリオン――!!


 やっと会えたのに……。


「嫌だ! ここから出してくれ!」


 けれども、高い塔の上にある扉は無情にもその音さえ吸い取るように、夜の中に静かに佇み続けた。 

  

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