第9話

 叩いても無駄だ。


 悔しいがすぐに出た結論に、アースは扉の向こうで遠ざかっていくイシュラ王子の靴音を聞きながら手を下した。


 部屋の中は真っ暗闇でなにも見えないが、使い慣れた場所だけに物の配置はわかる。


 扉の外では、階段にイシュラ王子が念の為に配置したのだろう。見張りと思われる兵士の金属がすれる音が、時折微かに聞こえてくる。


 ――扉は無理だ。


 開けることもできないが、たとえ何かの用で開けられることがあっても、その隙をくぐって逃げだすのは不可能だろう。


 ――だとしたら……。


 やっと部屋の中の闇に慣れてきた目で、暗い室内を見渡す。すると、そのまままっすぐに南側の壁にむかって、敷物の上を歩き始めた。


 いつも敷いてある年代物のつづれ織りの感触が靴の裏から伝わってくる。それを慎重に確かめながら二十歩歩き、触れた冷たい石壁から手を右側に動かしていく。そして探り、見つけた木の窓を開いた。


 その途端、爽やかな夜風と星の瞬く夜空が目に飛び込んで来る。


 城の塀の外には、明かりの灯りだした街の屋根屋根が並び、光の中で行きかう人々の姿が豆よりも小さく見える。


 食事をしている者、買い物を終えて帰ろうとしている者。様々だが、遠くの王城の端のできごとにはまったく気がついてはいないだろう。


 振り返って東側を見れば、今見た街よりも荘厳な煌めきの中に白い王城が浮かび上がり、華やかな音楽さえもが聞こえてくる。


 けれども、アースはそれらからこちらが何も注視されていないことだけを確かめると、塔の遥か下を見つめた。


 さすがに七階の高さだ。下には幸い夜の闇以外誰もいないが、目の下に風が流れていくのがわかる高さに息を呑む。


「ヒイロ」


 小さな声で呼んだのに、アースの後ろには短い黒髪を乱雑に切った少年とも青年ともつかないような容貌の男が出現した。


 ひどく細くて、人の見た目で言えば十代半ばぐらいだろう。それなのに、切り上がった眦の鋭さと赤い瞳がそうではないと伝えてくる。


 だが、アースは、不意に出現した相手の容貌が、まったく気にかからないように話し続けた。


「ここから降りて助かるかな?」


「やってみれば? まあ、そのきれいな顔がぐしゃぐしゃになって、お前の大好きな幼馴染に愛想を尽かされてもいいっていう覚悟があるんならなあ」


 小馬鹿にしたように片手を挙げるジェスチャーを見つめると、アースは真剣に尋ね返した。


「お前の力で、あの扉を開けることができるか?」


 それにヒイロははっと笑う。


「前にも言っただろう? 俺らは十賢に仕える使い魔だけどな、それはここの王家に隷属させられているからなんだよ。だから、いくら主人の命令でも王家の意向には逆らえない。真名を握られているからな」


「でも、抜け道はある、だよね? 僕の記憶を消してくれた時みたいに」


「まあな」


 にっと笑いながら返される言葉に、アースもほっと微笑んだ。


「じゃあ、これをフラウに届けてくれ。その間に僕は、何とかしてこの窓から脱出するから」


 そう言うと、側にあった紙に星明りでほんの二・三行を走り書きしてヒイロに渡す。


「あの姫さん? あの姫さんなら、王家の血筋だからこの扉の呪文を解呪できるんじゃないのか?」


 アースが渡した紙を、ひょいっと受け取りながら思い出したように言う。


「なんで、僕がわざわざそんな自分をいじめる方法をフラウに教えると思うんだ。どう考えても攻撃対象が僕になるだけだろう」


「そういや、お前が姫さんの教育係だったなあ」


「そうだ。だから教える内容も厳選した。フラウの能力の中で戦闘系は本能レベルで高いが、我慢という項目はない!」


「最早野生動物のレベルだな」


 カカカという笑い声に、アースはちょっと考え込んだ。


「いや……それよりはかわいいけど」


「――――お前からそういう褒め言葉が出る方に絶句だ。あれだけのことをされているのに――マゾかよ?」


「だって笑うし、怒るし。超我儘な妹がいたらこんな感じかもなあと、年に一度ほとほと疲れた時には思えたりもするよ」


「いや、それは諦観を極めた瞬間だろ……」


 呆れた声で呟いてるのを聞きながら、アースは側にあったカーテンを鋏で切り裂いた。


「まあ、そう思えるぐらいにはフラウは嫌いじゃないってことさ」


 そしてそのカーテンの端を素早く結んでいく。それを何度か繰り返すと、すぐにカーテンは細い長い紐の束に変わった。


「まだ足りないな」


 冷静に判断すると、今度は寝台の敷布を剥がして、同じように裂いて紐に変えていく。


「よし」


 これぐらいあればなんとか足りるだろう。カーテンと敷布、更には布団の上掛けに使われていた布まで全てを使ってできあがった紐を見つめると、アースは強度を確かめるように一度ぎゅっとそれを引っ張った。


 そして、紐を窓枠にかけ、重さで落ちないように、さらに端をベットの足に括り付けて固定する。


「おい、冗談だろ!? 落ちたら、死ぬぞ!」


「落ちたら助けに来てくれるだろう? ここから出すことはできなくても、落ちたのを助けるぐらいなら許容範囲のはずだ」


「この馬鹿っ!」


 今までに何度も聞き飽きたその言葉に、アースは、


「はいはい」


 と笑いながら、紐を部屋においてあったベルトの金具に通していく。


「いいか! よく考えろ! 今無理して脱出しなくても、出られるチャンスはいつでもあるだろうが!?」


「今じゃないとダメなんだ。でも、さすがに女物では動きにくいからなあ。十賢の服も動きにくさでは似たようなものだけれど」


 仕方がない。修業時代に来ていた古い服があったはずだと棚の奥から探しだし、膝丈ぐらいのそれに手早く着替えると、紐を通したベルトを身につけた。


「足のでる服なんて、いつからぶりかな。さすがにちょっと恥ずかしいけど、十賢のズルズルに比べたら、ずっと動きやすいか」


「あのくそ王子は気に入らないが、お前を殺したりはしない! だから俺も今まで妥協してやったんだ!」


「わかっているよ。でも、今じゃないとダメなんだ。シリオンに約束したから――」


 答えながら、ぽいっと窓の下にベルトから出た残りの紐の束を投げた。


「お前、俺の言うこと聞く気全くないな!?」


「うん、ない」


 ――だって、急がないとダメだ。


 シリオンに早く会って、シリオンと帝国に行かなければ――。


 ――今なら、彼は待っていてくれる。


 好きだと、一緒に生きていきたいと言って手を差し出してくれている。


 それなら、こんな高いだけの塔を生死をかけて降りてみるなんて、大したことではない。


 それに――とアースは下を見つめた。


 怖いのだ。


 イシュラ王子がどんな手を使い、自分をこれからどうしようとしているのか――。今、逃げなければ、きっと永遠に彼の腕の中に閉じこめられてしまうような恐怖が、この部屋に充満している物言わぬ闇から迫ってくるように感じてきてしまう。


「じゃあ、頼んだよ」


 一声残すと、アースはひらりと身を窓から乗り出した。


「ちっ!」


 悪態は一つで姿を消したヒイロを見て、彼が願いを叶えに走ってくれたことを知る。


 ――これで、ヒイロが戻ってくるまでは完全に孤立無援になった……


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