第10話
窓から紐を支えに体を乗り出したが、外は思った以上に風が強い。
周りに高い建物がなにもないのも関係しているのだろう。遮るもののない夜風は、アースの足の下でごうごうと渦巻き、窓からおろした紐を大きく揺らした。
「くっ……」
――降りるだけだから簡単だと思ったのは、間違いだったな……。
そもそも肉体を鍛錬していないから、腕力がほとんどない。
それで紐に縋る腕と壁を伝う脚だけで、体を支えて降りるのは、思ったよりも難問だった。
うっかり息を抜けば、足は壁の石の隙間を離れ、腕はそのまま紐を滑り落ちていきそうになる。
「はっ……」
額に脂汗が滲んだが、それでも、足の指を壁の煉瓦の隙間に挟んで、一歩一歩慎重に降りていく。
「シリオン……」
迎えに来てくれて涙が出そうなほど嬉しかった。
ずっと――ずっと会いたかった。
――だから、驚いた。
そう、本当は驚いていたのだ。彼が、自分に恋していたことに。
「大きな誤算――それだけは考えていなかったよ」
嫌じゃない。だけど、頭の中では警告が瞬いた。
――多分、これは外れていない。
だから、急ぐ。急がなければ、きっと今度こそなにもかも失ってしまうだろう。
足が壁から滑り落ちそうになるたびに、ベルトの金具に通した紐が命綱になってぎりぎりで体を支えてくれる。
塔を一階分降りていくたびに、そこに居住している者たちの階級も下がり、だんだんと賑やかになっていく。
おそらく今伝っているのは四階で、修業生の中でも高位の者たちが居住している区域だろう。声をかければ、中に入れて助けてくれるかもしれないが、階段にいる見張りの兵士が上の一人とは限らない。少し騒ぎになれば、イシュラ王子に知れて、再度閉じ込められてしまう可能性も捨てきれない。
そう判断して、息を潜めて窓の側を降りた。中から過去に自分も参加した課題を熱心に論議している声が聞こえてきて、ちょっとだけ苦笑がもれそうになったが、さすがにずっと紐を握っている手は汗ばんできている。
――まだだ。
ゆっくりと足先で煉瓦を辿り、少しずつ壁を降りていく。
ぎしりと紐が重さで軋んだ。
「もう少し……」
少しずつだけど、さっき縫ってもらった傷口がずきずきとリズムを打つように痛みを伝えてくる。
それが段々と大きくなるに従い、腕の力が少しずつ弱まっていくように感じる。
今度からは少しは体力を鍛えないと、シリオンのお荷物になりかねないなと考えると、ちょっとだけ元気がでた。
だいぶ、降りてきた。
三階の図書室の横を通り過ぎ、ぎしりと鳴る紐に嫌な予感がしてくる。
「もうちょっともってくれ……」
そう願うが、人間の体重一人分を支えている布はひどく引っ張れて、見上げた先では今にもちぎれそうに張りつめている。
「急がないと……!」
もう、紐がもたない。
それなのに、腕はまるで太鼓を叩く撥で殴られているかのように、激しい痛みを伝えだしている。
それでも、しなる紐の様子に腕を庇っている暇もないと判断して、降りる足を速めた時だった。
ブチブチッ。ブチ。
弾けていくような嫌な音がした。
――もう少しなのに!
まだ二階の部分で地上までは五メートルはある。それなのについに引っ張られる力に耐えられなくなった紐は、幾つかの結び目の少し上で容赦なくちぎれて、アースを夜の闇の中に放り出したのだ。
壁に掴まろうと思ったが、手を伸ばしても間に合わない。爪の先が擦り切れて血が滲むのを感じた瞬間、紐が切れて体は完全に夜の空中に投げ出されていた。
――落ちる!
背中から来る衝撃を予想し、地面に打ちつける部分を少しでも少なくしようと身を丸めた刹那だった。
「この馬鹿っ!」
聞きなれた悪態が耳を打つと、細い少年のような腕がアースの体を抱きとめる。
「だから言っただろうが!? お前自分が運動神経ゼロなことをもっと自覚しろよ!」
「ヒイロ!」
いつも皮肉な笑みを浮かべた彼らしくなく、今は本当に焦っている。
「ナイスタイミング」
「ナイスじゃねえ! なんでお前はいつももっと自分の体を大事にしねえんだ!」
「あー今回は素直に清聴しておくよ」
「少しも聞く気ねえくせに!」
「ちょっとはあったのに……」
「これだけの目にあってちょっとかよ! ! やっぱお前馬鹿じゃねえの!?」
「十賢をそこまでバカバカ言うのはお前ぐらいだよ……」
「馬鹿に馬鹿って言って何が悪い! いいか、お前は俺が仕えた十賢の中でも大馬鹿だ!」
これはヒイロの気がすむまで言われ続けるなとアースは覚悟を決めた。
「最後ぐらい素直に感謝を言おうかと思ったのに……」
「感謝で首かよ! お前の人間としての性根はどうなってんだ!」
――あー……打つ手なしかあ……。
まあ、以前から十賢はやめると宣言してきたから仕方がないのかもしれない。
とはいえ、ヒイロのお蔭で、無事に夜の地上に体をおろすことができたのも事実だ。
「ありがとう、本当に助かったよ」
素直に礼を言うと、ふんと拗ねたようにヒイロは顔をそむけた。
「おろしてやっただけだよ! あっちはどうやって突破するつもりなんだよ!」
見れば、門の所の兵士の数が、塔に帰って来た時よりも増えている。
「あーあ。あっちもやっぱり増やされているか」
「あの野郎、今度からサド王子って呼んでやる。監禁が趣味って王子のやることかよ」
「実に突破しがいのある趣味だよねえ」
「いや……頼むから、俺に一瞬でもお似合いかもなんて疑念を抱かすなよ? 俺の理性と常識が狂いそうになるからな」
「ヒイロから理性や常識って言葉を聞くとは思わなかった」
おいって怒られるのを笑ってかわし、アースはゆっくりと前を指差した。
「大丈夫、君が届けてくれた手紙が役にたったみたいだ」
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