第2話 意外な再会

 一時間ほどの後、無理矢理侍女たちに化粧をされて、美しいレースをあしらった華やかな新緑のドレスを着せられたアースは、思いっきりしかめっ面で渡された扇子を握りしめていた。


 黒い髪は上の方で美しく結われ、それでも肩から流れ落ちるのは緩やかに体を包み込んでいる。そのせいだろうか。もともと知の塔から滅多と出ないせいで、日に焼けていない肌はひどく白く、まるで真珠のように映る。


 この年頃の男にしては鍛えられていない手足は、細くて、首筋まで姫君が着るような豪華な刺繍のドレスに包まれてしまうと、まったく違和感がない。それどころか、塗られた白粉と薔薇色の口紅のせいで、まるで開きかけの蕾を思わせる。


 その清楚で優しげな美貌に、命じたフラウも思わず両手を合わせて、満面の笑みを浮かべた。


「まあ! 予想以上の美女だわ!」


 周りでは、フラウの言葉を裏付けるように、さっきまで青い顔をしていたサウル大臣や近衛隊長までもが、ぼうっと頬を染めてアースの姿を見つめている。


「フラウ……こんなことをして、どうなるかわかっているのかい……?」


 地を這うように呟いたのに、フラウは明るく答える。


「もっちろん! ばれたら、戦争。我が国は皇帝の怒りを買って、火の海灼熱地獄。だからアースに課せられた任務は重要なのよ!」


「そこまでわかっていて……」


「でも、人身御供は絶対に嫌! だから穏便に相手が断りたくて堪らなくなるように、うまく仕向けてほしいのよ!」


「君が普段の地の性格を出せば、かなりの確率で王家の姫君のイメージダウンができると思うけど?」


「ギャップ萌えって言葉もあるじゃない? 深窓の姫君は、最初から好みじゃないみたいだし」


 言われた言葉に思わずアースは半眼で答えた。


「君に萌えを感じるくらいなら、参考書についた口紅に恋する方がよっぽど難易度が低いのに……」


「初恋もまだのくせに言ってくれるわね! そんなんだから、卒塔年齢になってもいつまでも就職先が決まらないのよ!」


「う……」


 ――痛いところをつかれた。


 確かに塔では、同じ年頃の者のほとんどはあちこちの貴族から、文官や参謀にと声がかかってきている。


「た、確かに、まだどこからも声はかかっていないけれど……」


 しかし、焦るアースの様子に、横のサウル大臣が顔色を変えて慌てたようにフラウにとりなす。


「ひ、姫! アース様はまだ修業中の身ながら次期長候補でもある十賢に選ばれるほどの賢者! この国の王族でないと、直接会えない身分ですから……」


「あら、でも今まで修業中に十賢に選ばれた人達でも申し込みはあったのでしょ? 手紙で」


 その言葉に、アースはずうんと落ち込んだ。


 ――手紙でも、どこからも声をかけられたことがない……。


「ひ、姫!」


 アースの様子に、大臣や近衛隊長が汗を流さんばかりに慌てて口を閉じさせようとするが、フラウはその周りの様子ににやりと笑う。そして口に指をあてた。


「いいわ。じゃあ、もしアースが、この頼みを無事叶えてくれたら、私の二番目のお兄様の補佐官にアースを推薦してあげる。もうすぐ母の出身国を継いで、ドリスデン王になるから悪くない話でしょう。だから、安心して励みなさいな」


 そう言うと、フラウはにっこり笑ってアースを送り出した。


 ※



 ――安心して励みなさいっていわれたってなあ……


 皇帝との面会用に用意された部屋の豪華な椅子に座り、アースはふうっと溜息をついた。緑のカーテンが、幾つも並び立つ白い柱の間で揺れる部屋は、少ない人数での謁見にも使われるだけに王国の威信を感じさせる作りだ。アースが座る右には、大理石の暖炉があり、置かれた金時計がこちこちと音をたてている。


「励む内容が少しも頑張りたくない……」


 ――でも、卒塔年齢になっても就職先が決まらないのは事実だ……。


 同じ頃塔に入った者のほとんどは、もうどこかの貴族から引合いが来ている。賢者を育てる知の塔がこの国の王立なので、次代長候補の塔十賢に選ばれると、もうこの国の王族しか会えない決まりがあるが、それでも今までの十賢は様々な書面で是非にという依頼がきていたらしい。


「あーあ……昔は割とそんな話もあったのに。なんで塔に一生残るか決めなきゃいけない頃になると、なしのつぶてなんだか……」


 ふと、目を閉じたアースの脳裏に、幼い頃に出会った炎のような金髪の少年の面影が甦った。


 ――決めれないのは、やっぱり諦めきれないからだな。


『待っていろ! 絶対に迎えに行くから!』


 ――泣きそうな顔で、まるで怒るように叫んでいたあの子はどうしているのか……。



 知の塔に入ることになった八歳の時。師匠だった人が、途中で立ち寄った貴族の館にいた子供。


 気が強くて我がままで意地悪で――それなのに、最後には妙に懐いて、別れるときにはなぜか泣きながら追いかけてきてくれた、シリオン。


 あんな言葉をこの年になって盲目的に信じているわけではない。


 ――覚えているわけがないか……。


 あれから、九年。短い間遊びに来ていた館で知り合った子供のことなんて、相手はきっと、もうとうに忘れてしまっているだろう。


 ましてや、あんな初夏に数日遊んだだけの相手との口約束なんて。


「だいだい、いくら人づてに訊いてもシリオンなんて貴族は知らないって知の塔でも言われたし……」

 

 もう生きているのかすらわからない。


「いい加減忘れて、フラウに言われた通り二の王子についていくか、十賢として生涯塔に残るか決めないといけないんだけどな……」


 それなのに、忘れきれないのは、きっと小さい頃からシリオンの最後の言葉だけを辛い時のよすがにして生きてきたからだろう。


 寒い夜に一人で寝る時も。わからない課題に取り組んで泣きたい時も、きっとシリオンがいつか迎えに来てくれると、それだけを呪いのように唱えて乗り越えてきた。


 ――どんなに悲しくても、どんなに辛くても……。


「いつかきっと来てくれる人がいるから」


 そう思って、寒い冬も冷える手を自分の息で温めてきたのだ。


「でも、さすがにタイムリミット」


 もうこの国に残るわけにはいかない。


 ――そうでないと……。


 こちらを冷たい瞳で見つめてきた紫の双眼を思い出し、アースはぎゅっと自分の体を抱きしめた。


 今、逃げないと、きっと自分はどこにも行くことができなくなる。


 ――どこかに……どこでもいいから逃げないと。


 なのに、我ながら、幼い記憶に未練がましい――とアースが、ガラスに遮断された空を見上げた時だった。


「オリスデン皇帝陛下、お見えになりました」


 フラウ付きの侍女の言葉に、アースが顔を上げると、部屋の入口に幾重にもかけられたビロードの帳に、まるで彫像が動いているような人影が見える。それは豪奢な赤いビロードよりも華やかで、思わず目を奪われた。


 瞳は鮮やかな碧。まるで宝石をくりぬいて嵌めこんだような瞳が収まる姿は、大理石に彫られた神のようで、動いている腕も鍛えられた体も、全てが神話から脱け出してきたかのように端正だ。


 ただ、一つ違うとするならば、その髪がまるで燃え上がるような赤金色だということだろう。鮮やかな赤味を帯びた金の髪が揺れる様は、まさしく征圧者の鬣を思わせる。


 しかし、アースが息を飲んだのは、その余りにも鮮やかな美貌にではなかった。


『待っていろ! 絶対に迎えに行く!』


 ――あの時の!


 他人の空似というには、あまりにも似すぎている。


 ――シリオン!


 口から言葉が飛び出しそうになるのをアースは必死で抑えた。けれど、新緑のドレスに包まれたアースの姿をオリスデン皇帝は暫く意外そうに見つめた後、ふっとその口元を緩ませる。


「お初にお目にかかります。フラウ姫。私はオリスデン皇国カエディウス・シー・リオン・エスティリアル・オーグレイン、お会いできて光栄に存じます」


 ――カエディウス・シー・リオン⁉ シリオンじゃなくて⁉


 それじゃあいくら人に訊いてもわからない筈だ。


 よく考えれば、当時はまだオリスデン語を知らなくて、かなり聞き取り力が怪しかったのは間違いない。


 しかし幼い頃の勘違いが元だとは言っても、いきなり記憶の相手が自分の目の前に現れたことに、アースは焦って顔を扇で隠してしまう。


 ――あんな昔のこと、まさか覚えていないだろうけれど、ばれたら困るし!


 本当に冗談じゃない。やっと再会したら、その相手の結婚を駄目にするために騙そうと女装してましたなんて、ブラックジョークにもなりはしない。


 ――しかも相手は帝国統治者! これが元で、変態を魔女裁判にかけようなんて、表現や思想の統制なんてされたら!


 確実に一生知の塔出身者の間で針の筵だ。


 慌てて、顔を隠した扇から僅かに出ていた目を冷たく横にそむけて、できるだけ相手から見えないように隠す。


 それなのに、相手はそのアースのレース飾りに包まれた手を取ると、恭しくそれを持ち上げて口づける。


「今日は、フラウ姫に先日の求婚のお返事をいただきに参りました。ぜひ色よいご返事を――」


 けれどアースは、つんと、顔をそむけた。


 とにかく今はこの場を少しでも早く離れるために、一刻も早く嫌ってもらうのに限る。


 ――それにはプライドの高い女ほど、男にとって面倒な相手はない!


 ましてや、色好みでもなく、政略上自分の方が既に相手より優位であるなら、尚更御免なはずだ。


「――――」


「お返事はいただけませんか?」


 すっと、口づけた手に顎を近づけたまま、シー・リオンはまるで獲物を狙う獅子のようにこちらを見つめている。


 それに気圧されないように、アースは細く眼差しを流しながら、いかにも高貴な姫君のように答えた。


「――――由緒正しき王家の私が、初めて会った男などと気軽に口をきくとお思い?」


 ――よし! 満点の高慢ちきな女だ!


 心の中で、アースは拳を握りしめた。


 そのあまりにも無礼な様子に、シー・リオンはぱちりと目を見開いたが、次の瞬間愉快で仕方がないように笑い転げる。


「なるほど。これは姫君には失礼した。しかし、俺は姫には、誰にも気安いよりはそれぐらい他人を拒んでくださる方がありがたい」



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