AiP―改変型特異的精神構造―

 『メランコリー親和型』という性格特性が、精神医学には存在する。それは日本人のほとんどが持つ性格特性であり、極端に要約してしまえば『周囲の和を最優先にする性格』である。近年ではこの性格特性から日本人は離れつつあると言われてもいるが、完全に離れるのはおそらく不可能だろう。

 そして、これと似て非なるものに、『かのような人格as-if personality』というものが存在する。一見、周囲に溶け込んでいるように見えて、実際問題それは表面的なものに過ぎず、他者と情緒的な関係を結べない不安定な精神。

 それを極端にし、さらに『解離性同一性障害』を加えたような性格特性も、存在する。

 『改変型特異的精神構造AiP』。

 周囲の状況や環境に適応し、人格構造を全自動的に変動させる病理。時と場合によって、この病理に罹患した人々は文字通り人が変わる。仕草、価値観、記憶の整合性と解釈。場合によっては口調さえ。その状況に応じて変動させてしまう。しかも罹患した当人はこれを一切自覚することが無い。ごく稀に自覚する患者もいるにはいるが、それもごく少数だ。

 そして、今回語る三人のAiP患者は、特別何かあるわけでもない。と言っても、何もないわけでもない。

 つまりは、よくわからないのだ。

 それもそうだ。そもそも――――AiPを罹患した者に、本質など存在しないのだから。




 血洗島ちあらいじま無悪さかなし

 如意谷にょいだに柘榴ざくろ

 大歩危おおぼけ猿喰さるはみ

 それが、逢魔時に差し掛かり、薄暗くなった部屋に存在する三人の名前である。彼らは一様にAiPの患者であるが、彼ら三人が集まることによって、彼らの人格構造は一つの共通項を持つようになる。

 血洗島無悪――――『殺 人 嗜 好エロトフォノフィリア』。

 如意谷柘榴――――『血 液 嗜 好ヘマトフィリア』。

 大歩危猿喰――――『人肉嗜好カニバリズム』。

 AiPによって本質を持たない多重人格者でありながら、彼らは三人のみで集った場合、全員が示し合わせたようにこの人格構造に変貌する。

 彼らの親は何を思ってこのような名前にしたか判然としないが、少なくとも、彼らの一側面を的確に射抜くような名前だった。

 血洗島無悪は、無地の黒いメッシュシャツに光沢の少ない同じく黒色のジャージに黒い靴と全身を黒一色に統一し、口を馬鹿みたいに開けたまま打ちっ放しのコンクリ天井を見上げている。

 如意谷柘榴は、セーラー服染みた私服に身を包み、腕組みをしてその申し訳程度の胸を強調しながら俯き口笛を吹いている。

 大歩危猿喰は、ワイシャツのボタンを三つほど開け、灰色のスラックスに片手を突っ込み、もう片手のささくれを噛み千切って咀嚼する作業を繰り返している。

 各々が思い思いの行動をする中、最初に行動したのは天井を見上げていた無悪だった。後ろに反らしていた頭を元の位置に戻し、目線を残る二人に巡らせる。

 そして口を開いたのは、猿喰だ。


「それで、今日集まったということはこれからすることは明白か」


「そうだなぁ。俺はまだ何も言ってないが、ここに集まるってことはもうやることなって決まってる……。そうだろ柘榴」


「気安く呼ぶんじゃないわよ。あんたの血、抜き取るわよ?」


「そりゃお前が俺を大好きっていう意思表示か?」


 十割方本気の殺気を撒き散らす少女の言葉に、軽薄そうな少年は飄々と答え、さらに少女の殺気の濃度を高めさせる。彼女の嗜好が『血液』だからこそ、その言葉は間違っていない。

 だからこそ、これ以上は不毛だと判断した少女は殺気を収めた。

 代わりに、窘めるように無悪は柘榴に注意する。


「お前はそれほど殺人経験が無いだろうからわからないだろうが、人間っていうのはそういう害意を含んだ視線には敏感だ。未だに野性があるのかそれとも単純に憶病なのかは知らないけど、そんな広範囲に殺気を振り撒いてたら集団に察知されて袋叩きにされる。殺気っていうのは研ぎ澄まして狙い澄ますことで初めて真面目に機能するんだよ。まぁ、それは『殺気』の上位互換である『殺意』だけどな」


「『殺気』の上位互換は『殺意』ではない。『殺気』とは簡単に言えば『殺そうという気配』であり、『殺意』とは『殺そうという意思』だ。一度中学校からやり直したらどうだ? それとも、私に喰われて来世で学び直すか?」


「その二者択一は絶対に前者だ。というかそんな殺意を向けてくるなよ。爛々とした眼でこっちを射抜かないでくれよ。俺の下半身が心配になっちまうよ」


「それは出る方か、出す方か?」


「後者。興奮しちまうだろちっとは抑えろ」


「了解した」


 端的に返答した猿喰は、無悪から目線を外し、自分の爪を噛み切り始める。

 それを脇目に見ながら、思い出したかのように柘榴が質問をした。


「今日、人一人殺すのは決定事項だけど――――あんたらは『殺人』をなんだと思ってる?」


 簡潔な疑問。それに、無悪と猿喰は首を傾げた。彼らからすれば、この問いは『何故食事をするのか』や『何故歩くのか』と同じ次元の質問だ。普段、何気なしに行っていることを議論の俎上に上げられれば、首を傾げるのは道理だろう。

 そして柘榴は、それを先刻承知で質問した。


「人を殺すねぇ……。なんだか無意味な命題だと思うんだが、なんでそんなこと聞いたんだ?」


「なんとなくよ。ただ、あんたらの中での位置付けっていうのは気になるところでね。あんたらは『殺人』を体のいい暇潰しオードブルだと思ってるのか自己の生き甲斐メインディッシュだと思っているのかは、ちょっと聞いておきたいのよ。ちなみに私は人生の中での娯楽デザートね」


「前者とか後者とか一切関係なさそうだな……。まぁ、そんなの決まってるよな」


「ああ」


 無意味に不気味に無悪は笑い、猿喰と異口同音に回答する。


「――後者だ」


「あんたらはそうよねぇ」


「そりゃそうだろ。俺にとっちゃ殺人っていうのは日常の一部なんだぜ? なぁ猿喰」


「論ずるまでもない。人など俺にとってはただの食糧に過ぎん。食糧を食わねば餓死をする。つまりはそういうことだ」


「あんたら狂ってるわね」


「お前が言うな」


 二人の論法に呆れた柘榴の言葉に、口を揃えて男二人は切り返した。


「それで? 結局のところ何が言いたいんだよ柘榴」


「いや、ね? 私たちって気付いたら意気投合してたじゃない。だから、あんたらの人となりというかそういうのを少しでもいいから聞きたいわねってことよ」


「あー。確かに、俺たちはたまたますれ違って気付いたら人間殺してたしなー。人となりもクソもなく、ただ趣味嗜好だけで一緒にいた感が強いし。まぁ、その意見には反駁しねぇよ。で? なにするんだ?」


「ただ単純に、今回は確認作業と行きましょう」


「つまり俺らの殺人観念について語らおうってことか」


「語らうというより一方的に語り押し付けるといったほうが近いかもしれないわね。……まず血洗島から。あんたにとって『殺人』とは?」


「俺かよ……」


 少女の指名に、至極面倒くさそうに彼は言う。

 しかし、彼は自分の殺人観念について語り始めた。


「で、俺にとっての『殺人』だっけ? ……そうだなぁ。呼吸って感じか」


「歩行ではなく、呼吸と来たか」


 猿喰の言葉に、無悪は明確に頷き、肯定した。


「おう。だってよ、歩行は生命活動に必要不可欠って程じゃあねぇだろ? だが呼吸は必要不可欠だ。俺にとって『殺人』は呼吸と同程度かそれ以上に大切な代物なんだよ。そういう猿喰はどうなんだ。おまえは『殺人』……お前の場合は『食人』だけど。それについてどう思う?」


「そうはいってもな。あれは三大欲求の一つだ。抗えるものではあるまい。確かに人間は、水だけで一週間は生き延びられる。だが、食欲に負け、どうしようもないものを口に含んで腹を満たすことがあるだろう。俺は周りに食料があるだけマシなのだ。……如意谷。おまえはどうなのだ?」


「えーっとねぇ……。私は『殺人』って言うよりそれが発端の『血液』なんだけど……。血液って麻薬みたいなものなのよね。あれを浴びたとき全身を突き抜ける快楽って言ったらないわ。そりゃあもう人間が麻薬を吸った時と同じぐらいの多幸感と高揚感を与えてくれるわ。舐めただけで自然と笑っちゃう。浴びた時を想像なんてしたら口が緩んじゃいそう。私にとっては最高の嗜好品よ。実際、私は薬物中毒でもないしそういうものに一切合切無縁なんだけど」


「まぁ――――総じて俺らは狂ってるってところか?」


「一般論からすれば、間違っていないだろう。一般論ではな」


 念を押すように二回言った猿喰は、ここで一本、指を立てた。

 そして言う。


「今日の計画を言おう。と言っても、戦術的に言っても戦略的には言わんぞ。この廃墟地帯の近くに繁華街がある。そこで適当に人を襲う」


「最早戦術的どころか計画的ですらないな。戦術家が唖然とするぜ?」


「別段、俺は戦術家でもなんでもないのだがな」


「それもそうか。……あ、そうだ。今夜一緒にどうだ、柘榴。一生の思い出にすると保証するが」


「私と寝床を共にしたいなら大人しく血液プールを用意しなさい。あ、昔に血液風呂を作ってくれたことには感謝するわ」


「お前が興奮しすぎて失神したせいで、あの後に俺がお前の身体拭いて服着せて、ベッドに寝かせる羽目になったんだぞ」


「あぁ。そういえばあの時起きたらベッドに寝てたわね。え、何? もしかしてヤッた?」


「……ノーコメントだ」


「え? 冗談のつもりだったんだけどなんか深刻に言ってない? え? もしかして本当に……?」


「…………」


「目を逸らすなーッ!」


「元気がいいな」


「元気がいいとかそういう問題じゃないわ! 私の貞操の是非がかかってるのよ!」


「確認すればいいだろう」


「とっくに破れたわーッ!」


 三人が三人、色々な意味ですれすれな会話をしながら、椅子から立ち上がる。

 そして、狭い間口の扉の嵌められていない出入り口から相変わらず打ちっ放しのコンクリートしかない廊下に出た。血洗島無悪は冷や汗を滝のように流しながら耳を塞ぎ、如意谷柘榴は顔を真っ赤にして全力で無悪に突っかかる。それを一歩引いた後方で、戯れる子供を縁側で眺める老人のような雰囲気で、前方の二人を眺めていた。

 三人が目指すは、この廃墟地帯に隣接するようにして存在する繁華街。

 異常者の、狩りが始まる。




 路地裏。昔から無法者たちの溜まり場として描かれることの多い場所。

 それは、そのイメージに恥じない形で正常に機能していた。

 路地裏のいくつかの十字路を適当に曲がった末に突き当たる行き止まり。そこで一人の不幸な少女を、三人の男女が包囲する。不幸な少女は先程まで大通りを悠然と帰っていたところだった。真夏に似合う赤いタンクトップとホットパンツ。買い物帰りで食材の入ったビニール袋を持っていたが、そんなものはとっくのとうに三人に奪われている。彼女は両足を無言の圧力を放つ少年に押さえられ、眼前では、彼女の両手を塞いだ三日月のように笑う不気味な少年が、一昔前の不良のようなつま先立ち座りで彼女を凝視していた。

 被害者加害者を含めた四人がいるのは、廃墟地帯を少し入り込んだ位置。すぐに繁華街に出るがあまり大声を出しても問題ない場所だ。当然のように、このような場所に不気味な三人組によって連れ込まれるような事態に、楽観的になれるようなものではない。

 彼女は、湿ったホットパンツにも気づかず、自身の醜態に一切構わず、ただ生存本能のままに暴れていた。その状況に、彼らの人格構造はより強力な補強を受ける。


「面白ぇ。やっぱ殺す前の女は面白ぇな」


「それよりも早く喰わせろ。いい加減に焦らすな」


 不気味に口角を吊り上げる無悪に、苛立たしげに猿喰は喰いつく。柘榴は、突き当たりの壁に寄りかかりながら、遠巻きにその光景を眺めていた。


「あーやだやだ。こういう現場って吐き気がするわねー。……血洗島、早く頸動脈掻っ切りなさいよ。私は早く浴びたいのよ」


「えー。もうちょっとこの娘の反応楽しもうぜ柘榴」


「生憎と私の背後には百合の花は咲き誇ってないの。いい加減に焦らすなら私は私で別の獲物探すわよ?」


「いやいやいやいや。待ってくれよ」


 壁から背中を離した柘榴に無悪が待ったをかける。


「お前が獲物探すと露見するだろ? 俺が殺してお前が血を浴びて猿喰が喰らう。これはWin-Win-Winの素晴らしい作戦じゃないかよ。ここでお前が抜けて血だけ浴びてみろ? 露見してヤバいことになるぞ?」


「うっ……。それは嫌ね」


 柘榴がもう一度壁に寄りかかったのを確認して、無悪は再度恐怖に震える少女を正視する。


「えーと、そこな美少女」


 ただの道端で言われればなんともないほめ言葉も、ことこの場では嘲弄の一言でしかない。

 無悪はポケットから一つのバタフライナイフを取り出すと、彼女の前でちらつかせた。

 それに怯える少女の前で、にこやかに彼は提案する。


「一生俺らの下僕になってくれるんだったら、君を殺さないようにしようと思うんだけど……どうかな?」


「はいッ! なります! だから見逃してください!」


 追い詰められた少女は、目の前の少年から発せられた常軌を逸した対価を快諾した。

 誇りとか尊厳とか、異常な場においてはそんなものは意味はない。ただそこにあるのは、虚言とそれによって生まれる駆け引き。彼女は今の恐慌状態から抜け出し、冷静に駆け引きをできる精神状態にまで落ち着けば、少女に勝機はある。

 しかしこのような状況ではそれを望むべくもなく、そして、そもそも駆け引き所かその対価すら意味はない。


「うん。いいよー」


 そもそも。

 AiP患者は、絶対にその状況の和を乱さない。

 そして、今後の状況を無意識に推測し、それに影響を与える要素は自ら引き込むことはない。

 従って、


「…………………………え?」


 下僕とか、そういった後に引き摺りそうな要素は、わざわざ抱え込むことは絶対にありえない。


「うっそー」


 平坦に、しかし楽しげに無悪は言う。彼が曲芸的に展開したバタフライナイフは、彼女の太腿の骨を少し掠る位置に、深々と突き刺さっていた。

 血が滲み、柘榴の目が輝く。


「そういえば、この子血液型なに? 血液型で血の味って微妙に変わるのよねー。まぁ、生活習慣で一番変わるんだけど……。この子、体型的に不健康な生活はしてなさそうだし、まぁ味を期待しましょうか!」


 彼女は嬉々として少女に近付き、無遠慮に刺された部分から漏れ出た血を掬った。今の今まで事態の推移をまるで理解できず、思考を凍結させていた少女も、患部を撫でられた痛みで現実に戻ってくる。それは即ち刺傷の激痛が脳髄を直撃することと同義であり、彼女の場合は現実に戻らない方がはるかに救われていた。


「ぐぎぁぎぃッ!?」


 常人には耐えられない激痛が身体を一瞬で駆け巡り、条件反射で身体が痙攣する。その痙攣によって突き刺さったバタフライナイフが揺れて太腿を抉り、さらに激痛を倍加させていく。その悪循環の中で少女は取り留めのない思考をすることすら許されず、ただ痙攣と悲鳴の二つを延々と繰り返す人形に成り果てかけていた。

 それを留めにかかったのは、この原因を作った無悪だ。手に持ったバタフライナイフを抜き取り、そのナイフを無造作に柘榴の開いた口に突っ込む。そもそもそれを待っていた柘榴は、口にナイフが突き込まれた瞬間から、ナイフの表面を器用に舐め回し始めていた。それを無表情で見つめる無悪は、次第に、悶えながらも悪魔のような悪循環から脱出しつつある少女を見る。


「う、嘘だっ――」


「もう我慢はせんぞ」


 彼女の激昂を遮るように今まで飼い犬のように待たされていた猿喰が、遂に少女に食らいついた。それは刺傷のないもう一つの太腿。そこの肉に深く深く歯を食い込ませ、引き剥がすように歯で以て引き千切る。鮮血が舞い、今までナイフにこびり付いていた血を舐めていた柘榴が血相を変えた。


「ちょっとちょっと! あんた死体処理専門でしょうが! なんであんたが生きた人肉喰らってんのよ! 死んだばかりの死肉で満足しなさいよ!」


「今の今まで我慢していた私の気持ちがお前にもわかるだろう如意谷! いつも鮮度の欠けた生肉を食わされている身にもなってみろ! 貴様とて、時間の経った生き血を啜るのは趣味に合うまい!」


 彼らからすれば至極真っ当な正論に柘榴は押し黙る。その口論を横目に見ながら、彼は勢いよく押し付けられた靴底によって無惨な様相を呈する少女の顔を見やった。猿喰が食らいついたと同時に彼女が悲鳴を上げそうだったので、立っていたこともあり、思い切り彼女の口に靴底を叩き付けたのだ。そのせいで鼻骨も折れ、本来鼻であった場所からは血液がとめどなく流れている。無造作に蹴り付けたことによって綺麗に生え揃っていた前歯は欠け、唇など所々皮膚が抉れていた。捕まえた当初はその端正な顔を恐怖に歪ませていたというのに、これではどこの不細工かと鼻で笑うか青褪めるかの二者択一を迫られそうだ。この三人は間違いなく前者を選ぶだろう。


「だ い た い ! 生きてる人間が身体の一部を喰い千切られたらショック死するでしょうが! というか汚ッ!?」


 脳髄を叩いたあまりの衝撃に、遂に許容量の限界を迎えた少女は、変わり果てた顔を足蹴にされたまま失神していた。口から泡を吹き、ご家庭にはとてもとても見せられないような状態になっている。柘榴は少女を起点として広がる透明な液体を避けながら、喰い千切られた傷口から溢れる血液を名残惜しそうに見つめた。


「そろそろ静かにしようぜ。俺の経験則から言って、騒ぐと碌な事態になりゃしない」


 口論が一段落してから、やっと制止の声をかける無悪。その顔はあくまで楽しげで、しかしこの展開をそこまでいいものと捉えていない雰囲気を醸し出していた。


「このままじゃあ、柘榴の言うとおりショック死するのが関の山ってところかね。猿喰の食事時間も含めると、そろそろ潮時かぁ……。よし、頸動脈掻っ切るぞ。準備しろ柘榴」


「オーケーオーケー! 早くしなさい!」


 抑えきれない狂喜の感情を表情に零しながら、唾液に塗れたバタフライナイフを首元に置いた無悪を急かす。それに応えるように、あるいは現場の証拠隠滅を早めるように、彼は刀身を引き、静かに、しかし深々と切創を刻む。そして木の棒でも折るように、切り口とは反対の首に圧力をかけ、傷口を強引に広げた。傷口からは血液が噴霧し、傷口の目前まで顔を近付けていた柘榴の肌を濡らしていく。


「いいわ――――いいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわいいわぁッ! やっぱり若い女の子の血液って最高ッッッ!!」


 歓喜に頬を赤く染め、白目を剥きながら、涎を垂らしながら、恍惚とした表情で彼女は笑う。AiPという特殊な病理にかかっていなければ、彼女は高らかに笑っていたことだろう。

 彼女の笑いを無悪は咎めることなく、油断なく周囲を観察する。見たところ、周囲に人はいない。そもそもこのあたりは人がいないことこそが代名詞と言っても過言ではないため、それほど心配することもないのだが。

 無悪と猿喰の前では、頸動脈を掻き切られ絶命した少女と、そこから迸る血液を一心不乱に浴びる少女という、彼らからすれば何ともない光景が繰り広げられていた。

 段々と、迸る血液が減少を見せる。人間に内包された血液など限りがあるので、それも当然の帰結だ。

 やがて血液が完全に出され切ると、恍惚とした表情のまま、柘榴が二人のもとに戻ってくる。


「どうだ。楽しんだか?」


「ええ。あんたも?」


「もちろんさ」


 そう言い、わずかに頬を染め、無悪は返答した。彼らが性的快感を得るのは『殺人』と『血液』。

 二人は帰ったらすぐに下着を変えないと色々と不味いことになるだろう。

 しかし、まだ性的快感を完全に得ることが出来ない少年が二人の横には存在する。


「そろそろいいか?」


「もちろん。残さず食べてくれよ?」


「無論だ。久しぶりの人肉なのでな。私も少し興奮している」


 薄く笑んだ猿喰が、頸動脈切断という決定打によって絶命を迎えた少女の亡骸に近付く。


「無悪。ナイフを貸せ」


「ん? 前に猿喰、思いっきり獣喰いしてなかった?」


「あれはお前がナイフを持たずに相手を蹴り殺したからだろう。青痣だらけの肉を食うのは正直あまりしたくない経験だ」


 無悪が放ったバタフライナイフを掴んだ猿喰は、あたかも最高級品である骨付き生ハムから肉を削ぐかのように丁重に、少女の肉を削っていく。少女の健康的な肢体は余分なものなど一切なく、柘榴にとっても猿喰にとっても最高の材料だった。彼女の精神の強さを身を以て知った無悪も、今までで最高の対象だったと満足している。


「いただきます」


 日本人特有の食前の挨拶を済ませ。

 彼は、切り取った生肉を数枚口に放り込んだ。彼は何度も何度も咀嚼し、満足そうに笑ってから、次々と彼女の肉をナイフを巧みに扱って削いでいく。最初にあった丁寧さは今はなく、ただ、美味な食材に心奪われた美食家の光景が、そこには広がっていた。

 彼は一心不乱に、ナイフを使って彼女のありとあらゆる肉を削っていく。

 唇。指。腕。脚。瞼。腹。頬。額。尻。その他諸々。鮮やかな手捌きで肉を削ぎ、流れるように口の中に消えていく。丹念に口の中で転がし、恍惚とした表情で人肉を咀嚼していく。肉と皮を剥がされた少女に最早原形はなく、頭皮と頭髪、そして目玉の収まった頭蓋骨と、肋骨の内側に仕舞われた内臓以外は、ほとんど白骨死体と大差ない状態に変わり果てていた。それはさながら土に還される途中段階の死体のようでもあり、猿喰が持参していたポーチから取り出された五寸釘と金槌によってその変貌はさらに加速した。彼は金槌と五寸釘で的確に肋骨を折り、内臓に次々と齧り付いていく。その過程で心臓などの血液の残留した内臓を柘榴に放り投げ、内容物の入った内臓から内容物を絞りだし、ポーチに入ったペットボトルの水で洗浄し、時折粉末状の薬品を振りかけ馴染ませ洗い流して消毒ながら、引き千切り、喰い千切っていった。


「相変わらず大歩危はえぐいわねぇ」


「他人の趣味をとやかく言うなよ。俺がお前の趣味にとやかく言ってやろうか?」


「あんたの血抜き取るわよ」


「はいはいツンデレツンデレ」


「黙りなさい……ッ!」


 心臓に残った血液を吸い出しながら、柘榴は薄ら笑いを浮かべる無悪に凄む。なまじ体中に血を浴び、口元を口紅のように血液が彩っているせいで、常人なら卒倒ものの状態になっていた。しかし、そもそもこれの発案者でもある殺人鬼にそんな生温い光景は効きもしない。ただ薄ら笑いを深い笑いにシフトチェンジさせるのみだ。

 彼らが夫婦漫才のような感じで応酬をしている間に、猿喰の食事は最終段階に移行していた。ポーチに入れていた十数本の五寸釘を少女の変わり果てた頭に打ち込み、頭蓋骨を抉り割り、そこに自己を主張する脳髄の根元である脳幹をバタフライナイフの刀身で引き切り、引き摺り出したのだ。彼は片手で少女の脳髄を捧げ持ちながら、もう片方で抜身のバタフライナイフを無悪に向かい投げる。それを彼が受け取ったのを確認して、彼は脳髄を両手に持ち替えた。そして、限界まで口を開き、その口に強引に脳髄を叩き込む。時間が押しているというより、我慢しきれずに行ったような感じがあった。

 口の中を独特の弾力に支配されつつ、口の端から漏れる脳漿をできるだけ口に押し込みながら、猿喰は血塗れたナイフを近くのぼろ布で拭きポケットに戻した無悪を見る。


「粗方喰い終えたぞ」


「じゃあ骨もよろしく」


「俺は骨髄が好きなだけで、骨はそれほど好きではないのだがな」


「証拠隠滅もしなきゃダメでしょ。あんた味わってるのか知らないけど今日はいつもより長めだし。そこは融通利かせなさいよ」


「むぅ……」


 彼は唸りながら、致し方なさそうにもう一度食前の挨拶をし、骨を銜え圧力をかける。しかし骨格というのは人間を構成する最重要部位であり、その頑丈さは並ではない。この少女のような体躯の骨格でも、それなりの硬度を秘めている。

 苦労して何とか大腿骨を砕き咀嚼した猿喰は、次いで一番面倒くさそうな頭蓋骨と骨盤に取り掛かる。

 しばらく、粗末な氷が砕けるような音と枯れ枝を折るような音が断続的に響いた。それを脇目に、彼らは少女の服飾品の分配を始める。


「取り敢えずこの服はお前な」


「なんでよ。あんたが引き取りなさいよ」


「やだよ。こんなもの俺が引き取ると思うか?」


「思わないけど、それでも引き取りなさいよ。殺人の余韻でもそれで感じてなさい」


「断る。誰が好き好んで女性用の衣服を身につけなきゃならん」


 数分の討論の末。適当に洗って、公園に投げ捨てることにした。と言ってもばれないように慎重に、念入りにではあるが。

 骨喰いの音をBGMに、今度は彼女の持っていた財布の中身の分配を始める。


「まず抜き取るのは綺麗なままの貨幣だけ。クレジットカードとかポイントカードとかそういう類は個人が特定されるから無し、っていう大前提は覚えてるな?」


「もちろん。血が付いた貨幣からDNA鑑定でわかっちゃうこともあるしね」


 血のついていないと見た目で判別できる貨幣を厳選していく。元々、途中から柘榴がくすねていたので財布全体に血汚れは少ない。しかし、終盤の血飛沫の時にちょうどその射線上にこれが置いてあったため、適当に抜き取ることも許されなかった。

 彼らの前ではただひたすらに人骨を折り、砕き、噛むという動作を繰り返す猿喰がいる。生きた人肉を食いたいのに死体専門に追いやられ、それほど好きでもない人骨を噛み砕き、その上分配にすら参加できない彼は、少し哀れだった。

 彼らの前で断続的に響いていた骨を噛み砕く音がようやくやむ。計十五分という驚異の短時間で、彼は一人の少女を跡形もなく喰い切って見せた。

 その脅威を眼中にすら入れず、自分の獲物を懐にしまった無悪は、飄々と告げる。


「よし、帰還だ。さっさと帰ってさっさと寝るぞ」


「オーケー」


「了解した」


 その言葉を合図に三人は証拠隠滅を開始する。コンクリートに吹き付けられた血液はコンクリート自体を削らん勢いで剥がすことで、何とか一見するだけでは判別できないレベルまで引き下げ、証拠になり得るような頭髪や皮膚の欠片を念入りに探して回収していく。その他、証拠になりそうな物品を隅々まで精査して回収し、そしてようやく三人は人心地ついた。

 彼らにとって、証拠隠滅の作業は食後の皿洗い、あるいは運動後の柔軟体操と同義だ。それを怠ると後々に相当な影響を及ぼすことは、彼らはその病理に侵された本能で理解している。

 彼らの持つ『改変型特異的精神構造AiP』という特異な病理は、『かのような人格as-if personality』と『解離性同一性障害』を複合させたような病理だ。彼らが持っている貨幣は、元の社会的立場にに戻ることで『近所でたまたま拾ってネコババした』という記憶に自動的に挿げ替えられ、殺人に対して人並みの忌避感を抱く人間になるだろう。

 AiPというのは、そういう病理だ。だからこそ、AiP患者は発見することが出来ない。場の空気を読むことに特化し、場の空気に馴染むことに終始することを至上とするこの病理を見破るすべはそうそう見当たらない。

 そして、彼らは今日も日常を歩む。

 一人は軽佻浮薄な少年として。

 一人は明朗快活な少女として。

 一人は剛毅木訥な少年として。

 その日常を、伽藍堂のまま、空虚なまま、過ごしていく。

 彼らに本質はない。

 そして、彼らに真実はない。

 全てが虚偽で、詐欺なのだ。

 しかし彼らはその甚だ迷惑な行為に気付かぬまま――――今日も一つの二重螺旋を破壊し、帰還する。

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