フェノメノン
学校からの帰宅途中、俺は変なものを目にした。蛙だ。鳥獣戯画に出てくるような、二足歩行の蛙。背筋はしゃんと伸びていて、どこか凛々しささえ覚える見た目だったが蛙だった。
最初は俺だけが見えているのかと思っていたものの、周りを見てみるとヒソヒソと話しながらカエルを見ている人が多く見られる。どうやら、俺だけが特別見えるというわけではないらしい。
やがて、蛙は一人の男性に目をつける。糊のきいたスーツを着た若いサラリーマンのようだった。蛙はサラリーマンの背後を、つかず離れず追ってくる。サラリーマンは時折振り返りながら、気味悪そうな表情を浮かべて歩く。何度か振り返り、いい加減に通報をしようと考えたのか携帯電話を手に取った。
そこからの蛙の行動は迅速だった。蛙は、なんとサラリーマンの頭をもいだ。引きちぎられた頭は蛙の口の中に放り込まれ、断面が露出した首からは絶え間なく間欠泉のような出血が起こっている。周囲は、その異常なものに釘付けになり、動くことができなかった。
蛙の次なる行動は、水かきのついた手でサラリーマンの首を押し広げることだった。肉と骨の間を無理やりにこじ開け、そしてそこに腕を埋めていく。衆人環視が固まる中、蛙は驚くほどの速さで滑らかに男の身体に入っていった。
そうしたら、また異常なものが発生した。男の服の裾から、赤い液体と黄色っぽい透明な液体が流れ出てきたのだ。粘性のありそうな音を立てながら、棒立ちの男の足元に赤と黄色の液体は広がっていく。それが血液と脂肪であることを理解するのに、一分以上の時間を要した。
男の腹は、まるで妊婦のように膨らんでいた。彼の体内はどうなっているのか想像もできないが、想像なんてしたくないというのがここにいる人々の総意だろう。
腹の中で、おそらく蛙であろう生物が不気味にうごめいた。脈動するように皮膚を蹴り盛り上がらせ、それはさながら胎児のようでもあった。
しかしそれは終わりを告げる。首のところから何かが這い出てきたのだ。それは、人間の頭。どこかで見たことがあると思ったら、さっきのサラリーマンのものだった。その頭は周囲を見回すと、おもむろに屈んで自分の足元に広がった液溜まりを舐め始める。舌を限界まで伸ばし、アスファルトで熱せられた自分の内容部を取り除く。その様を見て、やっと周囲は正気を取り戻した。蜘蛛の子を散らすように、悲鳴は遠くへと逃げていく。俺も逃げたかった。でも、あまりに異常な光景を見て足が動かなくなっていた。
全てを舐め終えたサラリーマンのような何かは、また周囲を見回した。目が合って思わず腰が抜ける。それでも、異常な何かは俺を無視して次の行動に移った。大きく身体を屈ませると、一気に伸び上がらせる。アスファルトを蹴り砕き、残像を残してサラリーマンは姿を消した。数秒もしないうちに、遥か上空から着地音がする。仰ぎ見れば、ビルの上に男が立っていた。超高層ビルには負けるものの、彼が立つビルとて高層ビルに分類される程度には高い。その屋上に軽々と乗るというのは、相当な跳躍力を持っていなければ不可能だった。それを簡単にやってのけた男は、もはや人間ではない。
あれはなんだ。あれはなんだ。あれはなんだあれはなんだあれはなんだあれはなんだあれはなんだあれはなんだあれはなんだあれはなんだなんなんだ!?
助かったという実感より、その異常への疑問が噴出した。まだ、俺の足は地面にくっついたままだ。それでも、あそこまで行ったのならこちらには来ないだろう。
そう思った。それと同時に、急に視界が地面に近くなった。地面に赤い花が咲き、鉄錆のような臭いが鼻を貫く。目の前には、あのサラリーマンのズボン裾が見えた。
そうか、つまりあれは助走のようなものだったのか……。チクショウ、騙された。
短い思考の中で後悔をしていると、こちらに背を向けているらしいサラリーマンがこちらをかかとで蹴り上げた。
それが、最期の風景だった。
ちまたでは、人間に潜り込んで偽装するという意味のわからないバケモノが話題になってるらしい。名前はフェノメノンと名付けられ、真面目な議論が展開されているとも言われていた。私は馬鹿らしいと一笑に付した。だって、そんなアニメみたいなことがあるわけないから。
だから私は、今日も冷房のきいた部屋でのんびりとお菓子を食べながらドラマ鑑賞に興じていた。俳優と女優二人のドロドロ三角関係が判明していよいよ修羅場というあたりで、インターホンが鳴る。無視したかったけど、残念ながら今、この家には私しかいない。手についた油を濡れティッシュで拭い、私はうだるような熱さの廊下に飛び出した。さっさと用件をすませようと階段を駆け下り玄関を開ける。玄関の前には、お父さんがいた。でも、今の時間はまだ勤務時間内だ。ここにいるわけがない。それに、どこかおかしい。服が妙に濡れているし、臭い。今日は雨も降ってないし、もしかしてドブに落ちたから一度帰ってきたとか? お父さんの仕事は外回りだし、それだったら納得がいく。
そこまで結論づけて私は声をかけようとした。それはできなかった。お父さんはその腕を私の腹に突き込んでいたのだ。めり込み、食い破り、貫いていた。そこでショック死しなかったのは不幸の中の不幸だろう。
私は、生きたまま食われた。お父さんの形をしたフェノメノンに、内臓をぺろりと平らげられてしまった。意識があったのが不思議なくらいだ。自分がなにか言っていたような気がしたけど、認識すらできない。
そう思っている間に、フェノメノンは私の心臓を引きちぎり、無表情で頬張っていた。
それが最期の記憶。父親の形をした化物に食われ、生涯を終えた。
フェノメノンは、なにも考えていなかった。気づけば知らない土地にいた。目の前にぴょんぴょん跳ねる緑色の生き物と、二足歩行をする薄橙色の生き物がいた。試しに緑色を食べて、薄橙色の造形を真似てみた。納得がいかなかった。やはりあの薄橙色を食べようと心に決めた。フェノメノンはただ歩き、やがて都心部に到達した。都心部の騒音がフェノメノンの聴覚神経を刺激した。目の前には薄橙色があふれていた。最初に見つけた薄橙色は誰かと考えるうち、似たような薄橙色を発見する。フェノメノンはそれの後ろを歩いた。薄橙色はこちらを何度か見ると、銀色の板を取り出した。
気になる。
その感情がむくむくと湧き出し、気づけばフェノメノンは薄橙色をちぎり殺していた。ちぎった頭を口に放り込む。あの銀色の板はスマートフォンというらしい。薄橙色は人間、緑色は蛙だとか。フェノメノンは、自分の知らない知識に感心した。それだけだった。ちぎり殺した男の中に入ると温かい血肉を貪り、栄養に変えていく。身体の中で男の遺伝子情報を解析し、自分をこの肉体に合ったものに作り変えていく。頭を外に出せば、周囲の老若男女は恐れるように逃げていった。いまさら追う気にもならなかったのでどこかに行こうとすると、こちらを恐れた表情で見る青年が視界に入った。
面白そうだ。
その感情に突き動かされるまま、フェノメノンはアスファルトを蹴っていた。一瞬のうちに高層ビルの屋上に到達する。屋上にいた男女が、驚いた表情でフェノメノンを見ていた。軽々と動かせる身体に、フェノメノンは感動した。今度は、この土地かそれ以外の場所にいる同胞に対し、超音波じみた怪音で人間に偽装するために人間を使う方法を叫び勧めた。そして、高層ビルの屋上から飛び降りる。まだ青年はぼうっとしたままだ。その背中を、全体重をかけて踏み抜く。内臓が炸裂し、地面に放射線状のキレイな花が咲いた。青年の眼前に飛び降り、即座に蹴り上げ頭蓋骨を砕く。その後は一気に走りぬけ、次の目標へとひた走った。
次の目標は、奪い取った肉体が生んだ生命。本能がそれを切り刻めと叫んでいた。衝動のままに、フェノメノンはアスファルトを駆ける。奪い取った記憶を頼りに道を曲がり、古い木造アパートに到着する。まず階段に一歩踏み出し、その段差がボロボロに崩れた。フェノメノンの脚力に、老朽化した階段の段差が耐えきれなかったのだ。フェノメノンは二度三度崩れた段差を踏み、脚力に物言わせて跳躍した。階段をショートカットした化物は、先ほどの反省を踏まえ、足で着地せずに前転をしながら衝撃を和らげる。
立ち上がったフェノメノンは記憶を掘り返し、目的の場所の目の前まで来た。記憶にある加減でチャイムを鳴らし、少しとしないうちにドアが開かれる。目の前で驚きに分類される表情をしている少女は、記憶のものと合致した。この肉体の娘だ。
少女がなにか言ってる。だが、それを聞き取る前に腕が動いていた。腕を腹に突き入れ貫通させ、小腸を引きずり出す。それを口に突っ込み、激しく噛みちぎった。血と肉の味がする。男のときよりかはいくらか柔らかい。弾性に富んだ小腸を噛みちぎり、筋肉にかじりつく。引き締まったいい肉だった。あっという間に筋肉を平らげた。途中でついつい心臓をもぎ取ってしまったが、それまで意識があったのは素直に賞賛すべきことだろう。だが、フェノメノンは賞賛などなくただ貪った。骨を噛み砕き、肉を引きちぎり、体液をすすった。
一時間もしないうちに少女の全てを平らげ、フェノメノンは部屋を後にする。化物は、記憶にある全ての薄橙色を食い尽くそうと心に決めていた。
世界各国で、ゲル状の流動体生物が発見された。新種の生物か地球外生命体かと議論が白熱する中、いくつか報道された事実がある。
一つ、捕食したものに擬態できる。
一つ、身体能力は計り知れない。
一つ、人間の常識が通用しない。
一つ、捕食して知識を得る知性体である。
虚実ないまぜの報道の中で、この四つは共通していた。この生物は有識者によって『Phenomenon』と名付けられた。
フェノメノンとは、現象や異常なものを意味する言葉。ある日に突然現れ、様々な生物を捕食していった異常現象のような生物には、おあつらえ向きの名前だった。
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