第2話
大宮真知子。大宮家の大黒柱であり、大宮家の支えだった女性だ。
齢七八にしてこの世を他界したこの女性は、俺の祖母にあたる。
昭和六年に生を受けた祖母は一八の時に結婚をした。
しかし結婚生活はうまく行かず、結婚八年目にして別居。
以後、娘とともに二人で暮らす。江戸川区の篠崎に自身の店を複数構え、特技であった料理を生かして多くの客を捕まえてきた古強者。
話をよく聞き、うまい料理を出してくれる祖母は多くの人から人気者であった。そんな祖母の孫なのだから、俺にも多くの人が接してくれたものだ。
そんな祖母は俺に厳しく、時に優しく接してくれた。
何より、俺の成長を一番見ていたのはこの人だ。ささいな悩み。考えた事。
多くのことを俺と祖母は共有した。だから、俺にとって祖母は人生に必要な人。
大事な人だった。
「――客か」
新大橋通りを築地から東京駅方面へと走行していると、視界の左手に手を挙げている女性の姿が見えた。
すぐにサイドミラーとバックミラーを確認。ハザードを焚いて車を寄せる。
「お待たせしました。ご利用ありが――」
後部座席のドアを開け、笑顔を持ってお客を迎え入れようとすると、俺は一つの事実と向き合うことになった。
「こんにちは、すいませんが金町方面へお願いできますか?」
後部座席に腰を据えた女性が、にこやかな笑みを浮かべた。着物姿がよく似合う凛とした女性。穏やかとおしとよさにありふれた女性が、そこにはいる。
問題は、その女性が――俺の祖母の若いころにそっくりだったという点だ。
「あれ? どうかしましたか?」
「い、いえ! 金町ですね。ご希望のコースはございますか?」
「コース……? あぁ! 道のことですね。ええ、運転手さんにお任せします」
ニコニコ顔でそう言われ、俺はゆっくりと頷いた。ギアを入れ替え、サイドブレーキを降ろして発進。徐々に加速して江戸川区方面へと車両を進めていく。
錦糸町を亀戸方面へ進み、京葉道路から柴又街道に左折。
まっすぐ行けば金町へと到着するコースだ。
「……お客様。金町のどのあたりにお止めいたしますか?」
金町まで近づいた辺りで、俺は終着点を尋ねた。
すると後部座席から一枚の紙が差し出される。
「こちらの住所に向かっていただけますか?」
差し出された紙を一瞥した俺は、信号で停止している間にその住所をナビに打ち込んだ。ナビに表示されたのは金町にある住宅街の一つだ。
ナビの指示に従い、車をその住所まで移動させる。
そしてとあるアパートの前まで到着すると、俺はメーターを停めた。
「お待たせいたしました。料金は三二一〇円になります」
後部座席に向け、料金を伝える。すると着物を纏う女性がにこやかに笑い。
「ありがとう運転手さん。メーターを使ってくれるなんて、いい人ですね」
「メーター使用は当たり前ですよ。お客様」
「ふふ。おかしなことをおっしゃるのね。他の運転手さんは使ってくれませんもの」
女性はそう笑いながらも、財布の中から料金を取り出した。しかしその紙幣は今では見ることが少なくなった旧一〇〇〇円札ばかりだった。珍しいものを見た俺は目を大きくさせつつ、おつりを手渡す。
「ありがとう運転手さん。また逢えましたら、その時はお願いしますね」
女性はそう言って、車両から去っていった。残された俺は額に手を添えた。
「……まさか、な。はは」
しっかり者であり、多くの人を支えてきた聖母のような存在。
それが祖母への――多くの人が評価した内容だった。
祖母が経営していた居酒屋の客は皆。悩み事があれば祖母に相談していた。
祖母のまっすぐな瞳と持ち前の明るさ。穏やかさと芯の内に隠れている暖かさが、多くの人を魅了させたのだ。
店のカウンターに座るおじさん達は皆「真知子さん真知子さん」と。
祖母に語りかけた。
そんな祖母と散歩をしていた六歳の時だった。
地元の自然公園で秋の紅葉を見ていると、俺はあることに気付いた。
祖母の視線が秋の紅葉ではなく先にいる若い夫婦に向けられているのだ。
まるで何かに取りつかれたように若夫婦を凝視する祖母に、俺は。
「おばあちゃん、どうかしたの?」
と。恐る恐る尋ねていた。すると祖母はハッとした顔を浮かべて。
「ごめんねダイちゃん。おばあちゃん、歳だからボーッとしちゃって」
謝罪の言葉と共に、祖母は俺の頭を優しく撫でた。だけど、俺は確信を得た。
祖母はその時、明らかに様子が変だった――と。
仕事をしていて珍しいことが発生する。
それはどんな仕事であれ、発生することだ。
タクシードライバーの場合? それは、同じお客様をお乗せすることだ。
「あら運転手さん、また逢えましたね」
蔵前橋通りを走行していたところ、手を挙げていたお客様がいたので寄せた結果。後部座席に例の着物女が舞い込んできた。彼女は穏やかな笑みを浮かべ。
「また金町へ行ってもらえますか? 金町でしたらなんでもいいので」
と。目的地をそう述べた。
俺は「金町ですね。承知しました」と復唱。
蔵前橋通りを葛飾区方面へと進み始める。
土曜日の道は空いており、比較的スムーズに道路が流れている。
「誰かとお約束ですか? お客様」
後部ミラーに映る女性が妙に浮き足立っているので、俺は一歩踏み出すことにした。すると女性は「わかります?」と嬉しそうな顔を浮かべ。
「恋人です。内緒ですよ? 家族には黙ってきたので」
ふふふ。と女性は穏やかな笑みを浮かべた。可愛い顔をしてやることが大胆だ。
「では。内緒にさせていただきます」
「ありがとう運転手さん。運転手さんは落ち着いてますね。なんだか安心します」
「ありがとうございます。私も美人なお客様をお乗せできて嬉しい限りですよ」
まあ運転手さんったらお上手! と女性が明るい笑みを浮かべた。こういう反応はドライバーとして最高の名誉だ。接客業で最高だと感じられる一瞬でもある。
「運転手さん。少しおかしな話をしてもいいかしら」
俺のことが気に入ったのか、着物姿が似合うお客様が自身のことを話し始める。俺が「構いませんよ」と弾んだ声を発すると、彼女は頬に手を添えて。
「実は私。記憶がないんです。でも、不思議なことに自分の状況はわかっているんですよ。夫がいて、娘がいて。私には大事な家庭がある。夫は浮気性でどうしようもない人だけど、それでも私を愛してくれている人なんだなって。可愛い一人娘と一緒に過ごす時間も貴重で。私、それなりに幸せなんです。夫の浮気性だけはなんとかしてほしいけれど」
ふふふ。――とお客様は静かに笑った。その姿は幸福な生を歩む女性にしかできない、明るい笑みだ。そんな彼女の笑みに影が生まれたのは、少ししてからだ。
「でも、私の中の何かが言うんです。どうしても会わないといけない人がいるって」
「それが、秘密の恋人ですか?」
「ええ。でも運転手さん。不思議なことにあの人の家がなかったんです。困ったことに」
眉根を下げ、お客様がそう述べた。彼女の発した言葉に俺は飛び上がってしまう。
「まさか、住所を間違えておりましたか? 申し訳ありません」
「あ! 運転手さんは悪くありませんよ。あの人が勝手にいなくなったのが悪いんです。あの人ったら、珍しく何も言わないでいなくなるなんて。これは逢ったらおしおきが必要ですよね」
ふふふ。――とお客様が穏やかな笑みを浮かべた。その笑みには可愛さと静かな怒りが込められている。だけどきっと再会したら愛する人の胸に飛び込むに決まっているのだ。
「運転手さん。金町まではどれくらいですか?」
楽しい会話をしていると、後部座席から目的地までの距離と時間を尋ねられた。
慣れた質問に、俺は一つの事実を伝える。
「いえ、実はもう金町ですよ。お客様」
「え? じゃあ今。ここは何通りですか?」
「柴又街道です。あと少しで金町駅に到着しますが、どちらに停めますか?」
俺はそう言い、お客様に停車位置の指示を求めた。
すると着物姿がよく似合う女性は混乱に満ちた顔を浮かべ、窓から周囲の光景を眺めた。そして俺は目撃してしまう。
「……私の知ってる金町じゃない。金町は、こんな風じゃない」
否定と拒否。受け入れられない事実と出会った人が見せる動揺を。青ざめた顔と精神的に追い詰められた人が浮かべる、絶望に満ちた顔が―ーそこにはあった。
「……大介さん。いったいどこにいるの。いつになれば、私を――」
混乱に満ちた女性を宥める手を、俺は知らなかった。
子供を守るのは、親の務め。その言葉を知ったのは七歳の時だった。
それまで。俺は『親とは子供に手を出しても良い存在』という認識をしていた。
そう、俺は良い家庭環境にいたわけではない。
幼少期の頃から俺は父から暴力を受けていたのだ。
父が暴力を行うようになったのは、家庭と仕事がうまく行かなくなったせいだ。
トラック会社を経営していた父は口の悪さとその気性の荒さから、多くの取引先と従業員を失っていた。
また、母と口論することが多くなった父は。ストレスのはけ口を追い求めた。
それが息子への暴力だった。
元々厳しかった父が俺に暴力を振うのは当たり前となり、俺は父親の顔色を伺って生きるようになった。
父がいる間は酷く怯え、その姿を見ている母が何度も父と喧嘩を重ねた。
そんな毎日が、何年にも渡って続いた。もちろん幼い子供に耐えられるはずがない。俺は何度も祖母の家に逃げ込み、祖母の膝で泣いた。
俺が泣く度、祖母は俺の頭を優しく撫でてくれた。
祖母と共に寝るだけが、穏やかな夜だった。
しかし。その日々を父が許すはずがなかった。事件は、夕食の時に発生した。
「――いい加減にしろ!」
父が怒りを露わにし、俺を殴り飛ばした。なんの前置きもなく父に殴り飛ばされた俺はそのまま受け身が取れず、倒れると同時にテーブルの角に頭を強くぶつけた。
鈍い音が大きな波紋のように周囲に響き、俺の体が横たわった。
そして、床に滴る少量ではあるが確実に流れている血。
それが意味するのはただ一つ。
「大輔!」
額から血を流していることを悟った母が、俺に駆け寄った。
母の腕に抱かれながら、俺は自分の身に何が起きているのかが理解できずにいた。
痛みの世界に晒されているのはわかっているけれど。
客観的に物事を見ることができなかった。
「……だ、大輔。ち、違うんだ。俺は……」
だけど。混乱に抱かれていても二つの事実だけは認知できた。
それは父が戸惑いに満ちているということ。
そして二つ目は――俺に向けて手を伸ばそうとしているということ。
あの手が。いつも俺に暴力を振う時に使われてきたその手が、俺へと伸びてくる。
あぁ、もうだめだ。耐えられない。
そう思った俺は母の腕から離れ、家を去った。向かうのは祖母の家だ。
もちろん、それを父が許すはずがなかった。
後ろから何度もする父の叫び声に俺は震えながら、必死に祖母の家へと走った。
祖母ならなんとかしてくれる。おばあちゃんなら助けてくれる。
そう思い街の中を走り続けた。祖母の住むアパートのドアを何度も叩き、驚いた顔をする祖母の胸に飛び込み、全ての事情を伝える。
すると祖母は俺をなだめ、傷の手当てをしてくれた。一通りの手当てを行った後は、もう一度事情を聞かれた。そこで全てを話した。
俺が涙を流しながら訴えるように話す最中、祖母は冷静に。
ただ静かに俺の話を聞いた。
しかし全ての話を飲み込んだ祖母が執り行った行動は、予想を超えるものだった。
「わかった。今から殴り込みに行こう。もう我慢の限界だ」
祖母はそう言うと、押し入れの中から布に包まれた長い何かを取り出した。
知り合いを呼び、俺の家まで送ってもらうとインターホンを押し、玄関を開けてもらう。玄関を開けた母が困惑に満ちた顔をしていたが、その母を押しのけ。
祖母はリビングで苛立った顔をしている父の下へと向かった。
そして、驚いた顔をしている父に向け――祖母がこう叫んだ。
「よくもあたしの愛する孫に酷いことをしてくれた!」
祖母はそう叫ぶと布で包まれていたそれの正体を見せた。
布で覆われていたそれの正体は日本刀で、鞘から引き抜いた日本刀の先端を父に向けると、一気に振り回した。
そこからは大変であった。剣道六段を持つ祖母は迷いなく父を追い詰めていった。
椅子を。テーブルを。テレビを。部屋のあちこちが刀傷でいっぱいになる。
「男ってのは家族を守るためにあるんだよ! それなのにあんたが感情に任せて息子に手を出すとは! 神様が許してもあたしが許さないよ!」
祖母はそう叫び、父をとことん追い詰めた。
祖母の叫びを聞いた隣人がやってこなければ、父は斬られていたことだろう。
それほど父は追い詰められたのだ。
俺にとっては独裁者に見えた父が、祖母の言葉には何も反論できなくなっていた。
離婚の話し合いがとんとん拍子で進んだのも、祖母のおかげである。
「――いいかい大輔。あんたに大事なことを教えてやる」
騒動が収まり、穏やかな日常を得た頃。――祖母は俺にこう言った。
「人生にとって大事なのは、絶対に幸せになることだよ」
力強く。俺の肩を掴みながら祖母のまっすぐな瞳が――俺を捉えた。
思えばそれは、齢七歳にして両親の離婚。
実の父親からの虐待という壮絶な人生を過ごした俺を前に向かせるための言葉。
心の中に打ち込む柱だったに違いないだろう。
祖母はわかっていたのだ。俺の心には一生消えない傷が宿ったことを。
その傷に何度も苦しむであろうことを。
だから祖母は、俺のこの先の人生をきちんと進ませるために、こう言ったのだ。
「これからはあたしがあんたを守ってやる。娘の幸せのために、あんたを犠牲にさせてしまった報いだ。もうあんたに暴力をふるう男はいない。あんたをいじめる奴がいればあたしが斬ってやる。辛い目に遭った時は、必ずあたしに言うんだよ」
どんな怖い状況に陥っても。どんなに酷い出来事があっても。
この大宮真知子が守ってやる。
祖母は確かにそう言い、そして一つの約束を取り付けた。
「――だから。あんたは自分の人生をしっかり生きなさい。いいね?」
俺は祖母の言葉にゆっくりと頷いた。
そしてこの日から、祖母は俺の守り神になった。
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