全てにさよならを言う前に

神崎裕一

第1話


『おばあちゃんが危篤状態です。今すぐに病院に来てください』


 母からのその連絡を見たのは、深夜四時過ぎのことだった。


 全ての業務を終え、先輩社員が用意してくれたお菓子とお茶を味わっていたところにそのような連絡が来たのだ。すぐに飛ぶように会社を後にし、自転車を跨った。


 四ツ目通りを押上方面へ進み、蔵前橋通りを右に曲がってそのまま進む。


 冬の季節の深夜四時の東京は、まだ暗闇にその身を落とし続けている。


 ペダルを漕げば漕ぐほど手袋を通して寒さが体の中へ入り込み、俺の体を冷やしていく。

 それでも俺は先を見続けて前へと進み続けた。


 頭の中でよぎる嫌な予感を――振り払うために。


 されど。俺の願いは叶わなかった。


 飛び込むような勢いで病室に入りこんだ先にあったのは。


「――ぁあ。来たんだね」


 母が涙を流す姿と。ベッドの上で静かに眠る祖母の姿だった。


 その様子を視界に収めるべきではなかったと、俺は後悔した。だがもう全て遅い。


 見たもの。聞いたもの。感じたもの――全てが俺に言う。お前の祖母は死んだと。


「――いつだ。いつ」

「私が来た頃には、もう」


 涙ぐんだ声で、母が現実を唱えた。


 その言葉を聞いた俺はバッグをその場に置き、祖母の下へと歩み寄る。真っ白に染まる祖母の顔。しわだらけになった老婆の、穏やかな眠りの姿。


「ほら、触って。まだ暖かいから」


 ずっと握っていた祖母の手を、母が俺に手渡そうとした。


 涙に濡れ、決して祖母の手を離そうとしない母のその姿は、見るだけで心を痛めてしまう代物だ。


 母にとっては受け入れられない現実だろう。自分の母親が死んだのだから。


 そんな母の思いを感じながら、俺は祖母の手を大事に受け取った。


 すると少し冷たい感触を覚えた。その時、俺は理解してしまった。


 あぁ、これが『死』なのかと。幼少期に感じられた祖母の暖かい手。


 触れる度に心を穏やかにさせてくれたあの手は――もうない。


 俺の中で何かが言った。お前の祖母は死んだ。この世を去ったのだ。――と。


「……なあ嘘だろ、こんなの。だって、だって。俺はまだ、伝えてないことがあったんだぞ」


 死に抱かれた祖母を、俺は拒否しようと試みる。しかし現実は変わらない。


 何度も鳴り続ける器具のアラート音。母の泣く姿。


 ベッドの上で真っ白な顔を浮かべている祖母の顔。


 俺の中にある何かが、もう一度言う。祖母は――死んだぞ。と。


「…………」


 死を見た俺は、祖母の枕元に顔を埋めた。死者のために用意された一室の中で、俺達家族は愛する人の死を悲しんだ。


 そう、これが俺と祖母の――最後の別れだった。




 慶弔休暇。あまり使うことはないだろうと思っていたその休暇を利用した俺が職場復帰を。

 勤務先のタクシー会社に復帰したのは、祖母が他界してから二週間が経過した頃だった。

「うーん、この数字は酷いね」

 復帰したその日の夜。俺は営業所の片隅で宿直を務める社員に小言を漏らされていた。他の乗務員が売上を計算し、日報をまとめている最中。深夜帯の時間をまとめる宿直が言う。

「足切り。今日は超えるのが普通の日なんだけどね」

 俺の日報に記載されている売上額を見て、宿直がため息を漏らした。俺は頭を垂れ。

「申し訳ありません。次からは気を付けます」

 と。謝罪を行った。すると宿直は味を占めたように。

「謝ればいいってもんじゃないよ。今日は金曜日、一番稼げる曜日だよ? どうするんの?」

 さらに責めの一声を。じわりじわりと響く過ちの認知を問いかけてくる。それが精神的にきつくても、俺に反論はできなかった。なぜならタクシーは数字が命だからだ。稼いできた数字が良くなければ給料は低いままなのである。しかも足切りと呼ばれる会社が求める目標ラインを超えるのは、ドライバーとしては当たり前だ。それすら越えられなかった者に人権はない。

「申し訳ありません。次回の乗務で取り返します」

 俺は齢五〇を超える宿直に、深く頭を下げた。こうするしかない、今は耐えるしかない。そう頭の中で何かが叫んでいる。今は耐えろ、余計な波風を立てるな。若手なんだから。

「おいおい、若手をいじめるのも大概にしろっての」

 しかし。そんな俺の下に助け舟が舞い込んできた。

 青いスーツの制服を纏う背丈の高い先輩乗務員が俺と宿直の間に割って入ったのだ。

「家族を亡くしたばっかりなんだぞ黒田さん。大目に見てやれよ」

 背丈の高い乗務員が怒りの形相を浮かべ、宿直を睨んだ。すると宿直は青ざめた顔をし。

「い、いやほら。こういうのはさ、言わなきゃ。社会人なんだから」

「何言ってんだ。社会人にだって調子の悪い時はあるだろ。それにあんたに大宮君を責める権利はない。あんたは事故を起こしてばっかの問題児だっただろうが。それに比べれば大宮君はどうだ? この一年、まったくの無事故無違反。お客様からはお礼の手紙をもらう優等生だぞ。あんたにこの子を責められるってのか? どうなんだ!」

 先輩乗務員がそうまくし立て、そう尋ねた。そこまで言われてしまえば宿直は黙り込んでしまう。その様子を見た俺は先輩乗務員こと、並木さんに目で礼を伝えた。すると並木さんは。

「ほら大宮君。集金と洗車が終わったのなら早く休みな。いっぱい働いたんだ、休まないとな」

 と。白い歯を見せた。俺は並木さんに深く頭を下げるとその場を後にした。

 営業所の中を歩き、向かうのは休憩所だ。畳と古びた壁。使われて長いソファと長テーブルが立ち並ぶ休憩所では、乗務を終えた先輩社員達がくつろいでいる。お菓子を食べたり、眠りについたり。将棋や囲碁に勤しむ人までいる。

 俺はその片隅にあるソファに腰を下ろすと、大きな吐息を漏らした。長い一日が終わったと思い、携帯を見れば時刻は深夜の三時過ぎ。朝七時から深夜二時まで運転して、今に至る。長時間労働には慣れたが、疲れには慣れぬものだ。

「おや? これはこれはベテランの大宮さんじゃありませんか」

 疲労に抱かれていると、俺の肩に手が置かれた。耳元で囁くように聞き慣れた女性の声がした俺は顔を上げ、髪をボブにしている若い女性乗務員を見る。同期の岡山だ。

「おや。これはこれは営業収入が低い岡山さんじゃありませんか」

「人の真似ばっかしてると、個性がなくなるよ」

「そんな的外れなアドバイス、初めて聞いたよ」

 あはは。と岡山が笑みを浮かべた。俺の肩をポンポン叩く新卒の同期がニコニコ顔をしたまま、俺の隣に腰かけた。やや疲れを感じさせる笑みが俺に向けられる。

「元気そうじゃないか。安心したよ。というわけでこれ」

 親しき友人のように接してくる同期が、缶コーヒーを俺に差し出してきた。

 それを受け取った俺は目を細めて。

「いくら請求する気だ、お前」

「そんなことしないよ。君は私をなんだと思ってる」

「俺にちょっかいを出してくる面倒な女」

 入社してから一年。付き合いの長い同期に俺はそう告げた。するとそれを聞いた岡山は。

「まあお元気そうなら、なにより。でも君に聞いてほしい話があるんだよ」

 と言い。携帯を操作。そして携帯の画面に写したものを俺に見せてくる。着物を着た短い女性の写真を撮ったものが、携帯の画面に映し出されていた。今のようなカラーで彩られたものではなく、色が全て灰色であることからかなり前の写真であることが伺える。

「お前の恋愛の対象、女性だったっけ?」

 男性の俺にわざわざ女性の写真を見せてきた。その事実に俺は冷めたで同期を見る。

「違う違う。この写真、最近君のお母さんから頂いたんだけどね」

 何をしてるんだうちの母親は。

「最近、この女性を街で見かけたんだよ。ほら、これが写真」

 岡山はそう言うと携帯を操作。街中で取ったであろう写真を見せてきた。その写真には先ほど写っていた着物姿の女性と瓜二つの人物が写っている。

「ほら。そっくりだろう?」

「確かにそうだけど、偶然じゃねえか?」

「まあ、偶然かもしれないね。でも、君のおばあさんの若いころにそっくりな人がいるかな」

「ちょっと待て。今なんて言った」

 岡山の言葉に、俺は慌てて確認を取った。すると同期は目を丸くして。

「君のお母さんと私が仲良しって話?」

「そうじゃねえよ。この写真が俺のばあちゃんの若い頃だと?」

 声を上ずらせ、俺は確認を取った。すると岡山は頷き。

「そうだよ? あれ、知らなかったの?」

「知らねえよ。ばあちゃんの若い頃なんて初めて知ったよ」

「そっかぁ。でもこうして見るとかなりの美人さんだね。今の時代でも行けるよ」

 携帯の画面をじっと見て、岡山がそう口にした。それを聞きながら俺も思う。先程の写真に写る祖母は凛々しく、力強さに溢れていた。

「ねえ。もしこの人が本当に君のおばあさんだとしたら、面白くない?」

 岡山がニヤケ面を浮かべ、二枚目に見せてきた写真についてそう述べた。

「そんなわけあるかよ。そんなのがあったら、世の中は魔法だらけさ」

 俺はそう鼻で笑い、岡山がくれた缶コーヒーに口を付けた。

 ほろ苦い味が口の中で広がり、その苦さが仕事の終わりを実感させた。

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