おぼめかし
増田朋美
おぼめかし
おぼめかし
この時期らしい、寒い日だった。みんな寒いからと言って、なかなか外へ出ないことが多い。最も、若い人たちは、厚手のコートを着たりして、平気な顔して外へ出ているが、かえってくれば、そとから風邪をもらったりして帰ってくるのである。
その日も、ブッチャーが、寒い寒いと言いながら、居間に入ってくると、姉の有希が鞄をもって、出かける支度をしていたので、思わず驚いてしまった。
「おい、姉ちゃん、こんな寒いときにどこへ行くんだよ。」
思わずそう聞いてみると、姉は、
「聞かなくたっていいでしょう。ちょっと出かけたいだけよ。」
というのだった。
「しかし、何処へ出かけるのかくらいは、教えてくれたっていいじゃないか。俺だって、ちゃんと出かける時には、誰と何処へ何をしにいつ帰るかくらい、言うよ。」
と、ブッチャーが言うと、有希は変な顔をした。
「そうかしらね。みんなそういうことを言わないで、平気で出かけているように見えるけど。」
そう言われてブッチャーは、ちょっと頭にくる。俺は姉ちゃんのことを心配して言ってやっているんだけどなあ、どうして姉ちゃんはそういう風に取るんだろう。
「全くよ、姉ちゃんは、すぐそれだからなあ。そうじゃなくて、心配なだけなんだけどなあ。」
「まあ、心配なんてしなくてもいいわ。どうせ危険なところに行くわけでも無いのに、アンタにいちいち何処へ出かけるとか、そういうことを報告する義務はないわよ。」
ブッチャーは、はあとため息をついて、姉がどんどん出かけてしまうのを、黙って見つめているしかなかった。
あーあ。俺は別に姉ちゃんを咎めているわけではないよ。姉ちゃんが、何か悪い事していないか、危険な組織に入っていないか、心配なだけじゃないか。
まったく、姉ちゃんは、どうしてそういうところを読み取ってくれないのかな。なんで俺が、悪いことを聞いているように、解釈してしまうのだろう。そういうところがやっぱり、精神疾患というモノである。
まあ、そういうことは直ぐに頭を切り替えて、ブッチャーは、「インターネット貧乏呉服屋」の仕事を開始した。ホームページに新しい商品の説明と、値段を掲載していく。いわゆる、リサイクル着物なのだが、売れるものより、着物を手放したいという人のほうが圧倒的に多いのである。ブッチャーの店は、買い取るというより、無料で引き取って安く売るという商売であった。そういう訳で、着物の格も何も気にしないで適宜値段をつけて売っている。時にはとんでもなく安い商品もある。まあ、それで着物を入手するのは邪道であると言われることもあるが、大体の人は気軽に着物を買っていけるのでうれしいと喜んでいる。まあ、指針を変えればどんな道でも善にも悪にもなるという事だ。
そういう訳で、ブッチャーは、その作業をしていたのだが、ふいに自分のスマートフォンが鳴ったことに気が付いて、ハッとする。
「あ、あの、どちら様でしょうか。」
「はい、こちらは、大石寺の南之坊です。」
変なところから電話がかかってきたな、と思って、ブッチャーは、急いで身構える。
「ええ、あの、俺たちになんの用なんでしょうか?勧誘でしたら、関係ないですから。」
「いや、あのね、お姉さんが、ひどくパニックを起こされてましてね。近くの病院に連れていきたいんですけど、お姉さんは、どこに通っていらっしゃるか、おしえてくれないんですよ。財布の中に、精神障碍者手帳がありましたので、多分そういうところに通っていらっしゃると思いますが、どこの病院に連れていけばよろしいのでしょうか。」
電話をかけていたのは、ご住職のようだった。随分落ち着いているのが、ブッチャーには不思議だったが、そういう宗教関係者であれば、落ち着いて行動できるというものなのだろう。
「そ、それで、姉は、今どうしていますか?俺、すぐ迎えに行きますから。」
ブッチャーは、すぐにそういった。
「いいえ、弟さんには会いたくないと言っています。結構ですよ。私が、病院まで連れていきますから、とりあえずかかりつけの病院の名前だけ教えてくれますかね。」
と、電話の奥で落ち着いた声でそう言ってくれるご住職。
「あ、あの、あの鷹岡病院です。すみません。俺もすぐ行きます!」
「いいえ、大丈夫ですよ。弟さんがそうやって手を出せばかえって、お姉さんは悪化する可能性もあります。それでは行けませんから、わたしが連れていきます。何、大丈夫ですよ。こういう方が、寺に見えることはしょっちゅうありますからね。私たちも慣れてしまいました。」
と、ご住職はそう言ってくれた。そういえば、大石寺が、精神障碍者のために施設を作ったという事を、ブッチャーは蘭から聞いたことがある。
そういうところだから、有希のような人にも寛大なのだろう。
しかし、有希がなぜ大石寺という所に行ったのか、は疑問だ。有希は特に宗教に関心があるようには見えなかったし、仏像を持っているという訳でもなかった。其れなのになぜ、大石寺に行ったんだろう。
「俺、本当にいかなくて大丈夫ですか?」
もう一回そう聞くと、ご住職は、
「大丈夫です。鷹岡病院なら、すぐに行けます。」
と言って、もうそれ以上言わないでというような雰囲気で、電話をきった。ブッチャーは、心配で仕方ないという顔をする。
とりあえず、着物の説明をホームページに書き込む作業を続けて時間をつぶしていたが、それだけではつぶしきれない酷い長い時間のような気がした。
と、ふいに、玄関の戸ががちゃんとなる音がする。ブッチャーはすぐに玄関へ向かった。
「あの、姉ちゃん!」
と、ブッチャーが急いでドアを開けると、大きな坊主頭が見えた。その隣に、小さくなって有希が立っていた。
「はい、御宅へ着きましたよ。幸い、彼女が持っていた手帳に住所が書いてあったので、カーナビで割り出すことができました。もし、それがなかったら、弟さんにまた電話したかもしれない。まあ、それよりも、何はともあれ、良かったです。」
ブッチャーは大きなため息をついた。
「姉ちゃん、ご住職に送ってもらったのか。」
「ええ。でも、有希さんは熱心な受講生で、わたしの話をよく聞いてくれますので、こちらとしても教えがいがあるというものです。今回は、もうちょっと教え方を工夫すべきでしたな。これからはもっとゆっくり教えていくようにしますから。次回も又来てくださいね。」
と、ご住職は、にこやかに笑って、有希に、もう大丈夫だよと言って、その肩をそっとたたき、じゃあ、これで帰りますね、と言って、再び帰っていくのだった。こういう時は、有希に何処へ行ったのか詰問してはいけないのはブッチャーも知っている。だから、そういう時は、有希をそっとしておく必要があった。とりあえず、お茶でも飲んでゆっくり休みな、とだけ言っておいて、そのあとの事情は聞かないで、ブッチャーは、部屋に戻った。
「あーあ、俺の姉ちゃん、大石寺なんかいって、何をしてきたつもりだったのかな。なんだか、悪い宗教的な講座でも受けに行ったかなあ。」
日本人は、宗教というと、なじみがなく、悪いものと解してしまうものが非常に多い。かつて、新宗教の教団が、大規模なテロを起こしたことも、その理由の一つだろう。ブッチャーも、実はそういうことを考えていて、姉が、危険なテロ組織に足を踏み入れてしまったのではないかと、不安になってしまうのだった。
「俺は、姉ちゃんの大事なところを見落としていたかなあ。俺では、姉ちゃんの事、ちゃんと考えていなかったんだろうか。」
しまいにはそう思ってしまって、自分をせめてしまう家族もいる。
次の日は、よく晴れて、暖かい日だった。多分、姉ちゃんは部屋に閉じこもったままだろうな、とブッチャーは予想していたが、なぜか有希は朝早くおきて、どんどん身支度を始めたので、たいへんに驚いてしまう。
「おい、姉ちゃん、どうしたんだよ。昨日パニックをしたんだったら、休んでいた方がいいのではないの?」
と、ブッチャーは、有希に言うが、有希は、平然とした顔をしているのである。態度も昨日と変わらない、穏やかな顔をしていた。
「姉ちゃん、無理して仕事しなくてもいいよ。俺がやるから。」
と、ブッチャーは、言ったが、
「仕事はしなきゃいけないわよ。今日は、製鉄所で水穂さんの世話に行くのよ。直ぐに出かけるわ。」
有希はさらりと答えた。
「水穂さんの世話に行く?」
「そうよ。素雄さん達がお手伝いに来られないときは、私がするのが当たり前でしょ。それくらいしないでどうするの。」
「姉ちゃん、そんなに張り切らなくてもいいよ。そうやって張り切るから、後で具合が悪くなるんじゃないのかい。そんなことしないでいいから、今日一日休んでいたほうが。」
ブッチャーはそう言ったが、
「そんなこと言わないで!じゃあ、出かけてくるから、帰りは遅く成ると思う。それでは、行ってきます!」
と、有希はどんどん荷物をまとめて出て行ってしまった。そういう疲れたとか、一寸休もうとかいう事を、もうちょっと有希が学習してくれれば、うちのトラブルももうちょっと減るんだけどなあ、とブッチャーは思いながら彼女を見送った。
有希は、障害者用のタクシーに乗って、製鉄所に到着した。有希より先に、水穂さんの事が心配で、製鉄所にやってきていた由紀子は、彼女が大量に何か持っているのを見て、不安になる。
「あら、由紀子さん。」
有希は、ちょっと由紀子を見た。
「こんにちは。」
由紀子も有希に挨拶する。
「一体どうしたの、その大量の袋。」
由紀子は、有希にそう聞いてみる。それを見て、有希はちょっと不安になった。
「ええ、これで料理するのよ。水穂さんに食べさせるの。」
そう当然のように言って、どんどん台所に行ってしまう有希に、由紀子は不安になってしまう。
「料理するって何を?」
「由紀子さんには関係ないでしょう?もう肉魚一切使わないって、ちゃんと知っているし、肉魚を一切使わない料理の仕方を、習ってきたわ。」
そう自信満々に言う有希に、由紀子はさらに不安になった。有希さんは何を作るつもりなんだろうか。
「有希さんが何をするのか心配だから、私も一緒に行くわ。」
と、由紀子は、有希についていきたいと思ったが、
「其れはしなくていいわ。あたしが一人で作るから。」
と、有希は、さらりと言った。
「有希さん、いったい何を作るつもりなんでしょう。」
由紀子は、もしかしてすごいものを作ってしまわないか、不安で仕方なかった。せめて、自分が、そういうのを監督しようと思ったのであるが、有希はどんどんそれを無視して台所に行ってしまう。そして、まな板を出して、ゴボウやニンジンなどの野菜を次々に切り始めた。
由紀子は、有希が持ってきた紙袋の中身を見た。豆腐やひじき、シイタケなどが大量に入っている。肉や魚は確かに何も入っていない。そのほかカボチャなどの大型の野菜もある。それでは、心配ないと思われるが、由紀子はそれでも心配だったのである。
有希は素晴らしい手つきで、ごまをすりつぶし、鍋に入れて、泡立て器でよくかき混ぜる。弱火にかけて、ひたすらぐるぐるとかき回して、固まるまでやり続ける。其れは、気の遠くなるような時間がかかるが、有希はそれを何も苦も無くこなしてしまった。そして、その塊を、別容器に入れて、冷蔵庫で冷やす。ごま豆腐の完成だ。
その次は、ひじきとシイタケの煮物。シイタケを細かく刻み、ひじきと合わせて、刻みニンジンと合わせ、砂糖を入れてあえる。これを汁けがなくなるまで煮るのである。こんな手間のかかる料理、誰だってやりたくないだろう。隣にいた由紀子は、待っているだけで思わず苦痛になってしまうくらいだった。
そしてお次は、コンニャクの善光寺焼と言われる焼き物。コンニャクを四センチ角に切り、賽の目上に切り込みを入れて、フライパンで焼いたものである。
最後に主食である、白がゆを作って、料理作りは終わった。こんなに作ってくれるのはいいのだが、果たして水穂さんは食べるだろうか、由紀子は心配だった。
「ごま豆腐と、ひじきとシイタケの煮物、コンニャクの善光寺焼か。そんなすごいものをよく作れちゃうわね。有希さんは。」
由紀子が思わずそういうが、有希は得意絶頂という感じはしなかった。そういう事で当たり前だというか、そんな顔をしている。由紀子はその態度がかえって頭に来るのだった。かえって、得意気でいてくれた方が、こっちは降参の意を示せるというものだ。
「一体どこで習ったの?」
「お寺で習ったの。お寺のご住職さんが教えてくれたのよ。」
由紀子が聞くと、有希は即答した。しかし、こんなにもまあ手間のかかる料理を平気で作ってしまうなんて、やっぱりそれは、ある思いがあるのではないか、と、由紀子はそれを考えるとぞっとする。
「有希さんはどうしてまたこういう料理を習おうと思ったのよ?」
「当たり前でしょ。水穂さんに安全に食べてもらいたいからに決まってるじゃないの。」
そういう有希に、由紀子はああやっぱりな、と思った。由紀子は若しかしたら、それは水穂さんに近づくための武器なのではないか、と思ってしまったのである。そしてもし、これを食べたら、水穂さんもより有希さんに感謝するだろう。それをしてしまったら、水穂さんは、有希さんにより近づいていく。そして、あたしから離れていってしまう。ああ、そうなったらどうしよう、、、。
悔しいというより、有希が憎いと思った。
嫉妬であった。
「さあ、これをもって水穂さんに食べさせに行くわ。ちょっと遅いご飯になってしまったけど、動物性の食品は一切入れてないし、きっと喜ぶわ。」
有希は、手早く料理を器に盛り付けて、それをお盆に乗せた。本当は、この料理に、唐辛子でも入れて、いたずらをしてやりたい気分だった由紀子であったが、そういうことはできなかった。だってこれを食べるのは、水穂さんであり、自分ではないから。そしてその人は、心から愛している人だから。
有希は、小さくなっている由紀子をよそに、お盆をもって堂々と行ってしまった。由紀子も、心配なので、後を追いかける。
「水穂さんちょっと遅いお昼になってしまったけど、頑張って食べましょ。ほら、肉魚一切使ってなくて、おいしいわよ。頑張って食べてみましょう。」
有希は、そういって、お盆をふすまの前に置き、ふすまを開けた。
「水穂さん。」
ふすまを開けると、水穂さんは、しずかに眠っていた。確か、利用者の話では、数時間前に薬を飲んだという。そのせいで静かに眠っているのだろう。という事は、その前に発作を起こしたという事になる。
「水穂さん、ご飯にしましょう。今日は、肉魚は一切使わなかったから、安全よ。」
有希は、水穂さんの体をゆすって、揺さぶり起こした。
「ほら、食べて。たまにはおかゆだけではなく、おかずも食べてよ。」
そう言って、有希は、水穂さんの口元へごま豆腐を持って行った。水穂さんは静かにごま豆腐を口にすると、それを飲み込んだ。その次に、有希はひじきをもっていく。これも、水穂さんは口にした。
その次に、有希は、コンニャクをもっていく。しかし、コンニャクは口に入れたものの、咳き込んで吐きだしてしまうのだった。
「水穂さん!」
由紀子は急いで、水穂さんの下に駆け寄った。急いで水穂さんの体を横にして、すぐに、背中をたたいて喀出を促してやる。御蔭で血液と一緒にコンニャクは出てきたが、危機一髪、もしかしたら、コンニャクが詰まるかも知れないという状況であった。でも、由紀子は、有希さんを責める気にはなれなかった。だって、こういう事は、有希さんにしかできないという事を、由紀子はよく知っていた。どうしても、普通に生きていると、完全な善にも悪にもなれないのだった。
「おい、姉ちゃん。もう帰る時間はとっくに過ぎてるよ。水穂さんに迷惑が掛からないように、家に帰らないと。」
不意に、ブッチャーが四畳半にやってくる。そうか、有希の製鉄所利用時間は、午前中か午後のみになっていた。それを超えてしまうと、疲労がたまって、またパニックを起こす可能性もある。
「姉ちゃん、帰ろうぜ。」
ブッチャーは、そういうが、由紀子さんが、水穂さんの口元を拭いているのをみて、何がおこったか、知ることになった。
「姉ちゃん、また余計なことしたのか?」
ブッチャーは言ったが、
「有希さんが、水穂さんにご飯をしてくれたの。でも、水穂さん、コンニャクが食べきれなくて、吐き出してしまったみたいで。」
と、由紀子が説明した。ブッチャーは、近くに置いてあった、お盆を見て、その中身を確認し、なるほどなと思う。
「こ、これ全部、姉ちゃんが作ったのか?」
有希は、申し訳なさそうに頷いた。
「でも姉ちゃんが、こんなプロ並みに料理ができるような事は、なかったはずだけど?」
「ごめんなさい、あたしが習ってきたのよ。」
ブッチャーがそういうと、有希は、そういった。
「習ってきたって、姉ちゃん、どこでだよ。」
ブッチャーは、もう一回そういうと、
「大石寺で習ってきたのよ。大石寺の、南之坊でね、そこで、精進料理教室をやっているんです。講師は、そこのご住職で。」
と、有希は正直に言った。ちゃんと、有希は、目的があって、そういう所に、通っていたのだ。悪い組織とかそういう所じゃなくて、良かったなあと、ブッチャーは思った。
「姉ちゃん。そういう事なら、早く教えてくれればよかったのに。」
と、大きなため息をつくブッチャーである。
「あたしには、とてもできないわね。」
由紀子もそういうことを言った。自分は、水穂さんのために何か出来る事を探していたけれど、有希さんは、もう答えをすぐに見つけてしまっている気がする。自分は、まず初めに駅員という仕事をこなす必要がある。でも、有希さんは、それがないから、水穂さんのために、本気で何かをすれば、こうして、すぐ形になれる。そういうことができるのは、有希のような人でないと、出来ないのだった。
「そうよね。有希さんは、そういう事ができるのよね。あたしは、いくらやっても、そういうことは、出来はしないから。」
そう言われて、有希は、そんなことないわ、という顔をしていた。
由紀子は、水穂さんの口元をふき取って、
「じゃあ、もう一回食べましょう。」
と、白がゆを、しずかにもっていった。
おぼめかし 増田朋美 @masubuchi4996
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