あなたのなかの忘れた海
黒塚多聞
あなたのなかの忘れた海
朝、目が覚める。今日は何故だかわからないけれど、すごく調子がいい。朝食を食べ、支度をしてアパートを出た。
大学までの道を歩く。外はすっかり冬そのものとなり、風が冷たい。私の前方をランドセルを背負った少年が歩いている。空を見上げると、名前の知らない青い鳥が飛んでいた。すると、青い羽が少年の手元に落ちた。少年は手元の羽をじっと見つめていた。これが世界なのだろうか、と何となく思うのだった。
大学に到着し、講義を受けて学生食堂で昼食を食べ、帰宅しようとした。
花を買いたいと何の脈略もなくそう思った。種類は何でもいい。とにかく買わなくちゃ。
駅前の花屋で花束を買った。花の名前はわからない。 花を買おうと思った理由は、自分のためでもなく、誰かのためでも、ましてや神仏や世界のためでもない。ただ花を買わなければならないという使命感に駆られて花を買った。
さて、これからどうしようか。イヤホンからバンドの男性ボーカルの声が響く。そうだ、この季節だと少し寒いけど海に行ってみようかな。
昨日までは希死念慮が頭の中を駆け巡り、身体も動かすことができずにずっと横になっていたというのに、今日の行動力ははっきり言って度を越えている。もしかして躁状態なのかな。
バス停に向かいスマートフォンでゲームアプリを遊びながら三十分時間を潰し、海岸前を通過するバスに乗った。一番前の席に座り、バッグから詩集を取り出し、丹念に読みながらページをめくった。
「花であることしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は的確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ」
私の好きな詩人の詩だ。この詩を読むといつも自分の在り方を正しくせねばという思いに駆られる。
外を見る。海が広がっている。
海岸前のバス停が見えたのでブザーを押し、運賃を払ってバスを降りた。
海岸に着いた。波は太陽の光によって反射して輝きながら静かに流れている。空を見上げるとカモメが空を舞っていた。海岸には誰もおらず、私一人だ。
私は海に花束を浮かべ、彼方へ流されてゆくのを眺めた。私は泣いていた。
そうか、これが生きることなのかな。
※作中の詩は『石原吉郎詩集』(思潮社)所収「花であること」を全文引用しました。
あなたのなかの忘れた海 黒塚多聞 @tamonnkuro
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