月は空の向こう Ⅲ

 アラスカを蹂躙する氷の翼が、無数に――そして、唐突に。

 蒼鉛色の空にはためいていた。


 穹撃型ストライカという。

 氷惨分類の基礎となる六つの種、氷惨基構分化アイスバーグ・オペランドの一つである――凧や翼竜のような体躯はちいさく、氷の甲殻である霜甲スノーヴァンは脆い。

 アラスカ警備兵にとっては、一体や二体程度ならば、それほど脅威にはならない個体だと言える――しかし、何の備えもない市民にとっては。


 穹撃型が氷柱を射出する。

 体内で加工した金属氷を、氷爆ガス圧によって打ち出しているのだ。

 弾丸代わりの氷柱は柔らかい氷の中に硬質な重金属氷を矢のように仕組むという造りになっており、それは恐るべき正確性と速度で、逃げ惑う人々に飛来する。

 掠ったところから肉が千切れ飛んで行った。

 氷海軍の制式凍弩は穹撃型の射出機構をもとに開発された――よって、当然のごとく同程度の威力が穹撃型の撃ち出す氷柱にも存在する。


 老婆が、氷柱に磔にされて死んでいた。

 エカチェリーナの馴染みの古本屋の店主だった。

 死相は穏やかで、怯えの色を映していない。死を認識することをやめて、白痴のようになったのかもしれない。脚は痩せて、出汁をとったあとのブーケガルニのようにくしゃくしゃだった。飛び出た骨が、彩度のわるいぶよぶよした皮膚を食い破って突き出ている。

 雪牙病の骨粗鬆症だろう。

 最初の砲撃音を聞いて、逃げようとしたのか、店を守ろうとしたのか――ともかく動こうとした瞬間に、骨そのものがひしゃげたのだ。そこを氷惨に襲われた。


 雷帝エカチェリーナは、地獄を歩む。

 彼女が最後に辿るのは、いつも同じ景色だ。

 そして、一番の地獄を抱えるのはエカチェリーナ自身である。


 顔の左側が、醜く焼け焦げていた。顔の骨格は爆轟で叩かれ、二度と戻らない歪みを移す。青い瞳は腐った魚卵で、だらりと濁った水晶体が溶け落ちる。頭皮はそのまるごとが頭蓋骨を薄くべろりとはだけて、豪奢な金髪は見る影もない。金貨を溶かしこんだような、そのいくらかを瓦礫の下に置いていく羽目になった。

とどめのように脇腹には深く石片と鉄骨が突き刺さっている。

 砲撃が来ると察知したと同時に、残しておいたを使って離脱した――それでも、飛来した瓦礫を全て避けきることは不可能だ。

 爆風による熱された空気もいくらかは吸っただろう。

 もう掠れた声しか、出すことが出来ない。左側の視界は完全に消失しているし、耳もぐわんぐわん鳴る。そしてそれら全てが啜り泣いて伝える、もはや感じることすらやめたいと思うほどの激痛。

 己の命の残り時間も定かではない。

 破傷風の激痛は一片の変りもなくエカチェリーナの身体を苛み続ける。

 体の内も外も、無数のつめたい針に覆われているような感じだった。


(歩け)

 

 雷帝エカチェリーナは地獄を歩む。

 あの日――ヴェネツイアで単身うたいのダンテを打倒した、煉獄行プルガトリマーチのように。

(英雄としての責務を果たせ)


 痛みに、びりびりとした幻聴を繰り返しながら、考える。

 痛み。違う。歩かなければならない。警備兵は来ていない。痛み。アラスカの壁は滅多なことでは突破されない。栄光個体ではなく、単純な基構分化の侵入を許したとしたなら――先の砲撃によって、一時的に指揮系統が麻痺しているということだ。つまり援軍は来ない。痛み。この場に立つのは、エカチェリーナただ一人。

 散華のガリアと交戦した時と、全く同一の状況だ。

 耐えきれない痛み。食いしばった奥歯が砕け、血が唇の端から噴き出た。

 皮膚に張り付いて凍り、死化粧じみてエカチェリーナの爛れた顔を覆う。

 しかし、氷柱の雨は無慈悲に降り注ぐ。

 エカチェリーナは起電した。

 雷帝の瞳が青く瞬き、金属氷に制動がかかる。

 平生の彼女であれば、そこで躊躇わず氷惨の群れに追撃を叩き込んでいただろう。しかし、それは叶わない。

 今の彼女に、常のような膂力や敏捷性はない。

 破傷風の筋拘縮を、無理やり神経電流によるシナプス操作で打ち消しているからだ――無論、長く続くような対策ではない。

 破傷風の作用機序は複雑かつ致命的だ。エカチェリーナの神経電流操作は「興奮」と「抑制」の二つの電流を増強することで成立しているが、破傷風のテタノス毒はこれら両方のシナプスを遮断する。

 よって、痙性麻痺と筋拘縮が起こるために、ガリアとの戦いで陥ったようなバビンスキー反射が発生する。元々、神経電流への上書きには多大な負荷がかかった――シナプスの許容帯電量を物理的に越えることになるからだ。故に、通常の戦闘では「増強」のみに留めていたし、神経に継続的かつ多大な負荷をもたらす「操作」は最後の手段だった。

 だが、「操作」と「増強」を同時に行うことは出来ない。思考の負荷が莫大な量にのぼることもある――現にガリアとの戦いでは、想像を絶する激痛によって、この「操作」を最後まで行うことはできなかった。

 そしてそれ以上に、現在のエカチェリーナの身体が極度に衰弱している以上。

 戦闘の機動に耐えることは出来ない。


(死ぬなら、一秒でも多く戦ってから死ななければならない。命の使い方を履き違えるな――私に託して逝ったものたちのために)


 穹撃型がエカチェリーナのもとに引き寄せられ、集まってくる――氷惨は孤立している者を狙うという。傷つき今にも倒れ伏しそうな彼女は、まさに絶好の獲物なのかもしれない。

 あるいは、最初からエカチェリーナのみを狙っていたのか。

 考えても、仕方のない話だ。

 どちらでもやることは同じだった。彼女は英雄なのだから。

 けれど。

 ほんの少しだけ、考えてしまう。

 いつから私は英雄だったのだろうと、爛れた視界を俯瞰しながら追想する。

 私をはっきり英雄と認めてくれたのは、ヴェルヌだけではなかっただろうか。

 

 一つ、はっきりしている事実がある。

 エカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤには、連続性がない。

 彼女がどこから来たのかを、この世界の誰も。彼女自身さえ、覚えていない。

 

 ならばそれは、誰の物語なのだろう?


                  +


 一八七六年、四月アプリオル十三日。

 ヨエンスー工廠製護衛砕氷艦『帰鳥リントゥーコト』、バルト海ハオーランドヲ〇五三四ニ巡航セリ。目標栄光個体カンパネルラヘト針路取航シ快速ニテ西進中。



 ヴェルヌは鴉色の隊装に袖を通し、手首の圧力弁を捻って保温層の気密を施錠した。稜線上や風雪下での作戦行動が主である氷海軍アトランタアーミーの装備は、行動性と生存性の確保のため、主に三つの被服層に分類されている。毛皮を打った立体被帽フードシェル及び眼球粘膜を保護するための風防眼鏡ゴーグルは前提として、海豹と氷惨の皮革を要所に装甲ポイントした外套層アウタレイヤ・蒸れを防ぐための速乾繊維が織り込まれた乾布層ミドルレイヤ・最新のセルロース絹布及びアフリカ黒色公社の綿を用いた合成黒色繊維の保温層ベースレイヤの保温層の空気を抜いたまま気密を施錠することによって、冷気の伝導を最小限に保ったままの活動を可能にするというのが氷海軍の宣伝文句だった――実際、コルト・インダストリをはじめとしたアラスカの軍需企業は概ねよくやっているというのが『鸚鵡貝ノーチラス』の総意だった。唯一彼らに対して文句があるとすれば、それは香草と岩塩で調味した馬鈴薯ジャガイモ養殖蟋蟀コオロギを練り込んだ行動食の味だけだろうか。名を『シぺ・トテック四号』と言ったが、あのエカチェリーナでさえも望んで手を出そうとしなかったことで一気に悪名が轟いた――もちろんヴェルヌも一度試供品を食べたが、粉末処理が甘く、レーションブロックの至る所に虫の頭がそのまま埋まっており大層辟易させられたものだった。特に舌が肥えているマゼンテあたりの小言は、それこそヘリスヘイジのフラッシュ・スチームのごとく止まなかった。

 ともあれ、今ヴェルヌが揺られているバルト海戦線保有のフリゲート艦『帰鳥リントゥーコト』もそうした軍需企業の努力の産物である。


 かつて、基局砕氷船≪天蓋アトラス≫という探査船が存在した。よって、バルト海船団の主要艦である『帰鳥』は傑作艦『天蓋』を設計ベースとしている。むろん主要設計部をフリゲート基準に改組したうえで、圧延霜甲板のマウントを施すなどの細かな差異は存在するが、こうした柔軟な設計流用はやはり工廠に技術を貸与している民間企業の恩恵に依るところが大きい。そういえば、コルト=オークレイの苗字はそれこそ軍需大企業であるコルト=インダストリアルの『コルト』だっただろうか。益体も無いことを考えながら、ヴェルヌは装備の点検を終える。


 オーランドの海は赤く凪いでいた。

「や。仲間が恋しいかい? ヴェルヌ君」

 赤い洋上――連なる諸島を眺めていたヴェルヌに、涼しい声がかかる。

「オーメスさん」

 甲板に、オーメス=リーデンブロックが歩み寄ってくる。

 バルト海戦線の隊装を纏う彼女は黒かった。

 しとりと濡れた黒を総身に纏う、気ままで優美な鴉のようだった。

 くじらの骨のヘリックス・ピアスは変わらずぬるい白に輝いている。

「一緒にアラスカに帰ってもよかったのに――なんて言わないよ。ヴェルヌ君は私のことが大好きだもんねえ……ふふ」

「いや、そういうのじゃなくて、コンセイユさんを連れて行く以上普通に『ノーチラス』の戦力貸与をリターンしなきゃいけないからですよ」

「つれないなあ」

「作戦行動中に方がおかしいですよ。ほんとに軍人ですか?」

「ふふ。だって私、民間出身だもん……フリーランスの活動写真家みたいなことやってたんだ。そう驚くことじゃない――オリバー・クロムウェルだって、革命前は市井の弁護士だっただろう?」

 そう言ってまた一本、彼女は薄荷の細煙草を口切る。

 見えない導管に導かれるかのように、その所作は滑らかだ。

「……結局、こっちに残ったのはきみとムラマサ氷佐とスナイデル氷尉だけだね」

 ヴェルヌは頷いた。

「『宙駆けタラリア』はマゼンテしか整備できないし、操舵手には船乗りをしてたネモさんが必要だ。コンセイユさんはもちろん乗せることになるから、これでぎりぎりです」

「世界政府は信用できない――つまり『ノーチラス』以外から人員を出すのは非常にまずいからねえ。よくよく妥当だよ」

 そう言いつつも、オーメスの表情は曇っていた。当然だ――栄光個体を相手に、防御の要であるネモと有能な技術者であるマゼンテを欠くことはかなりの痛手となる。それでも、エカチェリーナをいま失う損失の方が今は大きいと判断したのだろう。

「……カンパネルラは、何でアラスカを狙ったんだろうね」

 オーメスはぼそりと呟く。

「地政学的に重要な土地は、それこそ世界政府本部のニューヨークとか、生産プラントと黒色機械があるアフリカ大陸とか他にも色々あるわけだし……彼らの目標を定める上でのファクターとは何なんだろう? 私はそこに、今回の侵攻の答えの一部が隠されているようにも感じているんだ」

 ヴェルヌは視線を落とした。実際、栄光個体に関しては――彼らのベースとなった人格がどれほど残っているかは不明だが――どう考えても、人間と遜色ない知能を有しているように思える。

「これは、ガリアのアラスカ侵攻の際の話なんですが」

「ふむ」

「おれの所見だと、彼らは……なんというか、エカチェリーナさんに執着しているように思えます。散華のガリアは、隊長の電撃を無効化するための絶縁体を形成していました」

「成程ね。まあ、ヴェルヌ君の言う通り、強い個体を徹底的に弱らせて叩く戦術は氷惨どものやりそうなことだ。私も幼い頃よく元気のいいアリから水攻めにして凍死させたし」

 けれど、だとしても――とオーメスはヘリックス・ピアスを弄る。

 海豹の毛皮のフードを越えて覗く横顔は、いつもより端正に見えた。

「度が過ぎてると思わないかい? 正直、エカチェリーナ氷佐ほど壊滅的な力を有する凍霊は――まあ、大勢いる――とまではいかないけれど、歴史上何人かは存在したはずだ」

「それこそ、『冬の騎士アークナイツ』とか?」

「うん。アクセル叔父の“分霊”の異能や、ハンスと呼ばれた凍霊の“撃滅”の異能――ほかにも、私たちの想像の範疇を越えるような凄まじい能力を持つ英雄たちは、確かにいたんだ。おとぎ話なんかじゃない」

 ヴェルヌはオーメスをみた。

 性別に対して平衡で、血のめぐりの悪そうな白皙の肌をじっとみた。

「……オーメスさんは、それが許せないんですね。彼らのことを忘れている人々を、憎んでいますか」

「ふふ。そりゃもちろん」

 紫煙が再び空に躍る。

「大嫌いさ。全部、めちゃくちゃにしたくなってしまう。彼らの物語をなかったことにしている全てを、焼き尽くしたくなる」

「――貴女は」

「ヴェルヌ君。私はね、無駄なく整備された物語を糞だと思うんだ。よって、エカチェリーナ氷佐のことも死ぬほど憎らしく思う。世界政府がつくりだした彼女の物語には余白エレガンスなんてものはないからね。何なら私は、氷佐のしゃれこうべでワインを飲んでも良いとさえ考えているんだ。よければきみも一杯やるかい?」

映画卿ロードムービー”は昏く笑って、絶句するヴェルヌの襟元をひっ掴んだ。ヴェルヌははっとしてその手をとるが、強固な力で離れることはない。幽霊のような手はつめたかった。それは誰とも共有されることのない、内に秘められた煙のようなつめたさだ。

 彼女は煙の氷を持ってるんだ。

 手に力を入れたまま、彼女のつめたさを探ることをやめる。掴んだと思ったら離れて、やがて眼の前から消えてしまうような、氷菓子や煙草にも似たつめたさ。それを感じ取れないのを、ヴェルヌは寂しいと思わなかった。

 ただ、おかしかった。

「貴女は本当に、非道い人なんですね」

「ふふ。この際だから言っておくけど、私はきみの仲間になんてなれないよ。きみの目が覚めるような挺身も覚悟も、私にとっては等しくごみだ」

「そう言ったらおれが怯むと?」

「そんなことは信じてないさ。けれど、忠告だ。こんな女を懐柔しようなんて愚かな考えは一刻も早く捨てることだね」

 きみは他のやつらと違うから、と彼女は呪詛のように囁く。

「……だから、勝手に仲間面するのはやめなよ」

 オーメスを包む要素はすべて、矛盾なくソリッドだ。

 余白エレガンスを好む気性すら、彼女は律義に守っている。

 だからこそ、

「臆病者」

 ヴェルヌの脳裏に、エカチェリーナに祈る人々の顔が鮮明に映し出される。

 彼女が護った街並みもまた。

 ヴェルヌのことを言われるのは、どうでもよかった――けれど、彼の英雄を貶れることだけは、やはり我慢がならない。

「なんだって?」

「貴女だって、『物語を憎む』だなんて物語にはまってるだろ。ふざけるな」

 ヴェルヌは左手のガリアの長手套で、オーメスの手を外す。

「結局オーメスさんは、映画の配役みたいに、人をぼんやりとしか見てないんだ。人生を見るのがそんなに怖いんなら、映画監督なんてやめてしまえ」

 その言葉を受けて、しばらくの間が経った。

 風は寂しかった。

 彼女はただ薄く笑った。

 そして、海辺の鴉が餌を啄むように、ヴェルヌの耳元についと顔を伸ばし、

「糞餓鬼」

 ごりっ。

 ヴェルヌは一瞬、自分の右耳がなくなったような錯覚にとらわれた。

 風穴じみた、何かを喪った痛みが。

「これは」

 オーメスは唇から流れる血をぺろりと拭い、長いべろを出した。

 薄赤と血の紅が混じる長い舌の上には、コルトがくれたピアスがぬらりと輝いている。それが喉の底に消えた。くいと細やかに動くおとがいが見える。

「――没収だよ。私が死んだら、返してあげる」

 ヴェルヌは耳元を抑えながら、甲板の欄干に凭れかかる。

 一本喫っただけの煙草がとても恋しかった。煙を掌に抱き締めたかった。

 潮風にけぶるオーメスは、煙を纏う幽霊のようだ。


「これは、誰の罰ですか」


「ンフフ。君は欲張りだなあ……何の、じゃなくて、誰の、だなんて」

 いいよ。教えてあげると、彼女はそう呟いて、煙草の吸殻を風に渡した。

「それは、私を物語にしようとした罰さ。君は非道いやつだ」


 赤い吹雪が、彼女を隠している。

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