月は空の向こう Ⅱ

 空の向こうの月には、ずっと届かないと思っていた。

 ずっと思っていた。

 光線反応を防ぐために急遽病室に改装された地下牢からは、月の光さえも見えない。ほんのわずかでも、閾値を超えた音や光が感覚器に投射された瞬間に、エカチェリーナは破傷風の全身痙攣によって血を吐いてのたうち回ることになるからだ。


 暗闇。


 彼女の眼窩には全て地下礼拝堂じみた黴臭く放埓な暗闇が詰まっていた。

 エカチェリーナは、破傷風の病状によって硬くこじれた首もとの筋肉をほどく。筋弛緩剤と鎮痛剤によって朦朧とした意識で、辛うじてそれが出来た。

 彼女を“雷帝”たらしめる電磁の力など使うべくもない。

 起電の燃料となる脂肪は、いまその殆どが彼女の生存のために費やされている。医者からもきつく能力の行使を止められていた。

 やつれ、なおも衰えない冷厳の美貌は、闇を睨む。

 医者との主な意思疎通は筆談――しかも一方的なものに依ったため、エカチェリーナにもたらされる地上の情報は極めて少なかった。

 何者かが意図的に情報を制限しているのか、それともエカチェリーナの心調を慮ってのことなのか――エカチェリーナは前者だと判断する。

『ノーチラス』の情報が驚くほどに報されないからだ。

 ジュール=ヴェルヌがガリアを打倒したということの他は、何も。

 

 (箝口令が敷かれている。狙いはなんだ――考えられるのは、私を傀儡とすること。精神を摩耗させ、情報を遮断することで、私が快復した後に私が思い通りになる状況を作り出そうとしているのか)


 ここまでを一息で考えて、彼女はゆっくりと息を吐いた。

 杞憂だろうか? そうではない。

 エカチェリーナは、もはや彼女自体が一つの戦略的な兵器だ。エカチェリーナを恣意的に駒として動かそうとする働きかけは、やはりこれまでにも存在した。多大な金銭や、約束された地位。もしくは名誉や土地。果ては世界各地の嗜好品まで――東方の三賢者がもたらした香油と金貨のように、さまざまな、そしてまったく無価値の贈答がエカチェリーナに対して行われた。


 (くだらないと、吐き捨てたくはないな)


 暗い地下の放埓な闇で。

 英雄の価値を、エカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤは思う。

 エカチェリーナを陥れようとする彼らもまた、闇の中にいるのだ。

 氷惨の恐怖は、世界を覆う闇だ。

 そして闇から生まれたものでない限り、光を持たずに闇に抗うことはできない。だからこそ人は何かにエンドスケールの神を見出す時が来る。

 エカチェリーナは自分が神様になっても構わないと考えていた。

 それが英雄の価値だからだ。かたちだからだ。

 英雄になるということは、誰かの信仰を背負うということでもある。

 なぜだろう。生まれた時から、ずっと英雄になると決めていた気がする。

 人の祈る姿を美しいと思う。守りたいと思う。

 たったそれだけの理由で、エカチェリーナはそうあることが出来た。

 全てを守る。何も取りこぼしはしない。

 そんな、誰かが夢見た英雄のように。


 (あるいは、私にとっての英雄は)

 

 ――こんな悪夢は、おれが書き換えるから。

 散華のガリアを背にして、そう笑った人懐こい貌を覚えている。

 吹雪に揺れる、粗く削った月のような金の髪を覚えている。

 空の向こうの月には、ずっと手が届かないと思っていたのに。

 ヴェルヌの書いた小説にも、そのような内容のものがあっただろうか。月世界を大砲で旅した科学者たちの話だ――そうだ、『月世界旅行』だ。

 死の淵の暗闇の中で、それでも彼らのように懐かしい月の光を見ている。

 ぼうと手を伸ばしかけたところで、


 ずずん、と。


 砲撃のような――破滅的な轟音が。

 治療室を大きく揺らした。


                   +


 ヴェルヌは凍弩に鋭利弩弾頭≪鋼妖精≫ニュムペーを装填し、砲壁上より射撃する。

 鋼の矢弾は氷気に絞られて飛び、回避行動をとった一体の穹撃型ストライカの滑空路を遮るように射貫いた。

 凧と始祖鳥の合いの子のような扁平な影が墜ちる。

「上手いじゃねェか。“予観“ってのはやっぱり獲物を撃つ時も便利なのか」

「いや、そうでもないですよ。先の動きがわかっても、結局ネッドさんみたいに当てる腕がないと意味がありませんし」

 そう言いながら、ヴェルヌは隣で一射ごとに三、四体の穹撃型を纏めて串刺しに貫くネッドを見る。

 本人曰く『氷惨の霜甲の脆い部分と気流の関係を見極めればそれほど難しい技術ではない』ということだったが、ヴェルヌは射撃に関してことネッドの『難しくない』という言は聞き流すことにしていた。

 むろん、ヴェルヌたちが栄光個体を差し置いてこうして集まってきた穹撃型を殲滅しているのは決して自棄を起こしたわけではない。

 具体的な仮説に基づいての作戦行動だ。

「矢張り砲撃が来ねェな。オーメスの野郎のアイデアが正しかったのか」

「恐らくは。栄光個体の侵攻は大体ガリアみたいに複数の基構分化を率いてきますから、このタイミングで穹撃型だけが大量に襲来するのも不自然です」


 ――オーメスの勘案は、ヴェルヌにとってそう驚くことではなかった。

 時刻は少し前へと遡る。

 

「カンパネルラが、穹撃型を『目』として使っている可能性ですか」

「ふふ、そうさ。ううん……何というのかな。私はカンパネルラが月に打ち込んだ飛翔体について、考えることがあってね」

 空に並ぶ穹撃型を見ながら、オーメスは呟く。

 氷惨が攻撃して来る様子はない。ただ、奇妙な隊列のようなものを組んで空を漂っているだけだ。だからこうして砲撃の只中で話をする余裕もある。

「思うに、彼――もしくは彼女は、『波』のような何かを出す装置を月に埋め込みたかったんじゃないかな。それこそ、地球全体に届くような、うんと高い場所へ――空の向こうの、月へ」

「要点だけ絞って話して頂けまいか。オーメス殿の仮説が正しかったとして、その用途は一体どこにあるのだ?」

 ムラマサが訝しげに訊く。


「……オーメスさんは、さっき『目』って言いましたよね」

「うんうん……良いね、ふふ。その続きを聞かせて貰えるかなあ?」

 オーメスはにやりと笑った。

「昔、それと少し似た小説を執筆したことがあるんです。『月世界旅行』って言うんですけど……とんでもなく巨大な大砲をロケット代わりにして、主人公たちが月に行く話で――実際にはあの作品はたくさんの嘘を孕んでいるんですが、オーメスさんがいったような何らかの『波』を発信する機器を無人の……球体のような容器に内蔵して周回軌道に乗せたり、月まで到達させるのは、けして非現実的な考えではないように思います。そして」

 ヴェルヌはここで一旦言葉を切った。ここからは推論の部分が多くなる。

「――そして、仮にその『波』の受容体を、月穿ちカンパネルラや穹撃型が有しているとしたらどうでしょう」

「というと?」

「海底ケーブルを通さず、空を通して飛ぶ波に依る電信のようなものだと考えてください。糸電話が成立するように、波という現象はどこかで繋がることが決まっているんです」

「へえ。きみ、いいね。本当に良い」

「オーメスさんはここまで解っていたと?」

「いや。君のように科学考証に基づく裏付けは、あまり」

 肩をすくめるオーメスを一瞥して、ヴェルヌは息を吐き出す。

「つまり、氷惨の限られた種は距離と座標を計算できるかも知れないという話です。距離の概念は二つの基点とその間の線空間を観測することによって成り立ちますし、距離の集積は必然的に座標となります。これを仮に全球Grobal位置観測Positioning機構System――GPSと呼ぶことにしましょう」

「GPSか。良い感じだね――恐らく君のいうやり方では、月から放たれる『波』の速さと自転の速さのずれがある以上、数十メートルから数百メートルくらいの誤差が発生すると思うけど、それはどう説明する? もうすこし『波』を出すための飛翔体を多く発射できていれば、そういうことも無かったんだろうけどね」

 ヴェルヌは少し考えて、答えた。

「だからこそ、その距離の誤差を補うためにカンパネルラには過剰なほどの連射能力が存在するんじゃないでしょうか。一メートル単位での正確な大陸間弾道射撃が可能ならば、今頃ヨエンスー基地はとっくに崩壊していたはずです」

「……座標と距離を掴むということは、正確な砲術のための基本だ。高島秋帆殿の『歩操新式』等にもその旨が書かれている。しかし、流石に氷惨どもがそこまでの知恵を付けていたとは思わなんだ」

「無論あくまで、推測ですが――その中でも、こうして穹撃型が現に不自然な現れ方をしている以上、比較的確度の高い情報ではあります。どの道あのまま捨て置くわけにもいかない以上、砲撃に警戒しつつ上空の穹撃型を最優先目標にするのが現実的な案ではないでしょうか」


 ――そういうわけで、とヴェルヌはネッドに告げる。

「オーメスさんの命令で、別の区画でもバルト海戦線の兵が穹撃型を掃討しています。幸いにもここヨエンスー前線基地は対空防衛戦にかけては屈指の要衝ですし、おれたちがここで抜けても暫くは持ち堪えるでしょう」

「だがよォ、このままじゃじりじりお得意のとんでもない物量で圧されるだけだぜ。こういう遅滞戦闘が一番まずいってのは解ってるだろ――それに俺たちはさっさとコンセイユを連れてアラスカに帰らなきゃならん」

 ……穹撃型の数は目に見えて減少していた。もうしばらくすれば、ある程度な段階までは立て直せるだろう。

 しかし、『ノーチラス』分遣隊の作戦立案と指揮は主に年長のムラマサとネッドの担当だが、遠くアイスランドのヘリスヘイジに鎮座する敵に対して、どれほど有効な手段を取れるというのだろうか。

 ガリアを撃破したヴェルヌにとっても、これまでの栄光個体の戦いと何ら変わりはなかった――正確には、むしろ状況は悪化している。

 ”雷帝”エカチェリーナはもういない。

 最大戦力が存在しない状態で、栄光の個体に立ち向かわなければならない。

 そして――彼女が現在療養中のアラスカもカンパネルラの射程圏内だ。

 エカチェリーナが臥せる治療房の付近に一発でも着弾すれば、その時点で彼女は破傷風の症状によって死ぬのだ。

 アラスカとの電信は途絶している。今は“雷帝”の無事を祈るほかない。


(――けど、本当にどうやって倒せばいいんだ? 見当もつかない。端的に言って、ふざけてる。これまでの栄光個体と、規模も尺度も何もかも違うじゃないか)

 吹雪は弱い。空の向こうの月だけが、ヴェルヌを照らす光だったが、それはあまりにも幽かに見える。


                  +


 ムラマサが最初に決めたのは、エカチェリーナを救けるために、今すぐ電磁駆動列車の『宙駆けタラリア』に機関士のネモと技術者のマゼンテを乗せて、コンセイユを送り届けるということだった。

 コンセイユの力は凄まじい。破傷風の治療薬の免疫グロブリンも即時調製できると本人は語っていた――彼女が無事にアラスカに着きさえすれば、エカチェリーナは寛解するだろう。

 残された猶予は残り四日ほどだ。それ以降はいつ彼女の生命活動が停止しても不思議ではないというのが医者の診断だった。

“雷帝”エカチェリーナを失うわけにはいかない。それは戦線の崩壊のみならず、人類の希望の象徴が消失することを意味する。

 人間には月が必要だとムラマサは思っていた。

 絶望の夜路にも、希望を失わないための月だ。

 かつての山田浅右衛門村渡やまだあさえもんむらとを救った武士が――小泉八雲がそうであったように――彼女も世界中の人々にとっての月なのだろう。

 ムラマサはヴェルヌのことを……かれの歳下の友人のことを思い出す。

 薬用煙草の味を、彼は覚えているだろうか。

「オーメス殿」

 バルト海戦線指揮官、オーメス=リーデンブロックが執務室の机から視線を上げる。机上には大量の電信装置と書類が置かれていた――彼女はその情報処理の全てを一人で担当している。電信を打つ手や書類を書く手には残像が走っていた。恐らく“身体模倣“の異能の一部を使っているのだろう。

 あらかじめ『このキーを打つ』『この文字を書く』などの身体動作を記憶しておいて、そして特殊な体感時間の中においてそれらを一繋がりとなるように模倣している。まさに“映画卿”と言えるだろう。

 人格的には飛蝗ばったの糞ほどの信用も置けなかったが、彼女が極めて優秀な指揮官であることに疑いの余地はない。

「山田……失敬。ムラマサ氷佐、何か頼みごとかい? それとも作戦の箴言?」

「両方だ。試させてほしいことと、試してほしいことが一つずつ――どちらも、お主の力が必要だ。頼む」

「ふうむ。聞こうじゃないか」

 彼女は腕を止めずに、ムラマサの言葉に耳を傾ける。

「船を何艇か出してほしい。バルト海戦線の砕氷船ならば、ヘリスヘイジまで到達するのにそう時間はかかるまい」

「砲撃をかわす囮ってこと?」

「目標の分散だ。無論、犠牲を出させはしない――来ると分かっている低弾道の砲弾ならば、拙者がおおむね斬り落とせる。最速でカンパネルラの足元に入り、奴を叩く」

「いや、別に何人死んでも良いけど……ふふ。成功させてよ?」

「オーメス殿」

「そこまで怒らないでよ、やだなあ……別に良くない? まあ、ヘリスヘイジへの遠征は許可するよ。どのみち直接カンパネルラを叩かないとこの戦いは終わらないし」

「……かたじけない」

 ムラマサはオーメスをねめつけながらも、頭を下げる。

「それで、もう一つの『試してほしいこと』っていうのは?」

 ムラマサは少し視線を落として、ゆっくりと口を開く。

 英雄を守る。

 ヴェルヌやエカチェリーナが月となるのならば、ムラマサは伴う影として歩むのだ。そのような生き方を誰よりも己に課したのは、過去に捨てた己自身――すなわち、山田浅右衛門村渡そのものだ。

「カンパネルラの砲撃を、世界政府本部の紐育に誘導する」

 ムラマサは己のほそい頸部に、戒めのようにそっと白い手を添える。


                     +


 戦線氷塞アラスカ、居住地区中央――アラスカ市庁舎。

 砲撃による粉塵が、雪原を覆っていた。

 誰のものとも知れない頭部の上半分が、食べ残しの滓のように家屋の壁に張り付いている。壁にくっついた時に右目だけが潰れて、乾いている。その近くには穴ぼこの屍体がある。飛散した瓦礫に体を貫かれている。

 硝子の破片に喉を切り裂かれて倒れた体があった。

 背中の半分以上を削り取られて、嬰児のような姿勢で倒れた体があった。

 着弾の衝撃で、液体化した内臓を口から吐き出して倒れた体があった。

 何も動かない。凍り付いている。


 瓦礫の下にわずか覗く、長い金砂の髪さえも。

 

 赤い吹雪が、全てを隠している。

 空の向こうの月が照らすのは、『目』の役目を終えて人々を蹂躙しようと体を閃かせる穹撃型の大群だった。


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