月世界旅行 Ⅲ

 赤松を基調として使い込まれた長食卓には、戻ってきたネッドを含み、厨房に入ったネモを含まないノーチラスの面々と、オーメスに、加えてコンセイユがそれぞれついていた。大所帯である。


「良いだろう、この食堂。私が設計したものだけど、部下からの評判は結構よくてね。氷惨との戦いが終わったらデザイナーでも兼任しようか」

 

 バルト海ヨエンスー基地の食堂で、拘束から解かれたオーメスはおもむろにそんなことを言った。城塞の外郭は石造りだが、この食堂の内装は銀樺に赤松の合板を使用した豪奢な木張りだ。

 ところどころに吊り下げられた融雪ゆうせつカンテラが、窓なしの薄闇に光を添える。やさしく、とろけるような光だ。

 ノルウェー海では捕鯨が盛んだから、くじらの脂を吸わせた高級な蝋心を使っているはずだ。オーメスはそういう所にも金を掛けるたぐいの人間だと、ヴェルヌは朧気ながらも理解していた。ネッドあたりに言わせれば、「ゴージャスな女」と言うやつなのか。

 内装をちらりと見渡す。

 恐らくほとんどをフィンランド産の白樺や松、トウヒなどの製材を河川材木運搬船に届けさせているのだろうと考える。

 バルト海戦線の東側に面するヨエンスーは港街であり、水上交通の弁を整備するために河川交通網が整備されている。余談ではあるが、市の中央を分断する大河ピエリショキ――そこを縦横に移動する材木運搬船には、薄く張った氷を掻き分けながら進水するための簡易的な砕氷鋏パンシザー氷爆槌ジャッキが設置されているのが常だ。オーメスからの迎えが来る前に、絨毯の如く続いたピエリショキ川の紅い氷を――十戒のように割り裂きながら進む運搬船の姿。

 港の様子や、運河の整備状況、それに食生活。何もかもがアラスカと違う。

 食堂の後ろに飾られているのは、氷海軍の“円卓と氷晶ラウンズ”軍旗、及びバルト海戦線の“星と北欧十字スカンジナビア・クロス”旗。それに加えてヨエンスー基地の“運河と剣ピエリショキ”軍旗である。バルト海戦線は主に北欧三国の海軍が主な構成要員となっているたmに旧陸軍の指揮系統や設備を流用していたアラスカと異なり、バルト海戦線では旧海軍の遺構を多く採用している。

それが同じ湾港の戦線都市でもこれほどまでに装いを異にする理由の一端なのだろう。

 少し離れた煉瓦造りのキッチンからは、香草の焼けるよい匂いが漂ってくる。

「なんだい。いやにご機嫌だね」

 オーメスはわずかに唇の端を歪める。


 ――コンセイユがなぜか牢から出て来たあの後、ヴェルヌはノーチラスの面々に洗いざらいをぶちまけた。

 つまり、コンセイユが「冬の騎士」であったということや、政府が冬の騎士の足取りを隠そうとしているということ。そしてそれを知ったせいで――ノーチラスが何らかの不利益を被るかもしれない、という可能性。

 この報告がもたらしたショックはノーチラスにとってけして小さくはなかったし、特に世界政府の陰謀の一端をオーメスから告げられたマゼンテは気の毒になるほど狼狽していた。

 しかし『どれほど権謀術数の伏魔殿が詳らかにされようとも、拙者たちの目的はあくまでエカチェリーナ殿を助けることであるよ』というムラマサの一声があって、皆は落ち着きを取り戻すこととなる。

 コンセイユの確保は成功し、オーメスにこれ以上の反抗の意志は今の所見受けられない。結局問題はいったん棚上げになったのだ。

 そして、オーメスが

「ふふ。親睦を深めるために……ご飯でも、食べないかい」

 と言ったところで、今に至る。


 ――深い夜になった。一日が終わろうとしている。

「毒見のためにネモ氷曹を厨房に行かせるなんて、随分心配性だね――ムラマサ氷佐。ああ、呼び方はこれで良いんだろう?」

 ムラマサは頷く。

「失敬。敵地でのならいなものでな」

「ふふ。構わないよ。私がきみたちの立場でも、そうしただろうしねえ」

 ところで、とオーメスはコンセイユをちらりと見る。

「きみはアラスカに帰って、エカチェリーナ氷佐を治すんだよね?」

「聞くまでもねえだろ馬鹿か。アイツが居ねえと普通に人間が敗ける」

「だよねえ。ま、わたしはわたしで好き勝手するさ。ふふ」

 その会話を聞きながら、マゼンテは何か不味いものでも食べたとでもいうように、ずっと渋面を作っている。というか、そもそもヨエンスー前線基地に来てからヴェルヌはずっと彼女の笑った顔を見ていなかった。

「マゼンテ、大丈夫?」

「ああ、ヴェルヌ……私、もう倒れそうなのよ。おとぎ話でしかないと思っていた『冬の騎士』アークナイツがまだ生き残っているなんて」

「おれもだよ。驚いてる」

「まァ、そこまで焦るようなことでもねェだろ。アラスカ側から頼まれた仕事は上手く行ったんだ、後はまァ食うモン食って帰りゃあ良いさ」

 ネッドはシマ(※フィンランドの蜂蜜酒)をぐいと呷って、にたりと笑った。

「ネッドさんは、割り切った考えをお持ちなのですね。私はそう気楽には考えられません」

 ピシッと空気が凍った音をヴェルヌは聞いた気がした。

 マゼンテは――自身もまた陰謀と策略の渦中に身を置き、自身を偽ることが多いせいか、信頼のおける相手に対してはこうした過剰ともとれるほどにつれない態度をとることがままある。

「嬢ちゃん冷たくねェか? オレは今回の戦いで一番の功労者だぜ。氷惨戦の公式戦果だったら氷銀騎勲章は固いだろ」

「……私を助けて下さったのことへの感謝と。今回の件はぜんぜん別です。これでも、貴方には感謝しているのよ」

「ハハハ! 気にすんな気にすんな、きちんと伝わってるよ!」

 ネッドはばしばしとマゼンテの肩を叩く。

「しかしオーメス殿。もう一人の凍霊は牢に放っておいてよかったのだな?」

 ムラマサが水のグラスを傾けながら訊く。

 もう一人の凍霊フリズナー――恐らく執務室での戦闘の際に透明となってマゼンテを捉えていた男のことだろう。

「ああ……かれは世界政府インターナショナルからのスパイだよ。捨て置いて良い。きみたちにわざと倒させる心づもりだったけれど、上手く行って良かった」

 そもそも奴が何処で見てるか分からないからわたしも裏で動くしかなかったわけだしねと、オーメスはこともなげに言う。

「厳密に言えば、対策しようと動いた時点でわたしは政府にマークされる。だから『不幸な事故』で彼が昏倒したのは、本当に幸運だったよ。いやあ、彼を蹴り倒してくれてありがとう。マゼンテ嬢」

 マゼンテの顔がさらに曇った。

「あー、この莫迦の言うことをあんまり真に受けるなよ。コイツの発言の半分くらいは主に大いなる思い付きだ」

「ふふ。きみ、前から思ってたけど、凄く失礼だねえ」

「うるせえ。存在自体が失礼な女に言われたくねえよ」

 コンセイユは肩を竦めながら言った。

「とりあえず、アタシはアラスカに行ってエカチェリーナを治す。そこまではいい。アタシは医者だからな。だが――アンタらとはそこまでだ。軍にはもう入らん」

「でもさっき、コンセイユさんはヴェルヌを守ると仰っていましたよね」

「まあな。『冬の騎士』にアクセルってアホが居て、そいつが北極に行く前にアタシに頼んだことだ。訳は聞くなと言われた」

「――ということは、北極には?」

「行ってねえ。アタシは直前のオホーツク海で降ろされた。危険だってな」

 彼女は豊かな金髪を手で弄んだ。

「その後は、まあ御存知の通りだ。アタシは軍を辞めて、ロシアのヘルシンキあたりでひっそりと暮らしてた。あそこら辺なら世界政府の息が掛かってない最後の正教会勢力とかもあるんでな。少々救貧院なんかで医者の真似事をする代わりに、寝床と飯と身の安全を確保してもらってたんだが」

 そこで、と言葉が途切れる。

「メンデルホールから、ジュール・ヴェルヌが危篤だと言われてな。そういしてアタシはアラスカに言って、初めて会ったアンタを治して、そしてまたロシアに戻ったんだが――その途中でこのアホに所在がバレて、今に至るってわけだ」

 コンセイユは隣に座るオーメスを強めに小突いた。

「結局アンタはアタシを捕まえて何がしたかったんだ? 氷惨の身体を弄繰り回すなんて気色悪い実験に参加させやがって。なんだってアタシが作り出した臓器に氷惨の血を混ぜたりしたんだ?」

「ああ。いや、赤吹雪の“中和剤“のことを色々調べたくてね――もう少しで完成しそうだったんだけどなあ、仕方がない。大詰めだし、時間はかかるけどあとはこっちで何とかやるよ」

 そう言ってオーメスは肩を竦める。

 切れ長の瞳がヴェルヌの視線と触れ合い、彼女は薄いウインクをした。

「さ、諸君。料理が来るよ」

「……いや、料理作るとか。聞かされてませんでしたよ」

 怒気を孕んだ声が聞こえて、ヴェルヌは振り返る。

 そこには盆を両手に掲げたネモ・ピルグリムが、憤怒の形相を見せていた。

「なんで! 毒見! だけじゃ! ないん! ですか!」

 どん! どん! どん! どん! どん!と、

 ヴェルヌたちの前にたっぷりのローストビーフが小気味よく置かれていく。

「厨房に入るなり、ヨエンスー基地のシェフのヒトが『お願いします』って言ってきて。冗談じゃないですよ、どうなってるんですか。そりゃ……多少は料理出来ますけど、でもあたしは家で作るってだけですからね。あたしフィンランド料理楽しみにしてたのに、誰ですか余計なこと告げ口したの」

「それは拙者だ」

「ムラマサさん!」「やったぜ!」「うむ」

 ヴェルヌとムラマサとネッドはがっしと腕を組んだ。

 彼らは以前からノーチラスの誇る名料理人ネモの力を知らしめたがっており、外の戦線に出たら絶対に一度はよそのシェフに彼女を紹介しようというはた迷惑な計画を企てていたのだった。


「――なあ、そこの黒髪の嬢さん」

「私ですか? コンセイユさん」

「コイツら、ひょっとして恐ろしいほどのアホなのか」

「ええ。たぶん、そうですね」

 そう答えるマゼンテは、薄く笑っていた。

「でも、彼らと居たら――何とかなるって感じがするんです」

「へえ。良いね、そういうの」


 コンセイユも満足気に笑む。何かを懐かしむような目尻だった。

 熱した牛脂と赤ワインが混じった芳香が、食卓を包んでいた。

 立ち上る湯気は、カンテラの光に粒立って消える。


「いただきます」

 ヴェルヌはフォークを手に取り、ぶ厚い牛にと刺し込ませる。

 柔らかい。真っ先に伝わったのは、肉がほろりと解ける触感だった。

 面々から、おお、といったどよめきが上がった。

「や――柔らかいわ。こんな短時間で、どうやって煮込んだの?」

 真っ先に、マゼンテが頬を紅潮させながらネモに尋ねる。

「いや、これは元々あたしらが来るまで、ステーキに使う牛肉を仕込んでてくれたらしいんだ。ここのシェフの腕が良かったんだよ――でも、ケチ付けるようで悪いけど……ここの窯、多分揚げ物に向かないでしょ」

 オーメスがぴくりと眉を動かす。

「へえ。どうしてそう思うんだい?」

「融雪カンテラ」

 ネモが食卓を照らすカンテラを指さした。

「それ、もともと漁船とか砕氷船に付いてたやつでしょ。あたしも漁師だったから、解るんだ」

 ヴェルヌは肉を頬張った。中からとろとろに煮込まれた牛の繊維があふれ出て、くっと歯で噛み締めると、芯にある緻密な歯応えと共に、香味野菜のうまみと赤身の野性味がぎゅっとした粒感を返してくれる。

 自身も肉を取り分けながら、ネモは続けた。

「多分、何かの船の内装をそのまま使ってるよね。厨房の設備も船内のギャレー・キッチンを移設させたやつのはずだ。凄く良いセンスだと思う――でも、石窯って上のアーチ状の構造で熱放射を受け止める仕組みになってるんだ。基地に移設する時に、入らないからって少し窯の構造を歪めなかった? 煤が扇形じゃなくてまばらに着いてたからさ」

「わお。きみ、大分極まってるね」

 オーメスが若干鼻白んだように肩を竦めたが、一心不乱に付け合せのマッシュポテトをぱくつくヴェルヌとムラマサの目にはまったく入っていない。

「いや……うん、だからまあ、そういう状態の窯で煮込んだり焼いたりするよりは、ちょっと火力が低くても低温でじっくり焼き上げられるローストビーフの方が良いかなって思ってさ」

「『ノーチラス』は随分いい料理人を持ったものだね。羨ましいよ」

「よしてよ。そんな大層なものじゃないって」

 ネモはそっぽを向きながら、マゼンテに最も旨味の染み込んだローストビーフのエンドカット付近を何切れか切り分けてやっている。

「グレイビーも旨いな。『冬の騎士』にもこんな料理上手はいなかったよ」

「コンセイユの嬢ちゃんの言う通りだなァ! 舌が転んじまうほど滑らかで贅沢な味だ。今からでも料峭部門クッカーズに転科届出せるんじゃねェか」

「……潰してジュースにした野菜と、煮詰めた牛乳をを溶かしてコクを付けただけですって。恥ずかしさであたしを憤死させる気なんですか――ネッドさんは良いから黙って食べてくださいよ」

 そう仏頂面で返しながらも、ネモの表情はどこか豊かだ。

「ネモさん」

「え?」

「すごく、良い顔してます。生き返ったみたいな」

 氷惨の出現によって失われつつあった、温かい食卓という幻想が、その戦線では幻燈のように存在した。だからこの一食は、白銀の羅針盤に確かに刻まれることになるだろう。

「おれたちのために、美味しいご飯を作ってくれてありがとう。多分、ずっと忘れませんよ。本当です」

 もう、一人ではない。カロリーヌを失って、一人でレーションをかじっていた夜ではない。ノーチラスの皆が居る。

 そして、ただ一人がいない。

「――エカチェリーナさんも。このご飯が、食べられるように」

 ヴェルヌは立ち上がる。

「御馳走さまでした。お先に、出立の準備をしておきます」

「やあ。もう良いのかい?」

「はい。十分食べました」

「そっか」

 オーメスは口元を上品に拭って、ほうとため息を吐いた。

「わたしも着いて行って構わないかな。少し彼とお喋りもしたいしね」


                  +


 赤吹雪が白樺を通り抜けて吼える、フィンランド・ヨエンスーの夜だ。

 夜空には、槍で貫かれた心臓のように紅い月が出ていた。

「ねえ。あの月、ヴェルヌ君の目と同じだ」

 夜の闇すらも切り裂くような、黒鴉のスリー・ピースがヴェルヌに近づく。

 酩酊を誘う爛熟した果実の香気に交じって、仄かに胸の空く清涼な匂いもひらいている。花を閉じ込めた氷のようだとヴェルヌは思った。

「気持ち悪いですよね。こんな、化け物みたいな色」

「わたしがそんなことを気にする情緒を備えてるように見えるかい?」

「あまり」

「だよね」

 揃って、薄く笑う。

 オーメスはブレザーの内ポケットから、しゃっと煙草を出して不凍ライターで火を点けた。極寒の地でも点く煙草と火種は高価い。

 彼女を構成するあらゆる要素は矛盾なくソリッドで、ヴェルヌはそこにどこか妙な律義さのようなものを――混沌の中の秩序を感じずにはいられなかった。

「一本う?」

「頂きます」

 煙草ははじめてだったが、その初めてが今でも構わない。そう思う。

 オーメスがヴェルヌのことを自惚れでなければ存外気に入っているように、ヴェルヌもオーメスのことをもはや特段悪しざまに思っていなかった。

 少なくとも、初めての煙草を許せる程度には。

 どのみちオーメスが彼女を保護しなければ、世界政府によってコンセイユは確保されていたかも知れない。そうなればもう、今回の奪還劇のようにすんなりとことが運ぶことは考えられなかっただろう。

 暗闇にレンズを絞るように、ぼっと光が灯って煙草の像が散る。

 受け取った細煙草を摘まむと薄荷はっかの固く冷たい香りが口切られた。

「きみは、不思議なひとだねえ」

 彼女はまるで月へと届くと信じているような目つきで、紫煙をたなびかせる。冷たくけぶる草と薬の靄は、すぐに消えてしまう。

「栄光個体を倒したとは思えない気やすさだ。けれど別に凡愚ってわけでもない。客観と主観がちょうどいいバランスで並び立っている――ちょうど、何かを書くために生まれたような。」

 オーメスは火のついた煙草で、宙に文字を描く。火の残像がぼうと走った。

 ヴェルヌは煙をおっかなびっくり吸い込む。

 吸い込むとオーメスの香りがして、驚いてむせた。

「げほっ。買い、被りですよ。おれは英雄なんかじゃない」

 オーメスは薄く笑って、火が消えたヴェルヌの煙草にもう一度火をつける。

「そうは言ってない。もっと別の何かだよ――でも、全然解りそうにない。きみは……一体この世界のなんなんだろうね」

「おれは――」

 ヴェルヌは、彼女の問いの意味を上手く呑み込めなかった。

 例え異能の力を有していても、氷惨というあまりにも巨大な脅威に抗わなければならない以上、彼はこの世界のなににもなりようがないというのに。

「そう。きみのことさ」

 すぱっ、と煙が勢いよく切り出された。

「きみは、忘れていなかった。きみの親友との約束を」

「――コルトとの?」

「ああ。きみは、彼と世界の果てに行く約束をしていたんだろう? コルト=オークレイと少しだけ喋った時に、ヴェルヌ君のことを聞いたよ」

 ヴェルヌは頷いた。

「『冬の騎士』より後に、そんなことを素面で考える奴が現れるなんて、わたしは思いもしなかったよ。『氷の王ジャックフロスト』を倒すためじゃあなくて、ただ単純に世界の果てに行くためだなんて」

「……約束なんです。忘れるわけがない」

「そっか」

 つめたく心地よい沈黙が下りた。

「オーメスさんが『冬の騎士』に拘るのには何か理由があるんですよね」

「――どうしてそう思うんだい?」

「『北極域汎戦論』。アクセル=リーデンブロック著」

 じゅっ。

 何かが焦げる音がした。

 オーメスが、基地の石畳に煙草を取り落としている。

「――むかし、小説の資料でそういう本を読んだことがあります。コンセイユさんはアクセルという隊員におれの世話を頼まれたと言っていました。だから多分、あなたの親族が『冬の騎士』にいて、そしてオーメスさんはそのことを知っていた。違いますか」

「きみは」

 くじらのピアスが、月光を孕んで揺れる。揺れる。

「忘れていないんだな。冬の騎士のことを」

 ヴェルヌは頷いた。それだけで、充分だった。

 ――アクセル=リーデンブロック。早逝の天才として世に知られた軍事家だったが、ありふれた姓だ。彼女との血縁関係を結びつけるのには、相当の時間を要したが――たどり着いた。忘れるわけがない。

「冬の騎士」は、誰かが遺した物語の果てなのだから。

 作家ジュール・ヴェルヌは、それを取りこぼしはしない。


「おれは、覚えている。彼らのことも、貴女のことも。誰が誰の役をやってもいいだなんて、言わせはしない」


 オーメスの青い紅を塗った口が、わずか開かれた。

 そして、何事かを言おうとして、また結ばれて。

 あてどなくさまよった後、彼女はほっそりとした右手を伸ばす。

 ヴェルヌは耳元で、何かが揺れるのを感じた。

 コルトから貰った、銀の耳輪だ。

 オーメスがそれに儚く触れていた。

「ふふ。きみを主役にした映画は、たいそう詰まらないんだろうねえ」

 苦く甘い声は、どこか弾んで聞こえた。

 ヴェルヌはその手をどうするか迷って、

 オーメスの美しい貌を見て、


 その顔が頭蓋骨ごと焼き尽くされるのをみた。


「――」


 それは一瞬のことだった。

 示される、最悪の未来。砲撃なのか、熱量なのか、それとも別の何かなのかは分からなかった。そんなことはもはやどうでもいい。

 ヴェルヌはオーメスを押し倒して伏せた。庇うように強く抱きしめて、無理やり口を開けさせてから彼女の耳を塞いだ。

 左腕の補助具があれば、通常よりも強い力が出せる。一秒でも早くそうできたことだけが救いだった。

 かつて、カロリーヌにそうしたように。

 今度は守れる。その力と、命がある。投げ出したって、構わない。

 彼はもう一人ではない。

 遺された志は、氷の亡霊となって仲間と共に駆け往くだろう。


「――き、みは」

「煙草。美味しかったです」


 ヴェルヌはにこりと笑う。

 オーメスの瞳には、夜空の月を半断する炎の線形が映っていた。

 そして世界が終わった。


                   +

 

 デンマーク・ノルウェー領、アイスランド。大西洋中央海嶺とアイスランド・ホットスポットの交差点に当たる十万平方キロメートルの火山島は、今はもう無人だ。

 その要因は、首都レイキャビクとクヴェラゲルジに挟まれた――サガとエッダの伝承が息づく、溶岩の台地、へリスヘイジに眠っていた。

 今はもう、そうではない。

 災厄は既に、約束された滅びに向かって覚醒しつつある。


 白い、三角形があった。

 神気すらも放つ、純白の聖山だ。

 在りし日のギザの大ピラミッドのごとく、滑らかな氷面のみで形成されるその構造体は、一つの名前を持ち――祈凍宗においては、『氷の王』が降り立つ約束の地とされる。


 栄光個体、月穿ちカンパネルラ。


 月を赤く穿った、星を射抜く弓台であり――。

 そして今、彼の矢はアラスカとヨエンスーに向けて発射された。


 一八七六年、四月十二日。アイスランド、ヘリスヘイジ。

 栄光個体、月穿チカンパネルラ来襲セリ。

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