月世界旅行 Ⅱ

 世界政府特定識別號体――通称を、『栄光個体スラヴァ』という。

 それは人類にとっての語るべき福音であり、そして同時に噤まれるべき災厄でもあった。栄光個体は、基構的な分化である闘士型コロッサス穹撃型ストライカとは全く装いを異にする。

 それは異形だ。

 基構分化を数種重ねて発達させたようなものもあれば、既存のどのような個体と似つかぬものもある。

 だが、栄光個体を測るにあたって、一つだけ確かな事実があった。

 どうしようもなく、彼らはただ強大だった。

 人類が抗することすら許されぬ、災厄の如き暴力がある。

 不破の霜甲を持つ、殺戮の列車。無敵スティーヴンソン。

 不毛の更地を耕作する、沈黙の什器じゅうき。審きのイワン。

 城鯨モビィ・ディック。氷爆のヴァンダ。

 氷惨出現当初より世界各地に現れ続けた栄光個体こそが、最も人類を追い込んだ原因であると唱える学者も数多い。

 通常栄光個体は、世界政府によって出現が確認/公表される。

 裏を返せば、政府が公表しない栄光個体は歴史の闇に葬り去られるということだ。


 ――今かれら「冬の騎士」が相対する個体も、そのような一柱だった。

 コンセイユたちがオホーツク沿岸の警備にあたっていた最中のことだ。

「冬の騎士」が海上巡視のために搭乗していた基局砕氷船『天蓋』アトラスは、なんの前触れもなく流氷付近で座礁した。

「ふむ。異状だね」

『天蓋』後方内部の団欒室にも、ずずんという鈍い異音が響く。

「コンセイユ君。すまないが、機関部を少し見てくれないか」

 眼鏡を掛けた痩身の男、ピエールが尋ねた。

 彼は「冬の騎士」の長で、ただ“斬権”の異能を持つのだということと、かつては高位な学士であったということだけが知れていた。得体が知れないと囁くものもある。

 だが軍医であるコンセイユにとっては、それでも構わなかったのだ。

 ピエールは信頼に足る男だったし、彼が隊の皆の親族へ密かに仕送りをしていることは誰もが知っていた。

 とはいえ、

「アタシは便利屋じゃあないんだけど。ハンス辺りにやらせろよ」

 コンセイユはあくまで軍医だ。

 不明瞭な指示は突っぱねるのが彼女の道理だったし、それは第一次オホーツク海調査先鋭船団「冬の騎士アークナイツ」となってからも変わらない。

「ハンスは甲板だね。万が一に備えて、待機させている」

「だったらなおのこと、何でアタシを行かせるんだよ」

「フム?」

「アイツが居るなら心配ないでしょうが」

「ああ。そうだな、彼がさ」

「彼が?」

「やり過ぎて、船が動かなくなったら困るだろう?」

「ああ……解ったよ、行ってくるよ、クソ。バカばっかりだ」

 かくして、その影は形を現す。

 ずっと後に、歴史の闇から掘り起こされ、そして鍵喰みノックスと名付けられた栄光個体である。

 敵性存在の挙動――眼球運動すらも感知し、自身に備え付けた十種の光学的器官で致命的な催眠と錯覚をもたらす特性を有する氷惨だと推測された。

 なぜ、推測より先へと考証が進まなかったのか。


 鹹く滞留する船室の空気を裂き破るかのように、轟音が膨れ上がった。

 コンセイユは一瞬『天蓋』の砲撃かと思案して、それからすぐに思い直す。

 ハンスの“撃滅”の異能だ。

 彼と共闘できる人間はそう多くはない。

 ほとんどの場合、焼け死ぬか潰れ死ぬかしてしまう。

 そもそも氷惨にとってさえも、“撃滅”は過剰な火力なのだ。

 できればよそでやって欲しいというのが「冬の騎士」全員の偽らざる本音だった。誰も望んで散らばった氷惨の四肢の片付けをしたくはない。

 栄光個体といっても、「冬の騎士」の戦闘人員であればほとんどだれもが単独で打倒できた。アクセルは死ぬほど嫌がるかも知れないが、彼の“固定”に抵抗できる物体は物理的に存在しないのだ。

 コンセイユは一度機関室に行く途中、一度考え直した。

 そのまま、脚はいましがた来た談話室へと戻っていく。

 まだ半分がた残っている水煙草シーシャがある。

 喫わなければ損だ。


 ――鍵喰みノックスは、甲板に取りついてから十秒と経たずに沈黙した。

“撃滅”の異能によって吹き飛ばされた遺骸は全体の三分の一程度しか残らず、目に見える成果としても辛うじてノックスの光学器が高効率の照明機器として転用できるばかりだった。

 それでも、世界には「冬の騎士」が居た。

 まだ、人々が英雄の存在を何の衒いも無く信じていられた時代の出来事だ。

 今はもういない。

祈凍宗フロストハンズは、「冬の騎士」を否定している。

 彼らの神話は、時代が見せた一時の幻のようなものであったのだと。

 あるいは、誰もがそう信じかけていた。


「アタシたちは、あそこにいたのに」

「アクセル」

「アタシは、やり遂げるから」


「冬の騎士」、軍医。

 コンセイユ=ドナテッロは懐想する。

 ――彼女はきっと忘れていない。


                  +


「きみはさぁ。きっと、忘れていないだろう? コンセイユ」

「ア。何がだよ、オーメス」

 コンセイユ=ドナテッロ。

「冬の騎士」の生き残りであるという彼女が、今ヴェルヌの眼の前に立っている。しかし、少女のような可憐な容姿は――口調が相半して苛烈だとはいえ――不可解なほどに、年齢を感じさせない。彼女もムラマサのような副作用によって、身体年齢になんらかの変調をきたしているのだろうか。

「主語を省略するんじゃねえ、莫迦が。ノーミソにまでヤニ詰まってんの」

「ふふ。ごめんごめん」

 オーメスは体幹のみで椅子の足をくるりと回し、ヴェルヌの方に向き直る。

「ヴェルヌ君は、コンセイユに傷を治してもらったことがあるんだよね」

「え……はい。そうだと聞かされてますけど。どうしてそれを?」

「私たちはずっとコンセイユを探していたからさ。冬の騎士が壊滅してから今まで、彼女は姿を晦ましていたんだ」

 ヴェルヌはコンセイユをみた。

 彼女は仏頂面のまま動かない。

「こう言い換えたほうが良いかな? 彼女は『君を治したから、居場所が私たちにばれて捕まった』ってことさ」

 舌打ち。

 コンセイユが蜂蜜色の豊かな髪を搔き上げている。

「きみはきっと忘れていない。アクセルさんの託した願いを」

 赤吹雪の音は遠い。ただ、暖炉の薪が跳ねるのが、引き延ばされた時間を刻む手掛かりとなっていた。

「――まあ、そうだな。大体そこのアホの言う通りだよ。ヴェルヌを死なせないのは、アクセルのビビりとの約束だった」

 だが、と彼女は続ける。

「事情を説明する前に、治させろ」

「うん?」

「怪我人。いるだろ。特にアンタの蹴りを喰らったそこのガキはそこそこヤバいはずだ。ぶっ倒されるフリするにしても、もう少し考えやがれ」

 南方の部族の呪詛のごとくぼやきを点々と打ちながら、コンセイユはすたすたと部屋の外側へ向かう。

 そこには、扉に苦し気に凭れ掛るムラマサが居た。

「そのザマでまともに立ってるコト自体ありえねえな。肋骨片が刺さってるだろ。特殊な調息でもしてんの?」

「……貴殿、は。コンセイユ殿か」

 ムラマサの喉からは、破風の窓から擦れる風鳴りのようにひゅるりとした呼気が漏れ出ている。それがたった今、ヴェルヌにも聞こえた。

 恐らくは有事の際にいつでも飛び出せるように気配を消していたのだろう。

「ホラ見なよ、いっぱいいっぱいじゃないか。治してやるから絶対動くな」

 コンセイユは、慮っているのか罵っているのかよく分からない調子で、ムラマサの軍装のボタンをぷちぷちと外してゆく。

「む」

 ムラマサが珍しく眉をぴくりと上げた。

「脱げ。患部に直接触れないと能力が使えない。出来るだけ、慎重にな」

「こ、心得た」

 ヴェルヌは気持ちの置きどころを明らかに失っていた。

 さながら燃料を失い風に流される気球のようである。

 今日一日で、あまりにも多くのことが起きすぎていた。

 部屋にはしゅるりと衣擦れの音が響く。ぱさり。上の正装が落ちて、

 引き締まって傷だらけの体が露になった。

 野生馬めいているとヴェルヌは感じる。

 何故か気まずい空気が、執務室を浸した。

「痛みはあるが、一瞬だけだ。ビビんなよガキんちょ」

「その、拙者は――」

 ムラマサが続けて何かを言う前に、コンセイユは自分の指の爪を噛み切って――薄桃色の爪片を、彼の脇腹につぷりと挿した。

 少年のような体躯が、一瞬かたくなる。

 すると、信じがたいことが起こった。

 爪片は脇腹の内側へと嵌入するように、ゆっくり肌色と癒合していって、そして痕には小さな引き攣れだけが残された。

「よし。多分、アタシの多能性細胞の分化も上手く済んだ筈だ。後は折転帯で誰かコイツの患部に包帯巻いて固定しといてくれれば、一時間くらいで治るよ。アー、そこの御嬢さんなら判るかな?」

 コンセイユはそう事も無げに語るが――彼女とオーメス以外の全員が戦慄していた。能力の練度が明らかに違う。これが「冬の騎士」なのか。

 コンセイユは、「多能性分化細胞」と言った。恐らくは、「なんにでもなれる」ような特殊な細胞をそう呼称しているのだろうという推測は出来たが、それだけだ。あれほどの意味不明な領域の治癒能力の前には、一切の意味を持たない考察である。

「わ、私は――ええ、ええ。包帯よね。解ってるわ」

「よろしい。ついでにそこの映画バカの怪我も治す」

 有無を言わせず、コンセイユはオーメスの歪んだ指を取って、パストラミを放り込むようにぱくりと口に含んだ。

 オーメスが刺されたように肩を震わせる。

「――出来た。痛みはねえか?」

 ぬらりと、唾液を纏った指が引き抜かれた。

 しなやかで嫋やかな五指はもはや瑕一つない。ある種の楽器のようだとヴェルヌは感じた。鋼線には銀の橋が淡くかかり、惜しむように垂れ落ちる。

「うん。イイ感じだよ、さすがコンセイユちゃん」

「ピアス、引き千切ってやろうか」

「冗談だって」

 オーメスはへらへら笑いながら、ヴェルヌに微笑みかけた。

「それでさ。これからどうしようか、ヴェルヌ君。いつまでもこんな茶番してられないでしょ」

「それは、そうですが」

 これから――ノーチラスの、これから。

 コンセイユが狙われる表向きの理由は、今しがた見せた治癒能力の片鱗だけでも充分理解できた。彼女を手に入れられるのならば、犠牲をいとわない勢力は多いだろう。

 ならば。

 裏向きの理由――彼女が「冬の騎士」の生き残りであるということは。

 きっと、世界の果ての真実の一端を担うものなのだろう。


 ヴェルヌは少し、考えた。

 自分たちが、何のためにバルト海戦線に来たのか。

 世界の果てに行くのは、誰のためだったのか。

 エカチェリーナを葬ろうとしているのは、誰なのか。

 そして、

 コルトとどのような約束をしたか。

 カロリーヌと、どれほどの長い旅を紙の上で巡ったか。

 氷原に光る黒い髪と、つれなく揺れる珊瑚のネックレスを、

 きっと、その紅い瞳は忘れていない。


(“地獄に落ちる”だって)

(ふざけてる)

(そんな結末は、おれたちが書き変えるんだ)

 英雄ノーチラスの物語を、踏みにじらせはしない。

(おれたちは駒じゃない。それを証明してやる)


「――皆さん」


 口を開けば、物語が紡がれようとしている。

 氷の幽霊たちは、まばらにヴェルヌを振り返った。


                   +


 北アメリカ大陸アメリカ、ジュノー、アラスカ前線基地。

 氷上酒保IEXの人通りは、ふらつく乱星のように頼りなかった。

 アラスカ市民の頭には、まだガリアによる襲撃の恐怖が記憶に新しい。

 戦線氷塞の誇る氷壁が、突破されるでもなく「すり抜けられた」のだ。

 内地に居住するものならば、慄かない方がどうかしていたと言えるだろう。

『ノーチラス』伝令兵、ブリアン=ヘンダーソン三等氷曹は、二ドルで祈凍宗のペーパー・バックを鞄に詰める。自分たち――つまり、祈凍宗の間では、少し皮肉を込めて「福音書」と呼んでいるものだ。

 通常、酒保の陳列を決定するのはあくまで軍に隷属する酒保委員部門スキットラーズ料峭委員部門クッカーズであり、つまりは個人の裁量に依るところが大きい。

 そんな所にまで祈凍宗の教えが浸透しているのを実感して、ブリアンは嬉し気なため息を漏らした。吹雪に溶け込み、消える。

『――赤吹雪とはくたびれた鉄の怪物のごとき資本主義世界に与えられた福音であります。もはや『氷の王』ジャックフロストの他に神と呼ばれるものはなく、またその奇跡によって私たちは永遠に神の国への氷の回廊を開いているのです』

 四十年前の氷惨出現以降、教会勢力は急速に衰退した。

 というより、存在そのものがほとんど忘れ去られたと言っても良い。

 誰にことわる訳でもなかった。ただひっそりと、今まで見ていた十字架が虫食いだらけになっていく様子を見ていたように感じる。

 ブリアンも、幼いころに通っていた礼拝をもう思い出すことができない。

 けれど、惜しくはなかった。

 人間は奉ずるものを持たずに生きていけるほど強くはないが、それ以上に氷惨がもたらす圧倒的な絶望の前では、彼らの言う聖書の神はもはや力のない物語でしかなかった。

 そして教会が求心力を急速に失っていくのと同時に――彼らの代わりと言わんばかりに、祈凍宗と呼ばれる思想体系が姿を現した。

『――散った赤吹雪は、みことばの福音を伝えながら巡り吹きます。第二十八の栄徒、聖殿せいでんのアキュー様は、いまはない清の国に下って行き、人々に『氷の王』のすばらしさを宣べ伝えました。群衆はアキュー様のもたらす、寒さに感じ入り、『氷の王』が行っていたしるしを見て、アキュー様が語ることに、そろって関心を抱くようになりました。汚れた魂につかれた多くの人たちから、その魂が大声で叫びながら出て行き、『氷の王』の御許へ旅立ったのを見届けたからです』

『氷の王』は、北極に座して、ブリアンたち人類が来るのを待っているのだという。おなじく今は風化した「冬の騎士」が残したおとぎ話だ。

 誰も、彼らの存在を信じていない。かつての教会と同じように。

 きっと――『氷の王』は僕たち人類を試している。

 そう考えれば、今の世界の惨状にも、個人的には納得が行った。

 あるいは、その凍てついた真実を与えてくれる祈凍宗こそが、この氷の世界において真の救済なのかも知れない。

 息を吸う。死の吹雪を受け入れ、身体を新たに作り替えた。

 赤吹雪を拒まないというのが、祈凍宗の教えだった。

 ブリアンはそうして凍霊になったのだ。

 これは祝福のようなものだとブリアンは感じていた。

 生きることを、諦めはしない。けれど何もかもをやり切った後に死ぬのならば、それはそれで仕方のないことだ。

 氷惨との戦いの内に死ねば、魂は赤吹雪となって巡り、『氷の王』の御許へといつかその一部がたどり着く。『ノーチラス』ならば、それが出来る。

 ブリアン=ヘンダーソンは未来をおそれはしない。

 例え人類の英雄エカチェリーナが毒に伏していても、決して。


 ブリアンは空を向いた。赤吹雪が、隊装を撫でる。

 見上げた星空には、紅い月が見えて。

 そして――そして?

 彼は己の目を疑った。

 穹撃型と呼ばれる氷惨の一団が――絨毯のように、空に立ち並んでいる。

 なぜ誰も気づかなかったのか。

 攻撃の兆しがなかったからだ。彼らはみな一様に静かな隊列を保っている。

 なんのために?という疑問が脳裏にちらついたところで、

 月光を断つように、さらに強い光がブリアンの目に飛び込んでくる。

 炎だ。

 赤い炎が線形を描いて、アラスカに真っすぐ向かってきている。

 ブリアンのもとに。

 この街のもとに。


 彼が“疾駆“の能力を発動させようとした時にはもう、

 その弾丸が身体のうしろ半分を焼き尽くしている。

 流星のようだと思いながら、ブリアンは理不尽な恐れの中でただ死んだ。

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