月世界旅行 Ⅰ

 青い礼装の上着を脱ぎ、上等なブラウス一枚の袖を捲ったマゼンテは机の上に、執務室にあった何枚かの和紙を取り出した。


「状況を整理しましょう」

『ノーチラス』の面々はそれぞれ卓を囲んで頷く。ムラマサだけは扉のすぐ傍に立って、オーメスを保護しにようとするバルト兵を警戒にあたっている。

 オーメスは鋼線で胴体と足、歪んだ親指の付け根に加え、手首までも縛られて気絶していた。

 名も知らぬ“透過”の異能を持った男の凍霊も一緒だ。

「私たちの最終目的は、エカチェリーナ隊長の治癒よ。その為にバルト海戦線に軟禁されているコンセイユという凍霊を奪還する必要があるわ」

「そのコンセイユさんは本当にバルト海戦線に居るんですかね。もう護送されてるかも」

「あたしもヴェルヌと同じこと思った。普通こういうのって裏をかいて出てくモンでしょ」

 マゼンテは首を振る。

「何のためにネッドさんに外に残って貰ったと思ってるのよ。そういう事態を防ぐためでしょ」

「おれたちが来る前にコンセイユさんが移送された可能性は?」

「多分、それはないんじゃないかしら。私たちがこんなに早く来るのを解ってたら、オーメスが直接面会しなくても代理の人間を立てたり護衛を配備したりする時間は設けられていたはずよ。でもそういう準備は全然なかったでしょう?」

『ノーチラス』がフィンランドに来るまでに乗ってきた『宙駆け』は完全に秘匿された車輛だ。時速280kmで巻き上げられる雪煙は、同時にヴェルヌ達をオーメスの謀略から隠す紗幕の役割も担っていた。

「ひとまず、オーメスに交渉をする気がないと解っただけでもよしとしましょう。彼女を人質に取りつつ、この基地内を捜索するわ」

「……出来ると思います?」

「やるしかないでしょ。戦うのは貴方たちだけど」

「……」

「いや、流石に無理だよ」

 ネモがヴェルヌの沈黙を受け取るかのように声をあげた。

「素人かと思ってたオーメスは凍霊だったみたいに、まだ他にも敵の凍霊が控えてるかも知れない。そもそもこっちはムラマサさんが万全じゃないんだ」

「でも、そうしたらこちらは手詰まりよ」

「そこなんだよなあ。何日もこっちにいる訳にはいかないし」

「――あの」

「なんだよ、ジュール」

「オーメスさんと、もう一度話すことは出来ないでしょうか」

 ネモは不味い顔をした。

「正気かよ? 空想科学小説の書きすぎで頭がやられたか」

「ちょっと、ネモ」

「……ごめん。今のあたし、すごく失礼なヤツだったね。訂正するよジュール」

「大丈夫です。実際、受け入れがたい提案でしょうし」

 でも、とヴェルヌは自信なさげに続ける。

「ずっと、考えてたんです。おれたちはオーメス氷将補の本当の狙いを見誤ってるんじゃないかって」

「またヴェルヌお得意の“予観”ってやつ?」

「……そうかも知れません。今日、はじめて“予観”を人に使えて」

「ああ。そういえば、言ってたな。前は対象が氷惨限定だったって」

 何の前触れもない。ヴェルヌ自身がそうであるように願ったら、オーメスの蹴りの未来がはっきりと観測できた。

 ヴェルヌが真に見誤っていたのは、彼の異能そのものなのかも知れない。

「彼女の最後の蹴りに、おれは当たりに行きました」


 ――ヴェルヌはひょいと屈んだ。

 ――伸ばした脚が、空を切った。

 彼女が途中で、その異能によって技の型を修正していたのだとすれば。


「貴方、やっぱりおかしいわよ」

「だよなあ!? 申し訳ないけどちょっとおかしいよなコイツ!?」

「ここは敵地よ。そんな試すような真似をして、ヴェルヌが怪我したらどうするの」

「すみません。でも、彼女の蹴りは俺に当たらない軌道で刈られていました。そういう未来が見えたんです。オーメスさんはおれより速い。少なくとも、ムラマサさんの攻撃に対応する術を持っていた――なのに、そうした。だったらそこには何か理由があるんじゃないかって、そう思ったんです」

「少し待って。なら、オーメスはわざとムラマサさんに倒されるつもりだったということ?」

「たぶん」

「何だそりゃ」

「それを今から聞くんですよ」

「あたし未だに信じられないけどなあ……」

 ネモはぶつくさ言いながら、縛られたままのオーメスを小突いた。

「起きなよ、氷将補サン。うちのジュールが聞きたいことがあるみたいだ」

「う、ん……何? サメ?」

 不機嫌な猫みたいに、身体を捩りながらオーメスは目を覚ます。

 黒鴉の髪と、くじらのヘリックス・ピアスが揺れた。

「オーメスさん」

「ふふ。ああ、そうか。そうだよね」

 彼女は身体をぎしぎしと捩った。

「――関節を外しても、拘束は抜けられませんからね。ひょっとしたらそういう記憶も持ってるかも知れないし」

 脹脛に八の字を描いて括られて鋼線を見ながら、ヴェルヌは告げる。

 ムラマサとの戦いの顛末を聞いて、オーメスが映像記憶を模倣する凍霊だということは予想できた。どのような技能を修めているかが不明なために、物理的な拘束は極めて慎重になされなければならないとヴェルヌたちは判断していた。

「うわあ、準備が良いなあ。私の能力はずっと伏せていたはずなんだけど」

「それは」

 ヴェルヌはオーメスの、冴えた珈琲のような声を思い出した。

「『英雄になりたくない』から?」

「……へえ。よく覚えているね」

 オーメスは壁に体重を預ける。

「いいよ。聞きたいことがあるなら、答えてあげるさ」

 彼女はどうやら現状を受け入れることを決めるようだった。

 ――つまり『ノーチラスの』人質としての立場に甘んじるつもりのようだった。

「私は君らに負けた時点で、そういう役回りになってしまったんだ。もう、映画監督じゃ居られない。これは私のマナーなんだ」

「マナー」

 礼儀とか流儀とかってことですかとヴェルヌは尋ねた。

「そうだよ。こんな世の中だからこそ、マナーが大切なんだ。世界の大きな運行に逆らうための小さなエレガンスがね」

 わたしは君たちという大きな運行に負けた、とオーメスは続ける。

「わたしはわたしを満足させた人間の願いは極力叶えることにしている。私の不利益にならない限りだ。それこそコンセイユの居場所を教えても良い」

「ちょっと」

 二人のやり取りを聞いていたマゼンテが、たまらずといった様子で口をはさむ。

「本当のことを言っている確証がないわ。話を聞くのには消極的賛成だけど、“予観”が使えるようだったら逐一確認して」

「やあ、マゼンテ嬢。慎重だね」

 オーメスの気やすい態度に、マゼンテは顔を歪めた。

「ふざけないで。貴女がエカチェリーナ隊長を殺そうとしたのは知っているのよ。氷惨を放っておいて陰謀ごっこだなんて、フィルムよりも現実を見たほうが良いんじゃないかしら」

 そのまま歩み寄って、ぐっと黒いベストの襟元を持ち上げる。

「私はずっと覚えているわ」

 その怒りが恐らくはマゼンテの激情だった。

「貴女の行為がどのような道を辿ってきたものだとしても、私だけは貴女を赦しはしない。貴女は自分の意志のもとに、隊長を踏みにじった。だから今こうして、私たちに踏みにじられているのよ」

「こんな世の中で、そんな小綺麗な応報の因果が正常にめぐると考えているのかい? ナイーブで可愛いね」

「それを正しく運行させるのが、英雄の役目よ」

「ふふ……じゃあ、きみの故郷が滅ぼされたのも正しい因果だったって?」

「それは」

『煉獄行』プルガトリマーチを敢行した英雄エカチェリーナは、その実随分遅れてやってきた。その理由を、マゼンテ氷尉は知らないんでしょう?」

 マゼンテの顔色がさっと冷めたのをヴェルヌは観た。

「イタリア王国にヴェネツイアを奪還されたことを、オーストリアは歯痒く思っていた。だから世界政府の主要国家間で、とある取り決めが為されたんだよ。オーストリアからドイツへのラインだ。ヨーゼフ一世さ、解るだろう? 彼は孤立してるイタリアに目を付けたんだ。可哀想に」

 満足げなオーメスをよそに、マゼンテは虚脱したように手を放した。

『イタリアのことはヴェネツイア人が一番良く理解している』とは、なんのことわざだっただろうか。ヴェルヌは見ていることだけしか出来ない。

「……本当に、気の毒だよねえ。陰謀ごっこに怒った君が、陰謀ごっこに故郷を焼け野原にされてることを知らなかったなんてね」

「もうやめて」

「イタリア王国は経済の要所を破壊されてぼろぼろだ。近いうちに接収されるかもしれないね。清みたいに」

「やめて!」

「お陰で君は、アクアパッツアがもう二度と食べられない」

 オーメスの顔に笑みはなかった。ただ張り付いた沈鬱な面持ちだけが。

「――」

 マゼンテは、雪だるまが溶けて崩れるように膝を折った。

 そして静かに泣き始めた。

 故郷ヴェネツイアは彼女の自己を支える竜骨であったが、それは実際虫食いだらけの腐ったおんぼろだとわかったからだ。

「おい、あんた」

「ネモ」

 ネモは、石造りの内壁の金属分を吸って黒く硬化した右腕をオーメスの首筋にひたりと当てた。血が一筋流れる。

「このカス野郎。マゼンテを揺さぶったね」

「私は事実を言ったまでだよう。それに……何事も暴力で解決しようとするのはマナー違反さ。私が先に君たちに手を出したことが、一度だってあるかい?」

「詭弁だ。ここでお前を殺すことだって――」

「ネモ殿」

 声。ムラマサがこちらを見た。

「やめておけ。その化生けしょうには、何を言うても効くまいよ」

 ネモは苦々しい顔をしながら、右腕を下ろす。

「副隊長の言う通りですね。冷静じゃありませんでした」

 それからヴェルヌの方を見て言う。

「ごめんだけど、まともに話せるのは多分あんただけだろ。私もマゼンテも多分冷静に尋問するのは無理だ」

「解りました。おれも同じようにならない保証はありませんが、やってみます」

 ヴェルヌは認識を更新する必要に迫られていた。

 目の前の女性はひとの形をした怪物だ。他人への共感能力がどこか毀損されている。だからこそ自らに課したマナーで社会に生きる倫理を模倣しようとするのだろう。ヴェルヌは襤褸布で出来た気球を想像した。つかみどころのない靄のような人格を、マナーで辛うじて梱包している。それがオーメス=リーデンブロックという人間だ。無駄ごとを語れば、彼女の漏れ出た靄に巻かれて自分を見失う可能性があった。

「聞かれた質問にだけ、答えてください」

 ヴェルヌは慎重に言葉を選ぶ。ここがエカチェリーナを救えるかどうかの分水嶺だ。

「貴女は今も、エカチェリーナ隊長を殺す気はありますか」

「ノー」

 オーメスは縛られたまま肩を竦める。

「それは何故?」

「気が変わったのさ。もっと、面白い脚本が導き出せそうなんだ」

 脚本。

「オーメスさんが当初思い描いていた、脚本とは?」

「重要な医療人材であるコンセイユを人質にとって、それと同時に私が握った幾つかの事実――例えば、栄光個体は人間であるとか、そういう情報を公開して世界政府の権威を失墜させる」

「隊長の死はあくまで副次的な効果だと?」

「そうそう」

「あなたが握っている情報は、それほどまでに決定的なものなんですか」

「ふふ……多分ね」

「教えてください」

「いいの?」

「はい」

「本当に良いんだね?」

 オーメスの暗い瞳が深まった。

 ――先ほど彼女が、マゼンテやヴェルヌ自身に与えた仕打ちを忘れたわけではない。だが、ヴェルヌには奇妙な疑問と確信が一つずつ存在した。

 疑問。彼女がわざわざ露悪的な態度を取って、マゼンテを遠ざけたこと。

 確信。オーメス=リーデンブロックは、意味のない物事を好まない。

 ヴェルヌとオーメスは、創作者という点において連帯していた。

 物語に意味のない部品はない。作劇論の基本だ。

「耳を貸して」

 オーメスの声に、一瞬躊躇う。

「大丈夫だって。針なんて仕込んでないからさ。耳を食いちぎったりもしない。未来を観ても良いよ」

「いえ」

 ヴェルヌは首を振った。

「大丈夫です。観なくても」

「――なんで?」

「自惚れかもしれませんけど。おれなら『主人公』に、そうさせる」

「ふふっ。何それ」

 オーメスは暗く笑った。

「いいよ。教えてあげる。その代わり、私と一緒に地獄に落ちてね……」

 彼女はヴェルヌの耳元で低く囁いた。

「――コンセイユは、『冬の騎士』の生き残りだよ」

 ヴェルヌの紅い瞳が、開かれる。地獄への道が。

「世界政府は、『冬の騎士』の軌跡を完全に消し去ろうとしている。だからコンセイユを隠した。私は、そんな彼女を『強奪』したんだよね。たかが医療人材にこれほどのリソースが割かれるわけがないでしょう」

「――まさか」

「思い出してごらん。エカチェリーナの処理に加担していたのは、私だけじゃないはずだよ」

「メンデルホール統監が、オーメスさんが抱き合わせた人材だって」

「順序が逆だよ。私は彼らを買収して議会を混乱させようとした。そこまで露骨なことをしたら、こうしてばれるだろ」

「嵌められたと?」

「半分ね。もう半分は、自業自得だけどさ」

 オーメスはそこまで喋り終えると、椅子を傾けて息を吐いた。

「今言った内容を皆に話すかどうかは、ヴェルヌ君次第だ。どちらにせよ、知ってしまったら今までの『ノーチラス』には戻れないと思うけどね」

 煙草が欲しいな、と彼女は呟く。

「大体見ていただろう? 鍵はもう、開けてあるから」

 ごり、と。横の本棚の奥から音が響く。

 発条を響かすような固い異音だ。

「こういう古典的な手が、役人どもには良く効くんだよね」

 本棚は、最後にがこん! としゃっくりをして止まった。

 奥には、小さな人影が。

「入っておいで、コンセイユ」


 つかつかと歩み寄ってきたのは、からい飴色の肌と白金の髪を持つ少女だった。



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