スラッシュ、フラッシュ、クラッシュ

 怖気の波が臓腑をめくり上げるように襲い掛かってきた。

 こういうひどい吐き方のとき、真っ先に嘔吐の予兆を感じるのは鼻だ。

 酸い匂いが鼻を衝いて、腹がきゅうと絞りを利かせるのが解った。

 嘔吐反射に誘われた、空のえずきを一つ。

 それが呼び水となり、横隔膜がばたついて息が乱れる。

 そうなるともう、籍を切ったように胃の中身が飛び出してきた。


「おゔっ、げ、ヴぉえッ」


 昆虫を練り込んだ行動食が、高級な絨毯の上へ飛散した。

 どれだけ吐いてもガリアの正体が頭に滑り込み、脊髄から滴ってヴェルヌの臓器を鷲掴みにする。そうしてまた、べちゃりと半固形の糧食が絨毯に落ちる。

 吐瀉物が粘膜にこびり付いて、痛い。乱れた熱量がじぶんの中でわだかまっていて、それは病んだ樹木のように喉へ張り付いてしまう。

 酸で焼け付いた息が、奪われる。


 この手で、コルトを殺した。

 コルト=オークレイを。

 彼の英雄を。


 ――だからさ。姉さんのこと、頼むよ。

 ――そうだよ。北極海の向こうさ。


「どう、して」


 ふらついて意識が薄れかけたヴェルヌの背を、

 ふと誰かが支えた。

 彼と似た黒い髪。


「オーメス」


 ムラマサがヴェルヌの肩を抱き留める。薬草と樟脳の香りがした。

「あのような伝え方をする必要はなかった。彼らにとって、氷惨は今の今まで憎むべき敵以外の何物でもなかったのだ。無用な混乱を招く」

「あは。サムライっぽいね。部下想いなんだあ」

「オーメス。本当にわからないか?」

「うん、残念ながら。だってさあ」

 オーメスは耳元のヘリックス・ピアスを弾いて言った。

「栄光個体の真実を隠して、誰か一人に英雄を押し付けて、すべてを陳腐な物語にしてしまう方が……よほど不誠実じゃあないかい? ね、山田氷佐」

「その名は捨てた」

 ムラマサは、鯉口を閉じて刀を収めた。

「……しかし、貴殿にも言い分があろう」

「解ってくれるかい」

「ああ」

 殺気が消える。

「やあ、良かった。きみを、敵に回したくはなかったからね」


 オーメスは無邪気な童女のように、にこりと笑って拍手をした。

 ぱちぱちぱち

 ぱちぱち

 ぱち。


 ぱ/ち/

 真黒い/

 影が/

 奔った。

 そして、オーメスが吹き飛んだ。


 その横には――蹴り足を構え、血濡れた軍刀を拭うセンシ=ムラマサの姿も。

 それは認識すらもあたわぬ、死を告げる黒い風だ。


「うむ。分かり合えぬということが解った」

「ごっ、ぶっ……! 私の……指! ぜんぶ!」


 ヴェルヌは嘔吐に青ざめた顔で、刀を収めるムラマサをみた。

 オーメスがうずくまって、両手をわなわなと震わせている。

 彼女の指は全て、揚げ方を失敗したプレッツェルのようにねじ曲がっていた。

 マゼンテが息を呑む。ネモは事態に呆然としている。

 突如繰り広げられた惨劇に、ムラマサ以外の時間は停まっていた。


「あーっ、何これ……痛ッ……! 信じられないくらい痛い! きみ、頭おかしいんじゃないの……? 映画撮れなくなったらどうするのさ!」

「貴殿はヴェルヌ殿とエカチェリーナ殿を侮辱した。故に、拙者はこうするべきだと判断した。相済まぬが、一生を介添えされながら過ごすか、今すぐコンセイユ殿を呼ぶかを選ぶのだな」

「嫌って、言ったら……?」

「拙者の技量が及ぶあらゆる斬り方を試す」

 ともすればあまりにも幼いムラマサの顔立ちは、心なしか緩んでいる。


 世界の誰もが、時間を一元的なものとしか捉えない。

 ただ一人、センシ=ムラマサだけが異なる。


「マゼンテ殿はヴェルヌ殿の介抱を頼む。ネモ殿は入り口の見張りを頼めるだろうか。もしかしたら警備の手の者が来るかも知れぬのでな」

「あ……はい。解りました」

「うむ。ネモ殿の守りは陣形の要だ、しっかりと頼むで御座るよ」

 そう言って、ムラマサは再びオーメスへと向き直る。

「さて。オーメス=リーデンブロック」

「畜生、なんだい? ……あー、痛いなあ」

 じっとりと脂汗を掻きながら、それでも彼女はへらりと笑った。

 夜鴉の髪は、筋を作って額に張り付いている。

「先ほども言った。コンセイユ殿の所に案内してもらおう」

 ムラマサは刀を青眼に構えたまま鋭く言い放つ。

 ヴェルヌには、彼の小さな全身におぞましい力が漲っているように見えた。


「解ったよ。案内する」

 こんなんじゃ映画も撮れないとオーメスはぶつくさ呟きながら、幽鬼のように立ち上がる。

 ふらりと上体が逸れる。


 加速。


 誰もが見えぬ時間の空隙のなかで、

 ムラマサの軍刀だけがぶれた。

 ご/ぎ/んという、硬いものが折れる音が。

 時間の高速化に伴い、水中での音波のようにくぐもりながら響く。

 突き刺さっている。

 彼女の軍靴が、ムラマサの右小指と右薬指に――捩じり込まれている。

 剣士にとっての要たる、刀を把持し繰るための二本だ。

 オーメスは凄まじい速度で右足刀を放っていた。

 ならば、ムラマサは今しがたの蹴りに反応できなかったのか?

 そうではない。

 ムラマサの頬を、意図しない攻防によってもたらされた汗が伝う。

 反応したうえで先を越されたのだ。

 彼のみが存在する時間に、割り込んできた人間がいる。

 ムラマサは膝を抜き、体重移動のすり足で後ろへ飛び退いた。

 追撃はない。

 肩の力を抜いた瞬間、

 オーメスが眼前に居る。

 再びの右足刀。先の蹴りと同じ軌道である。

 一度見た技だ。通らない。

 蹴り足に体重が乗り切る前に、柄を打ち付けて防ぐ。

 欠けた手指の不利を補う攻防一体の打撃だ。

 確かに打撃は通った。オーメスはムラマサと全く同じ動きで後退した。

 全く、同じ、動きで。

 主観時間において遥か以前から、ムラマサはこの戦闘を開始している。

 ヴェルヌたち尋常の人間に追うことが叶わぬ速度だ。

 それにも関わらず、オーメスはこの短時間でムラマサの神速に対応し、あまつさえこちらへ打撃をも与えてきた。

(対応――いや、違う)

 オーメスが仮に虚を突けるほどの速度を最初から有していたのならば、先の一撃でムラマサは死んでいる。


(模倣だ。それも身体動作をなぞるのみのもの)


 現時点までの立ち合いで、一秒未満。

 ムラマサの思考は、その挙動と同じく高速で稼働する。

 ヴェルヌも、マゼンテも、ネモも、すべてがゆるやかに停滞していた。

 体感時間の解凍。

 脳内の画像処理速度であるフリッカー融合頻度が極端に上昇した状態である。

 オーメスが、なぜこのような能力と戦闘技術を有しているのかということについては簡単に説明がつく。

 彼女も凍霊であり、そしてそれを隠していただけのことだ。

 それ以上は戦闘が終わってから考えればいい。

 今考量するべきは、オーメスの術理である。

 ムラマサは今まで、彼女に三つの高速格闘動作を見せた。

 一つ目が、最初にオーメスを吹き飛ばした蹴り。

 二つ目が、後方へ体重移動して退く擦り足。

 オーメスはそれらを完全にトレースし、ムラマサの速度に追随している。

 つまり、彼女の能力は視認した身体動作の複製と貼付だ。

 思考までを高速にすることはかなわない。

 その点において、ムラマサの有利は揺るがない。

 だが。

(こちらの動きに合わせてきた。拙者のような高速化した思考速度以外に、この帯域の物理時間を知覚する手段を持ち合わせていることになる)

 その懸念がある限り、迂闊に踏み込むことは出来ない。

 そして、ムラマサとて無限に加速が可能なわけではない。

 脳内の機関が切り替わる。

 急速に、音がムラマサを取り囲み始める。時間が戻ってくる。

「――ムラマサさん!」

 ネモの鋭い叫び。彼女の方を向く。

 執務室の扉が開いた。

 バルト兵だ。四人。

 コルトSAA、その銃口が、無機質な魚眼のようにムラマサに向けられている。

 発砲。

 同時に加速。能力の冷却が追い付かない。

 刃引きされた軍刀を構える。

 銃弾がムラマサの手前で停止する。

 刀身を斜めに添えた。

 鉛弾の軌道が変わるのを見届けつつ、疾走。

 ネモとヴェルヌとマゼンテに向かう銃弾を弾きながら、

 刀の峰でバルト兵の足首と手首を砕く。

 一つ。二つ。三つ。

 三つ?

(乗り込んできた、バルト兵の人数は――)

 思考の中途に、

 黒い影が。

 横合いからムラマサの脇腹に突っ込んでくる。

 躱せない。身をよじる。鋭い蹴りが突き刺さり、かっとあばらが燃える。

 自身の体内感覚を加速させる故に、痛みを遅らせることは出来ない。

 減速。吹き飛ぶ。

 世界の正しい感覚が戻ってくる。

 息が詰まる。呼吸を適切に行えない。

 ――あの日と同じ。燃えるような、痛みだけが。

「おや。バルトの水に中ったかな、ムラマサ氷佐」

 オーメスの陰鬱な面持ちが、少しだけ緩んだ。

「そっちの方も首尾よく行ったみたいだね。感心感心」

 ――バルト兵は四人いた。

 その最後の一人は、今。

 ムラマサはオーメスが笑いかけた方を向く。

「マゼンテ」

 マゼンテは、宙に寄りかかっていた。

 ちょうど隊員の間で訓練として流行っていた「空気いす」のようなかんじで――そして、そのこめかみの横には。

 同じく、宙に浮く拳銃が突き付けられている。

 当然のことだ。バルト海戦線は、多くの凍霊を招集している。

 自身の身体に関する光学的作用を操作できる凍霊が存在したとしても。

 それが一瞬で透明になったままマゼンテに接近し、彼女を人質に取ったとしても。何ら不思議ではない。

「名づけるなら、『透明人間』作戦――なんちゃって」

“写真狂”オーメス=リーデンブロック。

 バルト海の怪物は、長い舌をちろりと出して笑う。

「狙撃をあてにしてるなら、無駄だよ。氷海軍制式凍弩の射程はどれほど長くても五百メートルだ。そして市内は私たちの掌握圏内にある。ゆえに、ええと――スナイデル氷尉だったっけ。彼がどれほどの射撃の名手でも、こちらに凍弩は届かない」


                  +


「――届かねェな」

 帰投不能地点ポイントオブノーリターン

 ネッド=スナイデルは基地から一キロメートルほど離れた高台――氷惨との戦いで放棄された砲台跡の一地点だ――に陣取り、大型の狙撃用凍弩を構えていた。回転溝を施された急造の延長銃身と、増設された弾倉。そして、凍弩の先端にあたる部分に取り付けられた撞木鮫の如き氷爆式荷速機構。

 名称は未定である。ただ、偽装のために〈猟銃〉とだけ呼ばれていた。

 正式な開発コードは、バルト海戦線への秘匿のためにその一切が伏せられていたからだ。故にこうして、この武装も基地の監視圏外に保管しておく必要があった。

 前線基地には武器を持ち込むことができない。どうにか渡りを付けられたのは、ムラマサが用いるような非殺傷性かつ儀礼用の軍刀のみだ。彼が持ち込んだ刀は刃引きがなされている。

 無論、彼の卓越した剣の技量と速度があれば、ただの鉄棒でも一撃必死の武器と化すのだろうが――それ以外の面々にとっては、当然そうではない。

 だからこそ、スナイデルが基地の外側から狙撃の機を待つ。

 便所に行くと言った際に付いてきた基地の見張りは昏倒状態からとっくに覚醒しているころだろう。バルト海戦線側も『ノーチラス』側の狙撃の企図には勘付いたはずだ。

 スナイデルは百倍の光学照準器オプティカルサイトを覗いた。

 オーメスたちがいる場所を狙える位置取りは、当然狙撃手として確保しているが――。

(意地が悪ィな。金属製の鎧戸で狙撃を防いでやがんのか)

 鎧戸を撃ち破るために、長距離射撃で≪銀の女≫を用いることは出来ない。

 金属噴流を威力の要とする≪銀の女≫の特性上、ライフリングを持つ〈猟銃〉によって発射された場合に、着弾時の金属噴流が飛散してしまうからだ。

 ネッドの異能が作用するのは、あくまで視認した物体に限定される。

 いかなる方法を用いてでも、あの鎧戸を破る必要がある。

 しかし。

 ネッドは買ってきた不凍酒の樽を開いた。

 樽の中には、パスタのように広げられた凍弩の矢束が浸かっている。

 通常の≪鋼妖精≫ニュムペーとは異なり、ニッケルの合金に微細な穴を穿って二重構造にしたシャフトを備えている。

 信号弾、≪華妖精≫ドリュアスという。

 通常は低温燃焼噴煙を詰めて使用するものだったが、ネッドはこれにヨエンスー市内で購入した酒を詰めることを目的としていた。


 ――ネッド・スナイデルは、バルト海戦線前哨基地への道行きに酒樽を丸ごと一つ購入していた。不凍酒と呼ばれる類のがんがん頭にきく酒で、必要だから経費で落としたのだと――『ノーチラス』の射撃統括手、”銛撃ちスタッバー”は語った。


 その眼差しは、獲物を捉える狼のように鋭い。


「だから言ったじゃねェか、ネモ。これは必要なことなんだってな」

 ムラマサだけが、スナイデルの企図に気づいていた。

 オーメスは傑物だ。狙撃が成功するという確信を持って荒事に臨めば、すぐさま看破される恐れがあった。

 狩人が最も無防備になる瞬間は、獲物を殺害した時点である。

 戦術につけても同じことだ。敵がこちらを出し抜いたと確信した瞬間が、最も敵の無防備な時点だ。スナイデルはそれを知っていた。

“銛撃ち”の異能は弾道と弾体の制御。及び視界内物体への命中手順の算出である。その能力を、射程外のてきに対して行使する場合。

 ネッドは一射目を、やや上向きに放った。弓なりの軌道だ。

 一キロメートル先のまとに的中する速度ではない。


                  +


「ムラマサさん。私のことは――」

 マゼンテが言い切るよりも早く、ムラマサの軍刀が落ちる。

「そう。仲間思いだね、ムラマサ氷佐」

 オーメスは刀を蹴り滑らせた。壁にぶつかって、止まる。

「マゼンテ殿を放せ」

「――加速はしないのかい?」

「貴様」

「あの一撃であばらを折れて本当に良かった。しばらくは動かない方が良いよ。肋骨が肺に刺さるからね」

 オーメスはしなを作る。

「氷佐殿の『加速』って――たくさん動くから、たくさん空気を吸うよね? その状態でもう一度あれをやったら、死んじゃうよ」

 ムラマサの顔色は蒼白だ。呼吸も弱い。

「そういうわけで、コンセイユのところに案内はできない。ごめんよ、『ノーチラス』の皆さん」

 彼女はつかつかと、ヴェルヌの元に歩み寄る。

「ヴェルヌ君」

 オーメスの声に、ヴェルヌは擦り切れた表情かおをあげた。

「今、どんな気持ちかな? 参考までに聞かせてくれると、嬉しいなぁ」

「どんな、って」

「今度映画を撮る時に使いたいからさ。」

 黒烏の髪が揺れた。

 どこか爛熟した果実のような、破滅的で悪甘いかおりがする。

 教えて、ヴェルヌ君。

 耳元で甘く焦がれる、オーメスの声が。

「なんで」

「うん?」

「なんでコルトは栄光個体に」

 オーメスは顔をしかめた。

「ちょっと。監督から主役にインタビューの途中だよ。ちゃんと答えてくれないとダメだって……私だって詳しいことは知らないよ。コルト君が消えたところを直接見たわけじゃないし」

 でも、と彼女は続ける。

「コルト=オークレイが北海遠征で殉職した時に、そういう報告があったんだ。コルトの死体が消えた少し後に、ガリアがいきなり現れたって。私もこれまで半信半疑だったんだけど、君の反応でやっと確信が持てたよ――世界政府は嘘をついている。信用できない」

「貴女は――まさか」

 うん、と微笑んで頷いた。

「近々クーデターを起こすつもりだよ。コンセイユをこっちに軟禁してるのもそれが理由だし、当然ヴェルヌ君たちをまっすぐ帰すつもりもない」

 まるで近くに買い物にいくと言わんばかりの調子で彼女は述べた。

「エカチェリーナ氷佐を早く楽にしてやりたい、だなんて言うつもりはないよ。私はそんな立派な奴じゃないからさぁ。この世界って映画がつまらなくなっちゃっただけ。わかるかな? わからないよね、多分」

 だからさ。

「私が撮り直した方が、多分面白いんじゃないかと思って」

 彼女は、夢を見ている。

 一人きりの映画館で、ずっと長い夢を。


                    +


 二射、三射。一拍置いて、四射・五射・六射。

 その行程は、狙撃というよりもむしろ彫刻を想起させる。

 約束された結末に向かって再帰的に時間を辿る、因果の彫刻だ。

 がん。がん。がん。がん。がん。

 ネッドは既に、その一射一射がもたらす結果を知っている。

 この氷海でただ一人、観測手すら不要な狙撃手が彼であるから。

 がん。がん。がん。がん。がん。

 圧縮氷気が迸る。矢が空気を切り裂いて直進する。

 未来への鑿が、無数に分かたれ放たれてゆく。

 しかし、最初に弓なりの軌道で撃った一射目の推進力は底を尽きつつあった。すでに慣性で惰行しながら宙を滑るのみであり、狙うべき道程の半分にすら届いていない。


 スナイデルは、そのように撃った。


 矢が下方を向きかけた瞬間、が滑り込んでくる。

 触れ合う。金属が擦れ合い、火花が散る。

 矢の中の酒がぱっと気液相流となって飛ぶ。

 そして、閃光。


                  +


「私はさ……昔から、活動写真が好きでさ。いつか自分でも撮ってみたいと思って、色々と写真の撮り方を勉強してたんだ。でも、ある時気づいたんだ。ただの活動写真じゃなくて、そこに本や戯曲のような物語を乗せたらもっと面白くならないかって……」

 執務室は薄暗い。鎧戸が光を閉め切っているせいだ。アルコールランプの曖昧な光の紗幕だけが、オーメスの怜悧な美貌を照らす。

「現実は、物語にならない。そこには、冷たい事実しかないからね。でも、映画は違う。あらゆる文脈を無視して、誰が誰の役をやっても構わないんだ。面白いなら、なんだって構わない。人々は面白い映画を伝えていくから、結局はそれが物語になる。私たちは顔がないまま顔に、名前がないまま名前になるんだ。それはきっと……素敵なことだよ。特にこんな世の中じゃ、名前があった方がよっぽど辛い目に遭うと思わないかい?」

「――それは」

「だから私は凍霊であることを隠してたんだ。英雄になりたくないからさ」

 エカチェリーナの血の幻視。

 あれは果たして、真にヴェルヌが望んだ英雄の姿なのだろうか。

 わからない。

 ジュール・ヴェルヌは無力な存在だ。

 彼の力で守れるものなど、何一つない。

 だが。

 ――おれたちと一緒に、英雄になってくれ。物語になってくれ。

「それでも」

 独りでは、ないのだとしたら。

 仲間を物語の地獄へと引き連れた責任を負うべきなのは、きっと。

「誰かが、やらなきゃならないんだ」

「君がやるって?」

「おれだけじゃない。『ノーチラス』の皆で」

 顔を上げた。

 瞳は吹雪のように紅く煌めく。

 予感がする。予観がある。

 止まってはならない、物語の予感が。

 ヴェルヌは駆け出した。


                    +


 二本の矢が接触し、爆発する。

 一射目の弾体が、ビリヤードの球のように再び加速を得た。

 延長銃身に旋条を施したのは、シャフト自身の回転によって不凍酒アルコールと空気を攪拌させて可爆性を高めるためだ。互いに衝突した≪華妖精≫はその物理的衝撃によって開口し、度数が高いアルコールの飛沫と気体を拡散する。そして火花によって着火し、当然の摂理として爆轟が発生する。

 爆轟に押し流されて、矢は再び推進力を取り戻す。

 いわば凍弩をキュー、弾体を矢に見立てた玉突きであり――そして、爆発の不規則性までも、スナイデルの異能は手中に収めるのだ。


 がん。二射目に三射目が追突する。爆発。

 がん。三射目に四射目が激突する。爆発。

 がん。四射目に五射目が射突する。爆発。

 がん。がん。がん。がん。


 爆発時の燃焼により、酸素は減少する。つまり、空気抵抗が減少する。

 撃てば撃つほど、後発の矢は速度を増していく。

 鎧戸に、全ての≪華妖精≫が同時に着弾する。

 ――最後の一射。空気を喰らいつくした一本の気流射線に。

 度数四十をなみなみと満たす、最後の銛は爆装していた。

 ヴェルヌがその事実を予観した時にはもう、

 凶暴な運動エネルギーを込めた炸裂が宙を切り裂いている。


                   +


 続きの一射は必要なかった。楔として撃ち込まれた≪華妖精≫と鎧戸の破片自体が、爆発によって飛散・跳弾していた。

 ネモは咄嗟に硬化し、盾となってムラマサを庇う。

 マゼンテは無傷だ。背中に回っていた『透明人間』の凍霊に飛散物が深々と突き刺さる。呻きが聞こえ、何もないところから男が現れたように見えた。すかさずマゼンテが肘鉄を入れ、拘束から脱出する。

 そしてヴェルヌは。

(未来が見えた)

 氷惨のみに対する、限定的な未来観測ではない。

 今この未来が、過去はっきりと見えていた。

 破片が当たらない位置取りに駆け出す。


                   +


 オーメスは、自身が「フィルム」と名付ける記憶連続体を更新した。

 現在の映像が、オーメスの記憶に写真のように貼り付けられる。

 全てが把握できる。ムラマサの攻撃もこのように対処した。

 だから動こうとした。

 そして、重大な過ちに気づいた。

 ムラマサを模倣した加速は不可能だ。

 部屋が破片で満たされているこの状況で、借り物コピーの高速機動を実行ペーストするのは死を意味する。対応がわずか遅れる。

 逡巡。彼女の描いた映画のコンテに、亀裂が走った。

「それでも――これは、私の、映画だ!」

 振り返る。自身の記憶の中から、最も早い蹴り技を探す。その一瞬。

 その一瞬の未来を、彼は観ている。

 ヴェルヌはひょいと屈んだ。

(まさか)

 意図に気づかれた。その思考の空隙に。

 伸ばした脚が、空を切る。


「上出来だ、ヴェルヌ殿」

 

 声。

 再び振りむこうとして。

 彼女が最後に見たのは、背後から振りかぶられた軍刀だった。

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