雷の凍てつく夜に Ⅲ
ヴェルヌの病室に憔悴した様子のマゼンテがやって来たのは、その日の夜のことだった。
文机の上に乗せられていた本や果実はソファの上に放り出されて、今は木製の長手套じみた装具が転がされている。
「貴方の左腕の補助具よ」
付けてみて、と彼女は促した。
補助具は大きく分けて、腕部装具と腰部装具の二つで構成されている。
革の手套を中心に、腰部へと延びるゴム製の管が三本ほど配置されており、それらは腰部の金属筒に接続されている。筒を軽く叩くと、中からちゃぽちゃぽという液体の揺れる音が聞こえた。
ヴェルヌは長手套の装具を嵌めて、腰部に金属筒付きの革帯をきつく締めた。
二、三度。肘を曲げ伸ばしさせようとする。
すると、腕部の長手套自体が――意思を持つかのように折れ曲がり、ヴェルヌの動かぬ左腕を思い描いた位置まで押し上げた。
「ゲッ」
思わず声をあげると、マゼンテが彼を睨んだ。
「なっ……なんですか、これ」
「ガリアの触手を使ったわ」
「はっ?」
「手套装具の内側に細く加工したものを導線のように三百本ほど張り巡らせているの」
ヴェルヌは絶句した。
「だから、貴方が斃した栄光個体の――」
「言わなくても聞こえてますって! なんでそんなもん使ったんですか!?」
「仕方ないでしょ……」
マゼンテは額を抑えて言った。
「あなたの場合、甲殻の破片を取り除くために切除した神経と筋肉の数が尋常じゃないのよ。でも、多少腕を動かすだけの筋力は残ってる。だったら『外から』支えて貰うのが一番良いの。ガリアの触腕は水分の膨張圧によって自在にその動きを変えるから、その金属筒に入ってる不凍液が蒸発しないかぎり、筋肉みたいに動かせる――オジギ草なんかと同じね。筋表面電位の研究がエカチェリーナさんに手伝ってもらって成功してたお陰よ。栄光個体の素材を武装に取り入れるのは、あんまり成功例がないから」
「いや、大丈夫なんですか? 毒の除染とか、マゼンテさんの睡眠時間とか」
「……後者はともかく、前者は心配ないわ。ガリアの神経毒はあなたの戦いの中でほとんど失活しているし、そもそもこれは新しく栽培した触腕だから、毒すら入ってない。素材の使用に関しては、メンデルホール統監に許可も貰ってる」
「そうなんですか」
「ガリアの樹木触棘は、土壌において急速に生育するの。まだ研究を始めて三日ほどだけれど、元々の栄光個体の生体構造を模倣すれば様々な素材に使用できることも想像に難くないわ」
これならいずれは完全な義手を量産できるかも知れない、と。
マゼンテはこの日初めての笑みを見せた。
彼女の故郷ヴェネツイアは、詩いのダンテという栄光個体に滅ぼされてしまったのだという。それ以上をネモは語らなかったが、マゼンテもまた、孤独な旅路を往く同士なのかも知れないと。そうジュール・ヴェルヌは想う。
――コルトと約束した海の向こうまで。
――あなたが見せてくれた世界の果てにあたしを連れて行って。
カロリーヌの最期の言葉を、忘れることはできない。
世界の果てに行くまで。ヴェルヌの脚は寒さにも凍らない。
「ありがとうございます。これなら戦える」
ヴェルヌは警戒に左手の開閉を繰り返す。
これならば、剣を握れる。振るえる。
「えっ」
「どうしました?」
「戦うつもりなの? あなた」
「はい。なぜです?」
「いえ――だって、ヴェルヌは死ぬほどの怪我をしたばかりなのよね」
「一応、そうみたいです。目が覚めた時には凍霊の回復能力のお陰でだいたい治ってたので、実感は湧きませんけどね」
「……馬鹿げてる。死んだら、何にもならないじゃない」
「おれは死にませんよ」
マゼンテの顔が歪んだ。
氷惨でも見るような表情だった。
「あなた、なんなの」
「えっ。なんなのって言われても」
「どうしてそんなに命を軽々しく捨てようだなんて思うの」
ヴェルヌはむっとして、何かを言い返そうとしたが――マゼンテの手は震えていた。耐えがたい寒さから身を守ろうとするかのように。
「私、あなたが嫌いなの。ヴェルヌ三等氷尉」
「――三等氷尉ですか、おれが」
ヴェルヌの階級は一等氷曹だったはずだ。
「あなたは昇進したのよ」
「ガリアを倒したからですかね」
「まあね。私も軍属ではなかったから、そういう感覚には疎いのだけれど」
「……っていうか、ちょっと待って下さい。嫌いって言いました?」
「大っ嫌いよ」
雪の令嬢の瞳が細められる。
「おれの態度が気に障ったのなら、謝ります。すみません」
「そういうことじゃないの。単にこれは私の病気」
「拒否反応、みたいなものですか」
「そう。英雄アレルギーみたいなものかしら」
いいわ、話をしましょう。
あなたはネモを助けてくれたんですもの。
雪は静かに、病室の窓に吹き付けていた。
ノーチラスのなかでただ一人、
「神話を見ていたら解るわ。英雄はみんな、運命と言う物語の奴隷なの」
「ロムルス王が、雨の中に消えたように?」
「ええ。ローランが角笛を吹いて力尽きたように」
「失礼ですが、マゼンテさんの専攻は」
「言語学と建築学よ。神学は単位を取るために仕方なくという感じだったわ――でも今にして思えば、私は本当に幸せだったのね」
マゼンテは束の間、戻れない遠くを眺望するような目つきをみせた。
かつて彼女が在籍していたプラハ大学もまた、詩いのダンテの手によって無惨に壊滅したのだとヴェルヌは聞く。鉄と灰と炎の嵐を操る、煉獄の栄光個体。
ダンテの襲撃以降、イタリアは灰と焦土だけが覆う死の大地になった。
金属灰は豊かだった土壌に固着し、二度と作物が芽吹くことはない。
吹雪に晒されながらなおも雄大さを保った河川は、栄光の個体を前にして――一晩と立たずに鉱毒に汚染された。
「不思議なものね。ダンテが倒されてから一年も経っていないのに、まるで嘘みたい」
「……倒したのは、隊長でしたっけ」
「ええ。英雄エカチェリーナの
詩いのダンテはたった一人の英雄に討伐された。
当時勇名を挙げ始めていた”雷帝”の地位を不動のものとした、一週間に及ぶ討伐行だ。穹撃型の特徴である遊弋膜を有し、自身の起こした嵐によって自在に滑空するダンテをエカチェリーナは単身で追撃した。
「私は『煉獄行』を見て、彼女こそが英雄だと思った。お母さまの仇を取ってくれて嬉しかった。でも」
マゼンテはヴェルヌを、このとき初めて本当にみた。
「エカチェリーナ隊長が、今どうなってるか知っている?」
――血と泡にまみれた、彼女の折れそうな姿を見た。
ヴェルヌは目を伏せる。
「……ムラマサ副隊長から聞いていないのね。だったら、知らなきゃだめよ。私も今日、ジュノー軍病院にたまたま行って、そこで知った」
マゼンテが姿勢を下げ、なおも視線を絡めた。
「これは秘匿情報だけれど、彼女はいま、光も音も差さない地下に居るの。少しでも神経に刺激を与えた瞬間に後弓反張が始まって、背骨が折れかねないから」
でも、と彼女は続けた。
「一度、機密事項を伝達する前に――軍部が病室の近くで、ガリアの気化毒に汚染された弾頭の処理をしてしまった。とっても大きな音があたりに響いて、隊長はそれで死にかけたそうよ。そして今でも、そのときの症状は回復していない」
ヴェルヌの脳裏に、じわりと幻想がにじむ。
地下室の扉が開いた。そこから、血がとくとくとあふれ出してくる。
真ん中にぽつりと開かれたベッドには、あの「あーっ」叫び声を上げながら「あーっ」白痴のよう「あーっ」に背を逸ら「あーっ」し「あーっ」て血をご「あーっ」ぼごぼごぼごぼ、壊れた噴水のように「あーっ」吐くエカチェリーナがいる。
「あーっ」
「あーっ」
「うあーっ」
笑って見えるの、
そうマゼンテは言った。
「隊長が背骨を逸らしてる時の顔は笑って見えるの。笑いながら、血を吐いて、全身をがたがた震わせて、色んなところから色んな涙を垂れ流して。」
災厄の栄光個体を断ち伏せた代償は、あまりに甚大だ。
マゼンテ・ネーヴェにとって母親を煉獄に飲まれた日以上の地獄があるとするのならば、それはきっと。
「私は耐えられないわ。なんで隊長があんな目に遭わなきゃならないの?」
地獄から自分を救い上げた英雄は、知らない所で別の地獄に焼かれ続けていた。
あれほどの力を持ちながら、それでも凄惨な暴力に蹂躙されるというのならば――この世界に天国など、どこにも存在しないことになる。
「『ノーチラス』の門を潜っても、私に戦う力はないの。結局最後には……全ての希望を捨てなければならない。その絶望が、あなたにわかる」
「……絶望?」
「ええ、絶望」
彼女の暗い瞳には、ヴェルヌもよく知る色があらわれていた。
恐怖の色だ。脚を停め、いずれ心を黒く覆ってしまう。
「あなたは……凄い人よ。ジュール・ヴェルヌ。みんな貴方を可愛がってるし、尊敬してる。家族も、家も、日常も、私に残されたものさえ貴方には何一つないのに」
「マゼンテさん」
「あなたには英雄になる資格がある。本当のことよ」
「マゼンテ」
「私の愛する英雄は、いつもどこかに行ってしまう」
「マゼンテ・ネーヴェ」
マゼンテは顔を上げた。
「おれがガリアに勝てたのは、貴女のお陰だ」
「――私が?」
「うん。こんなことしか言えなくて、申し訳ないけどさ。でもね」
ヴェルヌが最後に選んだ武器は、
「あれがあったお陰で、氷惨も沢山倒せた。具体的には闘士型とかを多方面から攻撃する必要がなくなって、部隊展開が早く済んで、そのぶん戦術機動が効率化された。死なないでいい命が死ななくなった。『あなた』だけじゃない。誰もが英雄なんだと思う」
――強くなればいい。強くなれば、全てを守れる。
かつてのエカチェリーナの言葉だ。
けれど、それはもう――マゼンテの言葉を伝え聞いた後では。
「たぶん、誰かだけが強いってわけじゃないんだ」
ヴェルヌは自らのうちにあるものを手繰り寄せるように言葉を紡いだ。
ずっと考えていて、けれど形にならなかった言葉を。
「おれはガリアと戦う時も怖くなかったけど、でもそれはネモさんとスナイデルさんが隊長を送り届けてくれるって確信していたからで――そしてあの二人が動けたのはムラマサさんが必死に指揮して氷惨の攻撃を持ちこたえてくれたからだ。けど、ムラマサさんが持ちこたえられたのはマゼンテの≪銀の女≫があったからで、結局それを作ったマゼンテ自身も、隊長に助けられてる」
ずっと、”雷帝”には届かないと思っていた。
届かせる必要などなかった。
彼らは『ノーチラス』なのだから。
「だからさ、たぶん強さっていうものは巡っていくんだ。強さになって」
きっとそこには、カロリーヌの強さとコルトの強さもある。
鸚鵡貝の殻に連なる、海の化石のように。
ジュール・ヴェルヌは無力な存在だ。
けれど、彼一人ではないのなら。
「おれはマゼンテに、本当に感謝してる。おれたちに武器を作ってくれたことも、俺に戦える手を与えてくれたことも、今日エカチェリーナ隊長の現状を離してくれたことも、全部。本当だ。だからマゼンテ。今からあなたに一番辛い頼み事をする」
その願いはきっとあの日、ヴェルヌがエカチェリーナに抱いた憧憬とは、まったく違うものだった。エカチェリーナはヴェルヌの英雄であることに変わりはない。だが全ての人民がヴェルヌと同じことをエカチェリーナに思うのならば、エカチェリーナの英雄は、誰が務めるのだろう。
「おれたちと一緒に、英雄になってくれ。物語になってくれ」
彼女は今も、雷すら凍てつく夜のなかで。
+
マゼンテはノーチラスの寮舎で、私物のマクベスを開く。
綺麗は汚い 汚いは綺麗
綺麗は汚い 汚いは綺麗
さあ飛んで行こう 霧の中
汚れた空をかいくぐり
ヴェルヌの言葉が四行の詩を乗せて、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
汚れた空を払う雷は、既に凍てついている。
――もったいないな。ヴェルヌは良い奴だよ。
(嘘ばっかり)
二段ベッドの下で、ネモはすやすやと寝息を立てている。
彼は本当に悪い人だ。
彼女もまた英雄なのだと認めてくれた、
本当に悪くて、ちょっといいひと。
「嫌いになれるわけないじゃない」
昔は、詩が大好きだった。アンノウン・マザーグースが手慰みに組み上げた世界は、思えばどれほど心の支えになっていたことだろう。今はもう違う。
母は生きたまま、詩いのダンテが造った灰の塔の中で焼かれた。
自分自身の脂を燃料として、まるで豚の香草焼きみたいに調理された。
それ以来マゼンテの世界はどこか、まだらだ。
彼女は未だ灰と雪が塗りつぶす、母の死んだ日に取り残されている。
けれどいつか、雪が溶けたら。
まっさらな緑の大地が、再び彼女の前に顔を表してくれるのだろうか。
(それはきっと、わからない)
(進み続けた者にしか、わからない)
ブルネットを手櫛で梳きながら、彼の言葉を思い返す。
『これは上位下達方向の機密だから多分おれが罰せられるけど、それでも伝えておく。エカチェリーナ隊長を助けに行こうと思う』
『バルト海戦線だ。そこにいる凍霊を、取り戻さなきゃならない』
『交渉事が得意なマゼンテが居てくれると助かる』
「……私だって」
ヴェルヌの紅い瞳が目指す景色が、いつか見る大地と同じならばいい。
「私だって、ノーチラスだ」
たぶんそこでは、ネモが仏頂面で踊っている。
+
【氷海軍総記(抜粋)】
[これらの書類は、作戦符号
Ⅰ 『鸚鵡貝』側の作戦参加人員
【要旨】本作戦は現アラスカ統監ジョン=メンデルホールの許可のもと、山田村渡二等氷佐の指揮下において実行(1876年4月11日)された。また、作戦指針として、バルト海戦線との政治的力学関係を勘案した結果、『鸚鵡貝』側には極力戦闘を回避する指示が為された。
構成人員は以下の五名である。
山田村渡二等氷佐(日)
ネッド・スナイデル二等氷尉(加)
ジュール・ヴェルヌ三等氷尉(仏)
ネモ・ピルグリム二等氷曹(英領)
マゼンテ=グラヴベン・ネーヴェ技術顧問(伊)
【全文】(省略)
【特記事項】山田村渡二等氷佐及びネモ・ピルグリム二等氷曹の二名が死亡。
【署名】1876.4.13 ジョン=メンデルホール
Ⅱ 栄光個体〈月穿ちカンパネルラ〉襲撃に起因する戦況被害報告
【要旨】前項で述べた作戦行動中に、バルト海戦線において栄光個体による襲撃が発生。バルト海戦線前哨基地が壊滅した。カンパネルラは未討伐のまま、ヘリスヘイジを二ノットで南下中である。早急に世界政府による討伐作戦綱領の策定が要求される。
(一)栄光個体の目的:不明。
(二)理論的に推察される能力:大陸間を横断する飛翔体の射出能力。
(三)迎撃体制の策定:北欧へリスヘイジを海路によって南下中。氷惨基構分化移動手段として用いており、バルト海戦線の残存勢力を結集させた海戦形態が適当だと予測される。
(四)飛翔体の威力及び速度:カンパネルラが飛翔体をフィンランド・ヘリスヘイジ山より発射後(1876年4月11日午後3時43~57分)、おおよそ43分~29分(1876年4月11日午後4時26分)でバルト海戦線前哨基地(所在地フィンランド)に到達。平均速度は不明。報告によれば、長大な飛翔体が分割し、その度に相対速度が段階的に上昇したとされる。
威力は被害規模よりTNT換算において15キロトン(6.276×10の13乗ジュール)と予測される。
(五)関連する政策及び戦略:バルト海戦線の接収。
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