雷の凍てつく夜に Ⅰ
ムラマサが駆導型を八体同時に斬った時に、その報せは届いた。
「ガリアが倒れた?」
「はい。ジュール・ヴェルヌが――」
一八七六年四月八日、アラスカ。
栄光個体、散華ノガリア討伐セリ。
「そうか」
最後の闘士型が襲い来る。
ムラマサは一顧だにせず、後ろ手にそれを斬り払った。
「ヴェルヌ殿は英雄になったのだな」
氷惨の掃討戦は、それから夜を徹して行われた。
栄光個体を失った氷惨の機動は、もはや指揮官不在の軍団じみて遅々としている。
遅れてやって来た世界政府の援軍と共に、凍弩を打ち鳴らす≪銀の女≫の唸りはひと晩中あがり続けた。
+
一八七六年四月十日、アラスカ州都ジュノーの南。
凍る海の望める向こう。
家の近くの海岸で、ネモは人を待っていた。
アラスカ湾は赤吹雪に染まり、深い葡萄色に懸濁している。
ネモたちがアイルランドからアラスカにやって来た時から、変わることのない海の色だ。昔の海は、このような姿ではなかったのだと誰もが言う。
生命の威容が粗く削り出されたかのような、空を映した深い青色だったのだと。
氷惨が世界を襲う前の景色をネモは知らない。だからネモ・ピルグリムにとって、海は紅のままだ。マゼンテの瞳の色のまま。
ネモはそんな海を眺めているのが好きだった。
例えそれが鉱毒に侵され、生命の影すら消えた死の淵であっても。
アラスカの漁業は壊滅したわけではない。
僅かながらも赤吹雪を避ける山河や地形が存在し、それらは全てが貴重な漁場として世界政府に接収されている。中和剤を多量に投入し、入り込む海流を最小限に抑えればその一帯は命棲む海として蘇ることもある。だがそれらのみでは、世界人口の糧口全てを賄うことは出来ない。ゆえに新しい生産構造を模索する必要があり、その一つとして完成を見たのが雪防屋根を用いた魚類の養殖だった。
ネモは自身の背後に広がる、蚕繭のような建造物をみた。
海岸線に建造された養殖ドームは、簡単に言えばイヌイットの
ネモの家族は皆このドームの中で働いている。父も二人の妹も日当二五〇セントで鮭の餌を練り、水を入れ替え、中和剤の精製作業の補助をし、オレンジ色のつなぎがくたくたになるまで働いてから帰ってくる。
でも、ネモは一度の出撃で家族の三か月分の給料を一片に稼ぐことだってできた。
後ろめたい、という気持ちがないと言えば嘘になる。
ヴェルヌとエカチェリーナの惨状を見た後では――特に。
ネモが今ノーチラスに軍籍を置いているのは、本当に偶然の幸運に過ぎない。
もともと軍属したのは家庭を助けるためだった。
日がな一日働いても、肉が入ったスープを飲めない妹たちに、バレエを習わせてやれればよかった。寒さにも震えなくなった、指を思う。
家族が健やかに暮らせるのならば、それで良かった。
“硬化”によって、身体の柔軟性が失われていっても。
粘膜が結晶化し、食べ物の味がだんだん解らなくなっても。
異能の代償など、彼女にとっては些細なものだったはずなのに。
結局のところ――母は父以外の男を作り、酒に酔って深夜に氷気列車の駅に忍び込んだ挙句爆発事故を起こし死んだ。家族にそんな素振りを見せたことも、一度だってなかった。豪快で、操舵が上手く、よく笑う母だった。
相手の男も一緒に爆死したので、なぜ母がそんなことをしたのかは官憲も調べられなかった。ひょっとしたら二足は遅い青春のつもりだったのかも知れないが――どのみち、母の浮気相手のことを知ろうとする心の余裕もない。駅を壊した七万ドルもの賠償金は、ネモの一生を懸けて払い切るしかない。
彼女はもう、踊れなくなってしまった。
けれどネモの中には、確実に、あの母と同じ血が流れているのだ。
(これでいいんだ。これで)
今のネモを取り巻く環境は、あの女の娘としての――長女としての当然の報いだ。
ネモが今ノーチラスに軍籍を置いているのは、本当に偶然の幸運に過ぎない。
自分が幸運を手にする資格などない人間だと、とうに理解している。
だからいっそ、ネモは世界に自分を彫刻されたかった。
海晒しの身体を、運命の鋭い縁で残酷に削り取って欲しかった。
浜辺に横たわって、誰にも顧みられない難破船みたいに。
流されるまま運命の清算を繰り返すことが、ネモの唯一の願いだったのに。
「ネモ」
振り返ると、マゼンテがいる。
雪菓子のような、甘く、期待を含み、それでいてどこかつれない声。
彼女と出会ってから、ネモの地獄に雪の音は絶えない。
+
アラスカ中枢部への氷気列車を降りて、ネモとマゼンテは歩いた。
赤吹雪が散るなかでも、人々の往来は激しい。
H&Kインダストリ。ウォルツ重化学工業。
「号外! 号外! 栄光個体散華のガリア、討伐!」
「オレに一部寄越せ! やっとクソみてえなガリアが倒れたんだ!」
「僕には二部だ! 妹もこれを見たらきっと喜ぶ!」
「私にも一部お願い! 栄光個体が倒れたんでしょ?」
新聞小売業者の号外と、それに群がる民衆の姿。
戦闘街区から遠く離れたジュノー市庁舎近辺は、氷惨から離れた普段の装いを取り戻している。七か月前とは違う、希望に満ちた街の活気だ。
ジュール・ヴェルヌという新兵が、栄光個体を打倒した。
『ノーチラス』は再びアラスカを救った。
希望に満ちた一報は火が素早く広がるようにアラスカ全土を覆う。
長い冬の時代に、人々はずっと……英雄を求めていた。
「――ヴェルヌの見舞いには、行ったの? ネモ」
「うん。マゼンテは?」
「私も一度行こうとしたのだけれど、ひとが凄くて」
「んー、そっか」
「ええ。彼はもう、英雄だから」
ネモはマゼンテをみた。
マゼンテは嘘をついている。『ノーチラス』の人員ならば――いくらでも怪我に伏せるヴェルヌの様子をうかがう方法はあるはずだ。以前から、マゼンテはあまりヴェルヌのことを快く思っていないということは承知していた。
「あいつは英雄なんかじゃないよ」
「――というと?」
「ジュール・ヴェルヌはただのタイピストさ。少なくともジュール自身は、自分のことを英雄だとは思ってないだろうね」
「ずいぶんと」
「え?」
「随分と、彼のことを詳しいのね」
「いや、そんなんじゃないけどさ。一応おなじ打撃三班だし」
「じゃあ、ヴェルヌの本を読んだこともあるの? ノーチラスに入った後も、暇な時に文章を書いて出版社に持ち込んでいるようだけど」
「もちろん。『地底探検』と『海底二万マイル』がお気に入りでさ――特に、『地底探検』のセリフが凄く好きなんだ」
「へえ。どんなの?」
「うーんと、そうだな」
遠くに姿を現したジュノー軍病院を眺めながら、ネモは言った。
「『さようならじゃない。またいつかだ』ってやつ」
未開の地底を往く大学教授の主人公が、旅の仲間の甥に向かって掛けた一言をネモは反芻する。
「『地底探検』はさ。タイトル通りこの地球の地底を探検するんだけど――そのときに、溶岩に近い地帯にぶち当たっちゃって、そりゃもう喉がカラカラに乾いちゃうんだ。深度は深海よりもずっと底で、近くに水なんてあるわけない。でもそんなときに主人公は、諦めずに水を探すんだ」
水を探すんだ、と彼女はもう一度呟く。
「彼の甥っ子は当然嘆くよね。叔父が自分を見捨てて、どこかに行っちゃいそうなわけだから。でもそんな時に――一人ぼっちで心がバラバラになりそうな時に、『またいつか』って約束してくれる人がいるっていうのは、とても素敵なことだと思うんだ」
マゼンテだって、ネモにとってはその言葉と似た存在だった。
「またいつか」と言葉を託してくれるような、人生の仲間。
あの日、杏の樹の下で――だからネモはきっと。
マゼンテは黙って、青みがかったブルネットを揺らしている。
彼女が物事を考えている時の髪の靡き方がネモは好きだった。
「なに考えてるの? マゼンテ」
「そうね」
雪の名前を持つ女は、すこし振り返って言う。
「少なくとも、貴女のことじゃないわ。今は」
「なんだい、そりゃ」
ネモは苦笑した。
「じゃあ普段は、あたしのこと考えてるって?」
「そうかもね」
「ふうん……」
雪は弱い。
赤吹雪の向こうが、わずかに見える気がする。
「でも今は本当に違うの。エカチェリーナさんのことを、考えていた」
「隊長のことを?」
「そう」
マゼンテは内勤の軍事開発部門に所属しているが、なまじ本人が有能なせいかノーチラスの事務処理全般の統括を任されていることも多い。
そしてその都合上、彼女はエカチェリーナとよく行動を共にしていたのだ。
ネモは――というか、ノーチラスの隊員のほとんどは、エカチェリーナのことを無意識に敬遠していた。彼女は強く、あまりに孤高な存在だったからだ。
彼女に屈託なく接することが出来る人間は――副隊長のムラマサを除けば、ネモの知っているうちではヴェルヌとマゼンテしか残らないだろう。
だから。ネモは単純に、その事実を今の今まで努めて忘れようとしていて――けれどマゼンテにとってはそうではなかったのだ。
(あれはまるで、)
葬式に使うような暗幕で覆われた病床。
光も音も無い、そこは死の世界だ。
そこから漏れる苦悶の声と、ぱたぱたと零れる喀血の跡。
あまりに痛ましかった。
彼女を本隊まで運んだネモは、その後の惨状を語る言葉を持たない。
「隊長は、死ぬのかな」
「――それは、」
ネモは顔を背けた。
災厄の栄光個体を断ち伏せた代償は、あまりに甚大だ。
「考えたくないって言ったら、あんたは怒る?」
「怒らない。私も同じだもの」
英雄を追い求める心と、英雄を引き留める心。
そのどちらの感情もきっと、たった一つの願いから来るものなのだろう。
「でも私たちは私たちにできることをするしかない。そうでしょう? ネモ」
「参っちゃうよねえ。年下のくせに、あたしよりよっぽど立派だ」
寡黙なネモも彼女の前では宝石のように鮮やかで居られた。
マゼンテの気高さに、どれほど救われただろう。
「高貴なる者の務めってやつよ」
「やだやだ。お高く留まっちゃってさ」
「ぶつわよ」
二人の向かう先には、戦闘で壊れた家屋の残骸がうず高く積まれている。
今日は休日だ。瓦礫の撤去は長い仕事になる。
長い冬の時代には、英雄が必要で。
そしてこれまではエカチェリーナだけが、ただ一人の力持つ勇者だった。
+
ジュール・ヴェルヌは目を覚ます。
備え付けの机の上には、簡素な花瓶が載る。
寮舎の自室ではない。
ぼんやりと目を傾けると、そこには黒髪の少年が座っている。
「副隊長」
「や、ヴェルヌ殿。お早う」
ムラマサは懐から銀の煙管を取り出し、机上の煙草盆に雁首を寄せて火を付ける。口元で燻らせると、薬草と薄荷を薫らせる煙が病室に漂った。
そのたなびく煙を、ヴェルヌはじっと見ている。
「タバコ……吸うんですか」
「いや。これは薬草と薄荷を調じたものでな、むしろ健康に良いのだ」
そう言って彼はにこりと笑い、懐から煙草入れを取り出した。
「ほうれ、嗅ぐと良い。気分がすっきりするぞ」
「じゃあ、ちょっと失礼して」
鼻先に差し出された藍の布袋を僅か嗅ぐと、確かに――すぱっとした、キレの良い香料のにおいが鼻腔を満たす。
「良いですね、これ」
「水煙草もあるぞ。お主の容体が快復したらば、またもって来よう」
容体。
「エカチェリーナさんは?」
彼女の無惨な姿を思い出す。呻き、惨めに背骨がしなり、口角の泡を凍らせていた英雄の姿がカロリーヌと重なった。
ムラマサは口を噤み、ゆっくりと煙管を指で叩いている。
「ムラマサさん。隊長は元気なんですか」
ひどく寒かった。
「隊長、ご飯は……ご飯は、ちゃんと食べられてるんですか。そうだ! この間珈琲の豆を送ったんだけど、口に合ってるかどうか全然分からなくて。ムラマサさん聞いて来てくれませんか」
「ヴェルヌ殿」
「ムラマサさん!!」
「危篤だ」
初めから、理解していた。
それでも見えない薄氷の希望に縋ることを望み、そうして打ち砕かれる。
ジュール・ヴェルヌは、永遠に無力な存在だ。
「エカチェリーナ殿は、世界政府に処理される」
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