白銀の羅針盤 Ⅲ
時刻は、ヴェルヌがガリアの下にたどり着く少し前に遡る。
「隊長の所には、おれが行きます。おれならガリアを足止めできる」
ヴェルヌはムラマサにそう告げた。
「……栄光個体の脅威が解らぬお主ではあるまい。理由を手短に話せ」
ヴェルヌの背筋が凍った。その声は、言外にヴェルヌを引き留めているのだろう。ムラマサの幼い顔つきには、しかし今は何の色もない。
(言葉を選ぶ必要がある)
そう考えながら、ヴェルヌは口を開いた。
「今回の襲撃。明らかにこちらの連絡網の概念を理解して動いていますよね」
「うむ。そのせいで、隊長への救助が一歩遅れた」
「そこです」
侵攻の当初より始まっていた、電信塔の分断。氷惨たちの組織だった進撃。これらには明確に、こちらの先手を取るという意向が見える。通常の戦争ならば、それだけで軍事的に優位性のある行動をしているという評価ができるが…こと氷惨にかけては、そうではない。
こちらの連携を断ち、戦略的な優位に立ったところで、氷惨は都市も戦功も欲さない。ということは、この「状況」それ自体が彼らにとっての「目的」なのだ。
「そしてこの状況によって生み出されるものを、ヴェルヌ殿は問うているのだな」
「ええ。我々が栄光個体に対して、たった一人の英雄を回さなければならない状況です。そしてそれは恐らく――エカチェリーナ隊長その人こそが、彼らの『目的』です」
「……!」
ムラマサは絶句した。
氷惨そのものの脅威を軽視していたわけではない。数々の栄光個体と渡り合い、そして生存してきたムラマサは、氷惨の狡猾さを十二分に知っている。だが、その裏にあるべき「目的」さえも――果たして想定していたかどうか。彼らを、ただの獣として扱ってはいなかったか。
ヴェルヌの予測は、聞かされれば至極納得のゆくものだ。
それは飛び抜けた神算鬼謀などではない。唯一ムラマサたちに欠けていたのは氷惨を軍団として扱うような、視点の差異である。
「そうか……ガリアは『エカチェリーナが倒せなかった』唯一の栄光個体であることだ」
「そして、敵は明らかにこちらのやり口を学習している。でなければ、隊長が敗けるわけがない。そしてガリアという要素が氷惨の異常行動の原因となっているという予測は、なんら無理のないものです」
「ならば、ガリアの能力も解るか?」
「はい。奴は以前不凍毒を産生する機能を有していました――隊長が毒でやられたのなら、エアロゾル化を引き起こせてもおかしくはない。更に雷撃でも完全に倒れていないということは、ジュノーの襲撃とは違い何らかの防御手段を有している可能性が非常に高いと思われます」
「勝算は?」
「ありませんよそんなもの」
「貴殿はもう、帰らないということか?」
「そうかも。でも、死ぬ気はないです」
わずか、沈黙が氷原を走った。
「……ネモとスナイデルを連れて行くで御座る。隊長を連れ帰るには人手が要るだろう、ヴェルヌ殿」
そうしてムラマサは背を向ける。
「拙者たちは行く」
「はい。ご武運を」
「貴殿もだ、ジュール・ヴェルヌ」
彼は振り返らず言った。
「生きて帰ってこい。拙者は友人として、貴殿の帰りを待つよ」
黒い髪がたなびく。その色はひょっとしたら、コルトのものと同じだったかもしれない。
+
そして時刻は、現在に巻き戻る。
「――ネモさん! ネッドさん! お願いします!」
「任せろッ」
荒れ狂う雪のヴェールを切り裂くように、凍弩の矢がガリアに着弾する。
しかしその紗幕は、絶大な破壊力を有する
風を乗りこなし、ネモが背後に滑走する。
硬化の手刀をスケート・ブレードに転用した一撃は、しかし。
二対の触手がそれを防ぎ、
更に気化毒がそこから噴射される。
(毒を霧みたいに――)
ヴェルヌは考えながら、後方を見る。
ネッドはエカチェリーナを担ぎ、ガリアの攻撃圏内から離れようとしていた。
吹雪の向こうに、微かに鹿を繋いであるのが見える。
ヴェルヌは鉤錘を射出し、ガリアの甲殻に突き刺した。
手指の輪鉄を操作し、素早く巻き取り――ガリアが一瞬だけ態勢を崩す。
毒の霧を裂いて、鋼の拳打がガリアの顔面を捉えた。
ヴェルヌの予想を伝え聞いたネモは、あらかじめ粘膜を硬化させ毒の侵入を防いでいる。
このような備えができるからこそ、彼女を攻撃役として先行させた。
今ではすっかり聞かなくなった機関銃じみた音を響かせ、巨体が地に退る。
(ここだ)
ヴェルヌはジャッキを起こし、ガリアに飛び掛かった。
瞬間、彼女も異能を解き、くるりとガリアから反転する。
「ヴェルヌ、『さようなら』じゃなくて――」
ネモの声が、急速に後退していった。
腕部をスケート靴の刃のように硬化させ、凍った大地を滑走しているのだ。
「ええ、『またいつか』!」
彼女の方に向かっていた触手を凍刃ではたき落とし、“船長”とヴェルヌはスイッチした。
(まだ、前章だぞ。しっかりしろヴェルヌ)
浅葱色に艶めく氷の刀身をぐるりと一廻りさせ、ガリアと間合いを取る。
英雄という物事について考えるとき、ヴェルヌの脳裏に描かれる輪郭がある。
親友コルト=トロンソンの姿だ。
氷面に生える黒い髪。
世界の果てを目指す勇気。
厄災を色線として感知する異能。
その全てが、北極の太陽のように眩しかった。
彼は北極遠征に参加して、栄光個体に殺されたのだという。
そして今再び、ジュール・ヴェルヌは栄光の個体と相対する。
散華のガリア。
ヴェルヌにとって最悪の運命は、吹雪が荒ぶアラスカに茫と佇んでいる。
大半の触手は、エカチェリーナに破壊されたのだろう。
巻貝のような姿はもはや地に這い、少ない触腕が残されるのみだ。そして僅かなそれらも、蟲のように巻貝を支え移動するための歩脚に回している。
恐るべきは、ガリアを単独でそこまで追い詰めたエカチェリーナその人だ。
どれほどの武勇があれば、栄光個体を単独で討ち果たしうるのか。
雷撃は通じていない。恐らく絶縁体のような陶性を付与する器官が存在するはずだ。触手による毒ならばエカチェリーナは避けきることができるだろう。故にガリアの神経毒は気化が可能である。そこまで読み切ったところで。
ヴェルヌには想像もつかなかった。それは修羅の世界だ。
だからこそ、彼女を失うわけにはいかない。
同時に、ガリアを逃すわけにはいかない。
世界にただ一人の英雄が、人類の絶望をこれほどまでに追い詰めたのだ。
『ノーチラス』の攻撃ならば、この怪物にとどめを刺せる。
それまで、誰かが時間を稼がなくてはならない。
命を懸けてでも。
(カロリーヌ)
背には大量の≪銀の女≫を収める矢筒。
右の腰には、溶けぬ形見の短凍刃。
胸には約束。
耳にはコルトの
そして過去には、英雄に救われた遠い記憶を持っている。
ヴェルヌは今、止めてはならぬ物語を紡いでいるのだ。
闇と紅い雪のなかで、火花がぱっ、ぱぱっ、と散る。
不規則な残響は、金属を打ち付け合っているのだとわかる。
つぱんっ。
つぱっ。
つぱっ、つぱっ、ちっち、ぱっ。
火花の熱が雪のひとひらに宿り、溶ける。
雨粒となる。
それを、氷の刃が裂いた。
腹部に大きな傷跡が見える。エカチェリーナの攻撃が上手く作用しているのだろう。
再び浮遊しようとする様子はいまのところない。
恐らく、一撃で体内の重要な機関を破壊したのだ。
攻撃に使われる触手は二振りのみ。あとは芋虫の歩脚のように、体を支えるだけだ。
凍斧を振るわれた甲殻は大きく傷つき、内部の鉱質繊維が綻び出ている。
それでも。
(――早すぎる)
『ノーチラス』の内で――ムラマサが最も早く動ける者だとするのなら、ヴェルヌは最も早い時間を視る者だ。予観の異能は、こと防御のみに関して言えばムラマサよりも鋭い。
それだけが、ヴェルヌが未だ地に立っている唯一の理由だった。
触手の斬撃を間一髪防ぐ。
二振りの触手の根元は異常に太く、切り株のように隆起しているのが見える。
ガリアは恐らく、全ての攻撃性能を最低限の触腕に集中させているのだと理解できた。
しかし――理解できたところで、今のヴェルヌにはどうしようもない。
危機を報せる像が観える。
察知。刃を平らにし、盾のようにして連撃を捌く。
やすり状に結晶化した触手を、力ずくで滑らして、斬り込む。
(だめだ。遅い)
強引な反撃は引き戻された触手にすかさず弾かれた。
木の根に小さな孔がぐぱりと開き、そこから毒の霧が噴き出す。
その未来を視ている。
首を横に振って避け、後ろ手に回した鉤錘で間合いを取った。
あまりに不利な攻防を強いられていると感じる。
ジュール・ヴェルヌは英雄ではない。
一撃を受ければ、それで死ぬ。
(勝算なんてない)
――だが、僅かに残った可能性ならば、まだある。
背負った≪銀の女≫はガリアにもその仔細を知られていない唯一の手札である。
エカチェリーナが甲殻に穿った傷を狙って、刺し違えながら弾頭の信管を直接作動させる。
嵐を照らす灯台の如き、靄がかった希望だ。
(勝負が決まるとしたら、それは一瞬のことになる)
二人は、動かない。
予観は挙動を伝えず、構えられた二振りの触腕はぴたりと止まっている。
ガリアが回復を待っているのか、何かの機を窺っているのか、ヴェルヌには判然としなかった。
無論、時を稼がなければならないという趣旨は理解していて、実際に上手くことが運んでいるのならばそれで何も言うことはなかったが――果たしてこの空白の主導権は、眼前の怪物に握られているのではないか?
ヴェルヌはちらりと剣を動かし、
つぱっ。という音が、ガリアの中から聞こえた。
火花が爆ぜる音。
散華のガリアの能力には、毒の凍結を防止するグリセリンの精製も含まれている。
予観が閃光に塗り潰された。
何も、見えない。何も。
鉤錘では間に合わなかった。ヴェルヌはジャンプ・ジャッキを起こし、真上に跳躍した。
爆音。
真下で、ガリアの体躯が狂った蒸気機関車のように通り過ぎて行った。
着地。
遅れて再びの、爆音。
異能の像は、背後からの突撃方向を完璧に表示する。
予観が示すままに、右に転がって避ける。
すぐ隣を黒い暴風が駆けていった。
(あ)
ヴェルヌは雪原に吹き飛ばされた。
たった一撃だけで、立ち上がることができない。
熱波と暴風に体を叩かれ、伏せながらガリアをみる。
(やっと解った。こいつは地下の凍土と岩盤を爆破して、防壁をすり抜けたんだ)
アラスカの人々は、ガリアは常に空から来るものだと信じていた。
あまりにも象徴的だったからだ。
磁場によって浮遊し、死の毒を振りまくその姿が……あまりにも。
そうではなかった。
散華のガリアの本質は、致死の神経毒などではない。
ましてやエカチェリーナの攻撃すらも避けうる、原理不明の知覚などでも。
内部に巣食っている植物性の有機素材は、一種の化学工場として機能していたのだ。
樹木のような触腕はあくまで副産物に過ぎなかった。
ヴェルヌは、昔アリステッドの孤児院で読んだ中国の植物書――たしか『本草綱目』だったか――に載っていた、モミの木とオジギ草の記述を思い返す。
モミ科の植物は、吸い上げたミネラルを鉱物として表皮に形成することがある。
オジギ草は細胞を膨張させる水分の圧力を操作することで、幹部の原始的な動作を可能にする。
過剰に分厚い甲殻は、装甲の役割を果たすと同時に内部で炸裂する爆轟の圧力を高める薬室の機能を有しているはずだが――それさえもプラント・オパールのような原理で造られているとするのならば。
「おまえは……植物なんだ」
散華のガリア。
奇しくもその災厄は、華の名を纏っていた。
今なら理解できる。
浮遊能力に使われていたであろう磁場の操作機構は、同時に植物の生育に対する凄まじい影響を発揮する。また、樹木の生長と発芽に必要なマット体は恐らく天然の土壌で賄われているのだろう。なぜならそれは、ニトログリセリンの精製に必要な珪藻土を固着させるためだ。
同時にガリアが産生するテタノス系の神経毒も、やはり土中に棲む破傷風菌などがベースとなっているものだと推測できる。極めつけは、エカチェリーナの雷撃を防いだ絶縁体の存在だ。
土は体内で高温焼成する限り、陶器のような絶縁体の原料にもなりうる。
化学物質を自在に精製できるほどの代謝を有することからして、土塊を焼き固めるほどの熱量を甲殻内で発生させることは可能に思われるし――そのために、ガリアの殻は巻貝じみた形状なのだろう。装甲、圧力室、そして絶縁体を形成するための化学焼成窯のすべてを併せ持った機関。
ひどく冷徹で、合理的な機構に思えた。
ただでさえ非情な力を持つ栄光個体が「学習」という過程を踏めばどうなるか?
その答えが今ここにある。
足掻くことさえ許されぬ、生物としての確固たる性能差も。
そうではない。
(考えろ)
エカチェリーナが奪ったはずのものを反芻する。
もはや、海のように襲い来るだけの触手は存在しない。
一度に生成できる毒や爆発物の総量にも、限界が存在する。
そうでなければ、ガリアに物体を取り込む機関である「口」が存在する意味はあるだろうか? ヴェルヌはガリアの叫びを聞いていた。
氷惨に無意味な機構は存在しない。
例えばガリアに目や耳などの感覚器官がないのは、原理不明の知覚によってこちらの攻撃を認識できるというただそれだけの理由に過ぎない。
ジュノーの戦いでの顛末をヴェルヌは聞いていたが、ガリアは時折死角からの攻撃をかわす素振りさえ見せたという――そして同様に、体内へと物体を運搬する路としての「口」があるならば、その用途は土壌の摂取以外にありえない。つまり、ガリアにも確実に限界はある。
ましてあの巨体を跳躍させるだけの爆轟ならば、甲殻にも相当な圧力負荷が掛かっているはずだ。
(考えろ)
ヴェルヌに足りない要素は、迅速な火力だ。
そしてそれは――今、ガリアの側にある。
(こちらの攻撃はことごとく躱される。だから無茶苦茶な速さか無茶苦茶な精度かのどっちかが必要なわけだけど、おれはムラマサさんでもスナイデルさんでもない――せいぜい攻撃に「当たってもらう」か相手自身に「当てさせる」くらいが関の山だ。だったら、どうすれば良い?)
斬撃。予観で示された通りの軌道を縫って、中空に閃く。
避けられない。受けて流す。
奪われ続けた人生の中で、この異能だけはヴェルヌを裏切らない。
(この”物語”だけは、おれの、思い通りになる)
エカチェリーナならば、このような状況にどう対応するだろうか。
人類の雷のような彼女ならば。
(あれ)
彼女の、凍斧は――。
雷が、ヴェルヌの脳髄に走る。
彼は駆け出した。
ガリアも再び巨重を駆動させる。
爆発。
紅蓮の閃光と轟音が走って、そして死の気配が迫る。
ヴェルヌの身体を再びガリアが掠めて、そして少年は無様に吹き飛ばされるかに思われ――彼の姿が、ガリアの視界から消えた。
上空。
交錯の刹那に後ろ手に鉤錘を放ちながらジャンプ・ジャッキを作動させ、ガリアの甲殻に跳躍の慣性を利用して飛び移ったのだ。
(今の行動には反応しない。それでもって、毒は――)
神経毒は、来ない。ヴェルヌの読み通りだ。
(ざまあみろ。毒を作れないんだろ)
甲殻内部の温度は、先の爆発によって極端に上昇しているはずだ。
神経毒の主成分である蛋白質は失活し、毒性を失う。
自然、その甲殻に乗っているヴェルヌもただではすまない。鉄張りの軍靴は火を宿すように熱く、その中にある皮膚は焼けただれている。
構わなかった。
ここから先は、走る必要すらない。
ガリアの背には鉤錘を刺して何とか張り付いているが、振り落とされなければ、それでよかった。
(ここから先は、背に乗ったおれを何としてでも排除しようとしてくるはずだ。甲殻を熱する手段はとれない。こいつの方が先に耐えられなくなる――触手だって燃えちまう。毒も出せない。磁場も隊長の雷で狂ってる。だったら次にとる行動は)
――二振りの触手が、天に伸びた。
樹木からは、爆発の火花が咲いている。
ニトログリセリンを主としたを爆破成分を生成できるのならば――進退窮まった現状に、触手での攻撃に使わない道理がない。
(それでいい)
ヴェルヌには、背に乗った自分を転がって圧し潰そうとすることはしないだろうという確信があった。
浮遊能力に、触手の歩脚。加えて、加速のための爆轟。
その全てが巨体を移動させる機能であり、自力での歩行は困難だと語っているに等しい。つまりガリアは、一度背を地に向けたらそこから自力で起き上がる手段を持ちえないのだ。
そして。
ヴェルヌの予観の本質は、防御にはない。
映像として観測した事象に干渉できるという異能である。
物語を紡ぐ彼の瞳。
それは、迎撃の瞬間にこそ――最も真価を発揮する。
(今だ)
自身に炸裂の触手が接触する直前。予観で見計っていた瞬間に、
ヴェルヌはガリアから落下した。
巻いた絨毯がほどけるように転がりながら、受け身をとる。
ガリアが急速に離れ。
だが――爆風で加速した触腕が止まることはない。
散華のガリアに、その攻撃は避けられない。
ヴェルヌは凍斧を盾のように掲げ身を伏せた。
次の瞬間。
ガリアが閃光とともに消し飛んだ。
+
クレーターのように陥没した凍土。
そこに、二つの影がある。
一つはなおも巨大で、もう一つはあまりにも小さかった。
ジュール・ヴェルヌはふらふらと立ち上がった。
左半身には、びっしりと爆散した甲殻の破片が埋まっている。
瞼は千切れ、左腕はぷらりと垂れて、流れた傍から血は凍てつく。
まるで彼の半分が赤い樹木になったかのようだった。
それでも――凍土を陥没させるほどの爆発の余波を受け、それでも。
かれの右手から、エカチェリーナの折れた凍斧の刃がどさりと落ちた。
くすみ歪んだ金属氷の塊は、たしかにヴェルヌを守っている。
ノーチラスの武装のなかで、屈指の巨大さと頑健さを誇る斧を――かれは予め、爆発余波を防ぐ盾として利用することを考え、折れた凍斧の刃の場所まで落下できる位置を取れるように立ち回っていた。
ガリアを倒すには、雪花鉱を破壊しなければならない。
その瞬間まででもいい。生き永らえる必要があった。
「お前は……死ぬ」
ヴェルヌは血を吐きながら、眼前の氷惨に告げた。
「ここでの戦いで、ずっと、お前の攻撃には……ずっと、精度がなかった。何より、地面から触手を通してこなかった。あれは、敵の位置が解ってはじめて……使える、技だ。」
対するガリアに、かつての威容は見られない。
「おまえ、全然見てないんだろ」
栄光の個体は、ぼうぼうと焼ける炎の花に包まれている。
その事実を確信したのは戦闘の直後だ。
ネモがスナイデルの矢の紗幕に紛れて接近した際、ガリアは確かに防御行動を見せた。それは一見すると何の変哲もない戦闘の機序に見える。
だが、ガリアには人間のような感覚器官がないのにも関わらず――どうして、ヴェルヌたちと同じく「見ている」ような行動を取ったのか?
ガリアの浮遊磁場が、その性質上……非常に精密な操作を必要とすることは容易に想像できた。ならば、それらを観測する能力も自然備わっているはずだ。
そして、ヴェルヌたちの装備はそのことごとくが金属で鍛造されている。
「羅針盤みたいなものが、何個も…おまえのなかに、あるんだ」
散華のガリアの最後の能力。それは、磁気による周囲の観測である。
浮遊によって磁場を下方広範囲に投射することで、ガリアは直下からの攻撃に関しても鉄壁を誇った。しかし――エカチェリーナの決死の一撃によって、磁場を計測する器官は損壊したはずだ。ゆえに、ガリアは浮遊が出来なくなった。
曖昧な知覚でしか、世界を捉えられなくなった。
二振りに絞った触手は、むしろ速度を重視し当てることに特化しただけのものだ。
だからヴェルヌでも、辛うじて攻撃を防ぐことができた。
その攻撃には精度がなかったから。
だからヴェルヌでも、辛うじて背中に飛び移ることができた。
地を這うガリアに、全方位に磁気を投射することは出来なかったから。
だからヴェルヌでも、ガリアに自身を破壊させることができた。
……ガリアの触手は磁気観測に干渉しない樹木の素材だと、知っていたから。
報告によると、エカチェリーナは電磁場でガリアの触手を防いでいたという。それは恐らく、赤吹雪の金属成分が周囲に張り付いていたからだ。薄く凍りついたそれは、爆轟の炸裂と熱を受ければ簡単に吹き飛ぶようなものでしかない。
「エカチェリーナさんがお前の所に来た時点で、勝敗は決まっていたんだ」
ヴェルヌはガリアをみた。
土塊と球根で構成された樹木の蛇が、かろうじて形を保っているようにも見えた。連続する爆発で極限まで膨張していた甲殻の内圧が、自身の触手の一撃によって臨界点まで達したのだ。ヴェルヌの予観通り、爆轟を纏う触腕はガリア自身を貫き――そして全てが火に帰した。
甲殻が大爆発を起こすということは、甲殻内部で生成していた爆破成分への誘爆を招くという事実を意味する。
熱と空気を利用する構造体ならば避けられぬ、圧力の炸裂だ。
その威力は、鉱物成分の堆積によって何百層にも重なったガリアの装甲を一瞬で破断してなお余りある。
ヴェルヌは一歩踏み出す。激痛が身体を襲った。
そのわずかな一歩だけでいい。歩き出す勇気だけが欲しかった。
コルトがくれた、銀の耳輪を思う。
――いつか、世界の果てを見に行くんだ。
「……解ってるよ。おれにやれって、そう言うんだろ」
約束を果たす日が来たのだ。
英雄というものごとについて考えるとき、
ヴェルヌの脳裏にいつも結ばれるもの。
(コルト)
(おれはさ、世界の果てに行くよ)
(カロリーヌだけじゃない。みんな一緒だ)
(エカチェリーナさんも)
(みんなが闘ってる。自分の存在を懸けて)
(だからこれは、止めちゃいけない物語なんだ)
ガリアは触手を構えた。
ヴェルヌは右手を背に伸ばした。
炎に濡れた氷原の波に、コルトの耳輪が映ったような気がした。
ガリアは炸裂の触腕を放つ。
ヴェルヌは炸裂の矢を放つ。
それは――鋼糸に
ヴェルヌの操作に反応して、アンカーの基部が外れた。
慣性に従い、銀の尾を引く人類の一矢はガリアに飛翔する。
そうして、自身が貫かれるのを待って――。
ヴェルヌは、ガリアの触手が力なく落ちるのを観た。
「――」
それは、どちらの声だっただろうか。
がィんという、曇った鋼の音響が揺れた。
アラスカを襲った氷惨は一度のたうち…そして、崩れ落ちる。
そこにはもう、土塊と樹木の残骸のみが残されていた。≪銀の女≫の炸裂によって、全身を寸断されたのだ。
そして……致命の触手は、ほんのわずかに。ヴェルヌに届くことはなかった。
一手でも失着すれば、呆気なく死んでいた。栄光個体とはそのような相手だ。
何の必然性もない。妬けた足が痛んで、前に進めなかっただけのことだ。
それだけのことが。
燃える土塊のなかに、何か星のような礫がキラキラと光っていた。
(雪花鉱だ)
ヴェルヌはアラスカの空を見上げた。そこにもきっと、星ぼしが瞬いている。
壊滅と暴虐の嵐は、今は酷く静かだ。
「……みんな」
焼けて爛れた、厄災の花を見た。
戦いは終わった。
栄光の個体はついに倒れた。
夜の凍土に残るのは、乾いた残火だけだ。
ずたぼろの隊装からは、鸚鵡貝の懐中時計が覗いている。
それは壊れ、血に濡れ、一つの針だけが揺らめく——白銀の羅針盤のようにみえた。
「おれたちは、勝ったよ」
一八七六年四月八日、アラスカ。
栄光個体、散華ノガリア討伐セリ。
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