白銀の羅針盤 Ⅱ

 氷惨との戦線においては、従来の――人間の戦争で用いられていたそれとは、全く異なった連絡網の形成が要求される。通信を傍受せず、連絡網の概念も理解しない氷惨は、しかし疲労を知らぬ特性ゆえに電撃的な進軍速度を有するからだ。

 ところで、十数年ほど前の一八五八年。アメリカの実業家サイラス・フィールドによって、北海の海底に電信ケーブルを横断させるという計画が立ち上がった。彼は最終的に軍事電信網システムを構想し、それを使用する軍需企業や政府から得られる様々な利権を目的としていたのだが、偶発的な栄光個体の発生に頭を痛めていた政府にとっては渡りに船の話でもあった。政府といくつかの企業がフィールドの計画に賛同し、そして創世期のウロボロスよりも長い工事が始まった。そしてあまりに困難な作業に頓挫した過去があった。北海さえも、氷惨が――忌まわしき潜血型コールドブラッドが支配する領域の一部に過ぎなかったのだ。船舶の鋼板すらも貫徹する潜血型コールドブラッドが跋扈する海中で作業可能な潜水夫や艦隊など、北半球のどこを探しても存在するわけがなかった。そういうわけで、ウィリアム・クックとチャールズ・ホイストンが熾し、サミュエル・モールスが不断の努力で継いできた有線通信の火は、儚くも氷に閉ざされるのかと思われていた。

 しかし、とある一人の凍霊フリズナーが――すなわち“雷帝”エカチェリーナがケーブルの敷設作業に協力を申し出るようになってからは、状況が一変した。彼女の雷撃は周辺海域にはびこる潜血型氷惨を一掃し、作業に従事する潜水夫たちを大いによく助けた。

 結果として北半球を繋ぐ電信網構想は凄まじい躍進を遂げ、電信技術の有用性は世界政府をはじめとした各国の指揮官に伝わった。フィールドは四十三万ポンドという莫大な収入を得たが、一八七二年に栄光個体の燦然たるカレーニナに焼かれて死んだ。

 彼が描いた電信システムは、アラスカ統監であるジョン・メンデルホールも当然のように構想当初より注目していた現実的な通信網の一つであり。

「ムラマサ副隊長! 北東第三通信塔より緊急通信です!」

 そうして来たる打電は、まさにエカチェリーナその人の危機を告げていた。

 伝令の凍霊は青ざめたまま、鹿に乗るムラマサに恐るべき速度で並走している。

 機動に向いた異能を持つ『ノーチラス』隊員はこうして伝令の任を買って出ることも多かった。


「――送れ」

「読み上げます。“ライテイ”ハガリアトコウセンセシ/“ライテイ”ドクヲウケル/シキュウ『ノーチラス』オウエンサレタシ」

「各通信塔に連絡は?」

「既に。ですが、私が第三通信塔の付近で守備陣形をとっていた頃には数多くの闘士型が侵攻していました。一刻も早くムラマサ副隊長に伝えろとのことで持ち場を離れてこちらに来ましたが、通信塔の方は恐らく、もう。申し訳ありません」

「気に病むな」

ムラマサは伝令の凍霊の肩を叩く。

「この通信を寄越しただけでも立派な武勲であるよ。貴殿、名は確か」

「ブリアンです。覚えていてくれたのですね、副隊長」

「無論で御座るよ。よし、ブリアン殿」

 ムラマサは目を閉じた。

 彼の思考速度は、その身のこなしと同じく加速できる。

「貴殿は西側の通信塔まで走れ」

 それを聞いて、眼前の凍霊は面食らうような素振りを見せた。

「エカチェリーナ隊長はどうするのですか」

「そこなのだ。そも、通信が伝わっておらん可能性がある」

「なんですって」

「貴殿は、闘士型が通信塔周辺に侵攻していたと申したな」

 ムラマサは少年のような利発っぽい顔を険しくしながら続けた。

「栄光個体と交戦している以上……どのような油断も、為されるべきでないので御座る。彼奴ら通信網を攻めろという指令を基構分化氷惨へ下していることも考えられるのだ」

了解しましたC'est entendu副隊長殿lieutenant-capitaine。このブリアン、『ノーチラス』の意地を見せます!」

「よく言った、走れ!」

「はっ!」


 叫び、西側の街区へと不可解な残像をなびかせながらブリアンが去っていく。

 だがその軌跡を尻目に、センシ=ムラマサには迷いがあった。

 エカチェリーナを助ける。それは必須事項だ。

 しかし――ムラマサが動くとも、動かまいとも、どれほどの損失が生み出されるか知れない。『ノーチラス』結成からの猶予は十か月しかなかった。そのなかで、ムラマサ自身の他に誰が――凍霊の面々の能力と個性を正確に把握し、適切に運用できるというのだろうか。

 凡百の士官では、凍れる幽霊の手綱を執ることはできない。

 非効率な指揮は、結果的に多くの死者を出すことに繋がる。

 それでも。今ここでエカチェリーナを失うのは、それ以上に大きい損失だ。

(拙者が打って出るしかない)

 そう考え、軍鹿の手綱を捌きかけたその時。

「ムラマサさん」

 金髪の少年が、ムースに跨り歩んでくるのがみえた。


                 +


 極限の戦闘状況では、死の恐怖はあまりにも遠い。

 凍えるからだを無心で動かしているうちに、戦場のおそれはなりを潜め、かわりに己の強さの効能を信じられるようになってくる。あるいは、痛苦と歓喜が逆転する死の光景のみが、エカチェリーナの見ることが出来る唯一のものなのかも知れなかった。

 絶死の神経毒を体内に受けた、己に残された時間を知覚している。

(あと十秒)

 その分水嶺を過ぎれば、兵士としての彼女の挙動は停止する。

 だが――堕とした。

 世界の特異点の全てを費やして、栄光の個体を地に縫い留めている。


 アラスカの大地には、鉱分を含む赤吹雪が堆積している。

 ならば当然の如く、エカチェリーナの操れる電磁力の対象にも含まれる。

 一方で――絶縁組織を有するガリアには、直接の雷撃や電磁操作は通じない。

 ならば、通じるものを打ち込むだけだ。

 先ほど楔のように体内へ振るった凍斧を媒介に用いるのならば、雷帝にとってそれは容易に制御しうる戦闘要素の一つでしかなく。ゆえに。

 ガリアと地面を電磁石の原理によって接着することも、可能である。

 甲殻が身をよじり、最後の抵抗とばかりに地面との間隙から触手を射出した。だがそれさえも、それはエカチェリーナに触れずに歪曲する。

 彼女の周囲の紅い雪は、煙を立てながら融解していた。

 電磁場を周囲に張り巡らせていれば、そのような熱の転移が起こる。

 赤吹雪による金属成分を纏うガリアの触手は、“雷帝”に届くことなくねじ曲がった。

 すぐさま反撃が来る。

 歪む。

 膨大な熱が満ちる。

 視界を覆うほどの触手が――いまの彼女には、一切通じることはない。

 周囲には蜃気楼が立ち込め、偽装民家に配備されていた凍弩や凍槍が散らばっている。

 そのなかでただ一人、エカチェリーナだけが大地に立つ。


 電磁場による金属機動の歪曲。

 最大電圧を発揮した時にのみ発動できる、エカチェリーナの持つ最強の防御手段だ。

 全身の脂肪を大量に消費するこの手段は、最後まで温存しておく必要があった。

 散華のガリアに限らず、栄光個体の雪花鉱の位置はそのほとんどが不明である。

 最強の武装である凍斧も失われている以上、絶縁体を貫通しながら至近の雷撃で仕留める他に手段はない。

 毒に震え、喚き出す脚を、電気信号を制御することで辛うじて意志通りに動かしていた。

 やはり――「準備」によっても、は産生されていない。


(私はここで死ぬ)

 

 準備の失敗が。灼かれ続ける神経の痛苦が、徐々に麻痺していく筋肉の痺れが、全てが死の予感を如実に伝える。

 それでも。

 ここでアラスカを守って死ぬことが出来るのならば。

 英雄として、なすべき責務がある。

 好きなものは、凍った時間。

 好きなことは、ひとりの散歩。

 だからいつものように、足を踏み出す。

 歩く。自身の墓標を刻んでゆく。

 右手に電光が閃いた。

 ガリアはもはや動かない。

 エカチェリーナの振動を纏わせた貫手は甲殻を貫き


「ぇふ」


 どずんという衝撃に、最後の空気が肺腑から漏れた。

 下腹部をみた。

 陶器のように白い矢が、紅く濡れている。

 流れ出た血がぱきぱきと凍った。

 そうして、彼女の致命的な部分もぱきぱきと壊れた。

 限界を超えた負傷に、エカチェリーナは無様に転倒する。

 電流の維持が解けた。

 ガリアを縫い留めていた電磁の力が消えた。

 解き放たれた悪魔が、二三度身震いしてからゆっくりとエカチェリーナの方を向いた。

 鳥骨のような頭を、もたげる。

 頭部が上下にぐぱりと開く。





「きゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃききゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃゃ」





 散華のガリアは叫んでいた。

 これまでのどのような栄光個体とも違う、それは悪意だった。

 エカチェリーナの脳みその一番奥の部分がきゅうと縮んだ。


 無数の触手が、月に向かって伸びる。

 それらが捧げ持つのは、“雷帝”の代名詞である、巨人の持つような長柄の戦斧だ。

 ばぎん、という、固いものが折れる音がした。

 真二つになった凍斧は、赤い凍土へ無惨に散った。


 散華のガリアが、絶縁体を再構成できるのならば。

 そう仮定したのはエカチェリーナ自身だ。だが、その彼女でさえも……その先の「可能性」に、思い至ることはできなかった。

 ――辺りには凍弩が散らばっていた。

 ――視界を覆いつくすほどの触手。

 ――陶器のように白い矢。

 散華のガリアの戦術は狡猾で冷徹だ。

 多角的かつ無数の攻撃で敵を追い詰め、そして本命の攻撃手段――地下に忍び込ませた毒の触手。気化する毒。あるいは、そう。


 

 ガリアは背後から凍弩を把持した触手を回り込ませていたのだ。

 蜃気楼と触手による二重の隠蔽。加えてエカチェリーナ自身も、毒と限界を超えた電流操作によって極端に疲弊していた。

 その陰に隠れ、ゆうゆうと陶器のような絶縁体を射出体に纏わせ――エカチェリーナの防御をすり抜けるように、撃った。

 凍弩は静粛性と速射性に優れている。

 まして――背後からの、意識外の攻撃では感知できる道理すらもない。

 エカチェリーナは負けた。英雄の斧は折れた。

 流した涙すらも凍てつく、ここは死の世界だ。


 死に恐れはない。

 エカチェリーナを最も恐れさせるのは、自分がここで惨めに死んで、アラスカの市民が危機に晒されることだ。



(これで)

 この冷たい大地で。

(終わるのか)

 ひたすらに強くあれば、何もかもを守れると思っていた。

 だからすべてを失ったあの少年ヴェルヌにも、同じことを言った。

 

 そして今、こうして凍土に倒れ伏している。

 

 強さを証せぬままに。

 なにも為せないままに。

 人々の笑顔を見ぬままに。

 

 あるいはそれすらも――エカチェリーナの本当の願いではなかった。

 

 この世界には、春という季節があるのだという。

 四十年前から、氷に閉ざされた世界では失われてしまった時間。

 長い冬を耐え凌いだ草木が芽吹き、命が歌うときが。


(春が見たいな)


それはきっと、死の間際まで英雄で居続けたエカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤの――氷に散る花びらみたいな、最後の人間性だった。

 

(私はただ、)

(春が)

(ヴェルヌ)

(おまえならば)


 彼ならば、

 春を。

 エカチェリーナが見たことのない、春を知っているだろうか。


 口が開いている。

 ガリアの毒による痙性麻痺が始まっているのだ。

 美しい背が、弓反りに震える。

 苦痛の弦をつま弾くように、

 何度も、

 何度も。

 

 痙攣が繰り返されるたびに、麻痺によって開いた口からは血交じりの唾液が垂れ、そして口の周りで凍てついてゆく。

 激痛のなか、エカチェリーナは誰かの遠い叫びを聞いていた。


「あゔっ」

「えぐ」

「あーっ、あーっ」


 背骨が軋む。


「あーっ」


 何も遺すことができない。

 意味をなさない叫びを紡いだまま、英雄エカチェリーナは死にゆく。

 ガリアが近づいてくるのがわかる。

 それ以外の何もかもが、痛みに支配されている。

 エカチェリーナは泣き喚きながら目を閉じた。

 それだけが彼女に許された唯一の抵抗だった。


 触手が風を切る。




 雪塵。




 轟音。





 そして、その時は――。

 その時は、来ない。

 蒼い瞳を、痛みのなかでわずか開く。



 英雄が佇んでいた。


 月を荒く削り出したような、金の髪がそよぐ。

 アーサー王物語で読んだ、最後の騎士のようだった。

 瞳はエカチェリーナが見果てた吹雪の色。紅い雪の色だ。

 あの日読みたかった本を書いてくれたひと。

 物語を与えてくれた英雄が、今エカチェリーナのなかにいる。

 ジュール・ヴェルヌ。

 白銀の羅針盤。


 彼は天を貫く吹雪の中で、優しくエカチェリーナをみた。



「エカチェリーナさん。遅れてごめんね」


 涙が。

 凍ると解っているのに、とめどなく溢れ出てくる。

 長い冬の時代には、英雄が必要だった。

 そして――英雄が求めていたものも、また。


「こんな悪夢は、おれが書き変えるから」


 あの日の少年はそう呟いて、氷の刃を構える。

 鸚鵡貝の徽章が、月の光に瞬いた。

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