最後の開拓郷 Ⅰ

 デンマーク・ノルウェー領、アイスランド。大西洋中央海嶺とアイスランド・ホットスポットの交差点に当たる十万平方キロメートルの火山島は、今はもう無人だ。

 その要因は、首都レイキャビクとクヴェラゲルジに挟まれた――サガとエッダの伝承が息づく、溶岩の台地、へリスヘイジに眠っている。

 海洋プレートに基づく地熱は蒸気井からのフラッシュ・スチームを爆発させる。

 世界を覆う赤吹雪でさえもその熱の前に融解し、台地には雪片の中の有毒鉱分のみが融け落ちて残る。以前なら、そのような光景が見られたかもしれない。

 一八七六年の現在――ヘリスヘイジが産出する地熱はすべて、一つのに捧げられている。


 白い、三角形があった。

 神気すらも放つ、純白の聖山だ。

 在りし日のギザの大ピラミッドのごとく、滑らかな氷面のみで形成されるその構造体は、一つの名前を持ち――祈凍宗においては、“氷の王”が降り立つ約束の地とされる。


 栄光個体、月穿ちカンパネルラ。


 月を赤く穿った、星を射抜く弓台である。


                       +


 北海警備隊アラスカ支部第二城壁観測手のフライデーは、ベーリング海沿岸から五キロメートルほど離れた観測所でトマス・モアの「ユートピア」を読んでいた。


『氷惨は人を貪婪することはない。だが羊は人間を食い殺すのである。南半球の資本家たちによるエン・クロージャーは世界経済に大災渦メイルシュトロムをもたらし――』


 赤吹雪は薄く、夜の緞帳からは星の光が薄っすらと差し込んでいる。

 凍土が続く平原は、闇に濡れた灰色だった。

 草木すらも芽吹かぬ、それは荒涼の景色だ。

 それでもよかった。白夜新聞社刊の小説を読みながら、いつでも雄大な氷原が望めるここでの任務をフライデーは気に入っていた。

 だからこそ彼だけが、その異変をいち早く察知することが出来たのかもしれない。死後、かれは三階級の特進をすることになる。


 かすかに、凍土が波打っていた。灰色の海のように彼方の平原が隆起し、そして陥没する。波はものすごい速度で城壁へと進行していた。


 フライデーは最初、南北戦争の塹壕を想起した。南軍の十二ポンドナポレオン臼砲から逃れるための、地面を縦横して割開くあれのことだ。

 その塹壕が、ぼぐん!ぼぐん!と凍土を巻き上げながら、フライデーの居場所だった城壁に向かってきている。フライデーはそこで七か月前に氷惨の襲撃で死んだ兄を思い出した。“ジュノーの悲劇”では――「地下への潜行」という、特異な行動様式を見せた氷惨もいたという。


 散華のガリア。

 その栄光個体がもたらす破壊の規模に比して、目撃例は非常に少ない。

 だが、確実に狙っている。

 この戦線氷塞たるアラスカを。かれの慰めの景色を。


「......兄貴」


 フライデーは本を閉じて、観測所備え付けの電信機に打電をはじめた。

 栞はもう、「ユートピア」に綴じられてはいない。


                  +


「第二城壁が落ちた」

 開口一番、アラスカ市長ジョン=メンデルホール氷海軍氷将はそう告げた。

「今しがた、そこから打電があった。栄光個体がジュノー中枢部を目指して侵攻しているそうだ。観測塔も破壊されているらしい――もはや市街戦は避けられまい」

「それは」

 白い隊装を纏うエカチェリーナは訊く。

「私たちを用いるという認識で適切だろうか」

 メンデルホールは渋面を更に歪めた。

 過去に何度も繰り返された栄光個体の襲来は、その多くが基構分化の氷惨を大量に伴っていた。今回も、多くの人間が死ぬ。栄光個体とはそのような脅威だ。

「『ノーチラス』は出動可能だ。だがこの七か月でも、凍霊が思ったより集まっていない。おそらくは相当数が祈凍宗に引き込まれていると考える」

「祈凍宗か。全く厄介なことだな...そうは思わんか?」

エカチェリーナはそれには返さず、淡々と言葉を続ける。

「部隊単独での戦線制圧としての運用は独りを除いて期待するな。穴を埋めるように使えば、私の鍛えた兵士だ。役に立つ」

「それは結構なことだがね、一等氷佐。私はそもそも君らにそんな役割を期待していない。それは砲兵部隊なり工兵部隊なりの仕事であって、七十人足らずの凍霊をそんな風に蕩尽するものかよ。逆に聞かせてもらうが、きみの部隊には一人でも戦線を押し上げられる人材がいるというのか?」

 エカチェリーナは沈黙している。

 ため息が、市長室に満ちた。

「きみが敗けた時が…人類の終わりなんだぞ」

「問題ない。私は戦い、そして必ず勝利する。それが」

 ”雷帝”は、氷のような面持ちで、言う。


「英雄としての責務だ」

 

 歪んでいるとメンデルホールは思った。

 無責任にそれを期待する市民も。彼女を祭り上げた世界政府も。

 救世主の象徴を、彼女一人に押し付けて良い訳がない。

 エカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤの双肩にかかる重圧は如何ほどのものか、常に仲間と戦線を築いてきたメンデルホールには想像すらもかなわない。

 『ノーチラス』にしても同じことだ。

 凍霊フリズナーである隊員の中には二十にも満たない若者がいることも、メンデルホールは知っている。確か名をジュール・ヴェルヌと言ったろうか。

 七か月前に『ノーチラス』の事務員――マゼンテに相対したとき、彼自身が許可を下したゆえの結末だ。それを悔いるつもりはない。

 いずれはメンデルホールも、自らが作り出したその大渦に巻き込まれて命を落とすのだろう。バルト海戦線からは不穏な報せが届いている。それでも構わなかった。やれることをやりきってそれでも届かないのならば、彼は足掻くことをやめるつもりでいたのだ。

 寒い部屋のなかで、エカチェリーナをみる。

 メンデルホールにも娘がいた。生きていれば、彼女とちょうど同じ年の頃だったはずだ。花のような、春のような娘だった。氷惨との戦いが終わったあと、誰もがメアリのように笑える世界をかれは願っていた。

(メアリ)

 エカチェリーナの慰問で立ち上がった人々の顔を見ていた。

 全てを喪ったはずのアラスカ市民が、再び歩き出すところを。

 そしてエカチェリーナはさながらドラクロワの絵画のような、民衆を導く自由の女神として、誰の目にも映っているだろう。


 

 ――たった一人で。彼女は。


 長く続く冬の時代には、英雄が必要だった。

 それがあまりにも重い責務であるということをメンデルホールは理解している。

 それでも。

 メンデルホールは世界を救いたかったのだ。

  

 中央台の警報は、運命を切り裂くように響く。

  

                  +


 革と油と、獣の匂いが立ち込めている。

 アラスカ前哨基地四番厩舎では、ノーチラスの面々が出撃の準備をしていた。

 ヴェルヌはムース(北米圏でのヘラジカの呼称。とくに大型のものを指す)にウエスタン鞍を取り付ける。前方に大きく突っ張っているホーンは、ムースの激しい動きに振り落とされないようにするためのものだ。全体としてがっしりとした造りの鹿鞍を、鞍辱を引っ張って調整し、腹帯を締めて鐙を垂らす。これらの作業は片手で行われなければならない。ムースは通常の馬よりも気性が荒く、よほどのことがない限り人間には懐かないために、常に鹿の体を撫でながら鹿具の着装を行う必要があるからだ。四十年にわたる品種改良でもアラスカの畑を荒らす厄介者であるムースを完全に手なずけることは出来なかった。

 かれの騎乗する鹿――ヴィクトリアとヴェルヌは名付けていた――はふかい琥珀色の毛並みを持つアラスカン・ムースだ。胴長三メートルくらいで、この種としては比較的小型のものだ。それでも体重はゆうに一トンを超過し、勇ましくひらく大角に至っては一メートルほどもあるだろう。そのうえ速度も馬力も値段もなみの蒸気自動車を上回る。

 軍鹿はアラスカ圏での作戦において欠かせない機動力を一手に担っているのだった。

 そんな責も知らぬように、ヴィクトリアはヴェルヌの顔をぺろりと舐める。

 以前は手をべろべろやっていたのだが、手袋の革の味はこの雌鹿のお気に召さなかったらしく、最近彼女が舌を突き出すのはもっぱら隊装に覆われていないヴェルヌの顔面になっていた。

 ムースの唾液はぴりっとして、青臭い。

「よせよ」

 ヴェルヌはヴィクトリアを小突いた。彼女は詫びるように膝を折り、鞍を差し出す。


 ――白夜新聞社から帰ってきて三時間と経たないうちに、『ノーチラス』には出撃の命令が下されていた。また、氷惨アイスバーグが襲ってきたのだという。この七か月で何度目かの襲撃だが、ヴェルヌたち全員が出撃することは一度もなかった。つまり今回の侵攻はそれほど大規模なものなのだろう。本来ならば北極点探査部隊であるノーチラスも、逗留の条件であるアラスカの防衛に加わることになる。そのための訓練も、経験してきた。

 当然だ。栄光個体が来ているのだから。

 手を打たなければ一つの街が落ち、やがては国さえもなくなる。

 清朝でさえもそうなった。

 だのに、恐懼きょうくはなかった。驚くべきことに復讐のざわめきさえも。

 ジュール・ヴェルヌの心にあるのは、羅針盤の針のように研がれた殺意だ。

 ヴェルヌは彼女に跨って、手綱を持つ。

「行こう、ヴィクトリア」

 厩舎より鹿を歩ませ、鉄条網で囲まれた前哨基地の外側へと出た。

 白いムースに乗って、巨人の持つような凍斧を携えたエカチェリーナが待っている。

 敷きたてのテーブルクロスのように整った隊列を彼女はみている。

 夜のアラスカでは、白む息がよく見える。鹿の熱気と人の吐息がまざり、かれらは白い靄をまとっているようにも見える。

「諸君」

 雷の匂いがした。

「あの旗を見ろ」

 凍斧は、ヴェルヌたちの背後を指し示す。

 そこには、旗が夜の吹雪に靡いていた。

 柄杓の形をたどる星ぼし。そして、その上にひときわ輝く――旅人たちの星。青地に北極星と北斗七星を象った、アラスカの州旗だ。三か月前にアラスカは準州を通り越して州となった証として、この旗を与えられていた。

「あれは、我々が北の彼方でいつか見る景色だ。氷惨どもに穢されるべき旗ではない」

 誰もが、白い沈黙のなかにいた。それは白熱という矛盾を孕んでいる。

「私はやつらの屍でウオッカを飲もうと思う。異論がないものは黙っていろ」

 しんとしている。誰かが、手綱を強く握りしめる。

 エカチェリーナは馬をゆっくりと北に回した。

 そして一言、


「未来は、北にある」


 呟いた。

 それはアラスカの標語だった。

 オウム貝の雄叫びがあがり、鹿たちは雪崩をおこす勢いで北に走り出した。

 襲歩。雪煙。ノーチラスは氷の亡霊となって、夜の氷塞を駆け往く。


 栄光個体との戦闘になる。

 外郭を突破し進撃しているガリアを、戦闘街区まで誘導する必要があった。

 氷惨基構分化――駆導型ストランドとか闘士型コロッサスとか游撃型ストライカーとかのことだ――が壁を越えないという楽観的な予測には期待できない。ヴェルヌがカロリーヌを失ったあの日にも、闘士型はアラスカを囲むように築かれた城壁を「すり抜けて」きたのだ。

“ジュノーの悲劇”以来の襲撃ではそういったことはなかったが、氷惨との戦いで人類が身に付けた「最悪は更新される」という経験則に基づいて、メンデルホールは居住区と戦闘街区との間隔をより広く設け、また戦闘街区後陣に前哨基地を置いていた。

 戦闘街区にはダミーの住居や人形が実際の街を再現するように設置されていて、単純な思考回路しか持たない通常の氷惨を誘引する効果がある。予備の凍刃や凍弩も大量に格納されており、北極圏からアラスカ中央部に侵攻してくる個体との戦闘においては、そこが最初の戦線と言える。事実、北米大陸に配備されている人員の四割がアラスカの警備にあたっているのだ。

(瀬戸際だ)

 そうヴェルヌは感じる。

 白鹿ムースを駆け巡らすエカチェリーナの表情は、ヴェルヌがいる隊列後方からでは伺い知れない。

 聴覚を増幅できる凍霊が誘導のために並走してはいるものの、“雷帝”は孤兵だ。

 時が来れば単独で戦い、そして戦線を支え続ける。

 だから現場での実質的な指揮権は、エカチェリーナの真後ろで鹿を走らせるムラマサにあるし、ヴェルヌたちもそれに従って散開することになるだろう。


 北東方面から、赤い曳光弾が空に尾を引いて上がった。

 それを見たエカチェリーナだけが鹿を右に傾けて、隊列から急速に離れていく。

栄光個体スラヴァだね」

 隣で鹿を走らせていたネモという凍霊が呟いた。

 杏色の目をした、寡黙なアイルランド人の女性だ。もう一人、隊列前方にいるネッドという凍霊と並んでヴェルヌと同じ打撃三班に属する。

「――あんた偉いね」

「おれですか? なんで」

ヴェルヌはネモに聞き返した。

「ガリアはジュールの仇だろ」

「ああ、なるほど」

 確かに、そうだ。ネモのいうことは筋が通っている。復讐の炎に身をやつせば、今からエカチェリーナを追いかけるという選択もあるのかもしれない。

「でも」

 今度は北西から青い曳光弾があがった。敵が近い。

「ここでアラスカを守って、きちんと世界の果てに行くことのほうがよっぽど大事だ。今ガリアに立ち向かって死んだら元も子もないですよ――それに、おれがいなくなったらネモさんもネッドさんも死んじゃうでしょ」

 ヴェルヌは笑った。ネモの異能もネッドの異能も確かに恐るべきものだが、だからと言って凍霊は怪我をしないわけでも死なないわけでもない。

「それにおれは、エカチェリーナさんを信じてますから」

「エカチェリーナさんねえ」

 ムラマサが左に馬を向けた。景色が高速で流れてゆくのを感じながら、振動に振り落とされないようにヴェルヌは鞍のホーンを強く握る。赤吹雪が一段と強くなり始める。


 眼前に闘士型の集団が見えた。

 かれは凍刃を抜く。

 瞳がひときわ、紅く煌めいている。











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