白銀の羅針盤 Ⅰ

 ヴェルヌの眼の前で、馬のような体躯の氷惨が天井からの鎖に繋がれている。

 氷惨基構分化の一体、駆導型ストランドだ。


『よし、ヴェルヌ殿』


 センシ=ムラマサ三等氷佐の指示が、伝声氷管より訓練房の一室に響く。

 かれは三か月前に闘士型二百体を単独で斬伐した功績で昇進し、佐官となっていた。


『一一〇五より、拘束鎖を解くで御座るよ。もしも危険だと判断したら、拙者がすぐに割って入るゆえご心配召されるな』


 ヴェルヌは親指を立て、房の外側の一室で見守るムラマサに返事を示した。

 通常であればヴェルヌも伝声管を使って返答をするべきだったのだろうが、アラスカ基地の地下に設置された訓練房の構造上、それは不可能だ。氷を施設の構造に這わせて形成する伝声氷管は、本棟と隔離され、四方を分厚い鋼鉄の壁に包囲された訓練房において、唯一の通気孔としての役割も果たしている。そのため訓練房に繋がる氷管は破損を防ぐという意味合いで分厚い壁の上方に設置されており、房中の人間は――それこそ鉤錘で壁に張り付いて、ちょこんと飛び出した管に向かってやかましく語り掛けない限りにおいては――外側に対して肉声を伝えることはできない。

 身振り手振りで装備の点検状況を報告する。

 手首の裏側にある圧力弁を開ける。圧縮された氷気ガスが鋭い霧のように噴き出したので、二秒待って止める。右手、左手と動作を繰り返した。氷爆圧正常。小指・薬指・中指に連結された三つのリングを引く。肘側に備え付けられた鉤錘ワイヤ・アンカ射出機構から、鉤付きの錘が鋼糸とともに空間を裁つ。もう一度リングを引くと、蛇がのたくるような勢いで手元に戻ってくる。

 次に拳を握る。親指と人差し指にも鋼糸つきのリングが嵌まっていて、これは鉤錘射出時に使う三連リングと同時に引くと――ヴェルヌの体が大きく上に撃ち出され、そして落下する。

 氷気ガスの冷感を切り裂きながら、ヴェルヌは着地した。


(相変わらず恐ろしい出力だな。十ピエ(一ピエは31.25cm)くらいは跳んでるんじゃないか)


 これで、北海警備隊制式装備の点検は一通り終わった。十年くらいまえは氷爆石の技術不良による事故が絶えなかったそうだが、一八七六年のいまはヴェルヌたちの生活にとって、氷惨の素材を利用した氷気技術は欠かせないものとなっている。


 ヴェルヌは氷惨に向き直り、背より抜いた凍刃を作動させた。

 氷惨が纏う高密度金属氷の刃が、柄に埋まった雪花鉱アラバスタへの刺激でほとばしる。

 鋼より強靭なうえに、何度でも使い回せる優秀な携行近接兵装だ。


 構えを取る。

 肩に担ぐような上段で足は撞木、上体の力は抜く。


 人智を越えた氷の怪物と対峙するとき。

 騎士道の物語に吟われる、「正当なる構え」だとか、「脈々と受け継がれる流派」だとか、そういう古びた剣のように仰々しく鉄くさいやり方を持ち出すのは、果たして無意味なことだろうか。

 氷惨を吊り上げるように留めていた鎖が、解けた。


 瞬きのあいだ――ヴェルヌは紅くなった瞳で駆導型をる。

 ヴェルヌの「予観」の異能の起源は、何一つ解明されないままだ。

 だが、それでも......この能力の使い方については、幾つか解ったことがある。

 念じれば、視界内の氷惨の挙動を数秒先まで映像として観測できるということ。

 その観測の結果は、自身の行動によって変化させられるということ。

 「予観」が働いているあいだは、時間が経たないということ。

 そして、氷惨以外には使えないということ。

 視界とは異なる感覚質で、確かにかれは氷惨の挙動を像として識る。


 氷の旋風のように。

 闘士型にも勝る瞬発で、駆導型はヴェルヌに突進する。

 その駆動は軍用馬の襲歩と酷似しているもの、一つだけ決定的に異なる点が存在する。

 それは――。


 ヴェルヌは左手の鉤錘を左側面の壁に射出し、ジャンプ・ジャッキを作動させた。

 白い氷気ガスの噴出と共に、かれの体躯が真横にかち跳ぶ。

 駆導型も、追随すべく左に旋回を切り返す。生物として当然の合理的な歩法として右前肢が手前に出歩する、いわゆる「右手前」とよばれる状態に移行している。

 栄光個体ならぬ通常の基構分化氷惨は明確な知性も自意識を有さず、その全ての挙動は、あらかじめ定められた規則に基づく破壊行動にすぎない。

 ヴェルヌは刃を水平に返し、重心の掛かる駆導型の右脚をすれ違いざま打った。

 高速の走行は、衝突に伴う運動エネルギーの爆発的な増加を意味する。

 駆導型がつんのめり、中空で回転し、転倒した。

 霜甲のない腹部が露出している。

 逆手の凍刃が、凍ったバターに焼串を入れるように突き刺さる。

 鉱質組織を抜けて、固く脆い物体を砕いた感触が手許に伝わった。

 駆導型の雪花鉱は第四腹条骨から第五腹条骨の隙間を通した先の、頸と胸部の接続部分に位置する。

 そこを狙った。

 氷惨は雪花鉱の破壊によって停止する。

 それは何もかもが不条理な氷の地平において、絶対不変の原理だ。


 無意味ではない。

 ジュール・ヴェルヌの日々は、決して。


                  +

      

「ヴェルヌ殿。先ほどの太刀筋、見事であった。凍霊としての動きも及第点といえよう。これで貴殿は晴れて『ノーチラス』における基礎体力訓練と基礎戦闘訓練を通過したわけだ。本日付で一等氷曹の位階が与えられることになるが、まずは心より、祝辞の意を示させて頂きたく」


 一八七六年、四の月アプリエルの八日。

 アメリカ合衆国アラスカ県都ジュノー、アラスカ前線基地。

 センシ=ムラマサ三等氷佐はヴェルヌに笑いかけた。

 日本ジャポネの出だという彼の体は、ともすれば十八のヴェルヌより小さい。

 もっと言ってしまえば、アラスカ基地でノーチラス隊の面々に謁見したとき、ヴェルヌは最初、ムラマサを年下だと勘違いをしていたのだ。

 ムラマサの凍霊としての能力が、かれ自身の体にあるべき代謝や脳内物質の分泌を限りなく遅滞させた結果として――まるで少年そのもののような容貌を保っているのだと知った今でさえも、ヴェルヌはこの尊敬すべき上官に、コルト=オークレイの影を見ずにはいられなかった。


「おれの方こそ、お礼を言わせてください」

「む?」

「ここまで来れたのは、全部皆さんのお陰です」


 自分の足跡を確かめるように、いった。

 ヴェルヌにとってそれは拠って立つべき事実だった。

 かれが五歳のときに父のピエールはいなくなった。

 母にはそのようにしか聞かされなかった。

 その母も、ヴェルヌが十二の時にアラスカで死に、後はもうカロリーヌとコルトとアリステッドをはじめとした院のみんなだけが家族だった。


 そして、あの――「ジュノーの悲劇」が起きて、ヴェルヌは独りぼっちになってしまった。


 誇張なくすべてを失ったかれには、ノーチラスこそが唯一の居場所だったのだ。

 深海に棲むという鸚鵡貝の殻のなかは、思いの外温かかった。


「ヴェルヌ殿」

「なんですムラマサさん」

「人間な、そうはっきりと言われるとな」

「ええ」

「照れる」


 ムラマサとヴェルヌは一瞬顔を見合わせて、噴き出した。

 エカチェリーナは、なんと言ってくれるだろうか。

 ネモはどうだろう。ネッドは、マゼンテは、コンセイユは。

 それから、それから――。

 誰でも良い。早く、ノーチラスの皆に会いたかった。

 ヴェルヌが「鸚鵡貝ノーチラス」になった日から、七か月が経っていた。


 その日の午後、ヴェルヌはアラスカ基地を出て白夜新聞社スパークルウィークリーに向かった。七か月前の「ジュノーの悲劇」で一旦は壊滅状態になったものの、当時は編集者かつ記者であった、ある人物が私財を擲って再建を試みたのだという。

 その人物こそが、ヴェルヌを今日この場に呼んだ白夜新聞社現編集長――ピエール=ジュール・エッツェルである。

 この男はアリステッドと知り合いで、そもそもヴェルヌに白夜新聞社への寄稿を進めたのもエッツェルだったのだ。ヴェルヌがノーチラスに入隊してからは契約自体が反故になり、以後の期間はお互いに接点を持つこともなかったのだが、


「やあ、ジュール君。叙任おめでとう、具合はどうかな!」

 

 このように平然と声を掛けてくる、得体の知れない男だった。

 今までの援助や付き合いに感謝はしている。

 それはそれとして――腐れ縁というやつだ。

 無視して、辺りを見回す。

 ヴェルヌが通された新聞社の一室は広い。

 くらい部屋にぽつぽつとランプが灯っていて、ベルベットの絨毯は踏んでも糸の擦れ音ひとつ返さない。調度は滑らかな飴色で統一されている。

 羽振りは良さそうだなと下世話なことをヴェルヌは考えた。


「ジュール君。なんだ君は。聞いているのかい。なあ人に呼ばれたら返事の一つくらい返すべきじゃないのかいきみの直属のラヴランスカヤ氷佐に報告しても良いんだがね」

「うるさいな! 悪かったですからさっさと仕事の話して下さいよ!」


 このように…平然と声をかけてくる、得体の知れない男だった。

 実際、ヴェルヌのもとに送られてきた手紙は『仕事』の二文字だけだったのだ。

 あとは面会日時が書かれるのみ。確実に郵便費の無駄だったが、この奇妙な編集者はそんなことを意に介していないようにみえた。


「フムン、座り給え。茶菓子に林檎のパイは如何かな」

「......頂きます、ありがとうございます」

「よろしい。では商談だ」


 そう言ってエッツェルは、机の上に契約書を取り出した。

 ヴェルヌも見る。


「『一、契約者であるジュール・ガブリエル・ヴェルヌ、以下契約者Aは氷海軍極点遠征部隊第一特別連隊ノーチラスの航海記録を一日に一度、被契約者である白夜新聞社代表のピエール・ジュール・エッツェル、以下契約者Bに提供すること。及び、それを元にした創作商品の提供に携わること…』って、なんですこれ」

「商談だ」

「いやそうじゃなくて。何でおれがいつの間にあなた方に…航海記録をサーブすることになってるんですか」

「…ムラマサ氷佐は面白がっていたよ。良い上司を持ったものだね」

クソ野郎putain de merde!! 嵌めやがったな!」 


 ヴェルヌは頭を掻きむしった。


「おれは......忙しいんですから。隊の皆に物語を書いて見せるならともかく、絶対にやりませんよ――それはもうただの連載じゃないですか」

「広報だよ、ジュール君。なに、きみの筆がまずかったら私が直す。われわれはいつもそうしてやってきたじゃないか」

 エッツェルは従来の誤字脱字を見抜くだけの存在である「編集者」とは全く違い、ヴェルヌの出した原稿にも徹底的に裏を取り、物語として瑕疵がないかということを散々突き詰める――カロリーヌとは違った側面で、やりにくい相手だった。

「きみの『気球に乗って五週間』はわが社を救った! どうだ、今一度私と手を組んでこのアラスカに――ひいては北極域防衛圏に、物語の力で白夜をもたらす気はないかね!」

 

 ぐ、とヴェルヌはことばに詰まった。

 どうせノーチラスからの根回しは済んでいるのだ。

 それに――。

 

「......解りましたよ」

 エッツェルは困った顔をした。

「断ると、思っていたが」

「おれが断ったら、白夜新聞社から別の記者が派遣されちゃうでしょ。『ノーチラス』の北極点への遠征はいちおう『偉業』なんだから、それをスクープできれば部数は一気に跳ね上がる。でも、とても危険だ。一般人じゃ耐えられないし、政府と新聞社との癒着の切っ掛けにもなる」

「可愛くないガキだ」

「汚い大人だ」

 

 ヴェルヌは林檎のパイにフォークを入れた。

 さくりという心地よい感触が、手を楽しませる。


「――すまない」

「いいですよ。おれがやるのが一番いい」

「アリステッドが見ていたら、怒るだろうか」

「怒るでしょうね。ですからおれとあなたで共犯です」


 パイを口に放り込む。

 バターをたっぷり含んだ生地が、軽く崩れてゆくのがわかる。

 フランス南部の小麦粉の粒感が、まろやかな林檎の蜜と混ぜられて重厚な味わいとなり、それがバターの香気と合わさりながら、食感だけがコントラストとなって最後に残る。

 今日はかれが忙しい業務の合間を縫って、ヴェルヌだけのために、懐かしい故郷の味を用意してくれていたことも知っていた。

 カロリーヌは林檎が好きだった。エッツェルは、二人によく差し入れでパイをくれたものだ。

 誰よりも時代の前に立つ男は、過ぎ去った者たちのことを決して忘れてなどいない。

 だから。


「題名だけは、おれに決めさせてください」

「その、かまわないが。決まっているのか?」

「はい。これしかないって思ってて」


 ヴェルヌは契約書にサインをしながら、呟いた。


「白銀の、羅針盤」


                +


 いつものように紅い月が出て、浮ついた夜がアラスカの街を浸していた。

 ヴェルヌたちに降り注ぐ星の光だけはなにも変わることはない。

 それでも、北極に征く出航の日は、確実に迫って来ている。

 栄光個体も、この七か月で三体増えて七体になった。


 燦然たるカレーニナ。

 隘路ティーグル・ティーグル。

 不破凍土スヴェントヴィト。

 月穿ちカンパネルラ。

 惨憺たるアルトリウス。

 叢雲のヤマト。

 そして、散華のガリア。


 ヴェルヌは紅い瞳で、月を見上げた。

 

(氷惨を駆逐して、)

(おれたちは世界の果てをみにいく)


 かれは、白銀の羅針盤が示す星ぼしのことを思った。

 それはきっと、長い旅になるだろう。

 今から彼らが向かうのは、世界の果ての物語なのだから。

 

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