戦線氷塞アラスカ Ⅲ

『すなわち、われわれ世界政府と人民はすみやかに栄光個体を討ち滅ぼさなければならないということである。長年にわたる氷惨との戦争は、古来より七王国に受け継がれてきた王たちの取引であり、やむをえざるときの戦いは正しく、武器のほかに希望を絶たれるときは武器もまた神聖である。これは人類すべてが初めて経験する、尊厳を守護するための神聖なる戦争なのだ』

 ――アクセル・リーデンブロック 著「北極域汎戦論」より


 ヴェルヌはエカチェリーナの取り出した懐中時計を手に取った。きよらかに磨き上げられた白銀の上蓋には剣を添わせた舟錨と、その錨を中心に象った西洋盾が彫られていて、ルイ王の治世のころのロードス島騎士団やテンプル騎士団の紋章を思わせる。だが一等ヴェルヌの目を引いたのはそれら瀟洒な銀彫とはむしろ不釣り合いな、図象の真ん中に据わる鸚鵡貝ノーチラスの彫刻だった。

 ヴェルヌはそこでようやく、新聞にも書かれていた氷海軍極点遠征第一何某という部隊があったのを思い出したのだ。結成段階には全然として至っておらず、まったくの眉唾物だと考えていたが――オウム貝の徽章はいま現実としてヴェルヌの目の前にある。


「われわれ『ノーチラス』の目的は」

 エカチェリーナは懐中時計の銀鎖を弄びながらいう。

「北極点に存在するといわれる、『氷の王』ジャックフロストを撃滅することだ」

「それは、」

 それこそ眉唾物じゃなかったのか、とヴェルヌは問いたかった。もちろん、北極点にはコルトの言ったとおりに「なにか」があるのだろう。ヴェルヌだって英雄のことを――コルトのことを信じている。

 けれど、それは市井にささやかれる噂話の類というのが人々の捉え方であって、それは父から『氷の王』のことを聞かされていたヴェルヌでさえも例外ではなかった。だがエカチェリーナほどの人物からその名前が出てきたということは、きっと彼女たちはその「なにか」を知っているのだ。

「一年後の出発に向けて、私たちは氷惨を打倒し北極点へ到達するために世界を回り凍霊フリズナーを収集している。そして先ほど言ったように、きみもその一人だ。ガリアと戦っていた際の動きでわかった」

 だからわれわれに力を貸してくれないかという彼女の言葉は、しかしヴェルヌの心の表層を上滑りしていった。

 もしも、彼女に誘われたのが――たった一日でも、前だったら。

 ヴェルヌはすぐさま首を縦に振っていただろう。

 この英雄の話を考えるなら、ヴェルヌはそこに所属するだけの要件を満たしていることになり、これから氷惨どもを駆逐する日々を送るのかもしれない。


 なんのために?


 世界の果てをみるという約束を果たすべき相手は、もういないのだ。

「申し訳ないですけど」

 ヴェルヌはつとめて平静を保った。

「俺はあなたとは一緒に行けません。おれは強くなんてないんです」


 復讐――無気力者を戦争に掻き立てる魔法の言葉でさえも、ヴェルヌの中には何一つ甘やかな響きを残さなかった。自分に何かが為せるとも、もはや思えない。

 

 視線はしばらくヴェルヌと絡んでいたが、急に解けた。 

 エカチェリーナは陰鬱と冷静のあわいのような表情のままで、懐から一通の書簡を取り出し机上に置いた。封筒は赤茶けており、血に染まっていることがわかった。


「カロリーヌ・トロンソンの肌着に縫い付けてあったものだ」

 

 カロリーヌ。

 ヴェルヌの体が跳ねあがり、気づいた時にはよくわからないうめき声をあげながらエカチェリーナの手から手紙をひったくっていた。


「いつ――いつこれを? どこでこれを?」

「三日前だ。彼女の屍体を解剖する際に医師が見つけたものを、私が預かった」

「ちょっと待ってください。おれは三日も寝ていたんですか」

「そうだ」

「なんで、そんなに」

「散華のガリアがきみに打ち込んだ毒はそれほど強力だった。治療にあたった医師がいうには、生死の瀬戸際だったとのことだ。神経が融解しかけていたらしい。足を見てみろ。まだそのときの傷が残っているはずだ」

「そんなことどうでもいい。カロリーヌは?」

「さきほども言ったように、散華のガリアの生態解明のために解剖された。彼女には親族がおらず、唯一の保護者であるきみも昏倒状態だった。腐敗が進む前に、腑を分けるしかなかった」

 

 彼女の語り口にはいっさいの感傷が転がっていなかった。だからヴェルヌも、それは必要なことだったのだと辛うじて納得できた。もう訊くべきことはないという空気が共有されている。どこかぼんやりとした面持ちで、渡された手紙をみる。

「私が開けよう」とエカチェリーナが桜色の爪で封を切ってくれた。


「しばらく席を外す。答えが出るまで、その時計は預けておく」

 

 エカチェリーナは立ち上がった。雪の匂いがふわりと広がる。

「彼女ときみの荷物は後で人に送らせよう。もう一度、夜に来る」

 そうして戸は閉まった。高級な調度が持つ、音の殺し方がひどく恨めしい。

 ひとりだけの部屋にはけじめのない静寂が残った。

 ヴェルヌは震える手で手紙を開く。

 まぎれもない、カロリーヌ=トロンソンの筆跡だった。


                   +


 あたしのジュールへ。

 もしかしたら、これを読んでくれている他の誰かへ――差支えがなければ、この手紙はアラスカ県ジュノー市のジュール・ヴェルヌに郵便してください。彼ならわかるはずです。それか焚火の火種にでも。


 手紙を書くのははじめて。多分、最初で最後になると思う。

 あ、お墓は要りません。別に神様を信じていたかったわけじゃないから。


 何から話せばいいんだろう。つまり、最初に言いたいのは――ずっと前から、あたしはコルトが死んだのを知っていました。ヨハネの福音書みたいに、鍵のかかったあたしの部屋に帰ってこないことも、あんたがそれを隠してくれていたことも。どうやって知ったのかはご想像にお任せします。でもあんたは迂闊だから、本についてた涙の跡とか、そういうのはちゃんと拭いた方がいいと思うよ。


 祈凍宗に入ったのは、それを知っていたから。でもぜんぜん気分は晴れなかった。

 あんな巣穴にこもって氷の王なんているのかいないのか解らないものに祈ってる人たちより、あたしはジュールの書いた物語のほうがよかった。


 ごめんね。田舎の貧乏娘だから、ジュールの小説に出てくる貴婦人方やお姫様みたいな高級な手紙は書けない。

 でもあんたがいろいろ考えて、あたしの傍に居てくれたってことは解るの。多分どれだけ感謝しているかは、もうずっと伝えられなくなるんだろうな。

 嫌だな。

 

 名前を呼んでくれるだけであたしは嬉しかった。あんたの物語が生きる楽しみになってた。

 ジュール・ヴェルヌは、あたしの羅針盤だった。

 むかしあんたがくれたピンクの珊瑚のネックレスも、ずっと大事に取ってあるの。

 ここに書き残すことで、それはもうずっと確かなことになる……そうでしょう?


「海底二万里」のリンカーン号の描写はすっごく良かった。ナントで一緒に乗った船を思い出したよ。

「1839年の牧師」はなんで途中で止めちゃったのか全然わからない。

「折れた麦わら」はあたしはそんなに好きじゃない。今のあなたみたいな科学的論拠もないし。

「月世界へ行く」を読んだら、窓から見える空もけっこう楽しくなったんだ。

 それから…それから…いっぱいありすぎて、腕が痛くなってきちゃった。

 本当にたくさんの詩や喜劇を書いたのね。


 あなたがくれた驚異の旅を、あたしはずっと覚えている。最後まで。

 だからあなたも、あたしのことを覚えていてほしい。

 もちろん思い出は、覚えられて、忘れられて、おしまいには砕けてばらばらになっちゃうと思う。

 けどそのばらばらをあなたなら握ってくれるって解るから、

 あたしはきっとそれでいい。

 そうすればあたしは、きっと寒くないから。


 最後に一つだけ約束して。あたしの骨と一緒に、あたしの欠片を持って行って。

 コルトと約束した海の向こうまで。

 あなたが見せてくれた世界の果てにあたしを連れて行って。

 あたしはジュールの物語を信じてる。あなたがくれたものすべてを。

 だって人間が想像できることは、必ず人間が実現できるんでしょ?

 あたしの物語はここでおしまい。

 ジュールはこれから、うんと長い旅に出るのよ。

 

 大丈夫。あたしはずっと、大好きなあなたの傍にいる。

 あなたがそうしてくれたように。


 追伸:あんたとキスがしたかったな。我儘ばっかりでごめんね。

                          

                       カロリーヌ=トロンソンより


 



 ヴェルヌの体を慟哭が貫いた。

 かれは獣のように手紙を握りしめて哭いた。

 一人のジュール・ヴェルヌは、もう独りではなかった。






                   +


 のぞいた望遠鏡には、星明かりがみえる。

 赤い吹雪が荒んだ世界でも、アラスカの澄んだ空気が与えてくれる夜空の美しさだけは変わらない。

 ヴェルヌの荷物とカロリーヌの遺品はベッドのすぐ脇に山を作っていた。あの後すぐに医者が来て、ヴェルヌを診た後に大慌てで荷物を給仕と一緒に持ってきてくれたのだ。望遠鏡もカロリーヌの残してくれたものの一つだ。昔はこれでよく一緒に港の向こうの島を眺めたものだった。


「失礼する」

 かたく、つややかな声がした。望遠鏡から目を離し扉に顔を向ける。

 エカチェリーナはノーチラスの隊装ではなく紳士ものの黒いスリーピース・スーツで、夜を纏うように佇んでいる。ヴェルヌは包帯を巻いた手で、机の横に椅子を引いた。


「どうぞ。こんな手なんで、紅茶はまだ淹れられないですけど」

 彼女は会釈し、黙って腰かけて

「具合はどうだ?」

 と訊いた。

「おかげさまで。まだちょっとだるいですけど、明後日にでも神経の自然再建が終わって動けるようになるだろうって言ってました――これもおれが凍霊だからってことですか」

「…そうだな」

 エカチェリーナは目を伏せる。

凍霊フリズナーは、大きい怪我をしても死ににくい。軽い傷ではほとんど普通の人間との違いがわからないが、重い損傷を負った時の回復速度と深度は顕著だ。私も何度命を救われたかわからない」

 ヴェルヌは英雄が朴訥に語るさまを、以前とは全く違った心持ちでみていた。

「エカチェリーナさん」

「うん?」


 ヴェルヌはベッドの中で深々と頭を下げた。

 給仕からも、医者からも、エカチェリーナの噂を聞いていた。

 

 彼女はネルチンスクの防衛任務の帰り際、アラスカからの氷惨襲撃の打電を受けて港に寄港するや否や、ムース(アラスカに住むヘラジカの一種)を駆り単身ジュノーに向かい、迫り来る闘士型を鹿上に乗ったまま斬り伏せていったらしい。城壁区をすり抜けて居住区に巣食っている闘士型を殲滅したのも、駅を襲う氷惨を電撃一つで鎮圧したのも、栄光個体を単身で撃退したのも、すべてエカチェリーナの功績だという。

 更には、彼女が率いてきた部隊も――ノーチラスも大いにアラスカの防衛を助けたことは言うまでもない。コルトと同じ日本人の少年のような剣士や、寡黙でぶっきらぼうだが誰よりも働くアイルランド女性。物腰の柔らかなものすごい美貌のヴェネツイア女性の話も小耳にはさんでいた。


 多くの命が失われた。

 それでも、この誇るべきオウム貝たちが来なければ――アラスカは今日陥ちていたに違いない。そして、ヴェルヌもきっと死んでいた。

 

 だからこれは本来なら、いちばん最初に言わなければならなかったことなのだ。


「アラスカを救けてくれて、ありがとうございました」


 この尊敬すべきロシア女性は――少しだけ、ほんとうに少しだけ眉をひそめた。


「私は、きみの大切な人間を守れなかった。それには足らず誰かの大切な人間を守れなかった。何も救えてなどいない」


 ヴェルヌは最初呆気にとられて、そして次にわからなくなった。

 彼女はもしかすると――本気で、世界のすべてを守ろうとしているのだろうか?

 紅い吹雪がすべてを隠す、この凍てついた世界で。

 そうなるとエカチェリーナがこれまで出払っていた理由も何となく察しがつく。

 なぜあそこまで早く彼女の動向が給仕や町医者にまで伝わっていたのかといえば、きっとアラスカ市民の慰問に行っていたからだ。アラスカ県ジュノー市の余すところなく、彼女はこの三日間遺族の元を駆け回っていたのだろう。必要以上に硬質なふるまいも、すべては無敵の英雄としての仮面だ。

 エカチェリーナは訥々と続ける。


「目覚めてすぐの少年を兵科に勧誘するなど......おかしいとは、思わないのか」


 ヴェルヌのなかに風が吹いた。

 カロリーヌとの約束が、今のヴェルヌには強く響いている。

 もう迷うことはない。かれにとっての羅針盤は、今はもうかれ自身なのだから。

 かれは病院着の襟元を開いて、首にかけた白銀の懐中時計を見せた。蓋の中にはカロリーヌの手紙と、彼女にあげた珊瑚の首輪の一部が入っている。


「これ、気に入っちゃいました」

 エカチェリーナはその笑みに、一瞬身を固くしたようにみえた。


「いいのか?」

「はい」

「死ぬよりも、辛い目に遭うぞ」

「死んでましたよ。あなたに助けて貰わなきゃ......それに」

「それに?」

ジュール・ガブリエル・ヴェルヌは、笑っていった。


「世界の果てを見たいんです」


 赤い吹雪の音が聞こえる。

 栄光の喇叭らっぱを掲げた、天使の詩のように。


「本当に、来るんだな。きみは」

「行かせてください。あなたたちと一緒に」

「そうか――ヴェルヌ。

 ジュール・ヴェルヌ」


 “雷帝”も、その日初めて微笑みを見せる。

 そうしてしろい手を差し出した。


「ようこそ、ノーチラスへ」


 それはきっと誰にとっても。

 春のような、眩しい笑顔だった。

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