戦線氷塞アラスカ Ⅱ

『凍霊』フリズナーと呼ばれる者たちが、この地平には存在する。

 それは力だ。これまでの歴史に現れたどのような兵科とも異なる、人の可能性を拓く異能の力。


「たとえば」


『凍霊』のひとり――“雷帝”エカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤは、掌に小さな雷をもてあそぶ。青い電荷の華が、日の射さない部屋に散った。

「私には電磁現象としての、電流の微細な操作ができる。他にも体を硬くすることができる奴や、目にも留まらない速度で動ける奴などもいる。きみと同じように」

 ベッドに座っていたヴェルヌは、はじめて顔を上げた。


「おれがあなたがたと同じ?」

「そうだ。きみも『凍霊』だ」

「何故おれがそうだと?」

「血液を調べた。凍霊は特有の血漿物質を有している」

 

 ヴェルヌの異能――それは。

 きっとガリアに立ち向かった時に発揮された、あの予観のことだ。

 なぜあの時だけ、そのような力が宿ったのか。

 なぜその力でカロリーヌを守れなかったのか。

 ヴェルヌのなかで言いようのない感情が流れた。

 かれは思わず立ち上がって、エカチェリーナをみた。


 彼女はうつくしかった。白鳥のように優雅な体躯は、力によって完璧な均整を張り巡らせている。ぐしゃぐしゃに散ったびらに描かれていた、神話の英雄のような面立ちのままに。


「ふざけるんじゃない」

 

 なにが?

 すべて。


「おれが......あんたと、同じなわけがない」


 それを口に出した瞬間、ヴェルヌはあえて見ないふりをしていたさまざまな事柄を突きつけられることになったわけだが――かまわなかった。

報いを受けさせなければいけないという不条理な思いだけが、いまのかれを立たせていた。


「カロリーヌは死んだ。先生も。院の友達も、みんな。おれがあんたと同じなら、助けられたはずだ」

「きみの戸籍には従軍経験はない。そのような理屈は通らない。一般市民が戦う必要はないし、氷惨と戦うのは我々のつとめだ」


 エカチェリーナの言葉は凪いでいる。きっと今の自分は、とてつもなく醜い顔をしているのだろう。

 彼女が自分を救ってくれたのだということも、看病のために市庁舎の小綺麗な一室を割り当ててくれたのだということもわかっていた。だからこれは不必要な苦痛の再生産にすぎない。


 それでも。


「どうしておれなんだ」

 それだけが、喉を掠るように出てきた。もう立つ力はない。ヴェルヌは厚いベッドにへたりこんだ。

 ちっぽけな掌の痛みすらも遠い。かれの愛した物語は、いつも途中で終わってしまう。もしもヴェルヌが彼女と同じならば。戦える力を持っていたのならば――カロリーヌは、まったくの無駄死にだ。いちばん報いを受けなければならないのは、無力なヴェルヌ自身だ。街の慰安婦カンパーニュでさえも、自分がやれることとやれないことを知っている。小さなヴェルヌはどうだと聞いてみよう。そいつはラ・マルセイエーズをがなりたてることしか能のない莫迦ガキなのだ。

 エカチェリーナは違う。彼女ほどの強さがあれば、すべてを守れる。ヴェルヌを救けてくれたように。

 ありがとうと言いたかった。いますぐ、英雄にひざまずきたい思いで一杯だった。

 けれどカロリーヌはもういないのだ。

 ヴェルヌが大好きだった金の髪は、赤い吹雪で穢されている。

 何もかもだめになって、また自分だけが空っぽのままシーツの血染みのように残ってしまった。

 散華のガリアの目の洞を思い出す。

 その洞はそのまま、ヴェルヌの深い奥底に繋がっている。

 ヴェルヌはこれまで誰かのためにしか動いたことがない。それは献身ではなく欠陥だということをかれも理解している。両親のため。その次はコルトのため。かれが死んだら、カロリーヌのため。

 ではその次は?

 昔は違った。ヴェルヌの想像力は海を越えて、月でも地底でも、まだ見ぬ世界をうつくしく切り取ることができた。あの時ヴェルヌの書いた原稿を一蹴したカロリーヌも多分それが解っていたのだろう。

 目が覚めて、カロリーヌが死んだときちんと腑に落ちて、それでも涙が出なかった時から、自分のなかのどこか非常に決定的な部分が凍てついてしまったことを知った。

 雷が走れば、その氷を砕いてくれるのだろうか。

「エカチェリーナさんは」

 今日会ったばかりで、身分も立場もまるで違う。

 けれど、今目の前にいる彼女にどうしても聞きたかった。

「自分の大切なひとが、みんな死んでしまったとき、どうしますか」

 もうヴェルヌは独りきりだ。

 小説を真っ先に見せる相手もいない。新聞社だって、氷惨が襲った居住区のど真ん中にあったのだ。

「転がってた死体見たでしょうあれ俺が好きなひとだったんです。教えてください。おなかは空きますか。のどは乾きますか。やっぱり涙は、出ませんか」

 そして最後にこれだけをつけ加えた。


「おれはどこに行けばいいんでしょうか」

 

 エカチェリーナは老いた灯台守のようなふかい青色の眼で、ゆっくりとヴェルヌをみた。かれがまだ見ぬ、空の色だ。


「私は、」


 時間が凍てついた。

 瞳には、星の光が。


「強くなればいいと思う」

 

 真珠の貝殻みたいに薄くなめらかな唇が、蝋燭の光に濡れていた。


「強くなれば、どこかに行けるようになる。力とはそういうものだ」


 話の途中だったなと彼女はいった。

 机の上には、おうむ貝の図象レリーフが彫られた白銀の懐中時計が置かれている。

「ジュール・ヴェルヌ。私はきみを迎えに来た」


                   +


 マゼンテ・ネーヴェは、アラスカ県の中枢部であるジュノー市庁舎の一室でジョン・メンデルホール氷海軍氷将と向かい合っていた。アラスカの主要施設は有事に備えて要塞化されており、氷惨の侵攻の際は電信網を県内全域に張り巡らせた市庁舎がそのまま氷海軍アトラントアーミー付けの司令部となる。

「氷海軍極点遠征部隊第一特別連隊『鸚鵡貝ノーチラス』より、マゼンテ一等氷曹が報告します。三日前の闘士型による居住区襲撃の被害概算の計上です」

 マゼンテは、手慣れた所作で書類を揃えて机上にすっと差し出した。ヴェネツイア人らしい几帳面さが、しみ一つない手元にもよく表れていた。


「まさかこの街にも凍れる幽霊が来るとはな。未だに信じられんよ」


 メンデルホールはマゼンテの報告書を受け取り、節くれ立った手でめくり始める。

 九月二十二日付。

 死亡者七十二名。

 重軽傷者三百十八名。

 倒壊六十、損傷九十三棟。

 全損車両三基は解体予定。

 後日世界政府より――追加の人員を派遣する。


「それが君ら『ノーチラス』か?」

「いいえ。恐れながら『ノーチラス』はアラスカに詰めている三百七十一名で全てです。名簿をご覧になられますか?」

「いや、いい。連隊にしてはいやに少ないな。見目麗しいものに限って揃えていれば、そのようになるのかね」

「お上手ですね大尉。たしかに大尉殿が率いるアラスカの兵の練度に較べれば、我々はそのようにみられても仕方ありませんわ」

 マゼンテは闇のようなブルネットをはためかせ、にこりと微笑んだ。

「いや…いまのは皮肉だが」

「あら。私のことを褒めてくださったのかと思っていましたが」

「それも皮肉か?」

「それは大尉殿にお任せします。アラスカで一番偉いのは大尉殿ですもの」

 

 メンデルホールはため息をついて、固い塩のような顎髭を撫でた。

 あまりにも、多くの人命が失われた。彼らが――『ノーチラス』が、たまたまアラスカに補給のため寄港していなければ(少なくともこの言いぶんを信じればの話だが)死者は少なくみつもってこの二倍に増えていたはずだ。

 メンデルホール自身も従軍した南北戦争との悲惨とは比べるべくもない。軍人と城壁をすり抜け、銃後の市民を狙う氷の怪物など、この世に存在してはならない生き物だ。

 氷惨の出現から四十年が経ち、世界が連合して、いよいよ人類が北極海に踏み出そうかという一八七六年のその時でさえ、かれらの脅威が衰えたことなどわずかもない。メンデルホールは、『栄光個体』スラヴァを単独で打倒したというエカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤの業績を未だに信じられずにいる。一個師団を壊滅させるほどの暴威を、ただ一人の人間が撃退せしめたという報せに、心のどこかで毒のような嫌悪が渦を巻くことも否定はしない。だが――彼女たち『ノーチラス』全体ともなってくると話は別だ。黒髪の少年が闘士型を斬り伏せる場面に、かれも居合わせていた。黒い旋風が氷惨を撫でて、そして次の瞬間にはすべてが断ち切られている。南北戦争や七年戦争、米仏戦争までをも走り抜けてきたメンデルホールの人生の中で、最も心が沸いたときだった。だから、このオウム貝の幽霊たちに――あるいはすべてを賭けてみても、かまわない。

「第一特別連隊ノーチラスのアラスカ逗留、か。人員も資材もきみらが好きなように使い、人事権の裁量も世界政府に半委託と…なるほど。要は公然の人攫いだな。異能者の軍団のための」

 マゼンテは切れ長の、オリーヴの瞳で老士官を見た。

「われわれが『凍霊』を募っているということはご存知だったのですか」

「いいや。年を取ると余計なことを考えるようになるだけだ」

「カマをかけるなんて、悪いおひとですね」

「逆だよ。私はノーチラスに期待しているんだ」

 そういってメンデルホールは琺瑯ほうろうのカップに淹れたシナモンロースト・コーヒーを啜る。


 マゼンテは戦慄していた。

 この老士官は、思っていた百倍やっかいな相手だ。

 凍霊の発生条件。その真実を、人々に知らせることはできない。

 それは滅びへの契機だ。

 このことを知る人間は世界政府の上層部のごくわずかだ。凍霊ではないマゼンテは、『ノーチラス』に入隊しなければ、その事実を推測する材料すらも与えらっれなかっただろう。だが――メンデルホールは自力でたどり着いた知識をもとにして、威圧と懐柔をいっぺんにじぶんの天秤に乗せながら、交換条件をマゼンテに持ち掛けている。

そしておそらく。

 この老獪な統監が持ち出してくる最後の一押しは、


「“雪牙病の罹患と、そこからの回復“。凍霊の発生条件はそれだ」

 

 単なる、そして恐るべき事実だ。

 この条項が公開されるということは、誰もが無為に凍霊化を目指して、雪牙病を自発的に獲得しはじめるという惨状を意味する。人々の希望の矛先が、氷爆投機による突発雇用から、異能を得るための命を賭したギャンブルへと一変してしまう。

そうなれば、氷惨の侵攻によって危機に瀕するアラスカは今度こそ終わりを迎える。それは連鎖的にマゼンテたちの目的も達成できなくなるという可能性も孕む。

 アラスカ統監ほどの権力者であれば、雪牙病のカルテを閲覧することも、軍籍を自由に閲覧することも許される。だがそこに関連を見出し、更に今この瞬間にそれをマゼンテに突きつけてきた狙いが読めない。

 

 営利ではない。

 たたき上げの軍人であるメンデルホールには、そもそもこの情報によって利権を提供する派閥が存在しない。彼がバルト海戦線の女性将校”怪奇”オーメス=リーデンブロックや、世界政府本部のジョゼ・クラウザーとも敵対していることもマゼンテは掴んでいた。だがノーチラスの私兵化はできない。こちらはエカチェリーナというあまりに突出した最強の偶像を抱えている。極端な話、メンデルホールを殺害してしまえば不都合な真実が世間に公表されることはない。マゼンテは編み上げのブーツの底に仕込んだナイフの感触を確かめた。

「小石でも入ったかね。整地はきちんとさせているはずだが」

 ――読まれている。メンデルホールの洞察力は異常だ。

 愛しいネモのところに早く帰りたかった。

「失礼、すこし靴擦れを起こしてしまって」

 微笑みを崩さぬままに、マゼンテは次の手を脳裏で描く。

 この交渉はエカチェリーナ大佐に任されたものだ。諦めるわけにはいかない。認めさせなければいけない事柄を反芻する。なにも変わりはない。

 相手の望むものを察し、それと交換に自身の望む条件を達成する。

 マゼンテのような小娘でも理解できる、政治の基礎だ。


「我々は大尉殿のお力添えがあって、はじめてここで活動できます。アラスカの防衛は当然の必要経費として負担する所存だと、隊長からも伺っております」

「それは凍霊を使ってか?」

「ええ。この戦線氷塞アラスカの、これまで以上の堅固な守りをお約束致しますわ」

「……悪くない。だが」


 メンデルホールはマゼンテを凝とみる。

「もう一つ、欲しい。きみらは『冬の騎士』アークナイツの手帳を保持しているはずだ」


 老爺の瞳の奥では、願いの熾火が燃えている。世界を巻き込み燃やし尽くす、怒りの日に放たれた炎の残りが。


「マゼンテ君。私は、世界を救いたいんだ」

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