戦線氷塞アラスカ Ⅰ

 センシ=ムラマサは、凍刃≪村正むらまさ≫を浅く握る。

 白む息を、鋭く吐いた。


 右前方から闘士型コロッサスが砲弾のように飛来している。

 脊髄が泡立つような感覚がある。

 ――そして、彼にしか見えない時間が始まる。


 世界が凍てついた。

 赤い吹雪も、隣で武器を構える正規兵も、白銀の砲丸めいた氷惨の姿も、その全てがゆるやかに停滞している。

 闘士型は重い。地面と接触する腹部の霜甲スノーヴァンそりのように滑らかなのは、大容積に伴う自重を支えて、迅速な進軍を可能とするためだ。継ぎ目のない構造に、下方からの斬り上げは有効ではない。

 ならば。

 ムラマサは軍靴に装備された氷爆式ジャンプ・ジャッキを起こし、手首を返して刃の角度を変える。

 ――そして、彼にしか見えない時間が終わる。

 

 ムラマサの小柄な体躯が、圧縮氷気の爆発によって猛烈に跳ねた。

 がしゅという音が遅れて響く。

 雪原がたちまち青く染まった――腹部から体液を噴出する氷惨の体躯は、墜落の勢いのまま橇のように地面を滑ってゆく。そして止まる。もはや駆動することはない。凍刃と干渉した雪花鉱アラバスタは、氷惨を動かす振動を一時的に停止する。彼の凍刃からは、僅かに――氷惨の核たる雪花鉱の、白い薄片が零れ落ちている。

 内臓を抱え込むように覆う、第二腹条骨と第三腹条骨を脳裏に描く。その間隙をき、刃が通った瞬間に胸部を抉り込むように反転させる。堅牢な骨を避けて肉をぐ、斬馬の術の応用だ。ムラマサにとってそれは、身に染み付いた修練をなぞっているのみに過ぎない。

 辺りには、そうして斃れた氷惨たちの骸が果てしなく転がっている。

 彼らが殺した人間と同じように。

 ムラマサは風防眼鏡を上げて、黒い総髪をたなびかせながら空を仰ぎ見た。

 背後に広がる氷壁は、巨人が身命を賭して建てたかのように果てしなく長大だ。


「ムラマサ一等氷尉」

 彼のもとに、『ノーチラス』の女性隊員が駆け寄ってきた。

 大柄で、すらりとした体躯。肩までかかる茶髪を持っている。

「城壁付近の氷惨は掃滅しました。いまは現地の兵と協力して住民の避難に当たっている所ですが、我々も中央に向かいますか氷尉」

「ネモ殿。ずいぶんやる気だな」

「いえ......早く片付けて帰りたいので」

 ネモ・ピルグリムという。ねむたげな瞳が印象的な、年若い凍霊だ。

「ふむ。中央か」

「ええ。隊長の元に行くんでしょう」

「否で御座る」

「ええっ」

「む。内憂の兆しありと上に報告しておこうかな」

「あっ…いえ! その、てっきり隊長の援護に行くものかと」

「ハハ、そう固くなるな。なに、彼女は孤軍でも大事ないはず。それに」


 ムラマサは自身よりも一回り大きいネモへ、諭すように語りかける。

 彼の少年のような顔立ちと背丈は、荒涼とした戦場の中で明らかに異様だった。

 あるいはその様子は、談笑する姉弟のように映るのかもしれない。


「氷惨どもの様子が妙なのだ。ネモ殿、拙者たちが受けた報告を今一度復唱してみてはくれまいか」

 ネモは怪訝そうな顔をしながら、アラスカの軍事電信網によって彼らの部隊に送られてきた打電書簡を懐から出した。

「えっと…読み上げますね。『アラスカジョウヘキヲヌケ/アイスバーグノウゴキアリ/シキュウオウエンサレタシ』」

「うむ。だが、ご覧の通り氷塞の防壁には傷一つない。もう少し時間があれば、詳細な電信も打てたのであろうが――なにせ電信網は配備されはじめたばかりだ。拙者も一度通信手をしたことがあるが、あれはなかなかに中継が難しい」


 指し示す通り、アラスカが誇る天然氷を鉄で補強した城壁――もとい氷壁は依然強固に都市への吹雪を阻んでいる。ムラマサたちは、中心部である居住区方面から北進してきた氷惨を迎撃していたのだ。それとは別に、報告において居住区方面が襲撃されているという情報も断片的ながら打電されている。つまり氷塞都市アラスカは現在、氷惨の内から外に出ようとする動き/内から内に潜ろうとする動きという二つの進撃を受けていることになる。


「つまりアラスカの壁は破られたのではなく、何らかの方法で突破されたので御座る。ここの兵は練度も相当に高い――あれくらいの数の闘士型なら、拙者たちが寄港するまでに持ちこたえる猶予は十分残されていたと思うのだ」

「じゃあ我々が城壁に残るのは、氷惨がこの壁を突破した手立てを警戒して、ということですか」

「ネモ殿は鹿威しのようだな」

「シシオド…って、なんです?」

「打てば響くという意味で御座るよ。気にしなくてよろしい」

「はあ」

ネモは制帽に包まれた頭を掻いた。

「あたしは漁師の娘なんだから難しい言葉なんて知らないんですよ。マゼンテならともかく」

「ふふ。そうカッカするな」

「ああ、いっつもそんな調子なんですから」

ため息をついて、ネモは双眼鏡を覗く。

「隊長は一人で大丈夫なんでしょうか」

 居住区からはいまだ砲声が鳴り響いていた。

「隊長殿ならば問題あるまい。なにせ『栄光個体』を単独で討つほどの御仁だ」

「それ、本当なんですか?」

「では、拙者が武技の真贋も見抜けぬと?」

 ムラマサは、わずかに目を細める。

「いえ、失礼しました。ですけど――あたしはあの人の戦うところを、見たことがなくて」

「ふむ……全隊整列!」

 ムラマサはおもむろに声を張り上げ、周囲の隊員の耳目を集めた。

「拙者たちは引き続き城壁付近を防衛する! やつらの手段が解らぬ以上、拙者たちは此処を死守すべきである。都市中心部からの挟撃要請も念頭に置きつつ、各自配置につくこと! 鉤銛ワイヤ・アンカの点検を忘れるべからず。それでは一八一五より、状況開始!」


 隊員たちの応声が深紅の空に響く。

彼らの隊装の肩部には、錨の上に鎮座する巻貝ノーチラスの徽章が輝いている。ムラマサはネモに単眼鏡を放った。


「ネモ殿。おぬしは城壁上の監視に回るがよい」

「ムラマサさん。それって」

「あそこからなら、解るはずで御座るよ」


 砲火に交じって、かすかに。だが鮮明に。

 雷が吹雪を切り裂く音がきこえる。


「彼女がなぜ、我々『ノーチラス』を率いているのかが」


                              +


 金砂の髪が、軍旗のようにたなびく。

 エカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤを追う触手はいまや数百本にも増加していた。それを放つのは――栄光個体、散華のガリア。

 すべてを微塵と化す殺戮の嵐が、ただ一人の英雄に迫る。

 彼女は手に持つ大斧をごぎゅると旋廻させた。

 手元に残像が走る。

 ぼぼぼぼっ、と白煙が舞い上がる。

 果たしてそれは、もう一つの嵐であった。

 そして――刹那の交錯ののち、ガリアの嵐は消える。

 切断された触手が、彼女の頭上から雨のように降り注いだ。

 瞬時、ガリアは樹木状の触手を高速で編み直している。

 大樹めいた二振りの触手が、再生の勢いのままにエカチェリーナのもとへ振り抜かれ――すべてが、

 

 遅きに失した。


 栄光の個体の眼前で、青い雷光だけが煌めいていた。

 背後から迫り来る赤い危機の予感が、散華のガリアの体を貫く。


 ガリアは背後に甲殻を叩きつけ/それは既に切断されている。


 巨人の持つような大斧を、跳躍しながら振り抜くエカチェリーナの姿があった。

 北海防衛に携わる兵の、制式装備軍靴に備わるジャンプ・ジャッキは、氷爆石の圧力爆発によって装備者の高速機動を補助する機能を搭載している。


 中空。

 エカチェリーナの斧が再びとされる。


 散華のガリアは、飛んだ。

 凍弩すらも届かぬ高度へと瞬く間に上昇した。

 浮遊の間にも、樹木じみた触手が高速で増殖し、延長され、形状が多様に変化していく。貫き抉る刃のようなそれではない。より毒を広範へ噴出させるための、先が扇状になった金属組織だ。体内の鉱分を集積し鋭く研ぎ澄まされた触手の先には、乳白色の液体が滴っている。それはヴェルヌを昏倒させた魔手である。

 ガリアの有する液毒はグリセリンを含み、零下でも凍結することがない。

 一撃が凶手となりうる、致死の毒刃。


 エカチェリーナは中空より着地し、散華のガリアを無感動な目付きでみた。

「触腕」

呟きに、空気が凍てつく。

「――過剰かつ無数の触腕は、本体の脆弱性を示している。その証拠に、先ほど私の凍斧でも甲殻ごと破壊することができた。構造から推察すると、雪花鉱アラバスタはその巻貝もどきの体躯の中に隠されている。あるいは、常に移動させて位置を絞らせないようにしている。つまり――」


 彼女は氷のような面立ちのまま、背負った凍刃を抜いた。

 右手に斧、左手に刃をそれぞれ把持し、軽々と構える。

 

 戦端を開いたのはガリアだ。

 超高所からの触手の乱舞が、ただ一人の人間に浴びせられる。

 エカチェリーナは凍刃を上空へ鋭く振るった。

 迎撃の刃が触腕を捉える直前――それは直角に曲がり、そして再び彼女を襲う軌道へと変化する。短く持たれた右手の斧は、それらすべてを振り払っている。

 

 しかし。その攻撃は、散華のガリアにとって囮でしかない。

 ぼぼぼぼ、という音がして/足元から触手が生え/それは彼女に当たることはない。


 地下からの攻撃を、エカチェリーナは半歩前へ出て回避している。

 触手のである本体の動き自体は鈍重だ。

 故に、エカチェリーナにとってそれは避けうる攻撃の一つへと堕する。


 ”雷帝”は、ヴェルヌのような予見の能力は一切持ち合わせない。

 その戦闘経験と天性の反射のみで、栄光個体の攻撃を完封している。


 ガリアは停まらない。その攻勢は――無限だ。

 巻貝のような甲殻構造を突き破り、樹海のような規模の触手が生成される。

 先のヴェルヌとの戦闘の際にはまるで桁違いの、それは暴威だった。

 散華のガリアは栄光の個体だ。

 先ほどの存在は脅威にすらならない。

 それをその場に留めたのは、ただひたすらに鮮烈な、赤い死の予感だ。

 

 雷の匂いがする。


 金の流星のように、駆け出している。

 雷の蹄のような焦げ跡が雪上に残る。

 自身の背後に半瞬遅れて形成された触手の壁を抜き去りながら、エカチェリーナは左手の凍刃を捨てた。隊装の袖に仕込んだ鉄製のリングを小指と薬指で弾く。手首に装着された、平たい筒のような装置が跳ね起きる。

エカチェリーナは鉤錘ワイヤ・アンカを射出した。

錨が先端についた鋼糸がばしゅと走り、それはガリアの触手に中空で絡め取られる。栄光の個体は、一瞬の好機を逃さない。


 だが――エカチェリーナもまた、同じことだ。

 彼女はこの氷海の地平でただ一人、それを操ることができる。

 右手の斧を大地に突き刺し、そして。 


 鋭い光条が一筋、彼女とガリアの間に結ばれたようにみえた。

 そして次に、世界を揺るがす砲火のような音が響いた。

 触手とエカチェリーナの間に架かった鉤錘の鋼糸は、彼女の雷撃をガリアへと導く最良の導体である。大地に突き刺した頑強な斧は、足場を固めると同時に膨大な電流を地面に逃がすアースの役割も果たす。


 青い雷光が瞬いていた。

 アラスカの街を一日で壊滅に追い込んだ栄光個体は、そうして墜ちた。

 ただ一人の、世界の可能性のような人間を前にして。

 どどうという音がして雪塵が舞った。

 雷電纏いし英雄。彼女の異名を、”雷帝”という。


 「――核が不定の相手には、こうするのが一番早い」 


 エカチェリーナは踵を返し、地に倒れ伏し呻く少年を――ヴェルヌをみた。

 

 悲惨だった。

 口元からも、瞳からも、脂質が混ざり濁った血が際限なくあふれ出している。栄光個体にその身一つで立ち向かったものは、誰もがこのようになる。


「......ぬ、な.....し、ぬな、し、」 


 逝った誰かを、夢見ているのか。

 解らない。何も。 

 彼女はヴェルヌを抱き上げようとした。

 その耳に、大地を削るような轟音を聞くまでは。

 

 大地が揺れた。彼女がここに来るまでにも一度経験した、地盤ごと巨人に掘削されるような、うねり突きあげる振動。

 エカチェリーナはガリアの方へ振り返る。未だに雪煙は消えない――それどころか、その中に大量の黒い物質が混じり始めている。土砂だ。エカチェリーナは直感した。

 どのような物体であろうと。エカチェリーナの最大出力の雷撃をまともに受けてなお活動することは不可能なはずだ。例えそれが、栄光の個体であっても。

 その不可能が、現実に起こっている。


 思考は一瞬にして中断され、既に彼女は青い残光と共に突進している。

 それでも。

 斧の一振りで雪煙が晴れたときには、全てが遅きに失した。

 

 はたして散華のガリアが墜ちた場所には、ただ地獄へと続くような――深い洞穴が残されていた。



 カロリーヌはいつも、ヴェルヌの書いた文章を嬉しそうに読んでくれた。彼女の批評は新聞社の編集よりもよほど辛辣で、ウィットに事欠かず、そのせいでヴェルヌは何度も完成品の原稿を引き裂いて唸り声を上げながら雪に突っ伏したくなったものだが、その悪罵にもほとんど近い助言に従って直した作品はたいていが上手くいったため、ヴェルヌはもっぱら最初に彼女のもとへ原稿を持ち込むことにしていた。

 カロリーヌは部屋の真ん中で首を吊って死んでいた。整然と配列された家具のように、微動だにしない。

 美しい顔は膨らみ、血が鬱んで褐色になっていた。頭蓋の内圧が上がり、真っ赤な目玉が酸欠の鮭のようにぴょこんと飛び出している。彼女の自重を支える石造りの部屋の天井に、わずかに亀裂が走った。そこから荒い縄が伸びて、カロリーヌの細い頸を結んでいる。その縄は木の根だった。

 亀裂からは、鳥の頭蓋骨のような顔が覗いている。

 ガリアの頭部が。

 ころんと何かが床に転がる音がした。天井から目をそらし、下を見る。

 カロリーヌの眼球が落ちていた。

 赤く輝く月に、血のように濡れていた。


「げゔァっぅ」

 

 ヴェルヌは嘔吐した。

 眼球の上に、ふやけた黒パンと胃液がべちゃべちゃと降りかかる。

 彼女の眼窩の周縁から顔面に向かって、赤い霜がおり始めた。

 たちまちそれは顔を覆い、結晶質に肩を這う。

 そして細い脚、細い胴へかかり――忽然と、彼女の体は氷に包まれる。

 全身を覆う増加した氷の重みに耐えきれず、天井が千切れた。

 氷が落下する。

 そこに上から石材が落ちてきて、カロリーヌを砕いた。

 中にはだれもいなかった。砕けた硝子みたいに散った氷だけが残されていた。

 気づけば見慣れた彼女の部屋も消え、ヴェルヌは紅い吹雪が嵐す廣野に座り込んでいる。

 

 死ぬな。死なないでくれ。心の底からそう願った。

 顔を上げた。

 

 死体の山が果てしなく聳えている。血の河が果てしなく流れている。

 父。母。院の友人。コルト。アリステッド。

 ヴェルヌの知る皆が、そのなかにあった。

 耳元で声が亡霊のように響く。


 ジュール


 人が想像できることは

 人が必ず実現できるんだよ

 ここには春なんてないんだ


 だから

 

 この景色はきっと


                  +

               

 全身の骨が氷柱になったような寒さの中で、ヴェルヌは目覚めた。手にひどい疼痛があって、包帯がきつく巻かれている。左のほうを歯を使ってこじ開けて見ると、両の掌が大量の引っ掻き傷でぐじゃぐじゃになっていた。爪も血とこずんだ皮膚でぼろぼろだ。寝ている間に拳をかなり強く握りしめていたらしかった。院のものよりはるかに上等そうな白い絹のシーツにも、血の模様が赤く散っている。

 そうだ、ここは――院ではない。

 かれは辺りを見渡した。白を基調にアメリカ樫で補強した、広く明るく清潔な貴賓向けの造りだ。アリステッドの救貧院とはまるで様式が違う。野戦病院などではありえないことが一目でわかった。ベッド脇の木机には、三日月みたいな形の黄色い果実が銀の盆に盛られている。南米産のバナナという果実を、本で見かけたことがある気がした。腹が減っていたので、一房ぱきりともいでおく。

 机には上品な陶器の水差しも置いてあった。直に口をつけて飲むと、さわやかな酸味が舌の上に溶ける。果汁を絞ってあるのだろう。水はかれの体に染み渡り、体の霜が少しずつ溶けていくような感じがした。

 そして、すこしずつ考える余裕も出てくる。ヴェルヌは窓を開けた。赤い空と、氷塞の城壁が遠くのぞめる。近くには中央警報台もある。なん十枚もの金属の板を擦り合わせて大きい音を出す仕組みで、これはアラスカの町全体に小型のものが配備されているが、まずは街のど真ん中にある中央警報台から指令が格台に飛ぶ仕組みだ。ということは、ここは市庁舎だ。

 ならばなぜ、一介の雇われ文士タイピストでしかない自分はここに?

 そう考えていたところに、

「失礼する」

 澄んでいて、少しぴりっとした声が響いた。





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