氷海 Ⅲ
駅、不凍港、山道――あらゆる
群衆に踏み潰された遠征隊のチラシが無惨に打ち捨てられている。悲鳴と怒号は街中から野砲のように鳴り響き、赤い空を塗りつぶす。馴染みの雑貨屋も、毎日ながめていた工場の煙も、今はもうなかった。断続的な弩声や剣戟が、居住区の方まできこえていた。
ジュール・ヴェルヌはそのなかでただ、逃げている。カロリーヌを簡素な車椅子に乗せ、人々に押し流され、それでも駅への道をひたすらに走っている。
――
――二十はゆうに超えている。居住区の守備隊は全滅だ。
――中央からの派兵は一時間以上かかる。もう何十人も殺されている。
――『栄光個体』の仕業かも知れない。そうなればもう、誰も勝てない。
逃げ惑う人々が口々に叫んでいるのは、おおむねこのようなことだった。
氷塞都市アラスカは、氷惨戦の最前線であるとともに、不破なる凍土によって築かれた最硬の要衝のはずだ。堅牢堅固な城壁、その上にずらりと並んだ氷爆砲と凍弩に熟練の兵団――その守りの堅さが人々を引き寄せ、結果として氷爆投機を促していたのだ。
だから、今回も大丈夫だ。汽車に乗れば助かる。靴に伝わる氷の脆さを踏みしめながら、それだけを祈るように唱えていた。解っている。駅にたどり着けるかどうかも解らない。それでも何かに縋っていないと、もう走れないような気分だった。
だからヴェルヌは、もっと大事な声にも気づくことができなかった。
「ジュール、駄目。もっとゆっくり...走って」
息も絶え絶えの声に、一瞬身を固くする。カロリーヌの体に無理を強いていることは理解していた。
強い咳をするだけで胸骨が砕けるような病状だ。不整地での全力疾走など、耐えうるべくもない。
「お願い。すっごく、痛いんだ――お願い。もう少しだけ、ゆっくり」
「それこそだめだ。急がないと死ぬ」
「今、死ぬほど痛いの。元気なきみにはわかんないよ」
身体じゅうの血が、氷に換わった気がした。そうだ――駅に着いたとしても、群衆に飲まれないようにするのが精一杯で、とても余裕を持った避難などできる状態ではない。汽車に乗れてもカロリーヌは潰されて死ぬだろう。第一種警報が発令されれば、もはや襲来までに一刻の猶予も無い。街を捨て去り、逃げるしかないというのに。
(ここは最前線だ。こうなることを想定してなかったわけじゃない。それでも、こんな短時間で第一種警報が鳴るのはおかしい。どうしてだ?)
積み上がる思考を追い立てるように、ヴェルヌの背後からぱっぱっという蒸気自動車の汽笛が鳴る。ヴェルヌは慌てて振り返り、道を開けようとしたところで、
「ジュール!」
今朝許可証を貰った親代わりの男性職員が、蒸気自動車を路上に停めていることに気づいた。
「お前は無事だったんだね、よかった」
お前は無事。他の人は?
瞬時に最悪の想像が頭の中で結ばれていた。
「院の人たちは?」
ヴェルヌは震えながら尋ねる。
喉がからからだった。水が欲しかった。ヴェルヌにとっての水は、これまで人生に関わってきた皆だった。
院のみんなは?
気球造りが趣味だったデュマは?
法学者を目指していたポールは? いつもちょっと多く肉を分けてくれたマチルダは? アンナは? マリ―は? 子犬のイレブンは――?
「さ、逃げるよ」
「みんなは?」
「大丈夫だよ。もう遠い所へ行った。君だってこんなにぼろぼろじゃないか」
ヴェルヌはそういわれて初めて、自分がどんなに傷ついていたのかがわかった。肺に空気が取り込めていない。靴も脱げ、ボアコートは擦り切れていた。どこまでも寒い。みんな、遠い所へ行ってしまったのだ。ぼーっと白痴のように突っ立っていると、カロリーヌがヴェルヌの裾を引いた。
「一緒に」
「あ――」
「どうせあんたは、死んでもあたしを守るつもりなんでしょ」
「だって、もうきみ以外は」
「騎士道なんて流行んないのよ」
「わけのわからないうちに、全部なくなってしまって」
「全部じゃない。あたしがいる。約束でしょ?」
「三人で、」
「そう。三人で、海の向こうを見るって」
弾かれたようにヴェルヌは車に乗り込んだ。涙が溢れてきた。
もうコルトはいないのに。
手紙を出しているのは、自分なのに。
院のみなは――彼の言う通り、遠い所へ行ってしまったのだろう。なぜかは解らないが、どんなに酷い目に遭っても,生き残らなければならないような気がしていた。一度は、全てを喪失した悲惨を場違いな義侠心で埋めようとした。それを自覚していてなお――カロリーヌの言葉は、ヴェルヌにとってこの世の何よりも重い意味を持っていた。赤い雪を吹雪かせる、空の重さよりも。
なぜだろう。瞳の奥が、鈍く痛む。
+
アメリカ合衆国アラスカ県都ジュノー、セントラル・アラスカ駅鉄道。居住地帯の中央に座する、氷気管が蔦じみて張り巡らされた巨大な
赤い空の下で、汽笛が急かすように次々と鳴り響いていた。蒸気汽車が走り出してゆく。護衛の守備兵や砲を載せた車両も連結し、それに続く。高級客車、貨物車、アラスカに停架したすべての車両を牽引限界までごちゃ混ぜに総動員しているため、臨時列車は発育不良の芋虫のような有様だ。
このような状況でも鉄道が機能しているのは、一重に鉄道員たちが氷惨の『優先順位をつけて破壊行動を繰り返す』という習性を理解しているからだ。氷惨はけして心持たぬ獣などではない。明確に知性を有し、殺戮のための破壊を行う無慈悲な軍団である。氷惨の襲撃中に一人逃亡し、結果的に「囮」となって死んだ世界政府高官のニュースを誰もが耳にしていた。氷惨が突如進撃進路を変更し、まるで一人も逃がさないというように――群れをなして逃亡者を轢殺したのだ。その一件以来、浮いた駒から狩られるという至極当然の事実が周知されることになり、おろかな逃亡劇が繰り返されることはなくなった。
砲声はますます激しくなっている。氷惨の侵攻音や、それに付随する倒壊音は――急速に、そして確実に、セントラル・アラスカ駅に接近している。
「……当列車はアンカレッジ市行きです――積載人数には十分な空きがあります――決して焦らず、落ち着いた行動をとって下さい――繰り返します、積載人数には十分な空きがあります……」
ヴェルヌたちは駅舎の外で駅員の必死のアナウンスをきいていた。
舎屋の中に入ることはできない。ここまでカロリーヌはよく保った。しかし、零下二〇度の気温と、肌を刺すように冷たい雪は、彼女の病状を急速に悪化させている。雪牙病の喀血症状が出ていた。カロリーヌは辛そうに目を閉じ、なるべく肺を傷つけないよう浅い呼吸をすることに徹している。ただでさえ少しの衝撃でも骨折の危険がある彼女を、このまま人々が過密している車両の中に入れるわけにはいかなかった。
「アリステッド先生、ありがとうございました」
ヴェルヌはここまで自分たちを送ってくれた職員に礼を言う。
「カロリーヌはもうぼろぼろだ。おれたちは歩いて逃げます」
アリステッドは――親の死んだヴェルヌたちをこれまで育ててきた男は、青ざめて返した。
「私の蒸気自動車で逃げれば良いじゃないか。なにもそんな、命を捨てることは」
「もうくべる薪はないでしょう。おれたちをここまで送ったせいで。大丈夫です。それにおれたちは、生きるために行くんです」
生真面目そうな顔がぐっと歪んだ。彼はいつもそうだ。政府からの交付金だけでは、救貧院が立ち行かないことをヴェルヌは知っていた。新聞社との原稿料のやり取りを通してはじめて、自分が書物を満足ゆくまで購入できていたことが得難い環境なのだと悟った。
「本当に、感謝してるんです。院の皆もそうだったと思います。アリステッドさんは、本物の父さんだった」
「ジュール! だめだ、許さないぞ。私と一緒に来なさい」
「おれ、もうすぐ誕生日だったでしょ。院だって十八になったら出ていく決まりだ」
「そんなこと関係ない! 街が元通りになったら、いくらでも家にいれば良い!」
「でもそこに、カロリーヌはいない」
今アリステッドと共に行くというのは、そういうことだ。
アリステッドがあえてカロリーヌに触れなかったのも、そういうことだ。
「約束があるんです」
「それは、生き残ることよりも……大切なことなのかい」
「わかりません。でも、それを破ったら、おれは。生きる意味すら失ってしまう」
アリステッドは、それを聞いて――ヴェルヌの頭に手を少し伸べ、途中で力なく下ろした。
そのままアリステッドはヴェルヌを通り越して、駅の方へと歩いてゆく。ヴェルヌはアリステッドの背に「またいつか」と呼びかけた。
彼は無言で手を上げ、駅舎へ去っていく。
「……ジュール」
車椅子にいたカロリーヌが、微かに声をあげた。
「ごめん。あたし怖かった。あそこで…なにか、言ったら。あんたが、あのひとと一緒に行っちゃうんじゃないかと思った。私は卑怯者だ」
「いいんだ。もう喋らなくて良いから」
カロリーヌに、自分の来ているボアコートを脱いで掛けてやる。
ヴェルヌは誰も責める気にはなれなかった。彼女には現実、ヴェルヌ以外に頼れる者は存在しないのだ。あそこでヴェルヌが去るのを恐れたことを、誰が裁けるだろう。ヴェルヌが同じ立場でも、同じようにしていたはずだ。あまりにもささやかな罪だった。
「行こう。駅を東にちょっと行けば林がある」
車椅子をゆっくり押しながら、これからのことを考える。
「たぶん猟師小屋が建ってるはずだ。そこで氷惨をやり過ごそう」
駅の外部は閑散としている。恐らくはみな広い駅舎のなかに入ったのだろう。セントラル・アラスカ駅は、有事の際にそれ自体が臨時のシェルターとして機能するよう設計されている。
あるいはたったそれだけのことが、ジュール・ヴェルヌの運命を決めたのかも知れなかった。
(アリステッドさんも、死んでしまったみんなも、一緒にいれれば良かったのに)
ヴェルヌは降る雪を感じながら、それだけを思う。
アリステッドが乗っているだろう汽車が、赤い吹雪を切り開きながら、ゆっくりと駅を離れてゆく。先頭の緑の車両にアリステッドが乗っているのが微かに見えた。
汽車の吐き出す白い噴煙がたなびいている。
その噴煙が――不規則に揺れていた。
瞳の奥がまた、ずきんと痛む。
それだけではない。揺れているのは、ヴェルヌが立つ地面そのものだ。
振動は次第に大きくなってゆく。地底を巨人が歩いているかのようだった。
彼女はうめき声をあげた――ヴェルヌは思わずカロリーヌを車椅子から抱き上げる。このままでは、病気よりも先に彼女の全身の骨が先に砕けかねない。
そうはいっても、ヴェルヌ自身も唐突な地震を座り込んで耐えることしかできなかった。それどころかずきずきとした瞳の痛みは更に増して、無数の針が眼球の内側から生えているようにも感じられる。
眼をすこし動かすだけでも鋭い痛みが彼を襲い、ジュール・ヴェルヌは瞳を開けることしか許されない。
ひときわ大きい揺れが、大地を
そしてそれは、きっと必然だったのだろう。
ジュール・ヴェルヌは遂に、紅く染まった瞳で。
その光景をみた。
ぐぱりと割れた地表から――彼らが飛び出すところを。
それは怪物だった。
獣じみた、強靭な四足。
鍛冶の鎚のような、寸詰まりの頭部。
瞳もなく、口もなく、体表の一切をなめらかな藍色の組織が覆う。
その上から――金属質の氷を、騎士のように鎧っていた。
狂った世界を嘲弄するように、それは青白く美しかった。
彼らの名は
氷より出で来て、惨憺たる殺戮をもたらすもの。
(
ヴェルヌは氷惨の何たるかを知っていた。彼の父から聞かされた、いくつもの英雄譚があった。そして、ジュール・ヴェルヌは無力な存在だ。彼の力で守れるものなど、何一つない。
『闘士型はな。僕もあんまり会いたくないんだよね。あいつらの力っていったら、機関車を素手でばらせるくらいなんだぜ。人間なんて、もう――』
氷惨は次々と凍れる大地から飛び出してくる。十、二十、三十――もっとだ。おびただしい数の闘士型が、今しがた出発した列車の方に恐ろしい速度で走り出している。カロリーヌはあまりの衝撃に気を失ったのか、ぐったりと動かない。その様に目もくれず、氷惨は次々と地面を揺らしながら進撃して――ついに一体の闘士型が列車に追いついた。氷の鎧をさらに分厚く纏い、速度を落とさぬままに走る列車に横から激突する。
銅鑼を重ねて叩き割ったような音が響いた。
雪塵が舞った。無数の氷惨がそれに続いた。
白い稲妻のような何十もの突撃が車体に突き刺さり、ついに列車は横転した。大きな雪煙が舞う。列車内部の石炭と氷爆石が過反応を起こし、閃光と共に鉄の機関部が爆散する。爆風が雪の津波を引き起こした。
赤白い紗幕が視界を覆う。かれは咄嗟にカロリーヌを庇った。
(カロリーヌだけは――救われてくれ)
(後はもう、どうなってもいいから)
ヴェルヌは氷の爆風のしじまに、ただそれだけを願った。
瞳の奥を電撃のような痛みが貫いた。
そして世界が終わった。
+
目が
わずかの間、気を失っていたようだった。暴風に吹き飛ばされたのだ。
ヴェルヌは力を振り絞って起き上がり、列車をみる。
無数の氷惨がいた。
無数の屍があった。
横倒しになった列車に何度も爪を立てるもの。列車をひたすら圧し潰すもの。かろうじて這い出した人間の頭を、雑草を摘むように引き千切るもの。爆発で焼け焦げた屍体を振り回すもの。ヴェルヌはその光景を茫洋と眺めていた。
一体の氷惨が、車両を瓶でも振るように上下に激しく揺らしていた。圧力に耐えかねた窓ガラスがばりばりと音を立てて、細かく割れ落ちる。
塩みたいだった。その塩は赤く濡れていた。
遮るもののなくなった窓枠から滑り出すように、なかで圧迫された肉塊がぼとぼと零れ落ちてくる。
アリステッドの上半身もそのなかの一つだった。
生真面目で、眉間に皺ができたと嘆く彼の顔を覚えている。
ジュール・ヴェルヌは無力な存在だ。彼の力で守れるものなど、何一つ無い。
赤い吹雪はなにも隠してはくれない。少なくとも――目の前の地獄は、何も。
ヴェルヌはふらつきながら立ち上がり、踵を返した。
(カロリーヌは)
カロリーヌを探しに行かなきゃ。こんなところにいるわけがない。
(そうだ。カロリーヌだけは)
家に帰って、お風呂に入って、美味しいマトンを食べなくっちゃ。
そうすればきっと、明日が来る。
もはや人々の血とも赤吹雪とも区別がつかない、紅白の大地の上を、ヴェルヌは幽霊みたいに歩いていた。吹雪はますます勢いを増し、ケープの上からヴェルヌの体を強かに刺している。後ろから叫び声がかすかに聞こえた。もう、振り向く気力すらも残されていなかった。
どれほど歩いただろうか。時間も、方向も、吹雪のせいであやふやになっていた。
全身が凍り付きそうだった。今足を止めたら、二度とこの吹雪を抜けられることはないだろうという確信が身体を浸していた。
そのなかでふと――一筋、懐かしい香りがする。冬の匂い。かたい黒パンと、りんごと、水と、冷たい石室のかおり。カロリーヌの匂いだ。
ヴェルヌの体に活力が再び漲ってきた。
あれほど酷かった瞳の痛みも、今はもう潮引いている。
彼女はどこだろう。
吹き飛ばされて、雪に埋まっているのかもしれない。はやく連れて帰らないと。
一か所、吹雪が薄い場所がある。
きっと匂いはそこから来ているのだろう。
なにか、影が見える。希望を抱いてヴェルヌは走り出した。
吹雪を抜けた。
赤く霜の降りた、巨大な巻貝のような氷惨が空に浮かんでいた。
浮遊するそれは、無数に備えた木の根のような触手でカロリーヌを吊り上げている。
栄光個体、散華のガリア。
吹雪の向こうに見えた影は、最悪の絶望だった。
「――なんで」
なんで。なんで?
なんで本でしか見たことのない
首を触手で縛られて、カロリーヌの体は風にふらふらと揺れていた。
空に吊り上げられた時に漏れ出たのだろう、雪に散ったわずかな糞便が惨めだった。
彼女の顔が見えないことだけが唯一の救いだ。
カロリーヌ・トロンソン。ヴェルヌの初恋だった年上の従姉妹は、彼女の弟と同じく――なんの意味もないままに、その生涯を終えた。
ヴェルヌは薄いカバンの中から父の短凍刃を抜いた。
柄の装置を起こす。澄んだ音とともに、氷の刃が形作られる。
失ってばかりの、醜い人生だった。
両親を失い、友を失い、そして今カロリーヌさえも失った。
ジュール・ヴェルヌは無力な存在だ。彼の力で守れるものなど、何一つない。
それでも。
ヴェルヌの瞳は紅かった。全てを隠す吹雪と、同じ色だ。
短刀を構え、散華のガリアを見据える。
空間に斬線が走る。身を屈め、紙一重で避ける。無意識の行動だった。
なぜ避けれたのかは自分でもわからない。ただ脳裏に、この未来が見えたような気がしたのだ。現実離れした奇妙な知覚のなかで、かれは一瞬前の出来事を反芻する。なにか――糸のようなものがヴェルヌを目掛け払われたのだ。
ガリアは吹雪舞う空にその身を浮かしたまま、鳥の頭蓋骨のように尖った、赤い霜の覆う頭部をこちらに向けている。
しゅるしゅると糸巻きがほどけるように、樹木の根にも見える触腕がガリアの首元から伸びた。五本。十本。五十本。より多く。
――そして嵐は訪れる。
視界が遮られた。あまりにも早く、そしてすべてを埋め尽くすほどに夥しい触腕の現出に、少なくともヴェルヌにはそのように思えた。
大きな流れは三つある。左右両方の上空から追い立てる動き。前方から縦横の斬撃を繰り出す動き。そして意識外の後方より――尖った触手で、下半身を貫く動き。
多すぎる。
人体の表面積の何十倍にも及ぶ攻撃圏を脱することはできない。ならばヴェルヌはこのまま冷たい凍土に伏せるだけの、惨めな死を待つのだろうか。
そうではない。
彼の手元には武器がある。
父が遺した、人類の理不尽に立ち向かうための武器が。
ヴェルヌは後ろ手に凍刃を振り、迫っていた下半身を狙う触腕を斬り落とす。同時によろめくように後ろに下がる。その眼前を致死の触腕が切り裂いてゆく。
避けた。
武技の経験などないかれでも、なぜかそのような技を振るうことができた。
ガリアは触手を絡ませて束ね、さらに二本の太く大きい触腕を形成する。それだけではない。触手は無制限に増殖していく。
無慈悲に、振るわれる。
ヴェルヌはその致死の一撃を、身を屈めて回避している。先ほど作られた太い一つがどうと地に落ちた。
なぜ? 真っ先に困惑したのはヴェルヌ自身だった。
先の回避の時点で振り上げた短凍刃は、確実に適切な斬道を通って、散華のガリアの触腕の一つを切断している。
もはや疑いようがない。
ヴェルヌには――なぜか、ガリアの動きが見える。
眼前の悪魔の、未来が見える。
右上方から、殴りつけるように再形成された二本の太い触腕が来る。そして追随するようにさらに一本、細い触手がヴェルヌを斬撃する。
その未来を、須臾の間に知覚している。
それは起こるべくして起こる、絶対確実の未来だ。
身を引いていた。ヴェルヌの前方を嵐が通っていった。
目標を外したガリアに斬り付けられた凍土は、深い傷跡を残している。
予感は停まらない。
左下方から三本、右横から五本。
いずれも異なる速度、異なる形状だ。
だが、止まらない!
あえて前方に突貫する。止まらない。
背後を触腕が振り切る。止まらない。
既に知覚した攻撃の軌道に刃を添える。
凄まじい反動が束の間ヴェルヌを襲い、彼は体勢を崩した。
だが――弾いて、逸らす。例え栄光の個体を相手にしようと、彼にはそれが出来た。
崩れた体を素早く起こし、走り出す。
さらに上方から攻撃がくる。滑り込みながら凍刃で弾く。
左右からの触腕。
咄嗟にヘッド・スライディングの要領で斬撃をかわし、更に奥へ。
間違いない。急激に距離を詰めたヴェルヌの挙動に、対応できていない。
視界が流れている。紅い吹雪が、凍土が、空が、飴のように溶けていた。
これは――ヴェルヌの見ている世界だ。
彼自身の知覚が、世界の速度を追い越している。
三度、触腕の襲い来る未来を観る。
その数は――数百。方向は全方位。
ガリアは依然空に浮遊している。災厄の氷惨が垂らす致命の触手の根は、いつしか先ほどまでとは比較にならないほどにその数を増していた。
攻撃密度だけで嬲り殺すつもりだ。
予観が終わる。
ヴェルヌは咄嗟に、肩にかけた鞄を構えながら横っ飛びに跳ねた。
次の瞬間、触手の嵐が盾代わりの鞄を掠る。
ヴェルヌの体が吹き飛んだ。背中から地に打ち付けられる。鞄はずたぼろになっていた。裏に短刀を重ねて防御してもなお、掠っただけでこのようになる。
だが、それだけだ。有効ではない。
触手の包囲には一か所だけ薄い箇所があった――そこを抜けるように、あえてそちらに吹き飛んでいる。
嵐のような猛攻はそのいずれもが予観の軌道通りで、かれを捉えない。
カロリーヌに見せた原稿の束が、雪のように風に舞い散っていた。
戦える。まだ立てる。大地を、踏みしめる。
踏みしめた。
痛み。
何かが足裏を刺した感触があった。
(あれ)
一気に全身の力が抜けた。ヴェルヌはその場に倒れこんだ。
「ぐぶっ」
地面に吐血する。動けない。総身が麻痺しているかのように、一歩も。
さらに――全身を、猛烈な激痛が襲う。身体に極限の稼働を強いた代償だけではない。体の根から溶けてゆくような、蝕む痛み。ヴェルヌの脳裏に、ケープタウンの蛇が持つと言われる毒のことがよぎった。
声さえ出すことも許されない痛みの渦中で、ヴェルヌはもがく。
視界の端で、ガリアが細い触手を地中からするすると抜いているのが見えた。
木の根のような触腕の先から、乳白色の液体が滴っている。
『栄光個体』は明確に知性を有する。ガリアは――あえて攻撃の薄い箇所を作って、ヴェルヌを誘導していた。そしてその先に、ヴェルヌに『観せない』ように、地下を通して毒の触手を配置していた。
散華のガリア。真に恐るべき、人類の災厄。
勝算など、最初から存在しなかったのだ。
ヴェルヌは膝を地に折り、倒れ伏した。音が消える。すべての世界が遠い。
薄れゆく意識のなかで、少しだけカロリーヌのことを想った。
(カロリーヌ。コルト。みんな――行かないでくれ)
(世界の果てを、見たかったんだ)
一筋流した涙すらも凍てつく、ここは死の世界だ。
そうだ。これは――夢で見た光景と、同じなのではないか。
赤い吹雪が、天を貫いていた。
終わりを告げる詩は、風を裂いてきこえてくる。
宝石のような氷片が、螺旋をかいて光を放つ。
ガリアがヴェルヌの方に初めて近づいてくるのが解った。
かれは静かに、目を閉じた。
閃光。
轟音。
雷の匂いがする。
その時は――。
その時は、来ない。
紅い瞳を、痛みのなかでわずか開く。
英雄が佇んでいた。
極上の金貨を溶かし込んだような、長い髪がはためく。
瞳はヴェルヌのまだ見ぬ海の色。蒼い宙の色だ。
ボッティチェリの絵画でみた、春の女神のようだった。
鞄の中に入れておいた遠征隊のチラシが、ひらひらと舞い落ちてくる。
そこに描かれた英雄が、今ヴェルヌの前にいる。
“雷帝”エカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤ。
人類最強の、雷。
彼女は天を貫く吹雪のなかで、静かにヴェルヌをみた。
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