氷海 Ⅱ

 

 ジュール・ヴェルヌは目を覚ます。


 乾いた林檎、ゼンマイ時計と濡れたタオル、無人のベッド九台、一八七五年九の月シンチャーブリュを指した卓上暦。脇にはうず高く詰まれた語学氷惨学生物学気象学に技術書歴史書もろもろの高価な書物。その山を取り囲むように散らばる、更にもろもろの新聞原稿と生活保険証書。

 すべてこともない。しんと広がる、見慣れた病室だ。

(そいでアレも、いつもの夢だ。脈絡がない。意味もない。ないったらない)

 ヴェルヌは眠い目をこすりながら、今は亡い父を恨んだ。

 最初の北海遠征隊、「冬の騎士」の一員であった父より『氷の王』の逸話を伝え聞いてから――かれは時たま、あのような氷の海の夢をみるようになったのだ。

 自分がどこか遠い氷海にいて、そこでは常に赤い吹雪が舞っている。

(でも)

 今日の夢は、ほんの少し違っていたのだ。ぼんやりとしか思い出せないが、それでも誰かを愛していた気がする。そして、氷のなかにつ人影もまた。

(なんでだ。いつもはこんなコトないのに)

(あれは誰の物語だろう。おれは、誰を見てたんだろう)

 ヴェルヌは立ち上がり、何とはなしに居住棟の鎧戸からアラスカの町を眺めた。小高い丘に立つ官営の救貧院からは、巨大な氷山と見まごうほどの家々の結集が望める。アメリカ領アラスカ県。合衆国ステイツが1867年にクリミア戦争のとして買収した巨大な冷蔵庫も、今では対”氷惨”の最前線だ。世界中の資本をかき集めて氷の防衛圏としての機能を備え付けられた氷塞都市アラスカには、氷惨の脅威も顧みず、数々の技術者や軍需企業に加えて、飲食店を含む生活産業が投機に食い込む形で次々と参入してきている。有り体に言えば、ここアラスカには――氷爆投機フロストラッシュが到来していたのだ。

 外からはどさり、というくぐもった音が聞こえる。見ると、曲線に沿って縦に溝と突起を入れたドーム屋根が、積もった雪を自重で滑らせているのがわかった。圧縮された雪はしだいに凝固するため、重心を分散させればばらけやすくなる。”氷惨”がもたらす赤い雪は、ここでは屋根の上に乾いた岩塩のように微か残るばかりで、ヴェルヌはそんな様子が好きでたまらなかった。このよい眺めのなかに、彼女カロリーヌの家もあるからだ。今日は毒性の強い赤吹雪もない。約束通り、カロリーヌの元へ薬を持って行けそうだった。

(ついでに小説のアドバイスもしてもらおう。ネタがなくて困ってたんだ)

 ヴェルヌは身震いしながら手持ちのアルコール測温管を窓から外に突き出す。すると瞬く間に管の中の赤い液体が管を下がっていった。

「うえっ...零下二〇度」

 慌てて馴染みの白夜新聞社スパークルウィークリーから特別に取り寄せている気流観測表を眺める。四角く囲まれ記された、強い空気の重さの塊――ヴェルヌはこれを「高気圧」と呼んでいた――がアラスカ北部に発達しており、雲が払われているのは間違いない。しかし表の上部を見ると「低気圧」が高速度南下してきている兆しがあって、夕方にはひどい雪が降り積もるだろうということが予想できた。氷惨アイスバーグの観測報告は出ていないから、恐らく自然現象の一環だろう。とはいえ人が過ごすのに丁度良いとはお世辞にも言えない冷え込みだ。カロリーヌの体調が気にかかった。救貧院の貸し物の厚手のケープの上から、母の形見のボアコートを羽織り、顔見知りの男性職員――アリステッドに許可証を貰う。

「アリステッド先生、許可証ください」

「やあジュール。カロリーヌのとこかい」

「うん。手紙を持ってくつもり」

「気を付けなよ。ここのところ氷惨の動きが活発化してるそうだから」

「防衛線超えたら警報鳴るでしょ。それに今日のはただの大雪だから――洗濯物は五時までに乾かしといたほうが良いと思うよ。あと羊と鹿も中に入れといて、ストーブの薪はおれが出がけに積み出しとくから」

「またお得意の『天気予報』かい。確かにきみの予報は本当に当たるけどね」

「勉強してるからね。それじゃ、門限までには戻るよ」

 ヴェルヌはそう言って外に出た。約束通り薪を救貧院の玄関脇まで運んだ後に、父の形見の短凍刃と、薄青い液体が入ったアンプルもこっそり鞄に忍ばせておく。今日のように赤吹雪が強くない日なら、こうして外出することも救貧院では許されていた――それでも、アラスカの赤吹雪の濃度は他の防衛都市と比べて圧倒的に高い。

 人々が活発に氷爆投機に動いているのも「赤吹雪に怯えて死ぬよりかは」という、閉塞した状況に対する開き直った策にしか過ぎず、実際は五年暮らしてなおも健やかでいられれば神に愛されているといえるだろう。そしてヴェルヌは神様からまあまあのお零れを貰えたようで、雪牙病で死んだ彼の母とちがって――それどころか他の誰ともちがって、アラスカに来てからの七年、雪牙病による症状はまったくなかった。時たま軽い咳と鉱毒成分の堆積があるくらいだ。それがなぜかということを、考えた時間はない。世界には時たま雪牙病に耐性を持つ人間がいるという。ヴェルヌもきっとそうなのだろう。

 ジュール・ヴェルヌは幸運で、そして無力な存在だ。それでも良いとかれは思っていた。氷惨の侵攻圏の付近に住む限り、緩やかな死からはどうせ逃れられないのだ。雪牙病で死なずとも、人はすぐに逝く。氷惨の一触れで逝く。氷爆石の事故で逝く。企業の小競り合いで逝く。赤くなった空に頭を狂わせて逝く。結局のところ、内地ですぐに野垂れ死ぬのを待つか、それとも大投機に湧くアラスカで多少カネを手にしてから死ぬかということに、大した違いはない。


 やつら。

 ――四十年前、北極点から現れた“氷惨アイスバーグ”がもたらした赤い吹雪は、ヴェルヌたちのような、持たざる者でも――どうにかしあわせだった世界をまるきり変えてしまった。

 故郷フランスでの混乱に満ちた日々を、今でも思い出せる。

 氷惨の恐怖に駆られた群衆に、頭蓋が割れるまで踏みつけにされた馴染みの郵便配達人を見た。一月経って作物は枯れた。二月経って家畜は死んでいった。半年が経って、身体の裡を雪に食い荒らされたような病気に罹る者が出始めた。その病に「雪牙病」という名前が付けられ、薬が市場に配布される頃には、既にヴェルヌの母はぞっとするほど冷たくなって死んでいた。高価な中和剤を継続して服用しなければ、雪の牙は瞬く間に骨と心臓を侵し、最後には呼吸器系と骨組織の崩壊によって凄惨な死を迎える。氷惨の襲撃から逃げ延びた民衆も、そうして次々と死んでいった。それはまさしく死を告げる吹雪だ。

 英雄が必要だった。

 氷漬けの悪夢の中で、誰もが怯えていた。

 その恐怖を埋めるように人々は武器を作り、鉱石を掘り、時に祈凍宗フロストハンズなどという宗教までも生み出してしまった。

 街には初の長期北海調査隊募集のチラシが所かまわず配られ、ちょっとしたお祭りのようになっていたが、それもそのような流れの一つに過ぎない。

 ビラの真ん中からは、一人の女性が大きな斧を構えてこちらを見つめていた。

 エカチェリーナ=アダーモヴナ=ラヴランスカヤ――『栄光個体』を討伐した、異能持つ最強の英雄も参加するという触れ込みに、人類の士気は否応なしに高まっている。彼女の活躍は、ヴェルヌも耳にしたことがある。異能による雷撃と、巨人ガルガンチュアの持つような凍斧を奮って全てを打ち砕く、人類の雷なのだと。力のない自分でも、彼女に望むことくらいは叶うのだ。胸の奥がすこし沸き立つような気がした。帰ったら、エカチェリーナを主題にした小説を新聞社の担当に打診しようと決めた。科学冒険小説はひとびとの数少ない娯楽だ。悪くない考えに思えた。


(物語はいい)

(力のないひとびとでも――おれのような人間でも、勇気をもらえる)

(たった一度だけ、英雄になるための)


 ヴェルヌは冬を軽やかに駆けて、通りを抜け行く。

 馴染みの雑貨屋から林檎をいくつか買った。こうした果実は氷惨の侵攻圏から外れた南半球の農園産のものであり、ちょっとしたぜいたく品だ。

「お、今日もカロリーヌのとこかいヴェル坊。しっかり看病してやんなよ」

「うるっさいなあ。おばさんこそしっかり商売してくれよ、この林檎色悪いぜ」

「あんた若いのにヤな客になったねえ」

「ははは、嘘だよ。お詫びにちょっと多めに払っとくね」

 そう言ってヴェルヌは店主に硬貨を握らせ、きゅむきゅむという音を響かせて走り出す。赤い雪は道路に降り積もり、ひとびとの往来に踏み固められることでまだらな染め物のように地を鎧っている。しばらく右にゆくと、遠くにコルト・インダストリアルの工場の煙突が望めた。敷地に沿って石塀が建てられていて、ちょっと下に壊れて鉄筋がむき出しになっている部分があるから、そこをリスのようにするりとくぐると、うらぶれたフラット(※集合住宅のこと)が見える。世界政府インターナショナルが無償で提供している雇用促進団地だ。


 白む息をなびかせながら階段を上り、「201」と書かれた部屋につく。ポケットから慣れた手つきで合鍵を取り出し、無言で部屋の中に入った。

 軋む扉を開けると、冬の匂いがする。しんと冷えた水、堅い黒パン、燃える薪の脂の香気、そのすべて。

 そして窓際では、冬の雲の影を浴びて、カロリーヌが寝息を立てていた。

 少年のように短い砂金の髪。ぴりっとした朝の冷気みたいな輪郭に、すっきり切れ上がった眉、つんと澄ました鼻、ヴェルヌの好きななりかたち。簡素な石造りの部屋は鋳鉄ボイラーを焚いているのか暖かい。立ち上がり、キャビネットを覗く。こないだヴェルヌが置いていった薪も備蓄に余裕は十分あるようだった。起こしては悪い。しばらく井戸水を汲んだり林檎を切り分けたりしながら、それでもずっとカロリーヌを見ていた。毛布を膨らませる胸の鼓動と、その中にあるはずの熱をみていた。ぱちぱちという薪の脂の爆ぜる音が聞こえていた。

 ややあって、ねむたげに白い貝のような瞼が開く。

「や...少年、来てたんだ」

「おはよう、カロリーヌ。中和剤と、あとコルトからの手紙」

「あんがと」

「いいよ。それより調子はどう」

ちょっとぶっきらぼうにヴェルヌは尋ねた。

「ばっちりよ。アンタのお陰ね、ありがと」

 そんな問いにも、カロリーヌはにかっと笑う。

 嘘だ。カロリーヌの雪牙病は末期の第五雪巣発症――肺胞までを侵す鉱物組織が形成されている状態で、咳をするだけでも全身の骨が弾けるような痛みに襲われるはずだった。彼女をどうにか助けたくて、たくさんの本を読んだのだ。雪牙病の中和剤は病状の亢進を食い止めることはできても、回復することは決してない。あくまで対症療法の一環に過ぎないのだ。

 それでもヴェルヌは保険金や新聞小説の原稿料などをやりくりし、カロリーヌに一月二本の中和剤を与えていた。内地の富裕層とほぼ同じ頻度だ。

 青い液体を木のマグに溶かし、手渡す。

 カロリーヌは受け取り、中和剤を一気に飲み干した。雪よりも白い肌がかすかにうごめくのを、ヴェルヌは見届けた。

「......ちゃんと飲んだ?」

「飲んだよ。あー、まっずい! ほんとに何から出来てるんだろこのクスリ」

 彼女がんえべと真っ青に染まった舌を出す。ヴェルヌは思わず噴き出した。カロリーヌ曰く、中和剤は『生のニシンの内臓を裏ごしした』味がするらしい。

「知らないよ。中和剤の作り方は世界政府が独占してるんだからさ」

 資本を統一すると共に粗悪品の流通を防ぐという意味で、中和剤の転売は早々に死罪化されていた。氷惨というかつてないほどの世界の危機は、十九世紀の諸国を奇跡的に一つの方向へとまとめあげていた。

「で、今日はなにを読ませてくれるの? おとつい見せてくれた気球に乗って世界旅行する話はつまんなかったけど」

「アレ新聞社の人にめちゃくちゃ評判よかったんだけどなあ。まあいいや、今日の話のほうが面白いし」

「ふふん。どれどれ、おねーさんが聞いてあげよう」

「おれと一つしか齢違わないくせにさ」

 このような会話が、ヴェルヌの人間性の最後の薄片だった。

 カロリーヌ=トロンソンは、コルト=トロンソン――ヴェルヌの従兄弟いとこの姉で、つまるところヴェルヌの従姉妹いとこだ。

 コルトは奇跡的に雪牙病を克服し、更にはあらゆる『危害』の気配を氷惨が発するものも含めて、色とりどりの光線として感知できるという特異な能力に覚醒していた。

 コルトは英雄だった。

 ヴェルヌにとって、ただ一人の英雄だった。

 その英雄は、ヴェルヌを守るためにオホーツク戦線の防衛に志願して、そして半年前に死んだ。人類の最大の敵――『栄光個体』スラヴァに遭遇して、血濡れのぼろきれのような姿で発見されたという。死亡通知書と遺品はヴェルヌが半ば強奪のような形で引き取った。カロリーヌに伝えるわけにはいかなかったからだ。だからカロリーヌは弟の死を知らない。コルトが贈る予定だった手紙はヴェルヌが捏造している。筆跡と文体がわかっていれば、そのようなこともできた。

 そういうわけで彼女は家族がみな死んだのにも関わらず、ヴェルヌと同じ救貧院に行くこともない。この冷たい石造りの棺で、弟の帰りを待っている。きっと本当に冷たくなる日まで待ち続けるのだろう。この間『祈凍宗』フロストハンズの経典を信者から購入したことも知っていたが、ヴェルヌは何も言えなかった。彼女をここに縛り付けているのは彼自身のエゴだからだ。

 死者の振りをして保険金と手紙をつくり、生者の振りをしてそれをカロリーヌに面白おかしく渡す。気が狂いそうな生活だったし、それが長続きはしないことも理解していた。コルトが与えてくれるまどろみの時間は、常に目減りを続けている。

 それでも。

(コルトとの約束なんだ)

 思い返すのは、とても珍しい晴れの日。彼の出兵の前のことだ。

 コルトの黒くて長い髪は、泉の氷面の反射によく映えていた。


「知ってるかい? オホーツク海の向こうには、『氷の王』ジャックフロストがいるらしい」

「知ってるよ。父さんから散々寝物語に聞かされた」

「じゃあさ、『氷の王』が、人間だってことは?」

「はあ?」

「気付いたんだよ。氷惨の気配は赤色の波線で見えるんだけど、こう――何て言うんだろう、野生動物とは違うんだ。奴らの気配は銃口を向けられたり、剣先を突きつけられたときの感覚にすごく似ている。多分あいつらは兵器なんだ。そして兵器を作れるのは人間しかいない」

 でもさ、とコルトはいう。日本人ジャポネの血が混じるその横顔は、常に優しい憂いを帯びているようにヴェルヌには見えた。

「人間だったら対話もできるはずだ。僕は北海遠征隊に参加して、『氷の王』に会いに行きたい。そんでもって、一発ぶん殴ってから今後の賠償を請求してやるんだ。ついでに姉さんのことも、そしてきみのことも。僕の大切な人は真っ先にみんな治してもらう」

 そうだ。コルト=トロンソンは、

「いかれてるんだった」

「なんでそうなるのさ」

「まず氷惨相手に賠償をせびるのがもうなあ」

「いや、それは」

「コルト」

「うん?」

「ずっとお前を待ってる。カロリーヌの世話は任せろ」

「――僕はきみのそう言うところが好きなんだ。きみは物語のなかの英雄みたいだから」

「何だお前」

「姉さんも君のこと、愛してるみたいだし」

「なっ」

「ヴェルヌだってそうだろ? 良いじゃないか」

 コルトは続ける。

「きみらの間には危害の線が一本も繋がったことは無い。これからもそうだろう。僕はそんなに通じ合える人たちを、あんまり見たことがない」

 顔に入った三本の古傷を歪めて、彼は微笑んだ。凶暴化した熊からヴェルヌを守ったときに負ったものだ。

「だからさ。カロリーヌのこと、頼むよ。二人にいつか、海の向こうをみせたいんだ」

「海の、向こう」

「そうだよ。北極海の向こうノーザン・ザン・ノーザーさ。」

 そう語る親友の瞳に、ヴェルヌはアラスカの氷の輝きをみていた。

 どこまでも冷たくなっていく母の姿を思い出す。雪牙の病のなかで、彼女を助けることのできないヴェルヌを、母はどのように思っていたのだろう。

 凍てつく運命のなかで、彼は無力だった。けれどコルトの輝きは、ヴェルヌにささやかな火を与えてくれた。

「そこには、」

「うん。」

「そこには物語があるんだな」

 コルトは顔を上げ、凪ぐようにヴェルヌをみた。

 

 北極の彼方でも、海底の二万里でも、空に輝く月でも、なんだって構わない。

 ヴェルヌはその輝かしい旅に寄り添う物語が好きだった。

 世界の果てへと往く英雄を愛していた。

「約束だ。いつかおれは、海の向こうを見るよ」

「その時は、僕も一緒?」

「お前がいてくれなきゃ、おれは」

 嫌だな――とでも言ったのだろうか。

 もう思い出せない。赤い吹雪が、すべてを隠している。結局、海の向こうをみることなくコルトは死んだ。その死に何の意義もありはしない。今ヴェルヌがしている耳輪だけが、唯一彼から回収できた遺品だ。

 海の向こうをみたい。

 世界を果てを知りたい。

 願うならそこを、己の手で書いてみたい。

 そう思い始めたのは、コルトと話したその日からだ。

 ヴェルヌはコルトの面影を追いながら書いた手紙を、海の向こうを想いながら書いた小説を、部屋から出られない彼女に面白おかしく読んでやった。

 他愛もない一行でも、カロリーヌは向日葵みたいに笑んでいる。

 窓に差す光が遷ろってゆく。だんだんと深くなっていく影の紅さに、ヴェルヌは長いこと時が経っていたのを知った。日は落ち、薄暮が町を浸していた。

「そろそろ行くよ。また今度、手紙を持ってくる」

「もう行っちゃうんだ」

「院の門限があるだろ」

「泊まってけよ少年」

「床で寝かせるつもり?」

「けち。あんたが居てくれないと心細いのよ」

「そういうのは体治してからやってくれよ。じゃ行くね」

「ジュール」

 立ち止まった。体の芯がかっと燃えているような気がした。次に彼女がいう言葉を知っているから。

「またね」

 ちがう。またなんて、ないんだ。きみは明日死んでいるかも知れないんだ。

 だからもしも――叶うのならば。

「ああ、また」

 いつかまた、本当のことを言おう。そしてカロリーヌと一緒に、海の向こうをみよう。世界の果てを。無力な人生のなかでそれだけが願いだ。

 吹雪はまだ薄いだろうか。ヴェルヌは戸を開け、空を見る。

 ――違う。明日は、来ない。

 誰かの声が聞こえた。

 予感に導かれるように、それは来た。

 

 赤い吹雪が、天を貫いていた。

 雪が――あまりに強い上昇気流に逆巻いているのだ。空に深紅の矛が突き立っているようだった。あるいは、天へ昇る雪の階段のようにも。

 そうだ。ジュール・ヴェルヌは、この景色をみたことがある。

 背骨に電撃が走った。

 

「カロリーヌ」

 ヴェルヌはたまらず呻いた。なにか、とてつもなく不吉な予感がする。

 目の奥が針を刺したように痛む。今日はやっぱりここに泊まって、マトンを食べて、温かい薪風呂に入って寝てしまおう。そうすればきっと、明日が――。


『ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴっヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴっヴうううううん』


 鈍く、空を切り裂くような金属音が鳴った。

 街の警報台から発される、第一種災害警戒警報。

 アラスカに住む者は誰もが知る音。

 氷惨の侵入を告げる、終わりの詩だった。





  

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