1日目-1

『オーケー、機体は無事軌道に乗った。自由な体勢で構わない』

 宇宙センター指令室、サカキダ室長の声がイヤホンに流れた。

 自由も何も、身体を離すことはできるけれどそもそも大したスペースはない。ぼくと義姉は内壁に張りつくようにして距離を取る。

 ものすごく気まずい。出したてホヤホヤの自分の大便の隣にたたずんでいるような気まずさだ。時間感覚がわからない。宇宙のしずけさは底なしだ。だまっていると飲み込まれそうでただただおそろしい。なんでもいい、音がほしい。聴覚過敏のケがあるぼくがそう思うのだからよっぽどだ。ノイズでいい、上も下もない、形らしきものがない、目盛りがほしい、ぼくは1から60まで正確な秒を目指して数え始めた。梯子のように一段一段上っては下りる、意味のない繰り返し。でも何もないより百倍ましだった。

『……ちょ、あんたの声、こっちに聞こえてんだけど』

 義姉の声が入ってきた。会話ができるのか。「え、あー、あー、聞こえますか」

『だから聞こえてるって言ってんじゃん!!そっちはどうなのか、情報よこせよ』イヤホンの音が割れる。

「え、えーと、大声出さなくても、聞こえてます、お義姉さん」

『だったらさっさとそう言え。いい? こっからは交渉、頼むから数えんのやめてくんない? 頭クルクルパーになりそう』

 まともに話しかけられたのが久しぶりすぎて、義姉が普段こういう口調だったかちょっと思い出せない。義姉は海辺の村の出身で、じいちゃんの代もさかのぼれないと、結婚式は母親一人が来ていたっけ。まあ、こっちは父親も母親も両方いないけど。

 ぼくは義姉に怒鳴られているはずなのに、口の動きと音声がほぼ合っているとその時思った。

「やめたいのはやまやまですが、静かすぎて気が狂いそうなんです」おそるおそる主張してみる。

『こっちがおかしくなるわ! 頼むから黙ってて』

「それでは、お義姉さんが数を数えてください」一応代案を提案する。

『なんであたしが数えなきゃなんないんだよ!』即却下。

「なんでもいいんです。とにかくこの、しずけさが、こわいんです」

『……』

 嫌がらせるなら、黙っているのが効果的とばれてしまったか。義姉がしゃべらなくなってしまった。しずけさの圧が大きい、つぶれてしまう、と思ったその時。

『ねえ。月に、行きたいって、あんたが言ったの』

 再び義姉の声がした。

 君はどうしたい系か。そういうのはうんざりだ。でも何もないより千倍ましだった。

「……ぼくが希望したわけではありません。これに行けば学校に行かなくていいと、兄が言うからです」

『ふうん』

 馬鹿にした返事だろうと思ったが、違った。

『あんたの兄さん、ずいぶん偉いんだね』

「えっと、それは、どういう」

 ぼくの兄は、すなわち貴女の夫だ。

『あんたが学校いかなくていいとか決めちゃえるんだ』意外な言葉だ。

「……まあ、ぼくは、兄に養われてる身ですから」ぼくは肩を狭めて答える。

『その割にその兄さんが学校に行けって言っても行かないよね』

 今時珍しい、気持ちいいぐらいの地雷踏み抜き女だ。この義姉はきっとうつ病の人にもためらわずにがんばれって言うんだろう。

「……お義姉さんには、わかりませんよ」

 ぼくはいつもの、使い古されたしかし強力なバリヤを張る。この後、貝のように沈黙すれば多くの大人はあきらめる。百パーぼくの勝ちだ。ぼくすらどうしようもないことを、体育会系メンタルにわざわざ説明する義務はない。

『わかりたいんじゃない。筋が通ってないって言ってるだけ』

 筋ってなんだよヤンキーか。筋はぼくを幸せにしない。声も身体も選べない。そもそもが筋の通らない話なんだ。義姉とは、やはりわかりあえない。心の問題に接するセンスというか素質がない。

『まあ、この際だから言っとくけど。部屋のカーペットの掃除ぐらいは、自分でしてよね』

 瞬速で、心臓がはね上がった。

 そんなぼくをよそに、何事もないように義姉は続ける。

『えーと、サカキダ室長? なんでもいいから音楽かけて』

『オーケー、クラシックでいい?』

『それはやめて。K-POPにして』

『オーケー、筋の通ったおねえさん。指定があれば最初に言ってね〜』

『うっざ!』

 ぼくはというとドクンドクン身体中鼓動になってしまってそんなやりとりもうわのそらだ。K-POPでもクラシックでも、ぼくには大差がない。

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