odd essay
和泉眞弓
ロケットスタート
ぼくは月に行かなくてはならなくなった。
兄とその奥さんである義姉とぼくは、一つ屋根の下に住んでいる。中二になってからは学校に一日も行っていない。義姉とは合わない、たぶんぼくが唐揚げと白米しか食べないからだ。義姉はいつも何かを言いたそうにしているが、いざとなると言わない。口の力の入りと実際の声がずれる、義姉の持つその「間」がぼくは大嫌いだ。
義姉は知らないが、ぼくの人生にも輝かしい黄金期があった。小学四年とか五年の頃のぼくは肌がつるっつるの色白で髪もツヤツヤ、マッシュルームカットにしていたら美人なお姉さんやそうでもないお姉さんがなぜかぞくぞくと寄ってたかってぼくのほっぺたを「マシュマロみたい~!」ってムニムニすりすりしていく、そんな時期があった。瞬間的に流行ったんだと思う。大きなお姉さんはぼくのマシュマロに二つのマシュマロをぎゅうぎゅう押しつけて、それはそれはもうやわらかくてすばらしい日々だった。とっても気持ちいい温泉に入ったみたいに、思わず「あぁ」と声が出てしまったのがぼくの運のつきだった。ぼくの声が極めて低くかつ太いことに驚いたお姉さんに「コイツきめぇ」と突き放されて以来、今度は変態扱い、オネエ扱い、それに飽きたらずバイキン扱いまでされた。そんな目にあったのに、ぼくはあのいっときの成功体験の味をどうしても忘れることができなくて、中学に入る頃にはひげやらすね毛やらわき毛やらいろんなところから太いみにくい毛が生えてくるようになってそれらを片っぱしからそったり抜いたりしなければならず、忙しくて学校に行くどころではなくなってしまったのだ。
学校に行かず昼間から真っ裸になって毛抜きに集中するぼくを、兄は病気だと言って精神科に連れて行きたがったけれど、バリケードを築いて数日ハンストをしたらあっさりあきらめてくれた。もともと兄がぼくにそんなにリソースをさけないのはわかっていた。ぼくのことにぼくが命がけでのぞめば、ぼくが百パー勝つに決まっている。
兄の次の手が、ぼくを月に行かせるプロジェクトだった。
月行きのロケットに乗り、3日間生存して口述レポートをパスすれば、一足飛びに高卒の資格がもらえるというモニター企画にいつのまにか兄が応募していて、当たったから行け、というのだ。学校に行かなくていいのなら、と、ぼくはサインをしてしまった。
最近は月からの生還率が9割を超えるようになったらしい。格安チケットも出始めて、ぎりぎりの芸人などが番組の中でよく決死レポートと言って月に行くようになった。とはいえまだまだ田舎に家を建てるぐらいのお金はかかるはずだ。兄はすごい。ひょっとして、思いがけず一生分の幸運をぼくのために使ってしまったと悔やんでいるかもしれない。
困ったことが起きた。未成年は保護者が同行しなければならないらしい。ロケットに乗れる人員の総重量は100kgまで。ぼくが51kg、兄は72kg。どう考えても重量オーバーだ。兄にチラリと目で合図された義姉は口元をふるわせ真っ赤な顔で公の場で体重計にのった。ちょうど、49kgだった。
最低限の講義や実技を受け、宇宙服を着込むと、早々にぼくと義姉はコックピットに押し込められた。パーソナルスペースなどと言っている場合ではない。互いのウエストのくぼみに腕を差し入れて抱き合う格好になる。離れていると重心もぶれて宇宙のモクズになる可能性があるという。何というチープなロケットだろう。兄は今になって青ざめているがもう遅い、ぼくや義姉が死んだら一億円入るってことで手を打ったじゃないか。ぼくはしっかり義姉の腰に腕をまわす。義姉は好きじゃないけどしょうがない。あまり見ないようにしてきたけど義姉はロケットおっぱいの持ち主だ。とびきりボリューミィなマシュマロがぼくの胸に押しつけられる。昔と違うのは、ぼくのロケットも今は結構デカくって、そして今現在まさに忌々しいほど固くなっていることだ。どうあがいても伝わってしまう。この世のものではないみにくいものを見るような歪んだ義姉の顔が、宇宙服越しに見える。ゴウ音。激しい振動が密着したぼくと義姉を揺さぶる。嫌でも義姉と目が合う。はい、ぼくも貴女が嫌いです。だから思い切り放ちます。スリー、ツー、ワン、ぼくは地球のGに逆らって、ロケットスタートで発射した。
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