第29話 雨

「だって私とあなたは・・・・・・恋人・・・・・・婚約者じゃない・・・・・・」


その言葉に僕は戸惑ってしまう。

あの日、僕達の事は全て終わったと聖女も当然そう思っているはずだと思っていた。

迎撃戦に出撃する前にお別れの挨拶をしたのを最後に言葉を交わすこともなくあの日を迎えたが、その後も彼女から僕に話しかけてこない事から、彼女がどう考えているかなんて聞く必要もない、聖女も僕と同じ認識だとそう思っていた。


――きっちり終わらせてきなよ!


さっきのニナの言葉を思い出すと、ニナ彼女の言った言葉の意味がやっと分かった気がした。

あの日見た光景を理由にして、今日までちゃんと聖女に向き合ってこなかった事。

それが今、聖女が言った言葉として僕に跳ね返ってきたのだろう。

前に進むと決めた覚悟も、結局はただの現実逃避だったのかもしれない。


僕は立ち上がり、ゆっくり顔をあげると目の前の聖女の顔を見る。

どこか壊れたような作った笑顔に虚ろな瞳で僕を見ている彼女と、あの日以来初めて真っすぐに顔を合わせた。


今更かも知れない。遅すぎたかも知れない。

だけど今の僕にできる事は、彼女の言葉を、気持ちを聞いてもう一度事実を受け入れてから結論を出すことだ。

そうしない限り、この先同じような事が起きてもまた逃げて、誰かを頼って、救われるのを待ってしまう事になるだろう。


僕は心の奥にしまった名前、彼女をその名前で呼んだ。


「エレナ・・・・・・今までちゃんと向き合わなかった僕にも責任はあると思う。君が何を考えて僕の事を婚約者と呼んだかは分からない・・・・・・けど、何か言いたいことがあって僕を呼んだのだったら改めて全てを聞かせて欲しい」

「・・・・・・」


虚ろな瞳を虚空に漂わせていたエレナと目を合わせ見つめ続ける。

焦点の合わなかったエレナの瞳に少しづつ光が戻ると、ボロボロと大粒の涙が溢れだしてきた。


「フィン・・・・・・私・・・・・・」


宿所の屋根を激しく叩く雨音が響く中、エレナは迎撃戦に出撃してから起きた出来事をぽつりぽつりと話し出した。



「フィン・・・・・・ごめんなさい」


エレナは最後に謝罪の言葉を口にして全てを話終えると、糸の切れた操り人形のように床に座り込んだ。


「君に・・・・・・君たちに何があったかは分かったよ」


エレナの話から改めて分かったヨルマの僕への敵意。

何故ヨルマが僕に対してそこまで敵意を持っているのかは分からなかったけど、今聞いたエレナの話や、あの日以降の僕に対するヨルマの言動から、僕に対する憎悪で奴がエレナに近づき、利用したことは明らかだった。


「ごめんエレナ、君の事情を聞かずに逃げていた僕も悪かった」


エレナを巻き込んでしまった事。

僕が向き合わなかった事でエレナをここまで追い込んでしまった事で、さらに傷つけていた事を謝罪する。


だけど―――


「・・・・・・だけど、僕はもう君と元に戻れない」


僕らが初めから逃げずに向き合っていればこんな事にはならなかっただろうか?

いや、それでも多分、結末は変わらなかっただろう。

だってエレナが口にしたヨルマへの愛。

一時期だけとはいえ、エレナがヨルマを愛した事は事実だろうから。


「フィン・・・・・・」


うなだれて座り込んだエレナが顔を上げて、僕を見つめ返してくる。

涙でぐしゃぐしゃなその顔はさっきまでの虚ろな表情ではなく、僕の知っているエレナの顔に戻っていた。


「だから・・・・・・今日で全てを終わりにしよう」

「・・・・・・うん・・・・・・分かって・・・・・・る」


僕の気持ちもエレナの気持ちも、僕たちが前に進むためにはちゃんと終わりにしなければならない。

僕を見つめたまま瞬きもしないで涙を流すエレナに、恋人として、婚約者として最後の言葉を告げる。


「さようならエレナ、今までありがとう」


今度はエレナにちゃんと聞こえるようにお別れの言葉を口にすると、一礼して踵を返し、寝室のドアを開けた。



寝室のドアを閉めると、背後から大きな泣き声が聞こえてきた。

寝室の外には彼女の副官であるミューラーが立っていて、ジッと僕を見て来るが、彼の目には来た時のような剣吞な雰囲気はなく、僕を先導して宿所の入り口のドアまで行くと、直立不動の姿勢を取り、敬礼をしてきた。


彼は今までずっと彼女の傍に居て、これまでの彼女の全てを見てきたのだろう。

彼女がヨルマに溺れて行った事も、ヨルマに利用されていた事も、裏切られて捨てられた事も。

そして、何も知らない、知ろうともしない僕がのこのこと現れ、また彼女を傷つけると思っていたのかも知れない。

エレナにも非があると知っていても、そう思わずにはいられない想いがこのミューラーという副官にはあるのかも知れない。


答礼をして、彼に何か声を掛けようとして止める。

僕が口に出して言わなくても、多分彼は一晩中ここに控えているだろう。

もう僕がエレナの事に対して余計な口を出すべきでない。


「お気をつけて!」


彼の声に見送られて宿所のドアを閉めると同時に彼女の声は聞こえなくなり、ただゴーっという地鳴りのような風雨の音に飲み込まれる。


(僕達はこれで、今度こそ前へ進む事が出来るだろうか・・・・・・)


ここに来た時からすでにびしょ濡れで、今更歩いても大した違いはないけど、何故か走りたくなった僕は風雨の中に駆け出した。



「何か言いたいことがあって僕を呼んだのだったら改めて全てを聞かせて欲しい」


そう言って、私を見つめてきたフィンに、私は急に現実に引き戻される。

私は何をしたくてフィンの部隊に付いてきて、何を言いたくてフィンを呼び出したのだろう。

いまさら元の関係に戻れるなんて、フィンを取り戻せるなんて思っていなかった。

だけど、あの日以来逃げていた私に向き合ってくれたフィンに、多分―――本当に最後になる二人だけの時間に涙が溢れ出す。


そしてあの日から私に起きた事の全てを正直に打ち明ける。

フィンを裏切って、一時はヨルマを愛してしまったことも、フィンを傷つけ、逃げていたことも、全てを失ってしまったことも。


「フィン・・・・・・ごめんなさい」


最後に私の口から出たフィンへの謝罪の言葉。

いまさらだと思われるかもしれない言葉。

ただの自己満足かもしれないけど、本当はフィンに真っ先に伝えなければいけなかった言葉。

ああ、そうなんだ、私がフィンの部隊に付いてきた本当の理由。

私はこの一言が言いたくてここまで来てしまったんだ。


「ごめんエレナ、君の事情を聞かずに逃げていた僕も悪かった」


違うよ、自分の弱さに付け込まれ、そんな男を愛して、フィンを傷つけてしまったのは私なんだよ。

フィンに向き合えず、怖くてただ逃げていたのは私も一緒だよ。


「・・・・・・だけど、僕はもう君と元に戻れない」


うん・・・・・・分かっている。

分かっていたけど・・・・・・


「だから・・・・・・今日で全てを終わりにしよう」


それでも最後の時間が終わりに近づくその言葉に対して―――


「さようなら、エレナ......今までありがとう......」


背を向けて離れていくフィンの背中に、二度と届かないと分かっていても手を伸ばしてしまう。


「うわぁぁぁーーーーー!!」


扉が閉まった瞬間、声を上げて泣いてしまう。

ただ逃げて怯えていた私があの日以来初めて流した涙は、声を上げるたびに留まることなく次から次に溢れ出てきた。


悲くて泣いているのか、本当に全てが終わった安堵の涙なのか。

この涙が何なのか今の私には分からなかった。

ただ、フィンを裏切ったあの日から今日まで、ずっと心にあった苦しみだけは不思議と感じなかった。


窓を震わせる雨音を聞きながら、ただただずっと泣いていたかった。

土砂降りの雨が私の泣き声も涙も全て隠してくれるだろうから。


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