第20話 追憶のセシル①

白くて小さい花がいっぱい咲いているお屋敷のお庭に座っている私。

隣には長い銀髪を風に靡かせて微笑みかけてくるお母様が座っている。

そして後ろのデッキでイスに座って笑顔で私達を見ているお父様。


それがセシル・ボードレールの一番古い記憶、3才か4才の頃の記憶だろう。


お父様、お母様と楽しくお食事をしている私。

侍女とお庭で追いかけっこをしている私。

お父様の膝に座って遊んでいる私。

ベッドの中でお母様に絵本を読んでもらっている私。


ボードレール男爵家の娘として幸せだった日々の記憶は、もうすぐ7才になろうとする、ある春の日の記憶で一変する。



「―――シル・・・・・・セシル」

その日、まだ薄暗い部屋で誰かに揺り起こされた私は眠い目を擦りながらその声の主を見る。


「セシル、起きなさい」

「・・・・・・お父様?お早うございます。どうしたの?」


普段なら日が昇ってから侍女かお母様が起こしてくれるのに、その日、私を起こしに来たのはランプを掲げたお父様だった。


「セシル、起きて着替えなさい。着替え終わったらこのバックに身の回りのものと着替えを詰めなさい」


窓の外は真っ暗なのに荷物を詰めろだなんて、こんな時間から旅行にいくつもりかしら。

いつも優しいお父様の初めて見る強張った表情や、お母様も侍女もいないことに少し不安になりつつ、まだ半分眠っている私は着替えを終えると、お父様から渡された鞄に着替えと数冊の本を詰め込んだ。

旅行の期間は分からないけど、取りあえずこれくらいだろう。


準備のできた私は、お父様に手を引かれて部屋を出た。

お父様も大きな旅行鞄を背負っている。


そこでやっと完全に目が覚めた私は、ようやく何かがおかしいと感じ始めた。

お屋敷の廊下は全ての明かりが消えていて、お父様の持つランプだけが広い廊下を薄暗く照らしている。

普段だったら私の侍女やお父様の執事さんなど、身の回りには必ず何人かがいるはずなのに、お屋敷の中からは人の気配が感じられない。

それにお母様。なぜお母様がいないのだろう。


「お父様、お母様は?」


急に不安が大きくなった私は尋ねるが、私の手を引き足早に歩くお父様は何も答えない。


(きっとお母様は先に馬車で待っているに違いない)


そんな私の期待に反して、玄関を出た先には馬車もお母様の姿もなく、真っ暗な空が広がるだけだった。

私はそのままお父様に手を引かれ、屋敷の外まで連れていかれる。


「お父様!お母様は一緒に行かないの?・・・・・・馬車は?」

「セシル・・・・・・お母さんは一緒に来られない。馬車も無いんだ。済まないが少し歩くぞ」


私はこれがただの旅行じゃないと確信すると、お父様の手を振りほどいてお屋敷に戻ろうとしたが、お父様の手が私の手を強く握って振りほどけない。


「お父様、手を離して、お母様が!」


私の声が聞こえないかのように黙って歩き続けるお父様に引きずられるようにお屋敷が遠ざかっていく。

結局、涙を流しながらお父様に手を引かれ歩き続けるしかなかった。



どの位歩いたのだろう。

いつの間にか東の空に真っ赤な太陽が顔を見せ始めていたその頃。

何回も階段を降り、歩き続けた私達がようやく足を止めたのは、私が来たこともない下層の、ボロボロの小さな家の前だった。

ようやく私の手を離したお父様がその家の中に入っていく。


(お母様はここに居るのね!)


そう自分に言い聞かせ、急いで後について中に入った私を待っていたのは、埃の積もったテーブルとイスがポツンと置かれている部屋だけだった。


旅行鞄を下ろし、イスの埃を払ったお父様が私に座るように促すと、私の向かいに腰掛けてゆっくり話を始めた。


「セシル、済まない。暫くはお母さんと一緒には暮らせなくなってしまった。屋敷にも戻れない。だからセシルは今日からここで父さんと二人で暮らす事になる」

「・・・・・・どうして?お母様とケンカでもしたの?だったら早く帰って謝りましょう!」

「そういうわけでは無いんだ。あの屋敷ももう父さんのものではないし、お母さんもあそこには居ないんだ・・・・・・」


お父様は理由を語らない。

多分聞いても子供の私には理解できないことかもしれない。


昨日の夜も私の頭を優しく撫でながら絵本を読んでくれたお母様。

いつものように優しい声でおやすみと言ってキスしてくれたお母様。


「セシル、すまない・・・・・・」


そう言って頭を下げ、ただ涙を流すお父様を前に、私は大声を上げて泣くことしか出来なかった。



あの日、お母様からと言ってお父様に渡された、鞄の底に入っていた一通の封筒。

”セシルへ”と書かれたその封筒の中には、お母様が好きだった白くて小さい花の押し花が一輪入っていた。

その封筒に入った押し花は、今も数少ない私の宝物として大切にとってある。



お父様と私がこのボロボロの家に移ってきた次の日、お父様は私に留守番を頼むと、朝早くから出かけて、夜遅くまで帰らなかった。そして仕事が決まったから明日から留守番を頼む、寂しい思いをさせて済まない。と言ってきた。

それから三日間、私はお父様が買ってきたであろうパンと干し肉、キッチンの隅に置かれた、真新しい甕に入った水で食事を取る以外はずっと泣いて暮らしていた。


そんな風に時間が過ぎて行った4日目のお昼前、コンコンと家のドアをノックする音が聞こえた。


(お母様が帰ってきた!)


そうであって欲しい、そうに違いないと、それしか考えられなくなった私はカビ臭いベッドから飛び出して、家のドアを勢いよく開けた。


「お母様!」


しかし、そこに立っていたのはお母様ではなく、お母様と同じ位の年齢の美しい女の人だった。


「あらあら、こんにちは。・・・・・・まぁ!

「・・・・・・?」

「お嬢ちゃんはこの家にこの前越してきた人の子かしら?」

「あ、あの・・・・・・私は―――」

「ふふ、ごめんなさい。私は隣の家のソフィ・エルスハイマーっていうの。

残念ながらあなたのお母様ではないけれど」


お母様が帰ってきたわけでは無いと分かると、全身の力が抜けそうになる。

それでも、人に会った時はちゃんと挨拶をしなさいとお母様に教わってきた私は、自己紹介をした。


「は、初めまして。セシル・ボードレールと申します・・・・・・」

「セシルちゃんね。いいお名前ね」

「ありがとうございます。お父様と・・・・・・お母様がつけてくれた大切な名前です」

「でも、セシルちゃん、あなたのお父様かしら?この前家に挨拶に来てくれた時は、こんな可愛らしい女の子が居るなんて一言も仰ってなかったわ」

「すみません・・・・・・」

「ところで、お父様はいらっしゃるかしら?」

「いえ、お父様・・・・・・父は仕事に行っていて今は私しかいません」

「あら、それじゃあ、あなたのお父様が帰ってきたらちゃんと注意しときます。こんなかわいい子を一人で留守番させるなんて」

「すみません・・・・・・」

「セシルちゃん、年はいくつ?」

「6才・・・・・・来週で7才です。」

「あら、じゃあ、うちの子と同じ年ね! こらフィン、いつまで隠れているの!恥ずかしがってないでちゃんとセシルちゃんに挨拶なさい!」


すると、ソフィと名乗った女性のスカートの影から、私と同じ銀色の髪をした男の子、私よりも少し背が低くて、年下に見える男の子が恥ずかしそうに少しだけ顔を覗かせた。


それが私と彼の初めての、私にとって生涯忘れられない出会いだった。



その男の子は暫く下を向いてモジモジしていたが、またソフィさんの影に隠れてしまった。


「あらあら、フィンったら!セシルちゃん、ごめんなさいね。この子はフィンと言ってセシルちゃんと同じ年。昨日7才になったばっかりなの。恥ずかしがってばっかりでいつもこんな感じだから気にしないでね」


「ところで、セシルちゃん。お昼はまだ?」

「はい・・・・・・いつも朝だけしか食べていないので」

「あらあら・・・・・・」


そう言うと、私の家の中を少し覗いたソフィさんは大きなため息をついた。


「セシルちゃん、これからちょっと家にいらっしゃい」

「えっ!?」


そう言うと、戸惑う私の手を掴んだソフィさんは隣の、ソフィさんの家まで歩き出した。

結局私はソフィさんの家まで連れていかれ、昼食をごちそうになってしまった。

野菜がたっぷり入った温かいスープとパン、それにミルク。


「お代わりもあるからたくさん食べてね!」


ここ数日は一人でパンと干し肉しか口にしていなかった私には、温かい野菜のスープが凄く美味しくて、恥ずかしかったけどお代わりもしてしまった。


その日から、ソフィさんとフィンは毎日私の家に来てくれて、お掃除の仕方、簡単なスープの作り方、洗濯や水汲みや水浴び場所など、色々なことを教えてくれた。


フィンも初めはモジモジして頼りない感じがしたけど、私より何でもしっかりできる事に驚いた。

貴族の娘で何でも人がやってくれて何も出来ない私より、小さい頃からソフィさんが居ない時は何でも自分でやる事に慣れているフィンが頼もしく見えたりした。


そして自然に、朝起きてから夜寝るまでフィンと一緒にいることが当たり前になっていき、フィンとの時間が長くなればなるほど、お母様の事を思い出して泣いてしまうことも少なくなっていった。


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