第3話 16歳

「暗くなってきちゃったね」

 あきは続けて言った。

「どれくらい滞在するの?」

「二日くらいかな」

「もうこの村へ帰って来ることなんて無いんでしょ。最後に行っておきたい所はある?」

 僕は、僕と関連深い場所を思い出した。

「図書館と神社は絶対。図書館と神社、沈んでないよね」

「うん大丈夫。それと、結花ちゃんのところは?」

「いいよ」

「いい、ってどういう意味?」

「行かなくていいってこと」

 笑ってごまかした。彼女にその名前を出されるまで、完全に忘れていたのだ。

 図書館と神社は明日行くことにして、今日は帰ることに決めた。あきは新しく移築した、実家に僕を案内した。

 道はまだ長く、坂道が続いた。膝から下は、闇に消えていた。僕は目のあたりの明るいところだけしか意識することができなかった。


 結花とは、かつての恋人である。

 僕は高校へ入学して、それからいくらかするとある恋をした。その相手がクラスメイトの結花という子だった。

 高校というのは、村を下ったさきの町にあって、僕たちは二時間かけて毎日登校するのだが、その高校にはそこらの生徒がみんな集まっていて、だから僕らなんて特に、中学は数人しかいなかったクラスメイト以外のいろんな人に、そこで初めて会うのであった。結花もそのうちの一人で、第一中学の生徒だった。(僕たちは第三)

 さらに彼女は、この町の町長の娘だった。

 そういう特権だか、重荷だかもあって彼女はずっと何かのリーダーをしていたのだった。

 僕は田舎の番長ということもあって(と僕だけは言い続ける)、町に生まれ育った都会人たちに対するコンプレックスもあったし、同じ第三中学出身の同志たちがバカにされないためにという独りよがりの責任もあって、誰にも頼まれても望まれてもいないのに、その当時はよく暴れていた。それだから、僕は、クラス委員の結花を、一番に困らせていた。それともう一つ、成績のことがあった。彼女はテストの点数が学年で一番でないと満足しなかった。それは父親に褒めてもらえないというのもあるし、そうなっておかないと自分の居場所が分からないというのもあったのだろう。でも、一番はいつでも僕だった。彼女はいつも二番だったのだ。

「気に食わない。あなたが勉強できることが」

 ある日の放課後、彼女は僕に言った。

 教室にはもう誰もいない。吹き込んでくる風が、光に明るくなるカーテンを膨らますだけだ。とても静かな教室だった。

「一体どこでどうやって勉強してるの」

「学校のテストくらい、勉強しなくたって間違える問題ないだろ」

 僕は机に視線を落としながら言う。ゲーム理論について書かれた古い学術書。木の机の上には、どこか不釣り合いにも見えた。事実僕は学校の授業でやるような勉強はほとんどしていなかった。授業中不意に目を覚ました時に聞こえる先生の声で大体を理解していたのだった。

「それが気に食わない。もっと気に食わない」

「まず国語からどうにかしろ。……教えてやろうか」

「教えていらない」

 結花は目に涙をためながら怒っていた。

「勉強のことじゃないよ。教えるのはおれの夢のこと。おれはな、小説家になるんだ」

「はい」

「はいじゃねえよ。東京へ行って、それで本をうる。そういうことだ」

「わたしは?」

 と、彼女は唐突にそんな質問をした。僕は首をかしげた。

「わたしはどうすればいいの?」

「確かに」

 と僕はいった。何が「確かに」なのかは不確かだったが、確かに確かにではあった。

「教えて」

 と結花は言った。

「何を」

「勉強」

 それから彼女は隠れて僕と学校の図書室で会うようになった。そこではふたり何も話さなかった。図書館は私語厳禁だったのだ。本を読んで、教室に戻ると、その本に書いてあったことを紹介しあう。その中には多くあきも混ざるようになった。


 二人は家に到着した。僕の初めて見る家。新しい実家。古い綺麗さだ。

 扉を開けて入ると、すぐに母親が迎えに出てきた。彼女は少し膨れて、僕の荷物を受け取る。不機嫌な頬だ。

「気にしないでね。お母さん、これでも、喜んでるんだから」

 とあきは言った。母は、

「喜びなんてするもんですか」

 と下を向いた。長く帰ってこなかったことに対する感情である。

 僕は居間へ通された。その最中、「中村さんは?」と僕は聞いた。中村さんとは前の家で住み込みで働いてくれていたお手伝いさんのことだ。あきは「中村さんはもういない。故郷くにに帰った」と言った。

 居間には父親がいた。いまだに矍鑠かくしゃくとしていて、僕を見るなり言葉にならない雄叫びをあげた。僕は情けない感じの懐かしさを感じた。父は昔っからこうだったのだ。変わっていなかった。

 その声を聞いてなにごとかと一番年下の双子の弟、コウが二階から降りてきた。コウは僕を見ると鳥のように固まった。十年分の年を取っていた。今は十八で大学受験を控えるその最中であるはずだ。聞くとやはり二階の部屋で勉強していたと答えた。

「ごめんな、中断させちゃって」

「いいや。いいよ、お兄ちゃんが帰ってくるなんて。なんて、言ったらいいか」

 双子の妹の方、メグは、今友達の家へ遊びに行っているらしかった。僕はあの弱々しくて、萎れた花のようなメグに会いたく思った。この帰郷に際して、一番の期待は彼女だったのかもしれない。


「さっきね、結花さんの話をね、お兄ちゃんとしてたの」

 母親と話を終えたあきは、話を掘り返した。

「懐かしいわね」

 と母は感慨深そうだった。

「どんな話なの? 僕聞いたことないかもしれない」

 コウが座りながら面白そうに言う。その質問を受け、あきは、さも自慢するかのように、胸を張って説明した。

「えっとね、お兄ちゃんが高校二年かな? のときに、とある女の人と駆け落ちしたの。その相手が、当時の高校の同級生の結花さんって人なんだけどね、ある日、夜になっても家に帰ってこなくって、それで捜索願いを出したんだよ。……どこに行ってたと思う?」


「うーん」とコウは考える。「東京?」

 

「正解!」とあき。「結花さん連れて、電車に乗って、東京目指して町を出たのよ。すごいでしょー。警察の人に連れ返されたのよ」

 家族は笑った。

「なにも、すごいとかいうことじゃあないよ」

 と僕は言った。母もあきもコウも暖かな微笑で僕を見るのが、妙に窮屈だった。


 結花は、生き辛そうにしていたのだ。父親の二十年以上も続いている町長というポストからくる彼の家での絶対的権力は、彼女には罪悪感をじゃんじゃか乗せる支配人でしかなかった。何をしてもその名を汚した。恥じない以外になかったのだ。彼女はどうしても町の外へ行きたいと願い。僕は東京で小説を書くのを願った。


 父親の声が外から聞こえてきた。

「寿司を頼んできたぞおー」

 馬鹿みたいな声だ。

 コウは勉強をするために、また部屋へ帰った。コウとメグは、いつもあきに勉強を教わっているらしかった。

「いやあ、しかしな、お前は天才だった」いつの間にやら顔を酒に赤くした父が言う。「お前は間違いなく天才だった。この村始まって以来の才能。神の頭脳。そりゃあ妹だって帝国大学に受かったものの、俺には分かる、兄と比べると、それすらたいしたことないのだ」

「いやあね、もう酔っ払って」

 と母。

 僕は「ナツと歩雪ふゆきはどうなの」と彼女に尋ねた。ナツとはあきの下の妹で、歳は僕と六つ離れており、その一歳下の弟が歩雪なのだが、その二人もメグ同様見当たらなかった。

「二人とも村を出て……、ナツは西のほうの熊本? で、歩雪は外国へ行ったよ」

 と母が言い、あきがそれに「ロンドンね、イギリスの」とつけ加える。

 父は机に顔を置いていた。テンションが高くなると抑えきれなくなり、数分でこうなってしまうのだ。それは前からそうだった。生きている証拠に、ときおりいびきをかいた。


「ちゃんと食べていけてるの?」

 時間がたった。寝ている父を除けば二人きりになったとき、母は僕に声をかけた。

「うん」

「本当に?」

 確かに東京に出て四年くらいの間、僕は苦心した。けれど、ちゃんとした作家になった。あんた得意の思い上がりだ、と母は笑ったが、事実僕は多少の炎上的行動はあったにせよ、しっかりしていた。僕の作家としての地位は師匠だって太鼓判を押してくれている。それと言うのも、僕は一度注目を浴びると、そこから喧嘩を売るように様々に本を書いて出したのだ。

 しかし、そんなことは母にとっては価値を測る材料とはなり得なかった。僕が苦労しているという絵、それ以外想像できないらしい。僕は東京での生活を説明したが、そうでなくても母の世代の人の多くは、東京=辛い生活、と言う観念があり、どうも僕の言葉を信じなかった。

「大丈夫だよ」と僕はついはねつけるように言った。「東京に住む人の中でも金持ちなほうだよ」

「そんなことあるかね」

「ある!」

 そう言って僕は太宰を真似て、財布を出し、そこから金を机に並べた。けれど、それでも母の心配は、目の奥にひっそりと、雪下の小石のようにひかえていた。

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