第11話不出来な学校 その2

 翌朝、花凛が教室に入ると、1人の人物に目を奪われた。頼人の席の側に、目立ちすぎる大男が立っていた。


 窮屈そうな制服に身を包み、痛々しいほどに赤い髪をオールバックにして、並々ならぬ威圧感を発しているその男は弱々しい頼人と対比になっていることも相俟って、かなり大きく見えた。


 その大男と話していた頼人は、花凛に気付くといつもと変わらぬ調子で声を掛けてきた。


「おはよう花凛。ちょうど紅蓮に花凛のことを話してたところなんだ」


 紅蓮という名が出た時、花凛はぎょっとした。この大男はやはり大田島紅蓮なのだ。


 どうにも自分が持つガリ勉眼鏡の印象を拭い捨て去ることが出来なかった花凛は、頼人に説明された時も、俄に信じがたかったのだが、こうして目の前で名を告げられたことで彼を大田島紅蓮だと認識せざるを得なかった。


「おはよう……」


 挨拶を頼人に返しただけで、花凛は大田島に視線が釘付けになった。自分の知っている大田島紅蓮の面影を探そうとしたのだが、頭の先から爪先まで、微塵も過去を語る要素がなかった。


「何じろじろ見てんた。俺に興味でもあるのか?」


 視線に気付いた紅蓮は重厚な声で花凛に話しかけた。その声も以前の蚊の鳴くような声から一気に進化して、獰猛な獣の唸りのような腹の底に響く声になっていた。


 そして発した言葉からも、強気で高圧的な態度が見て取れたことで、この男の内側から外側まで、完全に別人になったことが証明されたのだ。花凛はこの瞬間に、ある疑念が湧きはじめていた。


「ふーん、マジでコイツが大田島なのか。なんかなあ……」


「あ? 文句でもあんのか?」


 荒々しい口ぶりで威圧しているようだったが、花凛には効き目がなかった。調子を変えることなく、花凛は言葉を返した。


「文句はないけど、その言い方は腹立つわ。女の子には優しく接するもんでしょ」


「生憎、オレは人によって態度を変えるような、弱い生き方をしないと決めてるんだ。お前が慣れるか、我慢するかしてもらう以外に妥協点はない」


「態度を変える、ねえ……まあ、あんまし舐めた態度でいると、この社会生きづらくなるでしょうね。あたしの知ったことじゃないけど」


 その発言が自分にも刺さることだと、花凛は気付きもしなかった。ある種の同族嫌悪が2人の語気を強くしてしまっていた。勿論、お互いにそれを意識することはないが。


「まあまあ、花凛。紅蓮は人付き合いが苦手なんだよ。だから大目に見てやってくれ、頼む。紅蓮もさ、友達は多いほうがいいだろ? あんま悪い印象与えるのは良くないって。穏便に、な?」


 喧嘩腰になりつつある2人を頼人は諌めようとした。紅蓮は眉を一瞬上げると、「すまん」と図体に似合わない小さな声で呟き、そそくさと自分の席に戻ってしまった。


 花凛の方はというと、まだ不満が残ったままで、言い切れずに終わったことに苛立っていた。それがただの見苦しい持論を押し付けることではなく、自分の中で疑いきれないあることを問うことだったのが、それを先に口に出さなかった自分に腹が立った。


 そのため、花凛は紅蓮に対して警戒心が解ききれなくなってしまった。感情的になっていた今が、口を滑らせるのに適していた。その機会を逃したことで、花凛は紅蓮に密かに問いただす以外に方法がなくなった。それもこれも頼人の面子を保つためでもあるのだが、当の本人は楽観視していると見えた。


「紅蓮も素直じゃないな。でも、悪気はないはずなんだ」


「どうかな。あたしを目の敵にするには充分な理由があると思うけど」


 花凛は紅蓮を見続けたまま、投げやりに応えた。机にノートを出して、必死にペンを走らせているようだったが、その姿だけは以前の大田島紅蓮を彷彿とさせた。


 そうこうしている内に、朝のホームルームの時間になった。担任の先生がチャイムと同時に入ってくる。そして、その後ろから1人の生徒が付いて来ていた。


 またしても、花凛はぎょっとした。ぼさぼさの髪に、癪に障る目付きの悪さを携えたその生徒は、昨日河原にいた男に間違いなかった。




「あら、それは愉快なことになりましたね」


 屋上での昼食後、紅茶を楽しみながら、杏樹は事も無げに言った。


「はあ? それだけしか感想ないの?」


「そうですわね……」


 考えこんでいるのか、それとも紅茶に浸っているのか、目を伏せて口を噤んだ。しばらくして、甘い溜息を吐いてから言葉を続けた。


「ないですわね」


 予感はしていたが、きっぱりと言い切る杏樹に、最早花凛は尊敬の念を抱いた。


「……杏樹のそういう図太さ、憧れるわ」


「それ、昨日もおっしゃいませんでした?」


 皮肉で言ったことをしっかりと覚えているところは、杏樹の執念深さを匂わせる部分でもある。


 聞き流されるとばかり思っていた花凛は少し戸惑った。それが面白いのか、杏樹はくすくすと笑った後、花凛が言ったことを反復した。


「花凛さんたちのクラスに昨日の御仁、戸張和巳とばりかずみ殿が転校生としてやってきた。今のところ接触はしてこないが、此方を気にしている様子……それだけの情報ではわたくしを動揺させるには至りませんわね」


 事情は飲み込んでいるようだが、どうも弄ばれているようで花凛としては良い気持ちになれなかった。花凛が杏樹に話すことは、全て右から左に流している節が見えるため、こうした不意打ちは肝が冷える。そもそも、杏樹に期待せずに話そうとする花凛にも問題はあるのだが。


「花凛さんは何か意見が欲しくておっしゃったのでしょうが、それは無駄ですわ。あちらが何もしてこない以上、どうとも捉えることは出来ませんもの。強いて言うなら、その機会は遅くはないということくらいにしか分かりませんわ」


「そう、か。それもそうね。待っていることしか出来ないか」


「ええ、その通り。ですから、このお話はお終いですわ。まあ、建設的なお話を望むのでしたら、他にもたくさんあるんじゃなくて?」


 杏樹がそう問いかけたが、花凛は口を半開きにしたまま呆けていた。杏樹はその間抜けな様子に声を出して笑いかけたが、なんとか鼻で笑うだけで済んだ。


「……つまり、先日の工場でのことです。あそこにはまだ疑問が多く残っているんですから、それを1つずつ確認して、潰していくのが宜しいと思いますの」


「……ああ、それね。確かにそれは大事ね。折角当事者もいるんだからね」


 花凛は後ろに顔を向けた。そこではサッカーボールで遊んでいる頼人と紅蓮がいた。


 普段は運動なんて進んでやろうとしない頼人だったが、不細工な蹴り方を披露して楽しんでいた。紅蓮の方も、得も言われぬ不器用な笑みを浮かべて軽快に蹴り返していた。


「呑気なもんよ、あいつらも」


「良いではありませんか。心身共に健やかな証拠ですわ。彼らの遊びを中断させてしまうのも気が引けますから、まずはわたくしたちだけでお話しましょう」


 杏樹が気を利かせているのは頼人に依るものであるが、それでも杏樹に他人を慮る裁量が存在することが救いでもあった。


 杏樹の人間性は尖りすぎていて、いつそれが自分の喉元に突きつけられるものかと、一度突きつけられていながらも、身構えておかなければならないのだが、それを和らげる術と隙があるのなら、花凛は労力を厭わなかった。


 頼人に向けられる偏愛を解すことが、その一番の近道でもあるが、今はそれを気にする場面ではない。大人しく杏樹との会話に身を委ねておけば、それが爆発することもないと思った。


「そうね。じゃあ最初に考えなきゃいけないことは、源石のことかな。なんで、大田島たちは源石を持っていたのか……これって、大田島に聞けば一発じゃん。早速だけど、遊びは終わらせて……」


「その必要はありませんわ」


 即座に杏樹が言い返した。


「なんでよ。あいつ自身のことなんだから、直接聞けば分かることじゃない」


「ええ、その通りです。ですが、それは大田島くんが知っていれば、いいえ、覚えていればの話です」


 杏樹の意味することが理解できなかった。花凛の頭には疑問符ばかりが浮かんでいた。


「まったく意味が分からないんだけど」


「簡単なことですよ。大田島くんは昨日から長永くんとメールでやりとりしていた。その中で源石のことが話題にならないわけがないのです。花凛さんが逐一あったことを連絡しろ、と言ったこともあって、長永くんはその話題があったのなら必ず言うはずです。しかし、今の今までそれを話すことはないではありませんか。改心した大田島くんが、自分の身に起きたことを言わないのは、言えない事情があるということ。つまり、絶対に隠し通さなければならないか、全く覚えていないかの2つしかありません」


「……いやいや、ちょっと待ってよ。大田島が言わなかったのなら、頼人の方から聞いたってこともあるんじゃないの? あたしたちにはまだ言ってないだけでさ」


「あら、幼馴染みの花凛さんなら、長永くんの性格が分かるものだと思っていたのですけれど」


 嫌味ったらしく言うが、杏樹の言いたいことは分かった。花凛は杏樹の期待する反応を返した。


「頼人のことだから、自分から地雷を踏むことを避けたってことね。まあ仲良くやろうって言った手前、無理に聞き出そうとしないのは賢明ね。まあそれで、大田島に言えない事情があるってことは認めるけど、それがどうして覚えていないってことになるの? 隠してるって線もあるんでしょ?」


「大田島くんが長永くんと友人関係を築く上で、まず落とし前をつけにいきましたよね? 自らの過去を精算して、憂いのない状態で友情を育もうと考えての行動だと思われます。それだけの誠意を持って長永くんと対等にあろうとしているのですから、隠し事なんてするはずがありえません。ですので、大田島くんは源石の出処をいの一番に言うべきなのですが、それもしなかった。とすれば、考えられることは1つ、大田島くんは源石のことについて全く覚えていない、記憶から除外された、ということですわ」


 杏樹は長々と喋って渇いた喉を、紅茶で潤した。


 花凛は探偵の推理を聞いた刑事のように顎をさすり、考え込んだ。筋道としてはあっている気がした。いや、合っていると錯覚しているのかもしれない。だが、これ以上反芻しても、頭がおかしくなるだけだった。素直に杏樹の推理を受け入れることにした。


「なるほど、本当に覚えてないのね。しっかしまあ、よくそんなことを考えつくものね。あんた探偵になれるよ」


 そう褒めると、杏樹は盛大に笑った。何故笑うのか理解できない花凛は、ただただ戸惑うだけだった。


「ふふふっ、花凛さんは単純ですわね。その調子では悪徳な勧誘に容易く引っかかってしまいますよ」


「ど、どういうこと?」


「花凛さんは単に言いくるめられたたけなんです。こんな感情論を並べ立てただけのものを推理と呼ぶのも烏滸がましいですわ。確たる証拠がないんですもの。絶対とは言い切れない憶測の域の論ですわ」


「じゃあ、大田島が覚えていないってのは?」


「可能性はなくはないんじゃなくて? 早い話は彼に直接聞くことですわ」


 杏樹が垂れた講釈は何の確実性も持たないものだったのだ。何故そんな無意味なことをしたのか、真相は分からない。だが、花凛も杏樹の講釈に則って推理するなら、単なる暇つぶしとか、花凛をからかいたかったとか、頼人が楽しく遊んでいるのを邪魔したくなかったとか、そんなくだらない理由で遊びに興じたのだろう。


 手間を取らせて結局、当の本人に聞けと結論付けられたことに苛立たないわけがない。しかし、それに乗せられた自分にも多大に責任があるわけなので、怒りを無理矢理抑えこんで、この場を凌いだ。


 花凛は振り返って、紅蓮を呼びつけようと口を開いた。だが、花凛が声を発する前に、思わぬ闖入者が現れ、その場にいた全員の動きを止めた。


「どうも」


 扉からぬるりと現れたその男は、一言だけ呟いた。


「あっ、あんたは戸張!」


 花凛の開いていた口は当初とは違う言葉をその男、戸張和巳に吐いた。


 戸張は名前を呼んだ花凛に目を向けた。しかし、すぐに興味を移して、頼人、紅蓮、杏樹と順番に見回した。全員を見終わると、何喰わぬ顔でフェンスまで歩き、もたれかかりながら漠然と頼人たちを眺めだした。


「あ、あんた、何しに此処に来たのよ?」


 不可解な行動に戸惑いながら、花凛は再び言葉を投げた。


「お気になさらず」


「気にするなって方が無理よ。何が目的なの?」


 この問いかけには全く反応を示さず、相変わらず酷い目付きで見てるだけだった。


 花凛は次に続ける言葉が見つからず、困惑した。そんな花凛の代わりに、頼人が話しかけた。


「昨日、河童をやっつけてくれたのって戸張くんだよね? 苦戦してたから助かったよ、ありがとう」


 頼人の感謝の言葉に、戸張は驚いたようだ。細い目が一瞬だけ大きく開いた。しかしそれ以上の反応はなく、口を開いて言葉を返す気配もなかった。


 頼人もまた言葉が出て来ず、一同の間に沈黙が流れこんできた。その不気味な闖入者は視線を集めていながらも、全く動じず、石像のごとく固まっていた。


 不穏な空気を壊しにかかったのは杏樹だった。ティーカップを口に運び、紅茶を啜ると、わざとらしく息は漏らした。


「午後の始まりに飲むお紅茶はやはり格別ですわ。花凛さんもいかが?」


 何事もなかったかのように、花凛に紅茶を勧める。花凛が杏樹の方に向くと、緊張感を一片とも感じさせない、柔らかい蒼眼が見つめていた。その眼からは何一つとして、考えが読み取れなかった。


「こんな状況で何言ってんのよ」


 この発言は杏樹の意図を汲む旨を含んでいない、ただ口をついて出たものだった。しかし、こうして反応を示すだけでも事態の変化は着々と進むのだ。


「こんな、とはどのような事を指しているのかは分かりませんけれど、今はわたくしたち、学業に励む者に許された憩いの時ですわ。その貴重な時間を地蔵のように過ごすのは勿体無いではありませんか」


「いやそうじゃなくて、戸張がいるっていうのに……」


「放っておけば良いのです。何もする気はなく、何の情報も話さない者に気を遣っているだけ無駄ですわ」


「同感だな。あいつが何かしてくるのなら、その時に対処すればいい」


 紅蓮が最初に賛同を示した。そして、足で抑えていたボールを頼人に向かって蹴った。頼人はそれを慌てて受け止め、苦笑いして言った。


「そうだな、それでいいか」


 2人は再びボール遊びに興じ始め、戸張を気にする素振りも見せなかった。後は花凛だけが緊張を解かずに立ち尽くしていたが、杏樹はそれを解しにかかった。


「花凛さん、どうぞ。お紅茶も青春も、冷めない内に堪能すべきですわ、おほほほ」


「意味分かんないから……まったく」


 花凛は渋々ティーカップを取り、情緒もへったくれもなく一息に飲み干した。


 結局、昼休みは何事もなく、平穏に過ぎた。しかしそれ以降、戸張は花凛たちにひっつくようになった。休み時間や放課後も、戸張は黙って花凛たちを監視していたが、実害はなく、ただ見ているだけだった。そんな日が2、3日と続き、週末がやってきた。




 花凛たちが通う鳳学園では土曜日にも授業がある。どんな教育理念を持ったら休日を潰すという考えに至るのか、花凛には知る由もないし、知りたくもなかったが、学業を強いられる身として、それを避ける手立ては一切なかった。


 過酷と呼べる授業体制に花凛が出来る唯一の対抗策は、先生の発する呪文を子守唄として、静かに眠りこけることだった。それを誰からも咎められることはなかったので、花凛は罪悪感も芽生えず、開き直ることができた。


 つまり学校にいる間、殆どの時間を寝て過ごしているということになるのだが、学業への意識の低さは学校に着く前から露わになっている。朝起きる時間は早いのだが、支度が恐ろしく鈍い。別に朝が弱いわけではなく、寧ろ寝覚めはかなり良い方だ。それにもかかわらず支度に時間を掛ける理由は年頃の乙女らしく、いちいち髪型に気を遣ったりだとか、ばれない程度に化粧をするだとかに慎重になっているということでは一切ない。染髪して傷んでいる髪は適当に溶かしてカチューシャを乗っけるくらいだし、化粧なんてアホくさくてやろうとも思っていないのだ。小物やアクセサリーには目がないのだが、それ以外に関しては無頓着極まるという点に、少なからず矛盾が生じている気がするが、本人は気付いてもいなかった。


 ただただのろのろと、思いついた順に支度を始め、朝のホームルームに間に合わなくなる時間までリビングで呆けていると、母が追いだそうとしてくるので、それを合図に登校するのが恒例となっている。


 そうして今日も慣例にしたがって、悠々と学校に着いた。いつものように教室の後ろの扉から入り、頼人へ向けて適当に朝の挨拶をするのだが、今日はその挨拶が嫌に響いた。


 その原因はすぐに分かった。教室に誰一人として、人がいなかったのだ。


 花凛は我に返った、ような気がした。というのも、自分の挨拶が空振りに終わったからではなく、今まで感じていた教室の空気がまるで違っていることに気付いたからだった。


 誰もいないことを二の次に出来るほど、教室には違和感があった。あたりを見回したが、それは誰かがいる可能性を探るものではなく、改めて教室を確認したいという気持ちによるものだった。


 入り口で止まったまま、教室を見回していると、背後に重い気配を感じた。振り返ってみると、そこには壁と見紛うほどの大男、紅蓮が立っていた。


「うわっと! びっくりさせないでよ!」


「そんなとこで突っ立てるな。入れないだろ」


 花凛は咄嗟に横にずれて、通行を認めさせた。そして、紅蓮も教室が空であることに気付き、自分の席に向かおうとしていた足が止まった。


「……どうして誰もいないんだ?」


 語調に驚きを見せなかったが、それでも紅蓮の目は教室のあちこちを泳いで困惑していた。


「分かんないわよ。今日は休みでしたってオチならいいんだけど」


「そんなマヌケをオレがするわけない。他の教室はどうなんだ」


 紅蓮は急ぎ足で廊下に出ていき、近くの教室を見に行った。あっという間に帰ってくると、苦い顔をして状況を告げた。


「どこも同じだ、誰もいやしねえ。何がどうなってやがる」


 この時、花凛に疑問が湧き上がった。どの教室にも人がいないのなら、どうして此処に来るまでに気付かなかったのか。人の話声くらい聞こえてくるだろうし、ましてや廊下で人とすれ違わないはずはないのだ。不自然なまでに道中の光景が頭の中から抜けていた。


 自分の記憶を辿ってみても、起床してから学校に着くまでは確かにはっきりと記憶しているのだが、校門を潜った瞬間、いや、それよりも少し前からの記憶がなかった。そして現在、教室に入って誰もいないことに気付いたところで、意識がリスタートしたようなのだ。


 作為的なものを感じる。自分の記憶もそうだが、この教室に蔓延る違和感が花凛にそう思わせた。一体何がどうして、と考えていると、黒板の上に設置してあるスピーカーから落ち着いた口調の男の声が流れ始めた。


「皆さん、おはようございます。朝のホームルームを担任の先生方に代わりまして、この学園の理事長、鳳逸郎おおとりいつろうが務めさせていただきます」


 花凛と紅蓮はスピーカーを注視した。この声の主、鳳理事長が発する言葉がこの状況を理解せしめるものであると信じて、黙って聞いていた。


「……まず始めに、この放送を聞いている生徒の諸君。あなた達は閑散とした校内に驚かれたでしょうが、安心してください。うっかり休日に来てしまった、と嘆くこともありません。本日は間違いなく、登校日です。ですが、一般の生徒には本日は休みであると伝えておきました。そして、それが伝わらなかった生徒のみに、登校をしていただきました。自分たちを除いて、どのように休日であることを他の生徒に伝達したのか、ということに疑問を抱くでしょうが、気にする必要はありません。ただ、それが納得できないと言うのならば、一言だけ言葉を添えましょう。あなた達もご存知の『理』を使ったのです」


 理事長は言葉に詰まることなく流暢に喋っていく。花凛は次々と出てくる情報に置いてかれないように、最低限の単語を頭に留めて、話を聞いていた。


「本筋に戻りまして、あなた達に登校していただいた理由を説明します。非常に残念なことに、あなた達はこの学園において、素行が悪く、秩序を乱す危険な存在であると認定されてしまいました。そのため、本日はそんなあなた達を規律に基づく、正しい存在に矯正するための特別なプログラムを受けていただく特別な日にさせていただいたのです。差し当たって、本日このプログラムを受ける生徒の名前を読み上げましょう。2年E組の大田島紅蓮君、同じく2年E組の長永頼人君、そしてまた同じく2年E組の獅子川花凛さん、以上の3人に受けていただきます」


 花凛は3人という数に、不満と不審を感じた。だが、話は終わっていないので、それに関する考察は後にした。


「ではプログラムとはどんなものかと言いますと、これはとても単純で、ただ私の理を直接に受けていただくだけなのです。一般の生徒ならば、少量の力で従順になってくれるのですが、あなた達はそうもいかないようなのでこのような次第となりました。ということなので、早速再教育を施しに行きたいところなのですが、いやはや私も寄る年波には勝てぬ、血気盛んな若者相手に抵抗されては施しようがありません。ああ失礼、あなた達に抵抗されることを前提にして話していました。無論快諾いただけるなら、何の苦労も双方にはありませんが、まあ、ありえないことだと思っているので考えに入れていません。少し戻りましょう。プログラムを円滑に進めるためにこちらは少々手荒な事をさせていただきます。それはどのようなものかと言いますと、一旦あなた達の抵抗力を削がせていただきまして、その後に私の力を使わせていただくといったものです。教育者としては心苦しいことではありますが、ご理解をしていただければ幸いです」


 取り繕った言葉がいくつもあるのだが、それはどれも機械的に言っているように聞こえた。用意した台本に逸れたことは言っていないのだなと思った。


「私も本当はこのような圧政を強いたくないのです。出来るならば、相互が納得できる形でプログラムを進めたいのですが、先程も言いました通り、あなた達は絶対に私の教育理念を受け入れてくれないでしょう。ともすれば私の教育理念そのものを破壊しようと考えるかもしれません。それだけは絶対に避けたいのです。私はどんなに蔑まれようと、この学園を守らなければならないのです。ですが、学校とは教育者一個人によって成り立つのではなく、そこで教育を受ける子供たちが主体となって動いていくものだということも認識しています。その考えは少なからず私の中にもありますから、あなた達にも当然、私と戦う権利はあると思っています。そうするならば、この状況はあまりにもあなた達に不利と言えるものでしょう。そこで1つ、あなた達が勝ちを得られるように配慮をさせていただきました。それはこの特別な授業を一種のゲームに書き換えるものです。ゲームとはすなわち勝敗が明確になる手段でもあります。あなた達が勝利する条件は私が送り込む刺客から逃れ、無事に私のいる理事長室にたどり着くこと。そして敗北の条件はあなた達全員が刺客に捕らわれてしまうことです。ですが、それだけではゲームとして面白みが足りませんし、今度は少々私に不利が生じてしまいます。そこで条件を付け加えさせていただきました。それは理事長室への鍵を入手することです。理事長室には施錠をしておきました。それを開くために、校内に隠された鍵を見つけてもらいます。その鍵の場所なのですが……」


 ここで初めて理事長の言葉が詰まった。何かを躊躇っているのか、戸惑っているのか、それを窺い知れるほど感情が篭っていなかった。そして咳払いをしてから、少しだけ抑揚のある声で続けた。


「鍵は長永頼人君が持っています。あなた達2人にはまず、長永君を探すことから始めていただきます。安心してください、彼は無事で、まだ教育はしていません。ただ眠ってもらっているだけです。そんな状態の彼を何処かの教室に隠したので、見つけ出してください。それを済ませれば、私の場所まで刺客に捕まらずに来るだけでゲームは終了します。勿論、刺客には全力であなた達を捕らえるように指示していますから、油断のないよう慎重に行動することを推奨します。以上で、ルールの説明は終わりにして、すぐにゲーム開始といきましょう。あなた達にとって、最良の結末が迎えられることを願っています」


 そう言い残して、長くてくどい放送は終わった。


 花凛はまずは理事長の言ったことを整理したかった。一気に色々と言われたから、頭が付いて来てなかった。丁度、横には聞き手がいるので、それに確認を取ることにした。


「別にあたしたちが間違って来たわけではなくて、他の人たちに理を使って、来ないようにしてたのね」


「そうだな」


「そしてあたしたちを教育だか矯正をして、真面目な生徒にするのが目的だ、と」


「そうだな」


「プログラムってのを受けさせたいけど、あたしたちにもチャンスをくれるってことで、ゲームをしよう、と」


「ああ、そうだ」


「そんで、理事長室にたどり着けばあたしたちの勝ち、その理事長室の鍵は何処かで眠ってる頼人が持っている……」


「そのようだな」


 自分の得た情報は間違っていないことが分かった。しかし、どうしても信じたくない疑問が頭に張り付いていた。答えが返ってくることは期待していないが、それを口に出した。


「この学校、理の力で支配されてたのかな」


「あの口ぶりだと、そう捉えるのが自然だな。それに思い当たる節もある」


 紅蓮は手近にあった机に腰を掛けて、話を続けた。


「どうにも、授業中の記憶が定かでない。要所を掻い摘んだ記憶はあるが、どんな授業体系なのかとか、どのような発言があったのかとか、1つも明確に思い出せない。それだけじゃなく、お前や頼人、御門と戸張以外の人間が全く分からない。隣の席の奴が男なのか女なのかも分からない。1年の時の記憶もほとんどない」


 花凛は今まで感じていた違和感の正体を漸く捕まえることが出来た。紅蓮に同じく、花凛も学校に対して記憶が確かでなかった。


 授業中は寝ているから授業風景を知る由もないのだが、クラスメイトの存在が頭の中に全くなかった。思い出せないのではない、知らないのだ。


「どんな理の力を使ってたのかは知らないが、この学校に入学した時から、洗脳めいたことをしていたのだろう。そして、その支配から辛うじて抜け出したのがオレたちだったということだ。まあ完全に抜け出せてないから、記憶が出来ないようにされているんだろうが。他の奴らはもっと酷いだろう。学校にいる間の行動を完全にコントロールされているんじゃないか?」


 花凛は頭を抱えて項垂れた。自分たち以上に支配されてしまった生徒たちのことを思うと、やりきれない気持ちになった。


「こんなの許されること? 思い通りにしたいからって、人の心を蔑ろにするなんて、ふざけてる!」


「同感だな」


 思いがけない同意を得られて、目が点になった。紅蓮に対して持つ疑惑がそうさせたのだが、自分の見立てが焦げ臭くなってきた。


「とにかく、理事長とご対面できる機会は得られたんだ。そこで文句の1つや2つ言ってやればいい。そのためにも、さっさと頼人を探しに行くべきだな」


「う、うん……」


 花凛が気の逸れた返事をしたタイミングで、教室の前方の扉が開いた。扉から現れた中年の男は確かな足取りで教室に侵入してきた。


 ゲームが既に始まっていることを忘れていた。差し向けられた刺客は、刺客という言葉が似つかわしくない冴えない男だったが、それでも急に現れたので、花凛の心拍数は上がった。


「理事長のご指示だ。理事長の指示……命令……」


 口から漏れ聞こえる声が、男が正常ではないことを物語っていた。


 始めは面食らったが、順応するのに時間は必要なかった。花凛は先手を打ち、走って接近すると、肉付きの良い顎にアッパーカットを放った。


 的確に入ったアッパーカットは男の脳を揺さぶり、簡単に卒倒させてしまった。あまりに呆気無く終わったので、花凛は肩を透かされた気分になった。


「ちょっと弱すぎない? 理を使うまでもないんだけど」


「こいつも生徒と同じで洗脳されて動いているだけなのかもしれん。見た目からして教師のようだが、まさか、そっちの人間も思うがままに動かしていたのか」


「ふーん……」


 昏倒する男を見下ろしながら花凛はそっけなく返した。教師だとしたら顔くらい知っているものかと思ったが、全く見たことのない男だ。教師の顔さえ分からないのも、理事長の理によるものなのだろうか。


「だが、注意を怠るわけにもいかないな。万全の状態を整えていて損はない」


「ごもっともね。それじゃあっと……」


 花凛は元いた場所に戻り、サブバッグを開いた。その中には窮屈そうにストーンホルダーがしまい込まれていた。ストーンホルダーを引き上げると、ボタンを開けて中身をチェックした。


 先日の河童との戦いの時、何の気なしに頼人に風と水の石を渡したが、それは不味かったかもしれない。もう風と水の石はなく、火の石が2つと土の石が3つあるだけだった。


 相手の情報が少ない以上、この数はかなり不安だった。ただ洗脳されている者を相手するなら使う必要はないが、もし理を使う者がいたら、これで戦うには厳しすぎる。そうなると、戦い方を工夫しなければならないが、あれこれと考えながら戦うのは好きではなかった。


 此処でそんなことを考えていも仕方ないと、考えを中断してストーンホルダーを装着した。準備は完了したので、紅蓮の方に視線を向けると、何やら難しい顔をして、花凛を見ていた。


「何よ、何か文句でもあんの?」


「いや、その……だな……」


 花凛は言い淀む紅蓮を訝しげに睨んだ。


「はっきりと言いなさいよ。時間が勿体無いんだけど」


「あ、ああ、その通りだ。じゃあ言うが……あれだ、源石を分けてくれないか?」


「はあ?」


 どいつもこいつも用意が悪すぎると思った。否応がなしに自分のストックが食いつぶされるのは気持ちの良いことではない。紅蓮にも説教の1つでもしてやろうかとも考えたが、あることを閃いた。どうせだからこの機会に、紅蓮に対して抱いていた問題を解決しておこう。花凛は不敵な笑みを浮かべて、交渉を持ちかけた。


「……まあいいわ。特別に分けてあげる。でも、タダで渡すわけにはいかないわ。あたしの質問に正直に答えなさい、いいわね?」


「ん? ああ、構わないが」


 花凛は一息吸ってから、はっきりとした口調で言った。


「あんた、何が目的で頼人に近付いたの?」


 紅蓮が一瞬、目を大きく開いた。困惑する紅蓮を攻めるかのように、花凛は話し続けた。


「どうも不可解なことが多いのよ。いきなり頼人と下の名前で呼び合ってるし、急に仲良くなりすぎっていうか……しかも見た目も性格も戻ってないから、まだ悪意が残ってるんじゃないかって思ったのよ。そんで、その悪意が形を変えて、頼人に何かしようと企んでいるっていうのがあたしの考え。どう?」


 先日の杏樹に影響されたのか、推理めいた言い方だった。ただ、杏樹ほど、綺麗に言葉を並べられなかったが。


 紅蓮は頭を掻き、返答に困っているようだった。花凛の考えが当たっていようがいまいが、提示された事実には抗うことは出来ない。はぐらかしても、花凛からの信頼を得られなくなってしまうのは今後に支障をきたす。何より、これは花凛から信頼に足るか試されているのだ。


 観念した紅蓮は長い溜息を吐いた後、いつも以上に低い声で答えた。


「悪意に関しては否定させてもらう。これは信用してもらうしかないが、本当にない。見た目が戻らないのは知らん。戻そうと思えば戻せるだろうが、それには労力と時間が掛かる。これが悪意に関係してるのかさえ、オレには判断できん。性格は、これが素だ。昔は隠していたから変に思うんだろう。いつも心の中には汚い言葉が飛び交っていたんだ。そして最後に、頼人と仲が良くなりすぎだという点についてだが……分からん」


「分からん?」


「ああ……分からないんだ、距離感ってもんが。ダチってのがいたことないから、接し方がまだ掴めてない。頼人は気安くでいいって言ったから、そのままやらせてもらってたが、それは……おかしいことなのか?」


 真剣な顔で聞いてくる紅蓮に、花凛は緊張させてた表情が緩んだ。そういうことか、と納得したと同時に、紅蓮の不器用さが可愛らしくて笑えた。そして堪えきれずに肩をひくつかせながら声を出して笑った。


 今まで紅蓮が花凛に対して刺々しい態度だったのも、頼人に接する時と同じようにすることを意識してなのだろう。要は経験が足りないのだ。紅蓮の不器用な性格と尊大な態度は友情を育むには苦労するだろうと同情した。


「おい、何を笑ってる。やめろ、やめるんだ!」


「あっははは! ダメだこれ、くっ……ふふふ……あー、オーケーオーケー。もう大丈夫、大丈夫よ、ふう。いやー、ごめんね。なんか色々勘違いしてたわ。ほい、石あげるよ、火のやつだけね」


 残っていた火の源石を紅蓮の大きな手に握らせると、花凛は廊下へ出ようとした。


「じゃあ、行こうか。頼人をあんまり待たせるのも可哀想だもんね」


「ま、待て。まだオレが納得できてない! おかしいのか、おかしくないのかはっきり言ってくれ!」


 必死な紅蓮にまた笑いがこみ上げてきた。嬉しそうな笑顔を向けて、花凛は言った。


「あんま考えないほうがいいよ、紅蓮ちゃん」


 答えになってない答えと馴れ馴れしい呼び方に、複雑な表情を見せながら紅蓮は後を追った。

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