転校生と学園変

第10話不出来な学校 その1

 青く澄んだ空の下、肌を優しく撫でる風が頼人たちの間を流れていく。学校の屋上で放課後を過ごす頼人、花凛、杏樹。誰も利用しないのをいい事に、杏樹はガーデンテーブルを持ち込み、我が家の庭のように寛いでいた。


「殺風景ではありますが、何にも憚らずにいただくお紅茶はとても美味しいですわ」


 陶器の高級そうなティーセットをテーブルの上に並べ、満足そうに紅茶を啜る。それら一式をどうやって持ってきたのか謎ではあるものの、頼人も花凛も気にしなかった。


「昨日の今日で、よくもまあ呑気に戻れるものね。そういう図太さ、見習いたいわ」


 花凛はフェンスに寄りかかりながら、杏樹の紅茶を楽しむ様子を見ていた。


「あら、終わったことを気にしていては、一流のレディにはなれませんことよ。おほほほ」


「はあ、ホント絶好調ね。ていうか、終わったことって言ったけど、割と解決してないからね」


「そうでしたか? 大田島さんの悪意は消えたのですから、それで万々歳のはずですけれど」


「ああそうだね。確かに大田島の悪意を消すことに成功したね。でも、その大田島は結局来てないじゃん」


「それが問題あるのですか?」


「ありまくりよ。あいつが正気に戻ったのに不登校のままだったら、助けた意味がないでしょ」


「悪意のない彼が、この街に悪影響を及ぼすことはないでしょう。ですから、もう放っておいても大丈夫ではなくて?」


 あっけらかんとしている杏樹に、花凛は頭を抱えた。


「あんたは思いやりってものを持った方がいいよ。とにかくね、来ないことが問題なの。ねえ頼人、大田島と約束したんでしょ? 今日学校来るって」


 花凛は視線を杏樹から、その先で寝そべって携帯電話を見ている頼人に移した。しかし、頼人は携帯電話に意識を集中していて、花凛の声が届いていないようだった。花凛は口をひん曲げて、早足で頼人に近付いた。


「頼人、聞こえてる?」


「ん、どうかしたか?」


 頼人は仁王立ちして見下ろしている花凛に目もくれず、携帯をいじり続ける。


「あたしたちの話、聞いてなかったみたいね。大田島が来てないけど、どうしたのって話よ!」


 言葉尻を強めて花凛は言った。少し驚いた頼人は携帯から目を離し、花凛を見上げた。


「あ、ああそのことか。そういえば言ってなかったな。紅蓮はチームの後始末があるから、今日は来れなくなったんだ」


「ちょっと待って……大田島とどこかで会ったの? いつの間に?」


 呼び方が変わったことも気になったが、その情報について言及する方が先だった。


「今朝、学校来る時に会ったんだ。それで、来れないって話をして、あと色々と話して、連絡先も教えてもらった」


「なんでそれを言わずにいたのよ!」


 もどかしさが語調に表れ、花凛は酷い目付きで頼人を睨んだ。


「悪い悪い、てっきり言ったものだと思ってた」


「そういう大事なことをね、共有しようっていう気持ちが足りないのよ」


「まあまあ、落ち着いてくださいまし。怒ってばかりだと、折角のそれなりのお顔が台無しになりますわ」


 癪に障る言い方だったが、窘められて牙を収めた。口をまごつかせ、怒りを見せないように苦心しながら、花凛は小さな声で言う。


「……次からはあったことを忘れずに、全部伝えなさいよ」


「ああ、分かった。じゃあ早速で悪いんだけど……」


 頼人は少し溜めてから、半笑いで言った。


「さっきから、パンツ見えてるぞ」


 校則に反した短い丈も相俟って、スカートはそよ風でひらりひらりと踊ってしまい、役目を放棄していた。頼人の位置からは特に顕著で、意識せずとも目に入っていたのだ。


 頼人の指摘は花凛を花も恥じらう乙女に変貌させることはなかった。寧ろ、封印されていた鬼を叩き起こす事態となった。


「こんの……バカヤロー!」


 怒声を響き渡らせながら、頼人に飛び乗った。体の自由を封じると、頼人の頬を力の限りつねり、捻じり、引っ張った。


「バカバカバカバカ、大バカが!」


 地味ではあるが、その威力は中々のもので、頼人は懇願する言葉で出ず、涙を溜めた瞳と悲痛な鳴き声で訴えることしか出来なかった。


「花凛さん、乱暴はいけませんわ!」


 杏樹は持っていたティーカップを雑にソーサーに置き、立ち上がった。花凛は鬼の形相を保ったまま、杏樹の方に顔を向けた。


「こっちに来ないで。あんたも見られるわよ」


「えっ! そ、それは……」


 杏樹は固まり、困惑した表情を浮かべた。その戸惑いは杏樹の中の倫理観、ひいては杏樹が持つ唯一とも呼べる道徳心がもたらす葛藤であることを、花凛にさえ容易く想像せしめた。


 苦悩する杏樹を横目に、花凛は制裁を続行していた。緩めることなく頬を弄び、頼人の顔はだんだん変形していった。抵抗すればいいものを、暴れることなく受け入れているように見えたが、これは一種のプロレスなのである。確かに花凛は怒ってはいるが、軽蔑したり、嫌悪を抱いたりした訳ではない。あくまで、じゃれ合いの延長線上に設置された怒りに触れられただけであり、それは感情帯から出張してきた怒りの一部でしかなかった。


 頼人も口には出さないが、そのことを承知の上で制裁に付き合っていた。恨みもしなければ、嫌になることもない。お互いが信頼しているからこそ、余計な感情を出さずに、突発的な遊戯に走れるのだ。


 充分に遊び、怒りが治まった花凛は口の端に笑みを浮かべると、不意に頼人の頬から手を離した。そして、一応スカートを押さえながら立ち上がって、フェンスに戻っていった。


 杏樹は花凛が横切るとやっと我に返ったのか、大の字のまま動かない頼人の下に駆けつけて、腫れている頬を労った。


「こんなに腫れてしまって……おいたわしや」


 杏樹の嘆きに対して、頼人は言葉を掛けようとしていたが、上手く口が動かずに伝えることが出来ないようだった。


 花凛はもう頼人には目もくれずに、フェンス越しに街を見下ろしていた。


 学校の傍を流れる川に沿って、舗装された道路が続いている。この道は車があまり通らない代わりに、登下校で利用する学生が多い。花凛と頼人も少し前までは使っていた道だが、神社に寄るようになってからはほとんど使わなくなってしまっていた。


 下校する学生がちらちら見えた。他の学校の制服を着た学生もいて、特に花凛の目を奪ったのはブラウンの制服を着た女子高生2人組だった。その2人は遠目から見ても分かるくらいに、大げさなリアクションを取って、楽しそうな会話を交わしながらのろのろ歩いていた。


 何の事はない、普通の下校風景のようだが、花凛は彼女たちから目を離せなかった。彼女たちを見ていると胸の奥から言いようのない感覚が迫ってきた。羨ましく思ったり、微笑ましく感じたりした訳ではない。もっと別の何かなのだが、答えを見出すことは出来なかった。


 途方もなく彼女たちをぼんやり見ていると、視界の端に映る川の水面に、何かが蠢いているのに気付いた。小さな波紋を何度も発生させては、薄汚い円形の物体が浮き沈みを繰り返していた。その物体は女子高生2人に寄り添うように移動していたが、彼女たちが川沿いの道を逸れると、水中に消えて姿をくらました。しかし、別の女子高生が通ってきた途端に、また円形の物体は姿を現して、陰ながらにつきまとっていた。


 嫌な予感を感じた花凛は、まだ看護されている頼人と杏樹に声をかけながら扉に向かった。


「2人とも、仕事の時間だよ。一緒に来て」


「お仕事? また悪意が現れたんですの? それとも妖怪? どちらにせよ、長永くんはこんな状態ですから、連れて行くのは無理ですわ。それにお婆様が帰ってくるまで休養を頂いたのですから、放っておいても……」


「行こう。何処に現れたんだ?」


 腫れが引いて喋れるようになった頼人は立ち上がって言った。


「あたしに付いて来れば分かる。ほら、杏樹も早く!」


 花凛はそう言って、先に降りていった。頼人もその後を追っていき、杏樹だけがその場に取り残された。


「あっ、お待ちくださいまし! 折角のブレイクタイムですのに……」


 杏樹はテーブルの上のティーセットに目を向けた。ティーカップから昇る湯気が風に靡いて、芳しい香りを運んできた。




 怪しい物体が漂流していた現場に着くと、花凛は目を皿にして川を見回した。道路と川は緩やかな堤防を挟んでいて、下ればすぐに川岸に近づけたが、目標を探すには上からの方が効率的だった。


「花凛さん、長永くーん!」


 杏樹が追い付いてきたようだ。小走りで近付いてきた杏樹を余所に、花凛はじっと水面を見つめていた。


「ふう、場所も教えずに行ってしまうなんて酷いではありませんか。探すのに苦労しましたわ。それで、お仕事の方はどうなったんですの?」


「この川にいるらしいんだけど、まだ何も見つかってないんだ。花凛は、絶対この辺りにいるって言ってるけど……」


「そうでしたか。川の中にいるということは妖怪なんでしょうか。ですが、こんな汚れた川に潜んでいるなんて、妖怪も物好きですわね」


 頼人と杏樹の声が聞こえているが、花凛は反応を示さず、川を見ているばかりだ。


 杏樹の言う通り、この川はお世辞にも清流とは言いがたく、汚泥によって茶色く濁った水が流れ続けているために中を窺い知ることは不可能だった。


 それでも花凛は諦めず、些細な変化も見逃すまいと神経を目に集中させて川を見続けていた。


「……全く気配を感じられませんが、本当にいるんですの? 見間違いだったのではありませんか? こんな川ならヘンテコな物が流れていてもおかしくないでしょうし、それを妖怪だと早合点してしまったとか。花凛さんならありえそうな話ですわ」


「あー、確かに花凛は昔から勘違いとか多かったな。幼稚園の時に俺が転んで怪我したのを、上級生たちが苛めたと思って喧嘩しにいってたなあ」


 花凛の意識が後方で喋る2人に移った。機敏に振り返り、即座に反論を示した。


「めちゃくちゃ昔の話を今更掘り返さないでよね。ていうか、あれは頼人がわんわん泣いてばっかで事情を言わなかったのがいけないのよ。それですぐ近くでバカ笑いしてる奴らがいれば、疑うのも当然じゃない。勘違いを起こさせた頼人にも、あいつらにも問題はあるんだから」


「ま、まあ俺にも非があったかもしれないけど、速攻で暴力に走った花凛にも充分問題が……」


「何言ってんのよ。そもそもあれは頼人がコケなければ……」


 2人が熱量の差が激しい言い争いに夢中になっている間に、杏樹は川の水面に泥で汚れた白い円形の物体が現れたことに気付いた。


「お2人とも、川を見てくださいまし。何か出てきましたわ!」


 それを聞くやいなや、花凛は口論を中断し、川に向き直った。そして白い物体を視認した瞬間に、手に持って準備していた源石を思わず投げつけてしまった。


 石は命中したようで、鈍い音がした後、円形の物体は沈んで水泡がいくつも上がってきた。泡が次第に収まると、今度は水しぶきをあげながら円形の物体の本体が現れた。


「ふふっ、痛いなあ。お嬢さん、いきなり物を投げつけるのはどうかと思いますよ、ふふふっ」


 やや早口に喋るそれは、嫌に粘っこい視線を花凛に向けた。骨ばった緑色の皮膚を持つ体と、背中には体型に見合わない逞しい甲羅。そして、水面から見えていた円形の物体、いわゆる皿が頭の上に被さっている。どこからどう見ても河童だ。


「へえ、河童か。伝説上の生き物も本当にいるんだな」


 頼人は興味津々に河童を見た。一方、花凛と杏樹は河童に対して、言い表せない忌避感を抱いていた。


 河童は花凛と杏樹を交互に見ては、気味の悪い笑みを浮かべていた。個人的な感情はとにかく、妖怪を窘めに来たのだから、花凛はそれを実行した。


「ねえ、あんたさっきから何してたの? 通りがかる人の横にぴったり貼り付いてたけど、悪さを企んでたんでしょ」


「ふっふふ、悪さですか。僕、人間大好きですから、変なことはしませんよ、ふふふっ」


 河童は会話をしているというのに、花凛と目が合っていなかった。


「変なことをしなくても、怖がらせようってのもダメなの。大人しく仲間の下に帰りなさいよ」


「嫌だなあ、僕は怖がらせることが目的じゃないんですよ。僕はただ、ふふっ、眺めていたいだけなんです、ふふふっ」


 花凛には河童の言っていることが理解できなかった。埒が明かないので、川岸に近付こうと歩みだした時、杏樹が花凛の手を取って止めた。


「な、何、どうしたの?」


「わたくし、あれの狙いが分かりました。下がった方が身のためです」


 杏樹は空いている片手でスカートを押さえていた。屈辱に満ちた表情をする杏樹を見て、花凛は自ずと疑問が解けた。


「こ、こいつ、下から覗きをしてたの?」


 川から堤防までは充分な高低差があった。それを利用して、河童は花凛たちのスカートの中を覗いていたのだ。屋上から見ていた時、河童が女子高生につきまとっていたのもそれが目的なのだろう。


「信じらんない! こんな変態じみたことをずっとしてたわけ? サイッテーよ! このエロガッパ!」


 罵声を浴びせつつ、花凛は後退していった。河童は顔色を変えることなく、猥然とした態度をしていた。


 もはや制裁を与えて然るべきだと花凛は判断していたが、どうしても接近はしたくなかった。先程頼人に見られたために、妙に意識してしまった。そのため、これ以上スカートの中を見られるのは耐えられなかったし、河童が抵抗する力を持っていなくても、何かいやらしいことをされる気がしてならなかった。しかし、遠距離から攻撃をしようにも、花凛は理を抑えることが出来ないので、この事態を一般人に見られてしまう恐れがあった。自分の手で罰を与えられないのは悔しかったが、頼人と杏樹に任せるしかなかった。


「あたし、あいつに近づきたくないわ。悪いけど、2人でなんとかしてくれない?」


「そんな! わたくしも嫌ですわ」


「杏樹は遠くからちまちまやればいいじゃん。あたしはそういうの出来ないからさ、頼むよ」


「いいえ、出来ません。わたくしの理があれに触れることすら嫌ですわ。汚らわしい!」


 激しい嫌悪感を示す杏樹を、説得することは出来なかった。自分にもその気持ち分かるからだ。


「うーん、それじゃ頼人クンに頑張ってもらうか。1人でも、やれる?」


「強そうじゃないし、大丈夫だとは思う。でも……」


 頼人は口ごもらせながら言った。


「石を持ってくるの忘れてさ。貸してくれないか?」


 よく見たら、頼人は完全に手ぶらだった。花凛に急に連れ出せれたため、ストーンホルダーを装着せずに来てしまったのだ。


 本来なら説教の1つでもしてやるのだが、自分が情けない理由で戦えない以上、咎められるはずもなかった。小さな溜息を吐いた後、自分のストーンホルダーに目を向けた。


 昨日の戦いでかなり消費したため、和吉が少しくれたとはいえ、あまり数が残っていなかった。出来れば、はな婆が帰ってくるまでは取っておきたいので、杏樹に余っていないか確認することにした。


「杏樹、石余ってない? あたしあんまり残ってなくてさ」


「あら、申し訳ありません。今日はお休みの日だと思っていたので、持ってきていないんですの」


「はあ、そう……仕方ないか。んじゃ、これと、これあげるから頑張って」


 土の源石は持っていたかったので、あまり使わないであろう風と水の源石を渡した。


「ありがとう。じゃあ行ってくる」


 手短に礼を言って、頼人は下りていった。


「あの、河童さん。あなたの趣味趣向を否定はしませんが、人を不快な気持ちにさせるようなことはしちゃいけませんよ」


 川岸に着くと、開口一番に説教を始めた。勿論、そんなものは河童には無意味だった。


「嫌だなあ。僕は気付かれないようにして、1人で楽しんでいるんですよ。妖怪らしく、人前に姿を見せずに、こっそりとね。僕に気付かなかったら、誰も悲しむことはない。僕が一方的に楽園を垣間見る分には、何も問題はないはすだ。違うかい?」


「……きっと痴漢とか盗撮する人はこんなふうな思考なんだろうな。あの、改めるつもりがないなら、ちょっと懲らしめなきゃいけないんで覚悟してください」


 頼人は言い終わると、返事を待たずに水弾を発射した。


 避ける暇はなかったので、河童に命中したが、全く意に介していないようだ。しかし、気持ち悪い笑みは顔から消えて、顔の筋肉が痙攣してきた。


「実力行使ですか、良いでしょう。ならば僕も抵抗するまでです」


 河童は口から唾液を飛ばしてきた。顔に目掛けて飛んでくる唾液を、慌てて腕で防いだ。唾液は粘性が高いようで、腕に当たると滴り落ちることなく、べったりと纏わりついた。


 頼人は不気味がって、その液体を払おうとした。しかし触れた瞬間、液体が糊のように密着し、手が腕から離れなくなってしまった。


 妙な生暖かさを手に感じて、鳥肌が立ってきた。両腕の自由を奪われたと同時に、精神的な攻撃に襲われた頼人は河童から気が逸れていた。その機会を逃さなかった河童はすかさず追撃をしてくるのかと思いきや、水中に潜って影も形もなく消えてしまった。


 剥がすことに気を取られていた頼人は潜水する音を聞くと、音の先に目を向けたが既に遅かった。川の何処を見ても、河童の姿はなかった。


「しまった。逃げられたか」


 事態に気付いた花凛と杏樹も、急いで川岸に下りてきた。


「あのヤロー、戦うつもりはさらさらなかったのね。人のもん見るだけ見て……許せない!」


「本当に腹立たしいですが、今は長永くんのこれをなんとかしなければいけませんわ。こんな汚物を浴びせられて、可哀想に……」


 花凛と杏樹も手伝って引き剥がそうとするが、いくら引っ張っても制服と手の皮膚が悲鳴を上げるだけだった。


 力づくで剥がそうと試み、杏樹が頼人の体を支えて、花凛が手を引っ張った。必死になっている3人は再び顔を出した、河童の存在に気付かなかった。


 無防備な花凛と杏樹を足下から舐めるように見ていた河童は、その至福の景観に思わず汚い笑いを漏らしてしまった。


「あっ、まだいたのか。2人とも、気を付けて!」


 真っ先に気付いた頼人は花凛と杏樹に注意を促した。花凛はスカートをすぐさま押さえて、杏樹は頼人を盾にした。


「ふっふふふ、楽園を網膜に焼き付けてから撤退しようと思いましてね。いやはや、堪能させていただきました。では、さらば……」


 河童は視線を残したまま静かに沈んでいく。やがて頭の皿だけが水面に残り、挑発するかのように悠々と遡上していった。


 見え見えの罠だと分かっていたが、あの河童を野放しにするわけにはいかなかった。花凛は苦悩の末、羞恥心を捨て去り、後を追おうとした。


 花凛が駆け出そうとした時、河童に異変が起きた。


 何処からか人差し指ほどの大きさをした金属の棒が飛んできて、河童の皿の中心に音もなく突き刺さった。河童は悲鳴を上げることもなく、水死体のように浮き上がってきた。そして流れに任せて、ゆっくりと下流の方へ流されていった。


「へ? 何が起きたの?」


 花凛は呆気にとられて、河童を見るだけだった。河童の皿に刺さったままの金属棒の頂点には平たく膨れ上がった部分が見て取れ、最頂点には何かを通す穴が付いていた。


「頼人、あの光の力ってやつでも使ったの?」


「いや、俺は何もしてない」


 頼人は自分の力の正体がまだ掴めていなくとも、その力が体に満ちる感覚は覚えていた。無意識に、いつの間にか発現するような類ではないと断定できた。


「あっ、あれを見てくださいまし。誰かいますわ」


 杏樹が指差した反対側の堤防に、1人の男がいた。その男は遠くからでも分かるほど、目付きが悪く、整っていない髪は四方に乱れて遊んでいた。男は此方をじっと睨んでいたが、3人が気付いたことを悟ると、慌てる様子もなく歩いて去っていった。


「あっ、どっか行っちゃう。一般人だったら、不味くないか?」


「そうとは思えません。長永くんの理や妖怪を見ていたとして、あの落ち着き様は不自然ですわ」


「じゃあ、関係者ってわけね。もしかして、河童をやっつけたのはあいつ?」


「おそらくは。ですが、見たことのない理ですわ。あれは……鍵、なのでしょうか」


 河童の頭に再び注目が集まった。少し大きめの鍵に見えるそれは、刺さってはいるものの、外傷を与えているようではなかった。しかし、河童はこうして活動を停止しているため、何らかのダメージはあるのだろう。


 流れ行く河童を見て、頼人は唐突に問う。


「あの河童、放っておいてもいいのか?」


 至極当然な問いに自分たちの務めを思い出された。


「あー、まあいいんじゃない? あんなの流れてても、薬局のマスコットにしか見えないでしょ」


「それにしては、下品な見た目ではありますけれど。」


 河童の生死はともかく、追いかけて回収する気は花凛と杏樹にはなかった。頼人も2人に同調、というよりも同情する形で河童を見捨てることにした。憐憫の情を抱かれることなく、河童は流されていった。


 花凛は河童が見えなくなると、向こう岸に顔を向けた。あの男は既にいなくなっていたが、花凛の興味は尽きなかった。自分たちのように、理を使って妖怪や悪意と戦っている者なのか、または大田島紅蓮のように、悪意によって行動している者なのか。そして、河童を一撃で仕留めた力の正体は何なのか。花凛の中に芽生えた疑問は意外にも早く、翌日に解けることとなる。

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