明治作家譚

夢を見ていた

第1話


献辞

先生に



始まりは一本の電報からだった。

玄関先から、父の響くような怒鳴り声が聞こえた。


「どうして! 話が違うじゃないか!」


怒りに震える声だった。よく聞くと、悲痛な思いのこもった嘆願でもあった。どうやら電話口の相手と何やら揉めているようであった。ぼくは、そっと足音を忍ばせて、父の方へと近づいていった。

向こうから聞こえる父の会話を聞いていると、どうやら随分前から決まっていた約束が急遽白紙に返ったようだった。父は新聞社のいくつかに自分の小説を寄稿している小説家だった。

あまり名の知れた作家ではなかったが、それでも文字書きとして、じゅうぶん生計を立てられていたのだ。

だが、そんな中、それ以上に名の知れた作家が、父の連載枠を奪ったらしい。そしてそれは、父がようやく契約に漕ぎ着けたという、大手の新聞社とのものだった。


《これから、有名作家になって、文壇のてっぺんを取ってやるからな――》


何度も何度も、そう言って息巻いていた父を思い出すと、ぼくはどうしていいのか分からなくなった。

父はいつも以上に時間と熱意をかけ、締め切りのぎりぎりまで書き直しをして、ようやく今日書き上げたのだ。それが、すべて水の泡に終わったのだ。


「いったい誰が、私の枠を奪ったと言うのです、」

努めて冷静な声で、父は尋ねた。しばらくの間があって、父の拳が壁を殴った。

「――また奴ですか?」

それから一言二言話して、がちゃんと受話器が落とされた。父の足音がこちらの方へ向かってくる。

僕は慌ててその場から離れようとした。しかし、遅かった。

覗き見する僕を見つけた父は、たちまち双眸を吊り上げて僕を掴み上げ、噛みつくように声を荒げた。

「お前はこんなところで何をしているんだ、全く、本当に、無能で無知で役立たずの、――莫迦息子! 俺の癇にさわることしかしない、いつだって本当に、お前は、お前は……」

感情的に上げられた手は、ぷるぷると宙に震え、勢いのままに下ろされるかと思いきや、何かがそれを咎めたのだろう、やがて、脱力した。

床におろされた僕は、ただ黙って父を見つめた。父の言葉の先を探していた。

「ぼくはどうすればいいですか」

僕の言葉に父の目は見開いた。何かを怒鳴り散らそうとして、途中で妙案を思いついたように表情を変え、一言。

「盗んで来い」

父はとても自然に笑った。

「奴の――、憎い、憎い憎い《永良川嘉仙(ながらがわかせん)》の原稿を、盗んで来い。今回のはもう間に合わないだろうから、次だ、次の奴の原稿を、お前が盗んで来い。もちろん未発表の原稿だぞ? そうしたら、許してやる」

「では、いまからその人の家にいって盗んでまいります」

「そんなもの、自分で考えろ……何なら、あいつの家の書生でもなって居候させてもらえ、そしてできるだけ親切にして、油断させたところを、お前が原稿ごと盗めば良いんだ。もちろん未発表のものじゃないと駄目だぞ……そして俺が奴の作品を俺の名前で発表すれば――俺もまた有名作家になれる。発表してしまえばこっちのもんだ、後から喚こうとも意味がないだろうよ」

父は、「ははっ」と乾いた笑い声を漏らして、自分の書斎へずこずこと引っ込んでしまった。

僕もまた、自分の部屋へと戻って準備を始めた。時刻は午前九時、今から行けば間に合うだろう。――。



桜がすっかり咲き落ち、花よりも葉の緑が目立ち始めた初夏の頃。僕は生まれ育った家を出て、とある人の住まう家へと向かった。

どんな人なのか、どこに住む人なのか、何をしている人なのか、優しい人なのか、怖い人なのかも知らず、ただ、父に言われたからを理由に、その人のもとへと馬車を走らせた。

車夫は地理に明るい人ばかりだから、訪ねたい人の名前を言うと、すぐにその場所まで連れて行ってくれた。想像していた以上に有名な人なのかもしれない。

馬車が止まり、外へ出ると、ある家の前にあった。外見はえらく古びて見えたけれど、歴史の深そうな、しっかりした門構えの家だった。

僕は、手荷物を持ち直し、門を叩いた。

「ごめんください」

何度か呼ぶと、奥の方から「はあい」と、品の良さそうな女性の声が聞こえてきた。僕は少し姿勢を正して待った。ガラガラと戸が開いて、

「お待たせいたしました。嘉仙先生のお客さまでいらっしゃいますか?」

僕がおずおと頷くと、女性は優しく微笑んで、

「先生は、只今、留守にしておりますの。宜しかったら、お上りになりませんこと? 何時いつ帰ると承っているわけではございませんが、そのうちひょっこと帰って来るやもしれません。ちょうど、美味しい洋菓子を頂いたところですの。一人で頂くには気が引けて。如何ですか? 勿論、温かいお茶もお入れ致しますわ」

おっとりとした口調でありながら、流れるような誘い文句に、僕は思わずたじろいだが、女性は――おそらく《例の先生》の女中なのだろう、それにしては妙に押しの強い女性だが――、さらりと僕の後ろにまわって、「さあさ、さあさ、お上りくださって」と促した。僕はその柔らかな物腰で話される力強い誘い文句に背中を押されるようにして、敷居を跨いだ。



客人を招くための部屋に通されると、女中らしき女性は僕に寛いでいるよう言ってから、すぐさま台所の方へと引っ込んでいった。僕は落ちつかない気持ちのままに、硬くなって座っていた。僕は落着きなく辺りを見渡した。つん、と鼻の奥に古い木の匂いがした。どうやら、ここは先生が編集の者や作家と話し合うような場であるらしかった。机の木目の間にインクのような黒いかたまりが染み込んでおり、他にもいくつか線が入っている。四隅に寄せられてはいたが、頻繁に取り出しているのだろう紙の束が床を埋め尽くしかねなかった。僕は、そちらを一瞥して、目を閉ざし、そっと遠くの方へ耳を澄ました。女中の微かな鼻歌が聞こえてくる。きっと、まだ、ここへは戻って来ないだろう。本当は先生の書斎や仕事部屋に通して欲しかったところだが、これはこれで一つの機会だ。僕は息をひそめて、そろそろと立ち上がり、辺りを見渡した。近くに人の気配はしない。僕は覆い被さるように高く積まれた紙束を引っ張り出した。殴り書き、走り書き、読解不能な線と点、色々なものがあった。僕は誰が誰の字か分からないながらも、必死にその人の手跡を探した。それでも分からないから、ともかく小説のように頁が繋がっているものを探そうと思った。何でもいい、未発表の原稿を盗めば良いのだから。自分の使命はそれだけ。頁数が振られているものがないか、特に紙の端は注意してよく見た。しかし、どれもこれもバラバラな落葉のように意味の無い紙切れで、父の望んでいるようなものは欠片も存在しなかった。僕は息を吐いて顔を上げた。近くで、軽やかな足音が聞こえてきた。

「お待たせ致しました。――あら、先生また散らかしなすったの」

女性は足元にあった紙を一枚拾い上げて、どこか哀れむように瞳を細めた。

「お客様は御覧になりました? ……ええ、やはりまだ――お書きにはなれないのですね」

僕は怪訝に思って、思わず声を上げた。

「書けない? 一体どういう意味です」

女性は瞳を伏せて僕の方へと向き直り、顔を上げたと思ったら、悲しげに微笑んで、

「先生は、前回の原稿を発表なすって以降、小説をお書きになっておりません。いえ、お書きにはなるんですけれど、ほら、御覧ください、まともに原稿用紙一枚も仕上げられないのです。西洋語では《すらんぷ(slump)》と仰るのですか? ――速筆家でも有名でしたが、もう見る影もございませんね。煮詰まるにしても、いつもの先生とは深刻さが違います。先生自身も自棄になっているように思います。朝帰りも今ではかえって自然なのです。お酔いになってない先生はここ久しく見ておりません」

「そ、んな……」

「――あら、わたくしお喋りが過ぎたようですわ。お待ちかねでございましたねお客様、さあさ、早く召し上がりになって」

僕は促されるままに西洋の菓子を口に運んだが、ただ甘ったるいだけであまり味を感じられなかった。僕の頭の中は次にどうすれば良いか分からなくなってしまっていた。誰かの指示なしに、その場の状況に応じて自らの動きを変えることは苦手だった。例の先生はいつぞやの寄稿以降何も書き上げていないとすれば、ここに未発表原稿などありはしない。塵芥のような手すさびを持って帰ったところで父が満足するとは思えない。僕は出された茶碗を握り、しばらく黙っていた。このままでは帰られないだろう。原稿を手にするまでは、帰られない。

「お客様は、先生のフアンかしら?」

「えっ、と……」

「でしたら悲しいですわね。続きが読めないというのは」

頬に手を当て、至極残念そうに溜息をつく姿に気付けば見とれていた。感情豊かなひとだ。さっきまで乙女らしく嬉々として菓子を頬張っていたのに、今は気落ちして、淋しそうだ。

この沈黙に耐えられなくて、僕は窺うように尋ねた。

「……先生は、まだ、帰られないのですか」

「じきにお帰りになるでしょう、もう日も暮れる頃ですから」

「――近くにいられるのですか」

「いつもの居酒屋さんでお飲みになっているでしょう」

静かに立ち上がるつもりが、かたん、と机を揺らしてしまった。これ以上ここにいるのは何だか苦しかった。僕はひくつく口元を抑えながら、それとなく好意のにじんだ表情を作った。

「ありがとうございます。僕、先生を探してみます」

「遠慮なさらなくって好いのですよ、ここでお待ちになったらーー」

「いえ、行きます。失礼しました」

振り切るように戸を開けて、玄関へと出た。長居をし過ぎたのだ。目的を忘れてしまいそうになる。僕はこの家に盗みに入ったのだ。泥棒だ。泥棒が、家人にほだされてどうする。犯罪者なのだ。そんな思いが途端に胸のうちから生じ始めた。暗い黒い渦のような塊が、心の中にことんと居座った。

「本当に宜しいの?」

優しく問われ、僕はつい足を止めた。振り返ると、変わらず女性が微笑んでいた。

「入れ違いになっては困りますわ。お名前をお聞きしても?」

尋ねられてもやり過ごせば良い。別に本名でなくても良いのだ。なのに。

「――千早千歳(ちはやちとせ)」

口が勝手に動いていた。

「千早、千歳さま。美しい名ですね」

「あの、貴女のお名前は、」

「あら。あら。申し遅れました。わたくし、葉名(はな)と申します。嘉仙先生の身の回りのお世話しております。何なりとお呼びつけくださいませ、千歳さま」

名を呼ばれ、名を呼び、そうして初めて関係が生まれる。

なんて眩しく笑うひとなのだろうと思った。今思えば僕は、この方に自分の名を呼んでもらいたくて仕方なかったのかもしれない。父さえ呼ばない枯れた名前を。

そんな豊かな人が仕える人は、一体どんなだろう。

――永良川嘉仙。われらが大日本帝国の文壇に突如現れ、発表された作品はどれもかれもが名高く、批評家たちも口を揃えて最高の道楽と評するほどの大作家。


会ってみたいと思った。素直に、会ってみたいと。

瞬間、ごとり、と、はらわたが重みを持った。


違う。違う。遊びでは、ないのだ。


盗むために会うのだ。僕は目を閉じた。裏切るために会うのだ。

歩き出す。父のため。目的のため。いつしか肝の冷たさは、慣れて、その温度を感じなくなってしまっていた。



 ともあれ僕は、葉名さんから教えてもらった、先生行きつけの酒場に向かうことにした。その酒場はここからすぐの距離らしく、一本道で川の流れに沿って歩けばまず迷わないらしい。僕は言われた通りに、さらさらと流れる川のせせらぎに耳を傾けながら歩いて行った。初夏ではあるけれど、やはり陽が落ちると辺りは途端に暗くなる。白銀の月が夜の蒼に映えて美しい。柳の枝が生暖かい風に吹かれて揺れている。僕は初めて見る下町の道に、仰いで見たり、俯いて見たりとせわしなく顔を動かした。

 どれほど行ったくらいであろうか。向こうの方から、何やら空気がこすれるような音が聞こえる。誰か人間の声がする。どうにも節がついているので、どうやら酔っ払いが鼻歌でも歌っているようだ。僕はわずかに戸惑ったが、そのまま足を進めた。声はだんだんはっきり聞こえてくるようになった。


〽恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす


 曲がり角、人影が月明かりの下に現れた。思っていたよりも、それは小さな影であった。ふらふらと千鳥足で動く男の姿に、僕は自分の予感が外れていることを心から祈った。

 酔っ払いの男は、僕の存在に気付くと、歯を剥きだしにしてニタリと笑った。

「どうした少年、一人かい。お連れの方はいないのかい」

「……はあ」

「だめだよ、こんな夜更けに一人で出歩いちゃあ」

 ニタニタニタニタ。薄く開けられた瞳の奥に、人を小ばかにする道化の色が見え隠れしていた。からかわれたことに気付いた僕は、両の耳まで火照るのを感じた。吃りながらも返した言葉を、男は興味なさげに手を振ってひとつ、しゃっくりをこぼした。

「どうせ友も女も所詮は他人さ。一人の方がどれほど気楽か」

「あの、」

「君もあまり長居しない方が好い。変なのに襲われると危ないから。じゃあ僕はこのへんで」

「あ、あの! ちょっと待って、ください、!」

 目の前を過ぎて去って行こうとする背中を、僕は必死に呼び止めた。呼び止めたが、酔っ払った耳には届かないのか、すたすたと、歩みを止めることなく行ってしまう。僕は慌てて追いかけて、その肩を叩いて、声を張って呼んでみたが反応がない。やむを得ず、僕は両足を踏ん張って、男の右腕を握り込もうと手をかけたその時。

「触るな!」

 男は勢いよく右手を庇った。殺意とまではいかないが、敵意のこもった強い目だった。

「ご、……御免なさい」

「なんだ、まだ用か」

「お尋ねしたいことがあるんです」

 僕は一歩離れて、男の顔を見つめた。男は怪訝そうにこちらを見下げた。

「あなたが、永良川嘉仙、――ですか」

「そうだよ」

 見れば見るほど若い男だった。飄々としているが、それでも何か芯の強いものを感じさせて、世慣れていて、堂々とした振る舞いをする。顔も名前も知らない少年に自分の名前を問われても、眉ひとつ動かさず応対する姿は大物を感じさせたが、それでもやはり浮ついた、過信のようなものが表情の随所に表れていた。

「僕のフアン?」

「あ、いえ、ただ、あの、……先生は、今は何も書かれていないのですか」

「ううん、今のところはね」

 顎をさすりながら、遠くを見据え、男は鷹揚に頷いた。

「降りて来るのを待ってるんだよ」

「小説のネタが、ですか」

「そう。命を懸けても惜しくないくらいのね」

 男はひくりと口角を上げた。押しつぶされたしゃっくりが、わずかに空気をふるわせた。そうしてわざとらしく大きな笑い声をあげた。僕はここで引くわけにもいかず、言葉を続けた。

「僕は貴方に小説を書いてもらいたいのです」

「そりゃもちろん。その時が来れば書くとも」

「その時はいつ来ますか」

 矢継ぎ早の質問にも、男は泰然とした態度で答えた。

「分かれば苦労ないね」

「できるだけ早く、僕は貴方の小説を、ええ、その、よ、読みたいんです!」

「……君、熱烈だねえ」

「いつになったら出来ますか、僕は、どうしても、貴方の小説を読まなくてはならないのです」

 男は袖の中に両腕を入れて、何やらうんうん唸っていたが、やがて何かを思いついたように表情を輝かせた。

「それなら君、僕の家に住まうと良い」

「えっ」

「フアンには不自由しない大作家の僕としても、君のような熱心なフアンを前に何も感じないわけではないのだ。うん。どうにも君は聡い顔をしている。足も速そうだし、雑用も得意そうだし、そして何より従順そうだ。ちょうど僕専用の小間使いが欲しいと思っていたところだったんだ。そうと決まればさっそく我が家へ案内しよう。君、親御さんは? どこの学校に行っている? 書生として君を迎えようと思うのだが、何か不自由はあるかな?」

 願ったり叶ったりだ。僕は思わず顔をほころばせた。これで僕は、彼の作品にもっとも近い場所にいられる。それであとは、人目がなくなった頃に、そっと盗み出せば良い。そうすれば、僕は役目を果たしに父のもとへ帰ることができる。

「運よく行けば、永良川嘉仙の出来立て原稿が読めるかもしれないよ、君」

「はい、ぜひ」

「そうだ君、名前は?」

「千早千歳と申します」

「ふむ、妙な名だな」

 そうして俯きながら笑って、「しかし好い名だ」

「じゃあ、先生のことは先生と、お呼びしてもいいですか」

「もう呼んでいるじゃないか」

 先生はゆっくりと歩き出した。僕は少し離れて、その後ろ姿を追いかけた。

「千歳、君はこれから毎日、僕が起き出す前に僕の女中と一緒に朝ご飯を作り、新聞を取って来て、手紙を出し、煙草を買ってきて、準備しておくんだよ。そうして僕が起き出して、君に学校の無いときは、ぜひ君は僕と一緒に来てもらわなくちゃいけないね。編集部に顔を出して、僕の小間使いとして見せびらかす必要があるからねえ。そうして、いつでもどこでも僕のお願いは聞いてくれないと困る。それだけのものを僕は君に娯楽として提供するわけだから。君もそれなりの働きがなくては見られない代物なのさ」

 僕が素直に頷くと、先生は「出来た子だ」と僕の頭を乱雑に撫でた。左手だった。



 居候の件は驚くほど事が早く進んでいった。父からの電報には、「本当に行ったのか」といった内容の言葉が打たれていたが、僕が返事をするとすぐに、僕の学校の手続きを済ませたり、僕が生活する上で今後必要となってくるものを送ったりしてくれた。父の口ぶりから推測するに、父は僕に少しも期待していなかった。そもそも父はあの時の言葉を本気にしていなかった。本気にさせたのは僕の行動からだった。ここまで来たらやり遂げるだけだった。――。

 まずは先生に原稿を書かせるという段階から始めなくてはならないのが辛いところだが、原稿が出来上がったとして、それが盗み出せるほどの隙を作らなくてはならない。そのためには、この家の者や先生の周囲にいる人たちから信頼を得なくてはならない。信頼を得れば得るほど、僕の行動範囲は広がり、格段に動きやすくなる。僕は女中の葉名さんに出来るだけ親切にし、先生の前では常に従順であった。

 先生の毎日は、基本的に不健康だ。まだ外も明るい頃から飲み始め、深夜をまたぎ、朝まで家には帰らない。そこから眠って起きたらまた飲みに行く。しかし休肝日はしっかり設けているようで、週に一度、家の中で新聞を読んだり、散歩したりして過ごしている。そんな休みの日に、僕は先生の寄稿先である出版社のいくつかに連れて行ってもらうのだった。

先生は以前の月夜で語ったように、本当に見せびらかすためだけに出版社を訪れた。そこに属する人間からはすれ違う度に、次回作について尋ねられていたが、ひらりと躱して最終的には僕に応対を丸投げした。僕はその質問に曖昧に答えながら、それは誰よりも僕が知りたいことなのにと思った。


「好い働きっぷりだな、少年」

 出版社帰り、馬車に揺られながら、先生が僕を肱で小突いた。

「葉名も褒めていたぞ。若いのに家事がよく出来るって」

「そうですね、まあ、家でもやっていましたので」

「――また、ちょっとでもいいから、葉名の話し相手になってくれると助かるな。彼女の纏う空気は、あまり人に馴染まないから」

 そう言う先生は珍しく持て余しぎみで、困っている様子だった。先生と葉名さんは昔からの付き合いらしく、幼い頃の葉名さんも知っているらしかった。先生は今年で二十三、葉名さんは十八になる。妙に年が離れた不思議な関係だが、先生曰く、「令嬢を預かっている近所のおじさん」であるとか。確かに葉名さんは立ち振る舞いが優雅で、凛とした姿が印象的である。しかしどこか浮世離れした、危うさを感じさせるところがある。

「彼女、ちゃんと友と呼べる存在がいるのだろうか」

 先生は不安そうにこちらを見た。

「君は? 新しい環境にて、友人なるものはできたのかい?」

 問われて僕はおずおずと頷いた。そうして、先日急に仲良くなった友人の顔を思い浮かべた。



 転校先の学校は、歴史の古い、こぢんまりとした学び舎であった。僕は葉名さんに連れられて、これから通うこととなる学校へと足を踏み入れたのだった。

僕の家庭事情はといえば、どちらかといえば中流階級であり、当時は全体的に児童生徒の進学率があまり高くない頃ではあったが、何とか中学の頃から学校には行かせてもらっていた。僕の家は、帝都・東京の郊外付近に位置する《華方(かほう)町》にあったが、そのさらに辺鄙な下町として《根元(ねもと)町》というところがあった。そここそが、嘉仙先生の住まいのある場所だ。そして、僕も自分の生まれ育った町とはまた違う下町の空気に触れ、戸惑いつつも新鮮な日々を過ごしている。

僕は今ではもう旧制とも呼ばれている、尋常中学校の中学五年(十六歳)である。教員が待機している部屋を訪れると、僕は早速、葉名さんと別れて、自分がこれから属すことになる教室を案内されることになった。別れる前にちらと葉名さんの方を見やると、先生方と何やら親しげに話をしていた。本当に顔の広い方だと思った。先生もそうだが、下町の人々は、こうも同じ町に住む人のことを知っているものなのだろうか、と不思議に思う。葉名さんも女中にしては、よく出かけているし、何なら先生に留守を任せて出かけることも度々であった。身軽な方だと思う。

心の準備をする間もなく、僕は教室の前に立たされた。教師がガラリと音を立てて扉を開け、教室の中へ入っていく。何やら人の騒ぐ声が聞こえる。廊下の外で突っ立っていると、先生が「来い来い」と手招いた。

 見知らぬ場所に入って行くことはいくつになっても不安なものだ、と言っていたのは果たして誰だったろう。おそるおそる、扉を通り、教師の後ろに黙ってついてゆく。教壇に立つよう命じられ、僕がようやっと教師と並び立つと、教師は、張りのある声で「みな、注目!」と呼びかけた。僕は身のすくむ思いで、顔を伏せ、限られた視界で辺りを見渡してみた。机の数は思っていたよりも少なく、数えてみたが、十もなかった。教壇の前に、縦に二列、机が並んでいた。

教室中の意識が僕一人に集中しているのが、顔を上げずともわかった。静かな、値踏みするような、好奇心たっぷりの視線。僕はそっと顔を背けて、隠れるように息をした。

「ほら、名乗りなさい」

 促され、僕はしばらく声が出せなかったが、思いを断って、

「千早千歳と、いいます」

「字は?」

 震える手に白墨(チョーク)を握らされ、僕は消え入りたいと思いながら、自分の名前を書いた。いつもはもっと整った字を書けるはずなのに、黒板の前では妙に肩ばった字になってしまった。僕は粉を払いながら、早く終れ終れと念じていた。

「転校生だ。みな、仲良くするように」

 いつになっても、教師の声掛けは大して変わらない。転校生がどれだけかたくなろうと、受け入れる側は大して気にしない。

形だけの拍手に迎え入れられ、僕はようやく席に着くことができた。安堵した瞬間、これらの冷めた言葉は嘉仙先生の有難い箴言であったことを思い出した。

「おい。おいっ」

 吐き出しかけた溜め息を呑み込んで、僕は後ろに座っていた少年――同い年であろうが、それにしてはあまりに体格の良い――青年に視線を向けた。教師の方を意識しながらも、青年は机から身を乗り出して、自らの口元に手をやって、ひそひそと話し始めた。

「あんた、噂の《チトセ》だろ」

「は?」

「ほら、嘉仙せんせのとこの、最近来たっていう書生。あんたのことだろう?」

 大人びた顔立ちを笑い飛ばすかのように、丸々とした瞳を無邪気な子供のように輝かせている。僕は、彼の息が耳にじかに当たってこそばゆいのを、何とか我慢しもって話を続けた。

「僕を知っているの」

「知っているも何も。あんたのとこのせんせは、おれの店の常連客なんだぜ。――というのも、おれ、実家が酒場でさ」

 青年は、悪戯っ子のように笑いを噛み殺しながら、

「そんで、店の手伝いとかよくしてるんだけどさ、くくっ。そん時にあんたの話が出てきててさ。何、あんた、せんせの熱烈なフアンなんだろ? んで、押しかけて、居候までしちまうたァすごいね。それ聞かされた時は驚いたさ、そんな変な奴がいるなら、ぜひともお目にかかってみたいって思ってな――。そしたら、おれの学校に転校してくんだから。しかも同い年か。じゃ、これからよろしくな」

「はあ、……」

「おれ、初めて、せんせのあんな顔見た。本人は隠してるつもりかもしんないが、ほんとに、――」

「お喋りは済んだか、結城」

 気付けば彼の前には教師が腕を組んで立っていた。僕はさっと前を向き直った。結城と呼ばれた青年は、廊下に立たされることになった。

「よしっ、後でな!」

 言った瞬間、教師にパチンとはたかれていた。それを見て、教室中が吹き出し、笑いに包まれた。僕は複雑な気持ちで、一人頬杖をついた。



 教室に戻って来るなり、青年は僕の前に立ちふさがった。

「よっ。これで、思う存分、話せるな」

「僕、もう良いんだけど」

「こらばか、おれがまだ満足してないの」

 どうやら僕が加わった授業が本日最後の授業だったようだ。僕は葉名さんと一緒に学校に来たことを思い出して、急いで職員室へと向かおうとした。が、青年は僕を解放する気はさらさらないようだ。僕は振り切るようにして歩いた。青年は学生服の洋袴(ズボン)に手を突っ込んで、口笛を吹きながらついて来る。

「あの、僕、急いでいるから」

「どうせおれも帰るんだ。一緒に帰ればいいだろ」

「人を待たせているんだ」

「ん? 嘉仙せんせ、来てるのか? いや待てよ、あの人がこんなとこまで足運ぶとは思えんな。大体昨日も遅くまで飲んでたわけだし……だとしたら、来ているのは宮口のお嬢様だな」

「――葉名さんを知っているのか」

 青年は軽く肩をすくめた。

「そりゃま、ここの学校長の愛娘なわけだし」

 唖然とする僕をそのままに、青年は頭の後ろで手を組んで、

「それで? あんた、どこ行こうとしてるんだ? 職員室なら向こうだぞ」



 葉名さんは、教師に囲まれて楽しく談笑していた。両手にはお茶と和菓子があり、美味しそうに頬張っている。

「あら千歳さん、お帰りなさい。それに、今日助(きょうすけ)さんも。お疲れでしょう、少しお掛けになったらいかが?」

「お嬢。随分ご無沙汰でしたね。せんせは、も、嫌ってくらい顔見るけど。ははっ。それで、元気してました? 最近はあの若い人が、酔った先生連れて帰ってくれるからさ、おれの出番も無くなっちまったわけで」

「こら結城。失礼が過ぎるぞ」

 教師が窘めると、葉名さんはそれは楽しそうに笑って、

「元気ですよ。今日助さんもお元気そうで安心しましたわ。なかなかお会いできなかったから、ちょうど寂しく思っていたところなのですよ。先生がいつもお世話になっております」

 そうして葉名さんは流麗な動作で頭を下げ、感謝の念を彼に示した。青年は、にこにこして、「その言葉、親父に直接言ってやって。親父、お嬢のこと、女神さまみたく思ってるからさ」

 置いてけぼりの僕は、何だかよく分からない気持ちを抱える羽目になった。最初に心に浮かんだ言葉は《疎外感》だったが、しかしその一言だけではどうにもおさまり切らない想いである。僕は断りを入れて、その場を後にしようかと思ったが、青年に

「あんた、何を帰ろ帰ろしてるんだ。わざわざ席作ってやんないと、座れもしないのか? ほら、あんたの椅子はここ。話によると華方町から出てきたんだろ? よく親父さんが許したよなあ。ほら、話聞かせろよ。おれ、教室に残ってた連中連れて来るからさ。照れてないで話してみろってな」

 その忙しなさは嵐のようだ。僕は息つく間もなく彼に乗せられて、それなりにひとの居る前で話し始めることになる。周りを見てみると、みな一様に温かな表情を浮かべており、これから僕が何を話し始めるのかと、興味深そうにこちらを見ていた。隣にいた葉名さんと目が合った。

「今日助さんに任せておけば大丈夫ですよ」

 見透かされた気分だった。そう言って花咲くように微笑まれれば、もはや何も言い出せない。僕は心の中で彼に降参して、自分のことを少しだけ、語った。戻ってきた青年が何やら喚いていたが、僕は逃げるように学校を後にした。



 それからというもの、学校へ行くたびに彼に纏わりつかれて心底困った。こちらとしては、何事もない平和な生活を望んでいるのに、彼は、教師への悪戯や乱闘事に、何かと僕を巻き込んでやろうとするのだった。僕はうんざりしながら、息を潜めるように毎日を過ごすことになった。次第に学校へ行くのが億劫になってきたのだが、さすがにそれを言い出すわけにもいかず、悶々としていたところに、すっかり出来上がっている先生を連れて、彼がやって来た。まさか家に居てまでも彼と顔を合わすことになろうとは思わなかったので、油断のあまり、いつもの無表情を作るのが遅れた。

「……なんだよ、人の顔見てそんな鬱陶しそうな顔するなよ」

「ご免、あなたの日頃の行いが悪すぎて」

「それはあんたが良いコしすぎてるからじゃないか? 疲れないか? おれにとっては手っ取り早く仲良くなれる方法のいくつかを実践しているだけなんだけどさ。つれないなあ、な、せんせ。あんたはどう思う?」

「そりゃあ、今日助が全面的に悪いだろう」

「ちっ、みんなおれのこと嫌いなんだな。ふんだ」

 そう言うなり、肩に乗せていた先生の腕を払って、よろけた先生をそのまま玄関先にぽいっと投げて、

「じゃあな、千早。また学校でな」

「おい、痛いだろ、今日助、おいっ」

 僕は先生の背中に腕を回して上体を起こさせ、葉名さんが持ってきてくれた水を飲ませた。むっとするほど酒臭くて、顔を背けると、先生が回らない舌で話し始めた。

「彼は悪いやつではないんだ。君の居たところと様子が違うから、戸惑っているのだろう? 少しずつでもいいから心を開いてやりなさい。彼も厚顔無恥というわけではないんだよ」

「下町の人はどうして、……みんな、こうなんですか」

「こう、とは?」

「妙にひととの距離が近いというか、みんな、町の人に詳しいし、……」

「違和感を覚える?」

 先生は「よいしょ」とふらつく足で立ちあがった。慌てて僕は先生の体を支えた。葉名さんも何か物言いたげに手を差し伸べていたが、先生が「夜も遅いのだから、君は寝ていなさい。待っていなくてよろしいといつも言っているだろう」とその手を軽く退けた。先生は二階の自室へと戻るべく階段に足をかけた。

ここは僕も部屋に帰った方が良いのだろうかと迷っていたところに、俯く葉名さんとすれ違い、

「先生をよろしくお願いしますね」

 と声をかけられてしまい、やむを得ず僕は先生の寝床までついていくことになった。

 よくよく考えてみると、先生の部屋に入るのは初めてのことであった。二階の一室、そこは先生の生活の中心でもあり、また、作家としての仕事を行う書斎でもあった。僕は今の今まで、先生の部屋を訪れることがなかったのだが、――というのも、先生は滅多なことがなければ、自分の部屋にひとを入れない――、半ば強引な形で、先生に肩を貸しながら部屋の戸を開けた。

「君は、色の薄いすずしい顔をしておきながら、妙に押しの強いところが、あるんだねえ……」

 扉と面したところに大きな窓があった。今は円障子に閉ざされて見えないが、

きっと外の様子が遥かまで眺めることができるだろう。家の建っている方角から考えても、朝は太陽の光が、夜は月影が、美しく射してくれるであろう。今も、月の灯りが障子の紙をほのかに照らしている。窓の下には長い机が置かれていた。机の下には座布団が敷かれている。どうやらここで原稿を書いているようであったが、机に置かれた原稿紙は真っ新なまま、手の触れられた形跡が一切なかった。万年筆もインキの壺も整頓されたまま、動かされていない。

「本当に書いてないのですね……」

「そう言ったろう」

 先生はどかりと床に座り、じろりと僕を睨んだ。

「君、いつまで突っ立ているつもりだい。世話すると言うなら最後までしたまえ」

「あ、はい」

 それから僕は押入れから夜具を取り出し、布団を敷いた。夜着に着替えるというので、先生の前に膝をつき、甲斐甲斐しく着替えを手伝った。中肉中背の、しかし成人男性にしては背丈も肉付きも少し足りないくらいの体つきであった。さっき肩を貸していた結城と比べると、彼の方が背が高いくらいであった。

支度が済んでも、僕と先生は無言のまま、その場に向かい合って座っていた。ホウ、ホウとどこかで梟のような鳴き声がした。僕が「梟ですか」と口にすると、

先生は「いや。あれはただの風だろう」と言った。僕は再び黙した。先生も部屋から出て行けとは言わない。代わりに、懐から煙草とライタァを取り出し、火をつけ煙を焚いた。

「……気分を害されましたか」

「まあね」

「僕はただ……、先生に原稿を書いてもらいたいのです」

「へえ。君は僕の編集か何かかね」

 ふっと鼻であしらわれた。鈍い僕でも、その声に棘があるのは伝わってきた。

「僕のフアンだと言うのなら、原稿が発表されるまでの時間ごと愛したまえ。それとも、なんだい、君に急ぐ理由があるのかい」

 先生は片目で、僕を探るように見た。

「君、本当は僕のフアンでもなんでもないんだろう」

 ぎくりとした。心を抑えて、「何故ですか」と尋ねた。先生は何でもないことのように、煙を吐き出した。

「フアンにしては理路整然と構えているから」

「そんなこと、」

 先程から冷や汗が止まらない。いつまでも長居せず、さっさと出て行けばよかったのだと今更ながらに後悔する。しまった。ここでばれては元も子もない。転校までして父の手を煩わせて、元々期待されていなかったにしても、こんな無様な失敗をしでかして、父の家に帰るわけにはいかない。もしかしたらこれが元で父の文壇での立場が悪くなってしまうかもしれない。ここで初めて、僕がどんなに危険で恐ろしい思いを持っているかに気付いた。僕はこの家で盗人になろうとしている。それを、見透かされそうになっているのだ。僕は視線をめぐらせた。いつまでもここに居られないというのなら、僕は居直り強盗となっても構わない。何か、何かないだろうか。永良川嘉仙の、未発表の、原稿が――。座布団の周りに、いくつかインキの汚れが目立つ原稿用紙があったが、どれもこれも書き損じばかりである。

 僕は先生と向き合った。このまま帰られない。追い出されてはたまらない。何か、何か策はないか。「僕は、先生のフアンです」と嘘をつき通すのか。しかし、僕は先生の作品を一つも読んだことがない。先生の作品の名前すら、知らない。元々本は読まないのだ。作家の息子だからといって、皆が皆、小説が好きとは限らないのだ。僕は、痛い位に響く心臓に手をやった。

「僕は――」

 くらやみの中、僕は先生と対峙した。嘘をつけ、やり過ごせと思うのだ。思うのだが、そうはしたくないと思う心も確かにあったのだ。そして今、この局面で、僕は、秘してきた限りなく本心に近いところを、唇に乗せてしまったのだった。

「僕は小説というものを理解できません」

「理解できない? 字が読めないわけではないんだろう?」

 怪訝そうに尋ねる先生に僕は、もはや、思い留めるための思考をしていなかった。

「どうして作家はそんなにも創作にのめり込むのですか? フィクションです。作り物の偽物にどうして、命を削るような思いまでして書き綴るのですか? 自らの置かれた環境が不満足だからですか、あなたの前には現実があるのに、どうして目を背けるような行為を一人淡々と続けることができるのですか?」

 先生は黙した。僕はそれにもどかしさを感じて、さらに言葉を重ねた。

「あなたたちの言葉は虚の塊です、絵空事です。僕はそれに感動することができない、だって、存在すらしていないのに――。人は小説を読みます。そこに描かれた世界を読みます。男女の恋愛を読みます。本当には存在しないもののために、時には微笑みかけ、時には涙を流し、そうして読み終われば宝物のように愛惜します。しかし、それは、無ですよ、存在しない、虚像です。無のものに、心動かされ、今あるものに目を向けないで、いつだって紙に書かれたインキの染みと向き合って……それは徒労だと思いませんか」

 先生は何も言わなかった。僕は口を閉ざした。この空間に満ちていく煙草の香りが不快だった。僕は「失礼します」と言って、その場をあとにした。階段を降り、設けられた自分の部屋へと急いで逃げ込んだ。明日のことは考えなかった。気付けば畳の上で寝落ちてしまっていたから。



 表情が昨夜ですべて使い切ってしまったかのように、抜け落ち、硬直した。口先だけは何とか動かせるが、頬の筋肉は硬く、両のまぶたもぽってりと膨れて重たい。鏡をみると、我ながら酷い顔だった。寝癖のついた髪を何度か手で撫で、何をするにも気怠くて、それでも学校には行かなくてはならないから、身体を引きずるようにして移動した。

 台所へ行くと、葉名さんが起きていて、僕の朝食を用意してくれていた。自分のことは自分で出来ますといくら申し出ても、葉名さんは微笑むだけでいつも朝、昼、晩と食事を用意してくれる。昼はお弁当だ。朝は僕より早く起きて、晩は先生の帰りを待って遅くまで起きている。一体いつ睡眠をとっているのだろうかと不安になるが、葉名さんの肌はいつだって艶やかで、血色がよかった。僕は普段はなんとなく気恥ずかしくって、葉名さんの瞳を見て話せなかったのだが、いつ先生が起き出して「出て行け」と言われても不思議でない今、目に焼き付けてみようと思った。

「千歳さん。ふふ、どうかされました?」

「いえ、」

「ご飯、美味しい?」

「とっても」

 お願いだから、まだ、起きて来ないでくれと念じながら、早く学校へ行ってしまわなくてはと思うけれども、この温かな空間から出るのは惜しくて、どうにもぐずぐずしてしまう。鞄と弁当を持ち、玄関で靴を履く。やっと慣れてきた日常に、もうお別れを言わなくてはいけないとは。昨日の自分の失態に憎しみに似た感情まで抱いたが、今更だろう。僕は家を出た。葉名さんが玄関先まで見送ってくれた。僕は、それにぺこりとお辞儀を返した。胸を張って前を向いて歩く。

曲がり角を曲り、振り返り、家が見えなくなったのを確認したあと、つい頭を垂れて俯いてしまったのは、どうか許してもらいたかった。



 学校では特に何も変わらなかった。結城も昨日のことに一切触れず、変わらず僕を悪事に誘おうとしていた。

家に帰ると、先生はいなかった。どうやら日も早いうちから飲みに出かけたようだった。葉名さんが帰って来た僕を見て、夕食前に風呂に行ってきたらどうかと言うので、僕は素直に銭湯へと向かうことにした。先生の家には風呂はついていない。そもそも、このあたりで家に風呂がついているところはほとんどないに等しかった。

そのため、銭湯はにぎわっていた。時間が早かったこともあって、これでも人が少ない方なのだろうが、それでも僕にとっては大勢であって、裸の男たちの隙間をぬって、ぎゅうぎゅうに押されつつ体を洗うというのは、なかなかに骨が折れた。父の家では父が見栄を張って、簡易式ではあったが風呂をつけたから、あまり銭湯には赴かなかったのだ。

体を洗い、湯船の方へ移動する。湯船は洗い場よりは空間があり、僕は隅っこの方に位置取り、頭に手拭いをのせて、湯の水に肩まで浸かった。熱いくらいの御湯が今は心地よい。昨日布団も敷かずに寝たから身体中が痛い。僕は目を閉じて、うたた寝をしていた。すると、頭上から、

「あれ、千早じゃないか!」

 僕ははっとして顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべる結城がいた。驚いた時に頭からころげ落ちた手拭いを拾われ、再び頭にのせてくれた結城は、僕の隣にどかりと座り込んだ。

「いやあ奇遇だな。あんたも風呂か」

「うん、」

「裸の付き合いってやつだな!」

「う、ん」

「というかあんた細いなあ、女みたいだ」

「……そんなことないさ」

「細いって。ほら!」

 そう言ってむんずと腰を鷲掴みしてくるから、僕はたまらず肱を彼の頭に叩き落とした。

「生娘かよ」

「うううるさい、さわらないで」

「へーへー」

 僕は出来る限り彼と距離を取って、飄々としている結城を睨み付けた。渾身の力を込めた肘鉄だっただけに、男としての矜持を傷つけられた気分だった。

 話は変わるけどさ、と結城は珍しく声の調子を落として僕に話しかけてきた。

「せんせ、今、うち来てるんだけどさ、酷いぜ。大荒れ。せんせ昨日なんかあったの」

「え……」

「せんせの、最近ついた担当編集? あんた知ってる? せんせに付き合わされて、よくうちで飲むところ見かけるようになった人なんだけどさ。――見てると、あのあんちゃん、多分あんまり酒強くないんだろうなあと思うわけだわ。ま、せんせだって、あんまり酒強くはないんだけど。自分を見失う一歩手前でやめられるから、今まで大丈夫だったんだろうけどさ、珍しく飲み過ぎだな。ありゃ自棄だよ。そこらの男共が大失恋した時並みの飲みっぷりだよ。あれに付き合わされてる編集のあんちゃんを思うと、ほんと御気の毒さまだぜ」

「君は抜け出してきたの?」

「そ。銭湯も店も、混む前に汗流したかったわけ。どうせ今日もまた遅くまで店の手伝いだぜ。たいへんだ」

 うっし、と結城は豪快に湯を溢れ返しながら、立ち上がった。

「あんたも、たまには迎えに行ってやんなよ。面倒かもしれないが、それくらい、居候として仕事のうちに入れてやんなって。おれさ、せんせを見てると、哀れで哀れでたまんない時があるんだよ」

 僕はそのまま後に続こうかと思ったが、思い留まって湯に浸かりなおした。大荒れとは、一体どういうことだろう。心当りがありすぎて心苦しいが、しかし、僕という存在が不愉快なのであれば、そのまま追い出してしまえばいいのだ。先生の方から外へ出て発散させる必要はない。身を切られる覚悟は、それなりに出来ている。いつでも、言われれば、出て行くつもりだ。言われさえすれば。

 しばらく湯の中でうんうん唸ってみたが、やはり落ち着かなくて、上がってしまった。体を拭いて、着流しに着替え、銭湯を出た。

 夕方。風が吹いて、快い。僕はまだほんのり濡れた髪を触りながら、右と左とを見た。左は葉名さんの待つ家。右は、酒場へ行き着く一本道がある。銭湯の真ん前で、突っ立っているので町の人たちが不思議そうにこちらを見ている。早く決めてしまわなくては。しかし、迎えにいくのも、なんだか、変だ。やはり、変わったことはしない方が良かろうと、僕が一歩足を左に向けると、

……にゃー……

 一匹の灰色の猫が、僕の行き先を通せんぼした。些細な事なのだが、こじつけかもしれないが、別の道を選ばなくてはならないような予兆がした。これがきっかけになった。僕は勢いよく振り返り、それでも一瞬ためらったが、そのまま家とは真逆の方角へ歩き出した。はっ、はっ、と息が切れた。らしくない。今までの僕なら絶対に向かわなかった。家に帰って、葉名さんとふたりで、先生はまだ帰りませんねえなんて言って、帰りを待っていたはずだ。

足を止めるとまた迷いが生れてきそうで、半ば駆けるように歩いて行った。涼しい初夏の夕暮れ時とはいえ、走れば当然汗は出る。せっかく銭湯に行ったというのに。額にかかる前髪を掻きあげながら、もう体裁を取り繕うのも面倒になって、僕は思い切り駆け出した。

 昨夜、暗闇の中で黙した先生は、たった一度だけ、何か切り出そうとする気配があった。それは言葉となっては出てこなかったけれど、えずくような、喘ぐような、口の中に遮る何かがあって、声にならない声が、確かにあの空間で響いていた。

 あのとき発せられなかった先生の真実を、僕は知りたいと思った。それは僕が先生に対して初めて切望した思いだった。

――記憶の中の先生を思いだし、そっと耳寄せた。聞き逃した何かが、欠片でも残っていないか期待して。



 一本道の果て。商店街。その一角に、ちいさな酒場があった。年季の入った木の看板を見ると、立派な字で《いざよひ》と書いてあった。先生の行きつけの酒場だ。僕はここに来て、わずかな後悔が生まれ始め、それが僕の足を止めたが、周囲の眼が気になって、ここまで来て帰るわけにもいかなくて、思い切って扉をがらりがらりと開けてみた。瞬間、中のおとなたちの割れんばかりの騒ぎ声が響き、僕は思わず怯んだ。ひどい酒の匂いも鼻につく。店は親しみやすい空間で、狭いために、おとなたちは身を寄せ合って杯を呷っていたが、それすらも楽しそうに、わあわあがやがやと叫び倒していた。かれらの興奮に気圧されながらも、僕は背伸びして辺りを見渡して先生の姿を探した。

「いらっしゃい! やっぱり来たな。あんた、ほんと偉いよ」

 おそらく店の厨房にあたる扉から、暖簾をあげて結城がひょこりと顔を出した。僕は妙に癪に障って、彼の言葉を無視した。すると、さらに面白がった結城は腰のあたりをつついてきたので、僕は腹立たしさと気恥ずかしさのあまり思い切り頭をはたいてしまった。人に手を出したことなんて、いや、人に手を出したいと思ったことなんて今まで一度たりともなかったのに。彼は僕の癇に障るのが余程上手いようだ。すると、よく通る、野太い声が聞こえてきた。

「いらっしゃい。今日助の友達か?」

 接客席の向かい側で酒のアテを作っていた男性が、人好きのしそうな笑顔を浮かべた。この時代に生きる中年男性特有の、煙草色に染まった歯を豪快に見せ、結城そっくりの笑い声を上げた。

「ガキだろうと構わない、ゆっくりしていけばいい。今日助、なんか適当に持っていけ」

「そういや親父は知らなかったな、こいつだよ、最近来たって言う永良川せんせの書生は。千早千歳っていうんだ」

「ん?」

 結城の父親は客席まで乗り出して僕の方をじっと見つめてきた。それに対して僕がおずおずと頭を下げると、結城の父親は途端に破顔して、同郷の人間を歓迎するような、優しい顔になった。

「噂の書生くんか。なんだ、もっと早く言いなさい。先生、先生! 先生のとこの書生くんがお見えになりましたよ!」

 そう言って、結城の父親が目の前に伏せった客を揺らした。客は唸って、その手を払いのけようとした。すると、その男の隣に座っていた客が、むくりと起き出して、「せんせい」と舌足らずに声を掛けた。

「店主が呼んでらっしゃいます……」

「僕はまだ帰らんよ」

「いや、ちがくて……」

「だいたいまだ時間も早いじゃないか」

「だから、ほら、先生のとこの、書生さん……?がいらっしゃったそうですよ」

 それを聞くなり、先生はがたりと立ち上がろうとして、うまく立てず再び席についた。そうして勢いよく僕の方を振り返り、赤らんだ瞳を丸々とさせた。

「来たのか。いつ」

「さ、さきほど――」

 可笑しそうに笑いながら、結城が先生に話しかける。

「せんせ、千早がわざわざせんせの為に迎えに来てくれましたよ。帰りましょう。お連れのお客さんもずいぶんつぶれてらっしゃるし、今日はもうやめときましょ? あんまり飲んじゃあ体に毒ですよ」

「かえりなさい、子供の来る所じゃない」

 先生は酔った人とは思えない冷めた目で、突き放すように切り捨てた。結城は呆れたように肩をすくめた。

「いったい何を仰るかと思えば。あんたのためにわざわざ来たんですよ、千早は」

「僕は呼んでない」

「おれが呼んだんです」

 先生は露骨に舌打ちをした。「余計なことを」

 何か言う前に、結城はぐっと身を寄せ言いつのった。

「余計な世話かもしんないですけどせんせ、いいですか、お嬢は、せんせに気遣って特になんにも言いませんけれど、ほんとのところは心配なんですよ。たまには少しくらい早く帰ってあげてもいいじゃあありませんか」

「僕は一人になりたいんだ」

「どの口でそれを言いますか。周りには人ばっかりじゃないですか。この編集のあんちゃんだって無理やり連れ出して来てるくせに」

「人間だれしも矛盾をいくつも抱えて生きてるもんなんだ」

「どんな矛盾だか。ほら、さっさと帰った帰った! どうせもう一滴も飲めないんだろ? 金払わねえ客は邪魔だってな!」

「いやだ、かえらない、いやだいやだ」

「まったく……どっちが子供かわかんないなこりゃ。編集のあんちゃんは、ちょっと裏で休んでから帰んな」

 結城は先生の隣の男に肩を貸し、振り返って、

「千早はせんせ、連れて帰りな。おれはこの人連れて行くから。親父、今日はつけといてやって。こんな状態じゃとても財布なんか出せないよ」

「……わかった、」

 先生は首を振った。弱々しい声で、しかしはっきりとした物言いで、

「いやだ、いやだ、こんな、僕のフアンを騙った奴の肩なんて借りたくない……」

「――先生、」

「帰ってくれ、帰ってくれ、帰ってくれ、帰ってくれ。」

「先生っ!」

 僕は強引に先生の左腕を引っ張った。「帰りましょう、先生!」

「君とは帰らない、先に行け」

「一人じゃまともに歩けないくせに、早く、行きますよ!」

「ああ、あの時どうして君を受け入れたのだろう、後悔先に立たずとはよく言ったものだ、酔った勢いで受け入れるんじゃなかった、ああ失敗した、失敗ばかりの人生だ、いつになったら僕は学習するんだか、情けない、非常に情けない……」

 僕は顔を真っ赤にしながら、先生を半ば引きずるようにして店を出た。結城の親父が苦笑しながらも会釈してくれた。僕も会釈だけは返して、あとはとにかくこの駄々をこねる大きな子供を何とかせねばと引っ張った。先生は未だ、呪詛のように僕への恨みつらみを口にしている。

「痛い、痛い、放しておくれ、腕が引きちぎれたらどうするのかね、君。この、乱暴者、君なんか家に入れるんじゃなかった。ちぎれたら、たとえ、君の腕を切り落としでも、当然僕に返してくれるのだろうね?」

「……先生が欲しいのであれば、いくらもあげますよ」

「言ったな。では君、心の臓の肉を一ポンドほど切り落としたまえ」

「シェイクスピアですか」

 言うと先生は火のついたように怒り出した。

「君、シェイクスピアは読むのに、僕のは読まないのか!」

「いや、シェイクスピアはあらすじしか知らな――」

「僕のは、あらすじどころか題名すら知らないくせに! 僕の処女作がなにかも知らないんだろ! 僕の一番売れた作品も、一番新しい作品も、何も――この大日本帝国中、陛下にも直々にお褒めの言葉を頂いたという誉れ高い僕の作品を、君は何一つ知らないという! 僕への冒涜ではないか、そうだろう、それ以外の何物でもない!」

「そ、それは……」

 あまりの迫力に僕は声が段々小さくなる。いつも悠然と構えているこの人がまさかここまで激したりするとは思わなかったから、驚き呆れて言葉を失った。

先生は僕の手を振りほどいて、対峙した。はあはあと息を乱しながら、刃のように鋭く僕を睨み付けた。

「絵空事? 虚像? 徒労? 随分と酷い言い草をしてくれたものだ、あの夜君が発した言葉はあんまり腹が立ったんで、思わず一字一句漏らさず紙に書き留めてやったよ。それを見る度、はらわたが煮えくり返る思いをする。大体君は自分で思考しないのか? 答えてやろう、なぜ僕が小説を書くのか。

――復讐だ。

僕が心から信じた、最期の時まで共にあろうと誓った……、僕を裏切ったあいつらに、僕は復讐するのだ。文字という媒体を使って手から目から脳髄の核なるところまで僕の言葉に振蕩させ、僕の思想に心酔させ、真の心から僕に屈服させる。そのために筆を執るんだ。――そう、そう、なのだ」

 先生は怖気づく僕を見て、先生は近づいた。そうして僕の心臓のある辺りを指でぐっ、と力強く押した。

「そう。僕は早く一人になりたいのだ。それには、あの女が邪魔なのだ。――君、さっさとあの女と恋にでも落ちて、駆け落ちでもして出て行きたまえ。そうだった、僕はあの夜、それを君に期待して、君を受け入れたんだ。そうして蓋を開けてみたら、僕のフアンを騙ったホラ吹きと来た。君の利用価値はそれくらいだ、さっさと、あの女を連れて出て行ってくれないか」

 僕は先生の言葉を聞きながら、もやもやした塊を感じていた。僕はそれを明らかにしようと口を開いたとき、ぐらりと先生の体が揺れた。体勢を崩した先生が僕の上から覆いかぶさってきた。さすがの僕もこれには耐えきれず、二人して地面に倒れ伏した。

「せん、せい。ちょっと、どいてください……」

「ああ、もちろん、どいてやるとも――」

 下敷きになった僕は必死にもがいて逃れることができた。ふと一息ついて先生の姿を探すと、酒がまわったのか、向こうの川の方でげぇげぇと苦しそうに吐いていた。

「ああっ、もう……、むちゃくちゃだ、」

僕はさんざ心の無いことを言われた後だったので、放っておいて帰ってやろうかと思ったが、一応は居候先の家主なわけだし、葉名さんも心配しているだろうし、さすがの僕もこんな状態の人間を捨て置けるほど冷徹ではなかった。僕は渋々先生の方へと歩み寄って、その背中をさすってやった。先生の背中は意外にも小さく、小さくあった。

「御なさけか」

「御なさけです」

 しばらくさすり続けてやると、先生は落ち着いたのか、地べたに尻をつけて、じっとしていた。僕は、窺うように声を掛けてみた。

「先生?」

「君は、意外と気遣いのできる少年だったのだな」

「先生は意外と女々しいところのある方だったのですね」

「女々しい? 僕が?」

 立ち上がり、ゆっくりと家へと歩き出した先生を追って、僕は言葉を続けた。

「ええ、だって、先生……家から出て行って欲しいなら、無理にでも追い出せば良いではありませんか。僕は、いつ先生から出て行けと言われるかと思って待っていましたが、一向に言われませんし……」

「そう思うのなら、君、僕の想いを酌んで自ら出て行くべきだよ」

「――あの女、って、葉名さんのことですよね。一体どういうことですか、なんであんな酷いことを、――」

「ああもう、忘れろ忘れろ! 僕は前後不覚になるほど酔っていたのだ、酔っ払いの失言にいちいち反応されても困る」

「先生と葉名さんの間には一体何があるんですか」

 唸った先生は、ついに僕の頭をぽかりとやった。

「君はほんとうに、問いが多すぎる。なんでもかでも問えば答えがすぐに出て来ると思うなよ、世の中そんなに便利に出来ていないのだ」

「痛……」

「次くだらないことを聞いてみろ。その空っぽの頭をもう一度、ぽかりとやってやる」

「も、もうききませんよ」

「よろしい」

 先生は仕方ないと言わんばかりに頷いた。酔っ払いの隣なんぞ歩くものではないなと強く思った。気を抜けば、またぽかりとやられそうだ。僕は距離を置いて、先生について行った。

 僕は自分で考えることが得意でないから、問うことでしか知ることができない。――先生は自分には訊くなと言った。ならば、訊く相手を変えれば良いだけだ。

 先生と葉名さんの関係。そして、先生が恨んでやまない《あいつら》――。何かある。僕は手始めに頭に浮かんだあの人間から、尋ねてみようと思った。



 思えば不自然な点は多々あったのだ。居候し始めて、早や一か月が経とうとしているのに、葉名さんと先生が会話している姿をほとんど見かけない。先生はほとんど毎日朝帰りで昼頃まで起きて来ないし、葉名さんは葉名さんで、朝までに家の仕事をすべて終わらせて、先生が起き出す昼頃には知り合いと共に遊びに出かけて行ってしまう。そうして入れ違うように、夕方ごろ、葉名さんが家に帰って来ると先生は酒場へ赴き、帰って来ない。僕は学校に行っていることもあって、あまり二人の生活に興味を抱かなかったわけだが、こうして一つ一つ挙げてみると、不思議な関係であることが今更ながらに分かってくる。

 朝。葉名さんと一緒に朝ご飯の準備をし、朝食を共にし、ついでに先生の朝とも昼とも言えない食事を用意しておく。

 僕は手を動かしながら、さりげなく、葉名さんに話し掛けた。

「先生は、食べ方があまり綺麗ではないですよね」

 葉名さんは微笑んだ。

「そうですね」

「先生の利き腕は右、ですよね」

「ええ」

「それなのに、お箸は左ですよね。他にも物を持つときは基本的に左――」

「ええ」

「この前、右腕を触ろうとしたらすごい勢いで叱られました」

「まあ」

「その、どうしてなのか、ご存知ですか?」

 葉名さんは綺麗に微笑んだ。

「先生のなさることは、わたくしには思いも及ばぬことですから」

「……葉名さんはいつから女中としてここにいらっしゃるんですか?」

「はて。忘れてしまいました」

「あまり答えたくない?」

「いいえ、そういうわけではないのですが、……駄目ですね、この歳でもう、物忘れが」

「僕と二つしか変わらないのに」

「ええ。ほんとうに」

 降参だった。思えば彼女には最初会った時から敵わなかった。だとしたら、また相手を変えなくてはならない。



「――それでおれに白羽の矢が立ったってわけか」

 結城は僕の机に顎をのせて、ふんふんと頷いた。頷く度、机が揺れるのでやめてほしかったが、交渉中なので注意するのは憚れた。

「お嬢とせんせの関係か……そりゃ当時は相当噂されたらしいけどな。恋仲とか駆け落ちとか」

「やっぱり」

「しかしよく考えてもみろ? お嬢の実家はせんせのお宅から馬車ですぐのところだし、お嬢の親父さんの職場でもある学校にも気軽に足を運んでいるんだぜ? こんな近距離の駆け落ちはさすがにないだろう」

「……確かに」

「大人と女は隠すのがうまいからな。あんたどうせ、真っ当からせんせとお嬢に聞いてみたんだろ」

「別に、」

「だめだめ。二人とも嘘吐きの中でも玄人の分類に入るから。良いようにあしらわれてお仕舞いだ。攻め方を変えなきゃなんねえ」

「妙に乗り気だな」

「そりゃ、人の秘密を暴くっていうのは、いつだって胸が弾むものじゃないか」

「そこまでの秘密かは分からないけど。酔っ払って激昂して話す程度のものだから」

「莫迦。酔っ払いが漏らした〝秘密〟が〝秘密〟じゃなかった先例が今まであったか?」

「いや、僕は君ほど先例を知っているわけじゃないから――」

「酒は思考を鈍らせんだ。いいか、よく聞け千早」

 結城はたまらないと言わんばかりに表情を緩めた。

「人は思っている以上に、秘密が下手な生き物なんだよ」

「どういう意味だ」

「だから。人は、元々、誰かと何かを共有したくって仕方ない奴ばっかなんだ。そしてだなあ、秘密というものは、人目から隠すと同時に、誰かと共有するためにある」

「……? つまりは何が言いたいんだ?」

「わっかんねえかなあ。つまり、つまりだな――」

 結城は声を潜めた。聞こえづらくて顔を寄せると、指で額を弾かれた。

「いいか、千早。秘密は団体戦なんだ。せんせが黙した事実には、必ず他者がある。せんせが語らないなら、別の方向から攻めるというあんたの作戦は正しい。せんせ、もしくはお嬢、どちらかと繋がりがある人間に尋ねて行くのさ」

 協力してやるよ、面白そうだから。結城は頬杖をついて口角を上げた。彼には弱みを握られたくないなと素直に思った。



 有無を言わさず、僕は彼に彼の家まで連れて来られた。酒場いざよひ。昼の酒場に入るというのも、なかなかに変わっていて僕は一人緊張していたが、結城はそんなことには気にも留めてくれず、さっさと中に消えてしまった。

 店の厨房では結城の父親が、料理の下拵えをしているようだった。結城は

「親父! 帰ったぞ!」

 と声を張って、そのまま暖簾をくぐった。

「千早。こっち。ここから二階に上がるとおれの部屋なの」

「へえ……」

「親父! 千早もいるから! 二階、上がってるからな!」

 向こうの方から「あいよー」と声が聞こえた。良い関係の親子だと思った。

 部屋に入ると、まず目に飛び込んで来たのが、大きな本棚だった。僕が呆気に取られていると、結城は「ああ」と照れくさそうに頭を掻いた。

「おれの御袋――といっても、病気で三年前に亡くなっちまったんだけど――その、御袋がさ、学がない人間は大人になっても使えないって耳にタコができるほど言うからさ。遺言みたいなもんだと思って、勉強だけはちゃんとするようにしてるんだ。ほら、あんたんとこのせんせが書いた本もちゃんとあるんだぜ」

 そう言って、本棚から一気に五冊ほど抜き出した。そこには《永良川嘉仙》の名が記されていた。僕はそれらを恐る恐る手に取り、頁をめくってみた。

「これだけじゃないぜ? せんせは速筆だから、新刊が出たと思ったら、また次の新しいのが出てるんだ。ここ最近は随分ご無沙汰だけどな」

 そう言い残して結城が部屋を出て行った。と思ったら、両腕いっぱいに本を抱えて持って来た。僕はあまりの量に思わず立ち上がり、場所を譲った。結城はかれこれ四回、部屋を往復した。

「せんせは長篇が多いから、巻が多くてかさばるんだよ。これにゃ参った参った」

「凄い……」

 僕はこれらを一冊一冊持ち上げて、中身を確認していった。

「ぜんぶ、字がびっしり詰まってる……」

「何を当たり前のこと言ってるんだ? 本くらい見たことあるだろ」

「いや、小説はあまり好きじゃないから――」

「ふうん。じゃ、やっぱりあんたはせんせのフアンじゃなかったってことか」

 ぎくりと、心が浮いた。結城は呆れたように嘆息した。

「後から親父に聞いたんだよ。それにしてもせんせ、かわいそ」

「いや、その……」

「おれ、一応せんせの作品全部読んでるけどさ、やっぱ面白いよ。さすが。話題になるだけのことはある」

 そう言って、綺麗に整頓された本棚に歩み寄った。結城の部屋は、自分と同い年の少年とは思えないほどにきっちりと物が配置されていた。結城は本の背表紙に手をかけながら、ふいに僕を見た。

「何冊か貸してやるからさ。読んでみたらどうだ? 時間の無駄になるとは思わないぜ」

「――僕は、」

「それでもまだせんせの所に居座るって言うんなら、その場しのぎで吐いた嘘でも、もっともらしく言えるようにしといたらって言ってるんだ」

 しゃがみ込んでいた僕の前で、結城は仁王立ちした。そうして勢いよく僕を指差し、珍しく真剣な眼差しで僕を見据えた。

「おれはあんたの秘密だって、いつかは暴きたいと思っているんだぜ、千早千歳――。フアンでもないくせに、どうしてあそこまでせんせに拘るのか……何か裏があるんだろ。例えばそう、あるとすれば、あんたの意志とは関係ないところに、な」

 当たらずも遠からずということだろうか。僕は目を背けた。視線からでも彼に見透かれてしまいそうに思えた。



 彼が僕を自分の家に呼んだのは、考えあってのことだった。彼は本を繰りながら今後の動きを語った。

「とりあえず、おれの親父は最終手段な。親父もお嬢のこととか、お嬢の置かれた環境とか、今のことも昔のことも色々知ってるとは思うんだけどさ、多分、あんま快く話してくれるとは思えないんだよな。元々、親父はお嬢贔屓だし。なんだ、若い頃の御袋に似てるんだってさ。ほんとかどうか知らないけどな。……となると、お嬢の背景でもある学校側の人間――こいつらは、まず話してくれないだろうな。最近おれらの学校に転任してきた教師なら知らない奴もいるだろうけれど、お嬢の歳から考えてもそう昔の話じゃない。《秘密は団体戦》、言ったろう? お嬢が誰かに口止めされているのか、自ら口を閉ざしているのかはわからないがともあれ秘密にしているのなら、誰かが足並乱して秘密を漏らすとは思えない。見ただろ、うちの教師陣とお嬢が仲良く談笑してるのを。まず、あそこの団結は崩すには骨が折れると思うぞ」

 もはや僕よりも色々策を考えている結城は、指を左右に振りながら続けた。

「話を整理すると、だな。せんせ、お嬢、教師、親父……と身近な大人たちは全てペケがついたわけだ。あんたの交友はたいして期待できそうもねえし、おれの方でもおれの前にはどうしても親父が間に入っちまうから、なかなか対等に大人と話すことができねえんだな、これが」

「だったらもう無理なのか?」

「ったくあんたは。本当に思考しないんだな。頭巡らせろ。居ただろ? おれともあんたとも対等になり得る大人が一人だけ」

 考えてみたが全く見当もつかない。

結城は猫のようにスッと目を細めた。

「――せんせの編集担当さ」

 言われてもどうにもピンと来なくて聞き返すと、じれったそうに結城が「ほら、あの、若いあんちゃんだよ。せんせと飲みに来てた」

「……っああ!」

僕は両手を打った。確か先日、先生につぶされていた若い男がいた。結城は大仰に頷いた。

「いいか、どうせ今日も、せんせに無理やり連れ出されてここにやって来るはずだ。あんたはせんせの相手をしろ。おれはそのあんちゃんの横についてお酌でもするからさ。その時にちいっと、話題を振ってみるよ。心配だって? おれを誰だと思ってんだ、そんなヘマしないよ。酔っ払い相手には慣れてんだ。……それよりあんたの方がおれは心配だね。せんせ、意外と勘が良いんだから、しっかり意識を逸らしておいてくんないと、やりにくいだろ。いいか、しっかりやんなよ」

「わかった」

「もうじきにせんせに連れられてやって来る頃だぜ、ここで待ってな、」

結城はそろそろと部屋を抜け出し、階下へ降りていった。残された僕はしばらく畳の上に座って手持ちぶさたにしていたが、自然な動きで積まれた先生の本を一冊取り上げた。頁をめくろうとした、ちょうどその時、

「千早、来たぜ。おりて来い」

「わかった」

 僕は本を置いて出て行った。階段の一番下で、結城が嬉しそうに手招いていた。

「ツイてるぜ、千早。せんせたち、ここに来る前に一杯やってたみたいだ」

 僕は彼の影からそろりと店の方を覗き込んだ。先生と若い男の人は前会った時と同じ席に着いて、結城の父親と親しげに談笑している。確かに聞こえてくる声は酔っ払い特有の舌足らずなものであったが、僕は酔っ払っているにもかかわらず、一瞬で酔いを吹き飛ばしてしまった先生を知っているので、末恐ろしいような気がしている。いや、あれも一種の酔い方なのだろうか。ひとに何かを思い切ってぶつける、その思い切りを作り出すような、そんな酔い方。

「千早? とにかく作戦通りにな」

「うん」

「あんまり期待はしてないから、適当にな」

 ぽんと肩に手を置かれた。気を遣われているらしい。思えば、先生と面と向かって話すのは、あの銭湯帰りの日以来かもしれない。家にいると、先生はさりげない風を装いつつも僕を避けている。僕も、内心では避けられてほっと息を吐いている。

「先生」

 緊張を帯びた声で呼ぶ。先生はまたも勢いよく振り返り、僕を見た。驚いた顔をしていたが、結城と一緒に出てきたので、納得がいったのだろう。

「随分と仲良くなったんだな」

「別にそういうわけではないですけれど」

「おいおい。いつになったらあんたはおれを友として認めてくれるんだ?」

 軽口をかわしながら、結城はごく自然に編集の隣に場所を取った。懐の入り方がまるで遊女のように美しく、無駄のない動きである。窺うと、編集の男はほんのりと赤ら顔で、ぼんやりと辺りを見つめている。

「えっと、先生」

 それを見習って、僕はさりげなく先生の隣を陣取ったつもりだったが、かえって不自然さが際立って先生に不審そうに睨まれた。向こうに見えた結城が露骨に肩を落とした。うるさい。

「先生」

「なんだ」

 座ってみても、大した会話も思い浮かばない。元々お互いそんなにベラベラと話したりする方ではなかったし、家の中でもそんなに長く言葉を交わしたことがない、本当にあの日以来の対面である。僕は所在なく辺りを見渡した。呼びとめはしたものの、何を言い出していいのかわからない。かといって、単刀直入に疑問に思っていることを口に出しては意味がないのはさすがの僕でもわかった。結城には自分の頭で考えるよう注意を受けたところである。あまり、質問を重ねるのは良策ではないだろう。

 言葉を探して「あー」やら「うー」やら唸る僕を、見兼ねたのだろう、先生が、

「君も何か飲むかい」

「あ、ああ……でも僕、」

「金ならつけておけばいい」

「いやでも、」

「子供だから酒は飲まないと? じゃあ、別のものを用意してもらえば良い」

「あの、でも、悪いです」

「隣で手持ちぶさたにされるよりましだ」

 そう言って先生は砂糖を溶かした甘い水を頼んでくれた。僕は静かに頭を下げた。先生は遠くを見やって桝に口つけた。

「先生はいつもお酒を飲んでいますね」

「まあね」

 何故ですか、と問いたいところをぐっとおさえて、

「お酒が好きなんですか」

 結局問いかけてしまう。先生はじろりとこちらを見て、

「別に好きではない」

「じゃあどうして」

「酒飲みが酒を飲む理由なんぞひとそれぞれじゃないか」

 濁される。前のことがあってから先生は、僕にあまり好意的に話をしなくなった。やはりフアンを騙ったことが先生にとって大きかったのだろうか。ならばあの時、嘘でも「フアンです」と答えるべきだったのか、今更ながらに思う。

「君は、」

「はい」

 店の喧騒がおおきくなってきた。先生は声を張らずにぼそぼそと話しかけてくるので、注意深く耳を傾けなくては拾えない。

「それで、いつになったら出て行く予定なんだ。可能な限り早く出て行ってくれると嬉しいのだがね」

 先生は結城の父親から刺身と僕の砂糖水を受け取って、呟いた。

「うむ、うまそうだ。君も遠慮せずに飲むと良い。そして、遠慮して出て行ってくれると尚良い」

先生は箸を持った。勿論左手だった。刺身が箸の間から滑っては落ち、先生は苦労しながら摘まんで、えいやと顔を近付け口の中へ放り込んだ。

「先生はどうして左手でお箸を持つのですか」

 僕は露骨に話を変えた。先生の向こうの方では、結城と若い編集が盛り上がっているのが遠くに聞こえた。

「先生が食べたあとの食卓は、食べ物が散らばっていて片づけるのが大変です」

「それが仕事だろう、君」

「先生は右利きですよね? 以前も、僕が右腕を触ろうとしたら突き飛ばされました。思い入れでもあるのですか?」

 お前がそれを聞くのか、とでも言いたげな強い眼光で睨まれた。先生は鼻で笑って、僕を一蹴する。

「僕がこの手を使うのは、小説を書くときだけだ。それ以外のくだらない、つまらない行為のために、この手を使おうとは思わない。それだけだ」

 先生は握った箸を一旦置いて、酒の入った桝を持ち直した。

「僕は並大抵の覚悟で筆を執っているわけではないということが、わかってもらえただろうか、君?」

「……それは、知らなかったです」

「そうとも。初めて言ったからね」

 先生はつまらなそうに眉を顰めた。

「全く。君と飲む酒はひどく不味く感じられる」

 僕は砂糖水をちびりちびりと飲みながら、先生を一瞥した。言いながらも確実に酒の量は減っている。悪酔いしそうなほど。

「君、そんなに僕という作家に拘るなら、いっそのこと編集の職に就けば良い。この隣の奴も、編集をやっている。頼りない、僕の担当編集だ。柏崎(かしわざき)だ」

「あっ、あなたはもしかして、永良川先生の書生さんですか? いやはや、噂は聞いていますよ。先生の熱狂的なフアンだって」

「彼は僕のフアンではないよ」

 間髪入れず、先生は否定した。「作家の語った絵空事にはあまり興味がおありでないようだからね」

「ええっ。そうなんですか。最近の若者はもっぱら現実主義リアリストですねえ」

 そう言って少し考え込むよう仕草をして、すぐにまたはっと口を開いた。

「申し遅れました。わたくし、美木沢出版の柏崎理大(かしわざきみちひろ)と申します。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「……千早千歳といいます」

「千早さん。今後とも、どうぞ宜しく」

 深々と頭を下げた柏崎さんは、そのまま机に突っ伏してしまった。

「もうつぶれたのか。全く、若いのに情けない。付き合いが悪い」

 怒ったように呟いて、桝に残った酒を、先生はぐいっと呷った。その飲み方が少し自棄のようで、放っておけなかった。

「先生。あまり飲み過ぎては身体に毒です」

 先生は、どこか拗ねたように口を尖らせ、

「そんなもの。言われずともわかっているよ」

 そう言ってしばらく手の中の桝を指で弄んでいたが、突然、

「興がさめた。帰る」

 立ち上がり、僕が止めるのも待たずに店を出てしまった。どうしようかと助けを求めて結城を見ると、酔いつぶれた編集に肩を貸してやり、店の奥へ連れて行こうとしていた。目が合うと、結城は顎をくいっと上げて、ついて行くようにいった。僕は少し迷ったが、先生を追いかけるべく走り出した。

 その日の夜も、結局、先生は一度も僕に口をきくことはなかった。何やらぼんやりと考えに耽っているようでもあった。

作家というものは偏屈な生き物だとつくづく思った。



 翌日。馬車に乗った結城が家に訪れた。

「乗れ、千早! 行くぞ」

「行くってどこに」

「編集社さ」

 結城はそれは綺麗に笑った。「あんた、おれに貸しイチ、な」

「へ?」

 彼に促されるままに馬車に乗り込むと、結城は楽しそうに肩を揺らした。

「くくく、あんたが帰った後、交渉したのさ。……いや、そんなもんじゃないな、酔っ払いが正気失っている間に約束させたわけ。編集部を案内してくれってな」

「なんで編集社なんだ? 僕が知りたいのは、先生のことで――」

「そんなこと言われずともわかっちゃいるよ。だから、せんせの担当編集のあんちゃんに話きくんだろ、まず」

 結城は「あんたは相変わらず察しが悪いなあ」と呟いて、

「おれはあんたが帰った後も、立派にお役目を果たしたというのに。本当。いつも以上に丁寧に接待して、あんたも一緒に来られるように口きいてやったのに。まったく。もっと感謝しろ、おい」

「……でもなんで編集社? 先生を避けてのことなら、別に編集社じゃなくてもどこか別の場所でも――」

「編集のあんちゃんがせんせの担当になったのは、つい最近のことだ。本人は元々せんせのフアンだったそうだが――おっとこの話はあんたには耳が痛いか?――、下手すりゃあ、せんせと葉名嬢の過去なんて知らない可能性だってある。となれば、そこでおれたちは手詰まりなのか? 違うだろ。編集のあんちゃんはあくまで架け橋だ。あんちゃんが知らないなら、せんせのことを深く知っている、前の担当編集者をあたればいい。その人も知らないなら、さらに前の担当編集をあたればいい。おれは、一度得た機会を無駄にはしたくないのさ」

 僕は思わず舌を巻いた。まさかここまでこの男が強かだとは思わなかった。それにしてもよく頭が回ることだ。僕は新たな想いで彼を見つめた。結城は「それにしても、」と失笑ぎみに言った。

「昨夜のあんたは傑作だったよ。まァ――、酷い。あんたを知らない人間が見てもあまりの不自然さに目を引いちまう程度に不自然だったぜ。……案外、気づいてるかもな、せんせ」

「何を」

「――おれたちがせんせの隠してる何かを暴こうとしてるのを。でも、昨晩せんせは何も言って来なかったんだろ? だとしたら、黙認しているって解釈で良いかなって」

 馬車に揺られながら、僕たちは編集社へ向かう。



 編集社に入り、結城が柏崎氏の名を口にするなり、奥の方の机からガタン! と音を立てて人が立ち上がり、バタバタと物音をさせながらこちらへと駆け寄ってきた。

「結城君! あと、その友人君だね」

 柏崎氏は頭を掻きながら、へらへらと笑って会釈した。

「なんだか、こういうところで会うと変な感じがするね」

「約束通り来ましたよ。さ、案内してください」

「……うん、約束、したみたいだね。あんまりはっきり覚えてないんだけど……俺そんなこと言ってた? 次から気を付けないと、次はいったい何を約束されるかと思うと恐ろしいよ」

「そんな大げさな」

「大げさなもんか」

 結城と柏崎氏はしばらく親しげに色々と話していた。僕はふと視線を感じて、辺りをきょろきょろ見渡した。すると、向こうで手招きする大きな手があった。僕はさらにきょろきょろしながら、そちらの方へ歩み寄っていった。その手の持ち主は塔のように積まれた紙の束に隠れて姿が見えないのだ。目の前まで近づいてようやく、その武漢のような巨大な上半身を見つけることができた。

「よく来たな、坊主。今日は奴は一緒じゃないのか」

「あなたは先生の……」

 むくりと上げられた顔は濃い髭に覆われた、熊のような人間の顔だった。こんがりと焼けた肌が、真っ黒で、僕は気付かぬうちに一歩後ろに退いていた。

「永良川の奴は元気にしてるか?」

「えっと、はい、まあ……」

「んなわけないだろ、あいつが元気にしてるところなんて久しく見てねえよ」

 ははは、と豪快に笑う声が、地鳴りのように響く。彼の側で資料に向き合っている人たちは、この大声には慣れているようでぴくりとも反応しない。僕は耳に手をやりたくなるのを、さすがに失礼なので抑えつつ、向き合った。

「編集長さん」

 僕はじっと彼を見据えた。そう、彼は先生の元担当編集でもあり、この社を経営する敏腕編集長でもあった。先生とは昔からの長い付き合いがあるようで、以前、先生に編集社を連れまわされた時に、一番初めに挨拶したのがこの編集長だった。柏崎氏が所属しているのはここの社だったのかと今更ながらに気付く。先生に連れられた時は、先生がせっかちなこともあって、編集社に着くなり、次から次と編集社を転々とさせられたのだ。編集社の記憶が混濁している。

 しかしよく考えれば、先生のことをよく知る人物として、これほどの人はいないのだ。僕は結城に心の中で感謝した。僕一人ではとてもここに辿りつけなかっただろう。そもそも、僕は回りくどく誰かに聞いて回ることをしなかっただろうと思う。

 この機会を逃がすまいと。

「――その、僕は、今日、編集長にお尋ねしたいことがあってきました」

「へえ?」

 編集長の目がすうっと細くなった。僕はためらわない。

「永良川先生についてです」

「どうして。俺なんかより、書生の君の方がよほど多くを知っているだろう」

「僕が知りたいのは、先生の過去です」

 笑っていた顔が強張る。

「おい坊主、知ってどうするんだ」

「どうもしません」

 やはり、この人は何か知っているのだと確信する。先生が隠している何かを知っている。編集長は嘆息交じりに言った。

「フアンというものは何かとその作家について知りたがる。知っても何も得がない、人格や、交友関係、趣味嗜好、女の有無――知ってどうする? 結局自分と同じ変わらぬ人間だと知って安心したいのか、それとも作家という人種は何か特別な人格を持ちあわせてないと作家と認めてもらえないのか。永良川も坊主と同じ人間だよ。好きなものもあれば、嫌いなものもある。子供時代もあれば、若い時代もある。それで良いじゃないか。どうして細部まで掘り下げたがる? 奴にとってはすべて終わったことなのに、過去をそう暴かれちゃあたまったもんじゃないか」

「だとしても、知りたいんです」

「じゃあ、坊主の過去を教えろ」

「え」

 編集長はぐっと腕組みをした。

「交換条件さ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

明治作家譚 夢を見ていた @orangebbk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る