水槽少年

夢を見ていた

第1話

            ○。○。○。


 たゆたう世界の中で。体を丸めて息を潜める。そうすると、世界ぜんたいの息づかいが感じられる気がして、自分も世界のいちぶなんだと分かる気がして、ひとりじゃないんだって気がして、すこし可笑しかった。んなわけあるか。

 気まぐれにまぶたをもち上げてみる。天窓から入ってきた光が、ち、と目の奥を刺した。眩しい。思わず目を細めて、辺りを見渡す。そこには水の中を悠々自適に泳いでいるみんながいた。白い子、赤い子。やせっぽちの子、ぽっちゃりした子。いろいろ。さすが元人間、と言うのは褒め言葉になるだろうか。

(おはよう。)

 そう声を掛けてみると、みんなそろってこちらを振り向いた。視線が集中する。それにわざと声を立てて笑ってみせる。今日はなんだか気分がいいです。なんてね。

 形を保てずに崩れて沈んでいく体を、まあいっかとそのまますべて委ねた。みるみる水分子として吸収されていくぼく。融合なんていえば大袈裟だけれど、やわらかく言えば、海に帰るってこと? ぼくはこの世界にいる生物のなかで一番水と溶け合いやすい体質なのだ。そういえば、わかるかな。

 いやいやそれにしてもなんて不安定な生物だろうね、ぼく。それって気をすこしでも抜いたら消えちゃうってことだからね。まあ、消えるなら消えるで別段構やしないけれどさ。

 泡がぼくの顔を撫でた。泡、か。珍しい。ふと目線を下げるとどうやら無意識に呼吸していたらしい。酸素の交換なんて今さらぼくの命が必要とすることないのに。元人間の名残ってやつかな。そう思うとどんなに無駄なことでも愛しく思えるんだから、なんだか不思議だよね。……うん。こんなこと言うと、まちがいなく彼に怒られるから、ここだけの話にしといてね。


            ○。○。○。


 一応チャイムを押して、ドアを叩いて、そうしてノブをひねる。案の定鍵は開いたまま。何度言えば、と水面戸湊はひとり息をつく。

(だって強盗が来たって困らないもの。家には何もないし。万一ぼくの存在に気づいたとしても、なんぴともぼくを傷つけることなんてできはしないんだからね。)

 さも当然と言いたげの口ぶりを思い返して、湊は思わず苦い顔になる。開けた戸を引いて体を滑り込ませ、内側から鍵を掛ける。怒鳴っても彼はまともに取りあつかわないのはわかっていた。だから何も言わなかったが、虚しさだけがこみ上がってくる。

 玄関で靴を脱ぎ、無言で奥へ進む。辺りは沈黙している。周りを取り囲むまっ白い壁が、音という音をその色に吸い込んでしまったかのようだ。生気が感じられないのは空恐ろしい。その空気を壊すことがなんとなく申し訳なくて自然と足音を忍ばせる。中へ進み、左に折れる。現れる螺旋の階段。透き通るガラスで出来た階段だった。最初の段に乗ると、ガラスがまばゆく輝いている。ふと上を仰ぐと、丸い天窓から降り注ぐ日光を目に浴びた。瞬間カメラのフラッシュに似た光がちらつき、何度かまばたきした。わかってはいてもつい見てしまう。

 不思議な造りをしているが、ガラスの段に破損は見られない。そこを先ほど言ったように静けさを侵さないように慎重に、とん、と鳴る足音をすりつぶすように足首をひねって半身になって降りる。提げていた袋は片腕に抱えるようにして持った。もう片方の手で銀色の手すりを握った。忍び足。まるで強盗だと苦笑する。彼も同じことを言うのだろうか。そう思うと苦味が薄れて、ただの微笑になるんだから不思議な話ではある。

 辺りは下に進むにつれて、天井にある天窓の光が届かなくなり、仄暗くなっていく。階段の下にできた影へ目を移すと、太陽の恩恵を受けた塵がきらきら輝いた。綺麗だが、たまには自分で掃除しろと思わないでもない。そのうち堪えきれなくなった湊自身が掃除する羽目になるのだろうが。

 しばらく行ったところで湊は足を止める。

 目の前にはガラスの階段を呑み込む透き通る水が広がっていた。そのことに特別驚いたりはしない。これは別に浸水しているわけではないから。辺り一面水、水、水。むしろこの光景の方が見馴れたくらいである。

 湊は何度か深呼吸して、そして覚悟を決めて息を止めて飛び込んだ。先へ行くには泳ぐしかないのだ。ちなみに、彼はカナヅチである。弾けた飛沫が肌に当たって痛覚をやんわりと刺激される。泳げないくせに、背面から飛び込むのだから、訳が分からないとは彼の友人の言葉だったか。

 大きな音を立て、体が水に包まれていく。彼は平均身長を上回るほどには背が高い。しかしそれ以上に底は深い。彼を呑み込んで落ち着いた水面。そこへもがくように手を伸ばす。が、水の重さに抗えずくの字になって沈んでいくのみ。このままでは溺れてしまう。足をがむしゃらに動かして、上へ、せめて進もうと動く。気づけば口が開く。ごぼっ。大量の酸素が泡となって出ていった。クロールだ。両手をかき回し、足はバタ足。持っていた荷物が邪魔でいっそ手放そうかと迷ったその時。


(あれ。ミナ、来てたの。)

 声変わり前の、高いソプラノ声が耳に鮮明に届いた。直接脳に語りかけてくるような、朗らかな声が。

(呼べばいいのに。どーせ泳げないんだから。――ほんと。へんなとこで意地っぱりだよね、ミナって。)

 その言葉を合図に、辺りの水はおれから離れて波のようにしゅるる、と勢いよく吸い込まれるように戻っていった。水が消えた先にあるのはこれまたガラス扉。木製だと腐蝕してしまうからとかそんな理由だったか。手に提げていた袋が力無く揺れる。むだな努力というやつだろうか。ちなみに湊の体は一切濡れていない。向こうへ行った水が、彼に付着した雫を一滴残さずもっていってしまったからだ。……そういや、この家木材建築だった。彼は扉を開けた。

(もー、ちょっと待ってよ、これコントロールするの結構難しいんだから。ん、しょ)

目の前で水がまるで生き物のように動くのを見ると自然、心魅せられる。本来ならば有り得ない動きである。扉の前を陣取っていた水が、開いたことに気づいてさっと避けるように退いて、竜巻のようにうねりながら一点に向かって集束していく。

(えっと。手はこの水量で、足はこんな形……ああミナ、動かないで。そっか、足ってそんなのだったっけ。何だか一度水になったら以前の姿を忘れちゃうんだよね。よしよしっと)

 気づけば。目の前に小さな姿。両手を腰にやり、こちらをにやにやと見上げている子供がいた。

 ちいさな手や低い身長、幼さの残る顔つきや声質から、『普通』に判断すれば小学校高学年くらいの年頃のように思える。中性的な体つきだが生物学上男であり、一見すれば愛らしい少年の代表例であると。言ってもいいだろう、その前髪から覗く 悪戯めいた、子供扱いする大人を心の底から揶揄するような瞳を見るまでは。

「ミー、ナ。何ぼーっとしてるの?」

 笑うと同時に目が細められた。が、そこに宿した妖しい光は消えるどころかさらに深みを増していた。年不相応な目線のやり方から、不思議と艶やかな妖艶さのようなものが漂っている。そんな目を純粋な子供ができるはずがない。最近では子供でも妙に達観したような子がいるらしいが、だとしてもここまで大人びた艶のある含み笑いはできないだろう。

「ナギ。」

 彼の纏う空気に若干気後れしつつも挨拶を返す。ナギと呼んだ目前の少年はさらに瞳を細めた。

「今日来るって言ってたっけ?」

「いや。」

「アポって大事なんだよー? もうすぐ社会人になる人がそんなんでだいじょうぶ? ぼくは心配なんだよ、きみが社会の波にいぢめられたりしないかなーって。」

 しかしそこには湊を揶揄するような色しか無く。間違っても心配、ということをしているような調子ではなかった。湊もよくわかっているのか、面倒くさそうに少年を見つめていた。けらけらと笑い声が響く。

「そんな露骨に嫌そうな顔しなくても。」

「べつに、」

「大丈夫だって? そっか、まじめなミナ君は荒波にも負けないってことかあ。カナヅチでも波には乗れるってね、なるほど、ぼくの心配は杞憂だったかー。よかったよかった。」

「……端から心配してないくせに。」

「んふふ。」

 

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水槽少年 夢を見ていた @orangebbk

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