咲くら
夢を見ていた
第1話
桜が好きだ。男は終生、口癖のように何度も発音した。どこがいいのかと尋ねれば、目を輝かせて語った。
「まずはあの花弁かな、あと淡い色。遠くから目にすれば白にも見えるが、一つ一つの花は薄ら桃に近い。
そしてしっかりした幹。土の何倍も濃い茶の色。花が散った後の葉の緑もまたいい。しだれ桜も風流があって良いね。あと、花と歌にあればほとんどが桜を指すように、多くの歌人を魅力した素晴らしさ。
それを聞いて桜を目前にすれば、なるほど、と誰もが納得してしまうだろう。例えば、恋の相手に受け入れられない傷ついた心でさえも、見惚れ立ち止まる、なんという愛らしさ。お前には分かるかい?」
というように、男は桜を心から愛していた。もしかしたら妻よりも愛してるのでは、という噂される程であった。あれは一種の病気だ、とまで言う者も一人ではなかった。
男は妻と一人娘と暮らしていた。人よりは気楽な生活を送っていた。それというのは、桜好きが高じて天皇の『桜守』という職業を得たからである。桜は害虫や病に弱い。なので細かく手入れし、桜を守る者のことを言う。
男を雇う天皇は歌を特にたしなんだ。よって春の象徴と言っても過言ではない桜を庭に植えてみたが、一向に花を咲かさなかった。
「咲けないよな。だって愛が足りないものなあ」
可哀想に、と呟く男は天皇の庭が見える度嘆息した。
「本当に可哀想だよ。天皇の桜じゃないなら、すぐにでも助けてやるのになあ」その声があまりにも悔しそうに、大きい音量だったので、有名だった男はす
ぐに天皇に呼ばれた。
「お前の言葉、本当であれば今すぐにでも咲かせろ。嘘であればお前だけでなく、お前の家族も危ないと思え」
「すぐ、と仰いましても。そうですね、一月は欲しいですかね」
「……半月やろう。まあ、精々頑張れ」
歪んだ顔の天皇に男は目もくれず、裸の枝を熱心に見つめていた。
そして半月を過ぎる一歩手前で見事な花を咲かせてみせた。
「今回の桜は素直で良かったです」
満面の笑みで言う男に、天皇は気づけば感謝し、桜守の職を与えたのだった。
――――
「お父さん、また桜?好きだね」
飽きないの?と訊こうとした幼い口を慌てて閉じる。こう問えば男は普段の穏やかさをどこかへ投げ捨てて、恐ろしい形相で怒鳴り散らして、桜の素晴らしさを演説するのだった。
男の家にもまた一本の桜があった。男は名前をつけることは一生涯?になかったが、この桜のみは親しみを込めて『彼女』と人間を示すように呼んだ。
「彼女は桜の中で飛び切り綺麗だからね。見惚れてしまう。……自分の育て上げたものだからかな?」
「ねえ、お母さんは?綺麗?」
「勿論。綺麗だね」
「桜とどっちが綺麗?」
「比べることなんて出来ないさ。どちらも美しい」
「じゃあどっちが好き?」
「……難しいね」
苦笑いして、答えが出たら後でこっそり伝えると約束し、男は筆を取った。
「私が歌を詠むと決まって花という単語が入る。まあ、仕方ない。本当にこればかりは仕方ない」
それから頭を回転させて、歌を詠むのが日課だった。男は幸せそうに微笑みを湛えていたという。
『彼女』は、昔から桜を愛していた男が植えたものである。育った家を譲り受けて、男は生活している。両親とも元気で健康そのものであり、同居する形を取っている。
現在金持ちの男が、何故ここから動かないのかは、言うまでもなく『彼女』の存在である。
「愛娘とか、そういう言葉では表せない存在なんだ。――半身、よりももっと大事な」
これが男の言い分であった。が、多くの人はこれに首を傾げる。男の妻もこの中の一人である。
「どうして貴方、私を選んだわけ?さっぱりだ。貴方はずっと、桜と結婚するとばかり思っていた」
「さすがにそれはない」
苦笑を浮かべた男に女は複雑な思いを抱いたという。
「なら、その桜への執着はなんて説明するのさ……」
女の名前には桜の字が入っていた。
「確かにそれがきっかけだったが、それだけでお前を選んだんじゃない」
「今になったって信じられないよ」
早いとこ天皇様へ行ってきな、そう促され男は惜しむ様子で立ち上がった。
「もう少し見たかった」
「帰ったらいくらでも出来る!」
ある時、天皇は男を呼び出した。また呼び出しか、と渋々足を運ぶと、見下した目でこちらを嘲笑した。
「桜には飽いた。お前、あの木を切ってまいれ」
動かずにいる男に、何度も手を振って行け、と合図さた。
「聞こえぬのか、早くしろ」
「……飽いたから桜を切るだと――?あんた正気か?」
静かに立ち上がった男に、天皇は扇で口元を隠し、気味悪く、声高く笑ってみせた。
「正気も正気!お前の身分をよく考えて物を申せ?初めからおかしいと思っていたのだ。何故にあんな上手く花を咲かせた?お前が、職を得るための策だと考えて当然だろう?
卑怯者め、本来ならば重い処罰を食らわす所だが、数少ない金となかなかの評判の妻を寄越せば、忘れてやらないこともない。お前は好きなだけ桜を眺めて生きろ。ほら、手始めにあの桜を切ってこい」
それでも男は動かなかった。今まで感じたことのない怒りで、後のことさえも考えられなかった。
男はようやく立ち、天皇に飛びかかった。そして思い切り拳を腹へねじりこんだのだった。
――――
「島流しの刑!島流しの刑に罰する!」
低い叫び声に反応することもなく、男は俯いたままだった。
男と二人の父母までをも含めた家族はすぐに船に乗せられて、どこか遠い場所へと移動させられる。そしてそこでは辛い仕置きが待っている。あの性悪な天皇のことだ、そんなことは安易に予想出来た。
「どうして桜に職業を貰ったのに、桜に奪われるのよ?貴方、少し位我慢しなさいよ……」
絶望に打ちのめされた妻に、男は乾いた笑い声を返した。
「弥生だってまだ幼いのに……。どうして、どうして」
「すまない」
「貴方は私たちよりも――!あんな植物の方が大切だと――」
「私は、二度とあの木を思うことはない」
男の目は、真っ直ぐに女を貫いた。しかし、男が見ていたのは女ではなかった。女が背を向けている、自分の家だった。ここからでは遠くてぼんやりとしか見えなかったが、男にはあの桜が彼女だと分かっていた。
(彼女は、これから孤独となってしまう……。私は何てことをしてしまったのだろうか。あの天皇のことだ、彼女を燃やして殺しても不思議ではない。だけれど――)
男は目を閉じた。自分の胸の内が、どうか彼女にだけは届くことを願って。
(私がいなくとも、春を忘れて、花を咲かすことを止めてはいけないよ。君の花を皆に見てもらって、綺麗だと言ってもらわないと。君はどの桜よりも美しいんだから。そして、出来るなら遠い地に居る私にまで、あの花の香りを届けておくれ)
男はそう、思った。
――――
「ねえお母さん、もう桜の季節だよ」
子供の膨れた指が桜を指した。母はその指の向こうへ視線を動かし、本当だと笑ってみせる。
「ああ、でもこれは木曽さんの家の桜だねえ。春はもう少し後だよ」
「どういうこと?」
「ほら、まだ風も冷たいし、お昼だって短いだろう?」
確かに太陽が高く昇る時間帯であっても、隣を横切る風は肌寒くある。母は桜の花を眺め、どこか嘆息を含んだ言い方で呟いた。
「可哀想にねえ。確かに木曽さんは妙な人だったけれど、桜守としては一流だったのよ。彼が通った後の桜は、不思議と生き生きしていたものだけれど。今は皆、寂しそうに枝を揺らしているわねえ」
「ふうん」
「でもこの桜は必ず、一番先に花を咲かせる。この寒い気候の中、花びらを開けるなんて、辛くて大変でしょうに。何か思う所があるのかしら、植物にも」
思案顔の母を見て、子供は少し興味をそそられたのか、もう一度桜を見つめる。確かにここの桜は懸命に咲いてはいるが、辛いのか完全に開いたとは言えなかった。そうであっても、蕾から段々と顕わになる黄色の色に足を止めてしまうのは、仕方のないことだろう。
「その、木曽さんは今どうしているの?」
「……あの人ね、もう随分と前にお亡くなりになったのよ」
「そうなの!」
「悲しいわね、主人はもうこの世にはいないのに、何かを守り続けるように我先にと花をつける桜。悲しいけれど、何より寂しいわね」
二人が去った後、桜は風に揺られ、花弁を散らせた。それがいつもよりも多く散ったのは、一概に気のせいだとは言えないだろう。
――――
桜は親子が通る前から、主人がいないことを知っていた。
桜はどうして自分は無力なんだろうと思った。
桜はいつも隣にいる妻に、優越感を感じていた。男に本当に気に入られているのは自分だと分かっていたからだ。
桜は自分も人間になりたかったと思った。
けれど、桜でなかったのなら男の目には、決して留まらないことを痛い程に理解していた。だから桜は、残る生を男との約束のために使った。
「わたしには伝わっていたわ」
「わたしの香は届いたかしら」
「わたしいつも、寂しくて仕方なかったのよ」
「あなた以外に誰が、わたしの世話をしてくれると思うの」
――人間は愚かにも、戦を繰り返した。
桜の木にも矢や刀が刺さり、違った痛みを堪え生きていた。けれど春になれば必ず花を咲かせた。また散って、散って。散る花を桜はただ見つめていた。
傷つけられたのは、体だけではない。愛していた男の住処まで、それも原型がなくなるまで壊された。桜は叫んだ。しかし誰が耳に出来るだろうか。桜の声を男以外の者が聞こえるはずなどないことも、桜は知っていた。
どんなに苦しめられ、傷つけられても人間を嫌いになることは、一度もなかった。
「わたしを見て。こんなつまらないことなんて、止めておしまい」
「わたしは綺麗でしょう?だって彼が愛を込めて育ててくれたもの。美しくないはずがないわ」
しばらくの間、うわ言のように言い続けた。
――――
段々意識が無くなっていく。意識の消滅は、植物にとっての死だと桜は感づいていた。
武具をした人間が周りにたくさん集まっていた。どの人間も今にも死にそうになっていた。事実死んだ者も多くあった。
「さようなら」
桜は別れを告げた。苦しそうに立った彼らの手に、火のついた木の棒が握られていたのだ。
「これが噂の、未春の桜。寒空でもどこよりも早く咲く、美しい桜。ここまでのものは初めて見た。やっとだ、やっと我らの祖先の罪を償える」
「やりましたな……。おうい桜、お主はもう、花をつけなくても良いのだ!長い間ご苦労。名残惜しいが、ゆっくりと眠っておくれ」
太い根に火がついた。みるみる上へと伝わっていき、根から幹、枝へと燃えていく。その姿でさえ、幻想的で見惚れさせる美しさがあった。桜は何も考えず、ただ火を受け入れていた。
「さようなら、皆さん。わたしの愛した人、さようなら」
一言そう告げて、桜は深い眠りへとついていった。
――――
「燃えても尚、いや、燃え尽きても尚。彼女の美しさは消えませんね」
そう一人が漏らして、皆それぞれに心の内を述べる。
「彼女はきっと、こんな人でも、愛していてくれていたのだ」
燃えた木は、灰になり、二度と花を咲かせることはなかった。
咲くら 夢を見ていた @orangebbk
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