冬の王様
夢を見ていた
第1話
真っ白な粉がちらちらと降りてきた。
私はそれを体で受け止めた。いくつか肌に触れたものがあったが、すぐに融けて消えた。黙って足を動かし、前へと進んでいく。後ろを振り向く勇気などありはしない。私は進んだ。
お腹が減った。三日前に食料をくれた人は、引越すと言っていた。
「この国はもうおしまいなんだよ」
そう言った人は、どこかやり切れない表情だったのを覚えている。
変化のない一面の雪はじわじわと不安を生み出していく。どれほど何も食わず歩いてきたことだろう。そろそろ限界かもしれない。
最期に思うのは一つだけ。せめて、
凍っていた石につまずき、顔から雪に突っ込んだ。冷たかった。当然のことだ。私は立ち上がる気さえ起こらず、そのまま横になった。目を閉じる。
思い出すのは家族と、母の料理の味。あの温かいスープを味わえたなら――。
「帰りたい……」
希望と現実の違いに距離を覚えた。本当は、もっとたくさんのことを望んでいたのだけれど。仕方ないと諦めて目を閉じた。冷たさはもう、感じられなかった。
――
うっすら目を開ける。視界に映ったのは、神々しい金の飾りがついた天井だった。しばらく意識を取り戻そうと待ってみたが、どうも頭の働きが悪い。
火照った頭で体を起き上がらせ、床に足を置いてみる。かなりふらつくが、歩けないことはない。怪我などは何もしていないのだから。
何となく外への扉に向かっていく。生きているのか死んでいるのか、もしくはどちらでもないのか、そういう難しいことはどうでもいい。目の前にある世界だけで十分だと思った。
扉は重く、どんなに力を入れてもびくともしなかった。視界がぐるり、と回った気がした。少し扉にもたれて休み、もう一度押してみた。
「忙しのないことだ」
今度は開いた。温かいものとぶつかった気がする。見上げると金色の何かが見えた。私の好きな色だ、となぜか安堵した。
「きんの、いろ」
「……これは生まれつきだ」
相手がいるのは分かるのに。なぜだろう、目がかすんで姿が分からない。
「わたし、どうしたら」
「じっとしてろ」
その声は芯の冷えた音で、言われてすぐにその通りにしないといけない気がして――こちらから聞いたのに変な話だが――私は元の場所へと戻った。
何かが去ってから、あれは人だったのだと遅れながらも理解した。
――
人は朝昼晩とこまめにやって来て、食事を用意してくれた。パンを二つと温かいスープを口に運び、思わず泣きそうになってしまった。
「遺言がスープになるところだった」
「……次はもっと、まともなものにします」
人は低く響く声をしていた。男だったのだ。私は男の金の目を見て問うた。
「私はイブネリと母から名を授かりました。人はイブと呼びます。あなたは?」
「二つある」
彼は誰も近づけさせない独特な雰囲気をもっていた。私が何も言えずにいると、
「サン・カーチェス・アル・エルベルト。もう一つがカリフィス」
そう名乗った。その王族のような名前は、どちらにせよ気安く呼んではいけないように感じられた。少し悩んで言ってみる。
「……では、王と」
王はどこか驚いた風にみえた。その振る舞い方といい、話し方、そして表情の隠し方と、どれを挙げても王族のようだった。ついでに言えば部屋のごうか な装飾。私は一度もそういった人々に出会うことはなかったが、王からはそれらしい空気が漂っていた。
「的を射ている。確かにおれは王だった」
「だった?……今は違うのですか」
「今は抜け殻の土地しか、手中にない」
長い間があって――どうやら考えているようだったが――、王は私に行け、と一言告げた。
意識がはっきりしてから分かったことだが、それは居場所のない私にとって死への宣告だった。食料はとうに尽き、パンも買える金もない。外は止むことのない雪。死にに行くのだ。少しだけでも暖をとれてよかった。私は王に感謝を述べようとした。瞬間、
「我は主に食料を恵んだ」
腹の底に響く低音で、彼は言った。
「我は哀れな少女を思いて、幾夜かここへ留まらせた。その結果、返ってくるものは何もないとはどういうことだ」
「申し訳ありません……!でも私は――」
「黙れ、言い訳など聞きとうない。仕方がない。主を召使として使うこととしよう。ここの管理を、何から何まで主一人でやれ。食費等は勘弁してやろう。どうじゃ、もちろん主に拒否権など存在しない」
こちらを見据え、言った。
「働け」
「……私は」
「黙れ」
彼は強引に私の腕を掴んだ。
「主の話など興味ない」
私の言葉は無に等しかった。
――
気持ちの悪い恐怖を味わいながら、私は歩いた。そこでふと自分の頭に手をあてる。かぶっていたはずの帽子がなかった。
「帽子なら汚れていたから洗った」
私の様子を見てそう言った。私はうろたえた。すると、疑問に思われたようで答えるのも嫌だったが呟いた。
「髪の色で、この黒の色で、田舎の出だと分かってしまいます。ばかに、されてしまいます」
「そうか」
聞くなり王は興味を失ったように、再び前へ向いた。何となく落ち着かなくて、仕方なく頭に手を置くことで気を紛らわせた。
――それにこのままではいけない。
私は部屋の外に出るのは初めてだったが、どこも金や銀の色の装飾、そして何より広い。床は白いタイルでできており、歩くたびコツ、と鳴った。天井の中心には王族の紋章、竜がいた。ふと気づいたが、広いわりには部屋の数が少ない気もした。
廊下は低い階段につながっていて、王は慣れた足取りで降りて行く。私も後をついていこうとして転げそうになり、背中に頭突いてしまった。私は自分の失敗に恐れと怒りが入り混じった。すぐに謝罪するが、返事はなかった。
どうして私はあんなにも、気安く話しかけられたのだろうか。そう考えてしまうほど王の変わりようは凄かった。まるで別人だった。
そんな心の声が聞こえたのか、彼はくるりと振り返り、私を見た。
「ここが台所だ」
そう言って周りを見渡した。彼の横から覗くと、汚れなど微塵もない。調理道具もきちんと整頓されており、何故かぽつんと、グラタンの入った皿がおいてあった。
「……ここで働くのが、分かっているのか」
場所を確認してから、ずっと下を向いてばかりいる私に問うた。彼の目を見つめることができない。視線を上げないまま、苦しまぎれに叫んだ。
「私は追われている者です!」
「そうか」
王は一切変わらぬ態度だった。私ははがゆさを感じながらも続けた。
「あなたに、大恩のあるあなたにも、追っ手が手をかけるやもしれません!あなたまで罪に問われたら……私は、私を許せません」
「これまでも恩を受けてきただろう?」
言葉の出ない私を王は冷たく見下した。
「一瞬であっても、顔を見て会話をしただろう?食料を分けてもらったこともあっただろう?その恩ある人々だって罪に問われるかもしれぬ。今更何を恐れる」
そして王はまた場所を変えようとしたので、引き止めた。
「それに私は!何も満足にできないです!」
「ならば教わればよいこと。もう話すな、面倒だ」
一つの場所に留まってはいけない、と言いつけられた。逃げてしまおうと考えた。気づかぬうちにそっと、消えてしまえばいい。逃げることには、慣れた。
――
夜になって、王が眠った頃を窺い食料をもらい、窓から逃げ出した。久しぶりの寒気は鼻の奥をつん、と刺激した。よく考えればあの屋敷には不思議なことばかりだ。王の宮殿にしてはあまりにも小さく、暖炉など見かけなかったのに、体を温めてくれる暖が存在した。私は雪を踏みしめ、歩いた。今ならまだ、大丈夫。彼に迷惑はかからないはずだ。
と、ここで自分を名乗ったことに疑問を持った。らしくないな、そう思った。優しくしてもらったからか、と納得した。雪は止むことなく降り続く。ずっと大切にしていた暖もあっという間にかっさらって行く。思わず、寂しくなった。
身勝手な話だ。連れ戻してほしいだなんて。いつからこんなに自己中心に物を考えるようになったのか。自分を叱咤しつつも、淡い希望にかけて後ろを振り向いた。あんなにも怖いことだったのに、今は誰もいない世界が怖かった。
本当に勝手だった。自分に腹が立ち、力一杯歩いた。後ろには勿論、誰もいるはずがなかった。たえられなくて、駆け出した。もう屋敷も見えなかった。何も考えないようにした。
ついに足を止め、しゃがみ込んでしまった。諦めて、しまった。風は強く当たってきた。小刻みに震える体は、どちらの意味をもつのか。凍死は一番綺麗な死に方だという。どうせ死ぬなら綺麗に死にたい。
『死ぬんか』
声が聞こえて、はっと顔を上げた。すると、目前には白い毛色の何かがいた。雪がちらつく中、じっと目を凝らしてその姿を理解した。幼い頃の記憶をたよりに、この動物が雪もぐらだということを思い出す。
「何ですか」
『忘れもの』
雪もぐらの頭に私の帽子が被さっていた。何だか可笑しくて少し笑った。
「ありがとう」
私は帽子を受け取り、自分に被せた。
『帰ろう、どうせ死ぬならもうちょっと頑張ってからにしんさい』
「帰るところなど……ありません」
再び立ち上がる気力はなかった。このまま氷づけにでもなりたかった。雪もぐらはそんな私を見ても、しばらく何も言わずにいた。
『あんたは今、強引にでも連れ帰ってほしいんやろ?引っ張って、連れてほしい。そうしたら責任を全部わしに押し付けられるもんな。でもわしは絶対そんなんせえへんで。坊ちゃんだってそうや』
私にそれだけを言って、雪もぐらは動いた。どこかへ行ってしまうのかと思ったが、彼は雪の中から箱を取り出し、中から皿を出してきた。それはすっかり冷めてしまっていたが、美味しそうなグラタンだった。
「――坊ちゃん」
『料理、上手やよ。ご近所さんや』
それから彼は黙々と食べ続け、私を待ってくれた。もしかしたらそうするように言い付かったのかもしれない。けれどそれを含めても、少しだけ嬉しかった。彼はふと気づいたように
『別に、坊ちゃんから言われたわけじゃあないよ。頼まれたのは正解やけど』
そう言った。では誰だろうと不思議になったが、何も言わずにおいた。
もう一度だけ、頑張ってみようかな、と思った。
「ごめんなさい」
言葉にするのも恥ずかしかったが、私はゆっくり立ち上がり空を見た。いつも通りの灰色。私がここで死んでも決して変わりはしない色。
『ついておいで。こっちや』
雪もぐらは慣れた手つきで雪をかき、どんどん進んでいった。私はそれに小走りでついていき、見失わないようにした。
ずっと不安だった。体を引きずるように走っていた。王は私が逃げたことを知っているはずだ。それなのに戻ってきて、お世話して下さいとは虫のいい話すぎる。やはりこのまま死んでしまおうかと何度も思った。何度も立ち止まった。しかし、彼は決して呆れたりはしなかった。独りだったら絶対に戻ったりしない。ただ彼の存在が嬉しかった。
『死ぬのはな、いつでもいいねん。もう、生まれただけで十分な意味があるから。だから、今のうちに生を満喫して、死へ向かおうや。どうせいつかは終る話やからな』
そうしてまた、走り始める。白い世界のせいで、時間が止まったようにも思えたが確実に一歩一歩進んでいるはずだ。それを彼の掘った雪が証明してくれた。
「あ……」
一瞬、金の瞳が見えた。そう思った時にはもう、足が勝手に動いていた。何から話そう、とか謝ろうとか何も考えてなかった。
扉の前にまで来て、自分が呼吸もろくにしていなかったことに気づく。ここで立ち止まったのは、恐れか。私は自身に言い聞かせた。
「私は、何を言われても仕方のないことをしたのです」
そしてふと、あの動物の存在を思い出した。後ろを振り返ってみたが、どこにもいなかった。だからといって、夢だとは考えなかった。頭の上の帽子が証明してくれる。そこで、動物というものは人の言葉を喋るのか、と不思議になったが、心の中で一度感謝をして再会を望んだ。望んでも叶わないことなど数え切れないが。
私は扉を開けた。窓から戻ることもできた。けれど、全てを無かったことにするなんて、してはいけないと分かっていた。
全身を使ってようやく扉を開けると、彼は台所に立ち、温かそうな飲み物に口をつけていた。彼の姿を見た瞬間、私は死ぬほど後悔した。彼は黙ってこちらに視線を動かした。その視線がたまらなく、耐えられなかった。
「……逃げたのに、戻ってきました」
苦し紛れにそれだけ言葉にすると、彼は言った。
「お願いします、恥を知って申しています、お願いします」
自分で進むとは、こういうこと。何度も繰り返した。彼が良いと告げるまで一歩も動かないつもりだった。王は場を立ち去ろうとしていた。
「私、教えてもらうなんてこと……言ってもらえたの、初めてなんです。そのことがすごく、嬉しかった」
王は一度だけ振り返り、自室へと帰っていった。どうしようかと思ったが、その場にうずくまり、目を閉じた。良いとは、言ってもらっていない。
――
朝になって、よほど疲れていたのかすぐに眠ってしまった自分に驚いた。しゃがんでいたはずの体は、床に寝転がり目覚めると彼の足が見えた。
「こんな場所で寝るな」
すみません、とすぐに立ち上がり、彼を見つめた。何をすればいいのだろう、私は不安になりつつも、なぜか嬉しそうにしている自分を知っていた。
「……次からは部屋のベッドで寝ろ」
そう呟いて、王は台所へと足を向けた。私もついて行くと、速い手つきで調理の準備に入った。私が呆然としていると、ちらりとこちらに視線を移し、
「紙にでも書き留めておくなりしておけ」
「あの私は、字も書けません」
そのことに呆れもせず、彼は手順よく食材を刻み、炒めた。余りのグラタンが丁度二つ分あったので、それがテーブルに出された。
「これを明日、同じように作ってもらう」
炒め物を指し、彼は食べ始めた。グラタンはもう一度焼かれていたので、チーズが硬くなっていたが、それでも美味だった。私は食材をあんな風に刻めるか正直不安だったが、何も言わないでおいた。
朝食後、王は私に字を教えてくれた。初めての文字を記すものに触れ、王の真似をするように書いてみるが、線の延長でしかなかった。それでも何でもよかった。それ位面白かった。
それからしばらくして、この建物の掃除を始めた。中は一般の家より広いので大変だったが、また楽しくもあった。
「ここは変わり者が生活していた小屋だ。元の屋敷は潰された」
小屋、というほどの小ささではないのに。身分の違いとはこれほどのことかとぽつりと思った。
――
ここでの規則が一つあった。それは庭には出入りしないこと。王が度々行き帰りしているのを目の当たりにしていたが、それを私がしてはいけないこと。私は好奇心など起こらなかった。何よりそんなものを持ってはいけないはずだ。でも、以前に食料をもらった家では、どんな生活を送っているのか、など気になったものだ。
その規則以外はほとんど自由に等しい扱いだった。無いものとして扱われていると言うべきか。
規則よりも不思議に思ったことは、まず、暖房器具を機動させていないにも関わらず、部屋が暖かいことだった。それも特定の場所だけでなく、全体に。そんなことは現代の技術ではあり得ないことだし、それが可能ならとっくに世界で大騒ぎだ。それだから水仕事もあまり苦ではなかった。
食料も、いつ買い足しているのかと思うほどに有り余っている。よって、私がいくら失敗しても困ることはない。ちなみに料理の腕は全然で、申し訳ない気持ちになる。が、彼は何度でも完璧にできるよう毎日同じものを作り、見せてくれた。
――そして何より王について。私が外で物思いに耽っている時も、当然のように知っているのだ。
「外にいると追っ手に探されるだろう」
と声をかけてくれた。そして、私が皿を割った時も、その数秒後にはもう、駆けつけてくれていた。このどちらの例えも、彼はあの分厚いドアの向こうにいて、音など決して拾えはしないはずだ。
最後にもう一つ挙げるとすれば、ここに来て以来、一切追っ手に感づかれていない。
「王は何か特別な力でも、あるのでしょうか……?凡人にはない、何かが」
「つまらぬ」
これ以上は何の返答もくれないことを分かっていた私は、もう一杯貰うために席を立った。
――
休憩時間に、王から貰った楽器を奏でている時、彼が落ち着かない風で部屋から勢いよく出てきた。
「緑がない」
彼はそう言い捨てて外へ出ようとした。すぐに私は後を追いかけた。なぜなら上着も手袋も何一つ身につけずに、出て行こうとしたからだ。この寒い中そんな薄着で歩いては凍死してしまう。私は上着かけから彼の物を引ったくり、背伸びして上から被せた。すると、彼は珍しく反応した。目を大きくさせて驚いていた。なので、
「驚くのは私の方です、王」
と思わず、少し叱るような口調で言ってしまった。しまった、と思い恐る恐る彼の様子を窺うと思いの外、気にしてはいないようだった。
「……ああ」
「……行ってらっしゃいませ」
そっと顔を伏せてそれだけ伝えると、彼は扉を開けた。外の風が中に入り、気温が下がった。身震いしながらも背中を見送って、私は再び楽器を手にした。
出て行ってすぐに、彼は息を切らして帰ってきた。
「来い。準備をしろ」
唐突にそう命じられて、私は瞬時に体が動いた。のんびりと用意していていては、彼の気が変わってしまうかもしれない。部屋へ転がり込むように入り、無茶苦茶に用意した。
上から下まで思い切り厚着して(それでも寒いのだ)、彼の隣に立つ。何故かは分からないが、一緒に外へ出るなんて初めてで、心が浮き足立つのを感じた。
「どこへ行くのですか」
「隣町だ、そう遠くない」
外はこれだけ防寒しても寒く、息が白く吐き出される。外はほとんど何も見えない。それでも王に必死でついていった。空は薄暗く、相変わらず不気味だった。
「なぜ、戻ってきたのです」
「大した用もない」
この雪ばかりの景色を無言で歩くのは、さすがに慣れていても寂しすぎた。思わず過去の自分を振り返りそうになり、いつもより多く口を動かした。
「王、私はあなたと外へ出るなんて、初めてのことで――」
「そうか」
「私、町なんてじっくり見る機会なくて――ああ、今も、でした」
自分で言って切なくなって、俯く。一面の銀色に、ため息が漏れた。
会話、そういえば、誰かとこんなに長く会話なんて。と私は思った。いつもなら感謝と謝罪で終わってしまうのに。私はこの短い幸せを出来るだけ長くするために慣れない口を必死で開け閉めして、言葉を紡いだ。
「隣町に、何度も行き来してるのですか?私知りませんでした。ここに町があるだなんて」
「――ある」
「ああ、王。私は追われているのに町なんて……」
「あの節穴どもが、見つけられるはずもない」
彼は遠くを指差した。見つめた先にはたくさんの灯りがあった。この雪の中で多くの灯りはにぎやかな雰囲気を纏っていた。そして再び彼に視線を戻して、やっと気づいた。
「王、手袋もされていませんよ!マフラーも、何もしてません!この極寒の中よくそんな格好で……」
「忘れていた」
「そんなに急いでも忘れるなんてこと……、――し、死にませんよね、大丈夫ですよね」
「死なぬとも」
王の手はこれ以上なく赤くなっていた。私は恐ろしくてたまらなかった。上着を忘れただけで、手袋等は身につけているとそう思っていた。よく考えればそれはおかしいのだが。私は彼に問うた。
「一度戻りますか」
「何故」
「あなたが死なれては、困ります」
「お前にとっては好都合だろう」
そう言って彼は歩き出した。別に私はそういう風には考えてなかった。考えが及ばなかったのが正しいか。聞こえないであろう彼の背中に私は呟いた。
「そんなに私は酷いと思われますか」
どう転んでも、あなたは私の恩人だ。そんな抑え切れない悔しさを、雪風がそっと宥めてくれた。その冷たさは美しい武器なのだ、とまで感じた。王は本当の意味で私を見つめてはくれない。私はあくまで居候で使用人なのだ。当然のことがなぜか、たまらなく苦しかった。
――知り合いの上にはいられないのだろうか。胸が締め付けられる思いだった。
――
町に着くと、彼は一目散にとある場所へと急いだ。彼の歩幅で歩みを速められると、私は頑張っても、惨めなほど距離が生まれてしまう。やっと目的地に着いた彼はすぐに扉を開き、中へと入った。私はその姿を目にしてから、いくつか間が入ってようやく到着することができた。町の様子など確認できる方が無理だ。
「王!」
息を整えながら姿を探すと、彼は誰かと話をしているようだった。迷いつつも話の邪魔にならないよう静かに彼の隣を目指すと、誰かが嬉しそうに歓声を上げた。
「おお、なんて綺麗な色なんだ……。なんてことだ、素晴らしく、美しい!お嬢さん、失礼ですがその色をほんの少し、分けてもらっても宜しいかな」
色、その単語が出てきたことに疑問を持つと、もしかして自分の髪を馬鹿にされてるのか、と思い、手で頭を隠した。帽子はあった。先ほど走ったから、少々乱れているがしっかりと黒髪を中へ押し込んだはずだ。ならば何に対して言っているのだろう。
「いや、その黒髪も良い色だが、そちらじゃないな。その雰囲気、というか――うん、具体的な説明は難しい」
「あの、どうして髪の色が」
「ああ、気にしていたりするのかな?すまないね、つい見えちゃって」
「見える?」
私が質問を続けようとすると、それを知られることを忌々しそうに王が断ち切った。
「レニ、そんなことは後だ。これからの話がある。……お前はどこかで時間を潰しておけ。金をやる、好きにしろ。――終わったら呼んでやる」
そう言ってお金を握らされた。そしてすぐに右手を私の前に出し、話し出した。出て行け、無言の手が妙に寂しかった。私は何か言おうとして、口を閉じた。無駄だと思った。無性に悲しくて目を伏せ、方向転換して扉を開けた。
「お嬢さん、待ってるよ」
慰められた、気がした。
――
最初はひどく落ち込んでしまって、適当なベンチに腰掛けてずっと地面に視線をやっていた。ふて腐れていたと言われても仕方がない。――あの男の人の名前は呼ぶのに、わざわざ分けるように呼ぶ私の代名詞が、これ以上なく辛かったのだ。ここ最近私はおかしい。――もしかしたら名前を呼ぶのが王族にとって恥なのか、という都合のいい推定が簡単に壊されてしまった。
そんな気持ちの中、ふと顔を上げた。気を紛らせようとした。そしてやっと、この町の素晴らしさに気づいたのだ。たくさんの灯り、ガラスを通して見える品物たち。何より人々の笑顔が存在することに、驚きを感じた。私が知っている表情の中で笑顔は、家族と慈悲の満ちた微笑みだけだった。
興奮のあまりばっと立ち上がると、背後で動物の鳴き声がした。
「雪猫?」
返答するように鳴いた。可憐にベンチから降り、私の足元へやってきた。私はしゃがみ込み、観察した。雪に溶けてしまいそうな白い毛をふわ、と毛玉のように浮かせていた。触れてみたくて恐る恐る手を差し伸ばすと、ぷい、と顔を背けられてしまった。
「す、すみません」
雪猫は歩き出した。それを見てついさっきのことを思い出し、落ち込んでしまうが、私がついてきてない事を知ると足を止めた。
「おいでってことですか?」
鳴き声一つ。私は思わず嬉しくなって、すぐに駆け寄った。その身振りが気位の高い女性のようで、少し笑えてしまった。
「どこを案内してくれるのですか」
言ってすぐにこの質問の仕方はおかしいな、と思ってもう一度言い直した。
「私にとって良い所へ案内してくれますか?」
彼女は応えなかった。私は歩みを遅くして問うた。
「悪い所ですか?」
返事が返ってきた。それならば戻ろうか。そう思ったが、一体どこへ?
「私が行かなかったら、噛み付いたりします?」
彼女は振り返り、口をにんまりと開かせた。分かっていてやっているならば、凄いと思った。何となく命令された気分になり、仕方なくついて行った。それに、今の気持ちを少しでも別なことに向けられるなら、何でもいいかとも思っていた。
彼女は一つの店の前で立ち止まった。ここが私にとって悪い場所。彼女は足を鼻でつついた。入れ、という意味だろう。扉を開けた。
しかしそこには、想像以上のものがあったのだ。悪いなんてとんでもない、輝かしいまでの品物が。小箱や屋敷(小屋というには忍びないので)にあった書く物、紙や様々なものが置いてあった。見るもの全て初めてか随分久しぶりのものなので、夢中になって眺めた。ふと隣をのぞくと人々は品物を手に取り、必要性を計っていた。それに習い、ものというものを片っ端から触り尽くした。掲げてみたり、開けてみたりと色々なことをした。しかし、どうしてもそれを欲しいとは思わず、胸だけを一杯にして店を出た。彼女は扉の横で、利口に座っていた。
「雪猫さん、お待たせしました」
そう伝えると立ち上がって、私の前を歩いていった。彼女はまたとある店で立ち止まり、中に入るよう促した。
そこにも素晴らしいものが存在した。私はそれを見て、外に出て、次の店へ行くということを何度も繰り返した。繰り返したが、右手に握っている金を使おうとは思わなかった。
「こんなに話し相手になってくれる方は初めてです……。ああ、家族の次に、です」
彼女は短い尻尾を振りながら、前へと進む。たまに通行の邪魔になる時があるが、すぐに高い場所へと移動し、道を譲った。賢い子だな、と思った。
「私の恩人は、そんな風に優しく接してはくれないのです。私が、嫌なら……どこかへ追い出せばいいのに。私だったら、そうします」
彼女は何も言ってくれなかった。何だか前にもこんなことがあったな、なんて辛い心情を隠そうと笑った。
「中途半端に、優しくされては困ります」
言い終えた瞬間、鋭い風がやってきて、思わず目を閉じた。その同時に何かが体に当った気がした。
「お姉さん、取って!」
目を開けると、小さな男の子が三人いた。どの子も隣の子と同じ顔、同じ服装で、口が動いていないと、誰が話しているのか分らないほどだった。彼らの服装はひら、とした薄い生地のもので、どの人が見ても寒そうであった。
「何見てるのさ、取ってよ!」
彼らの指の先を追いかけ、自分の足元に小さな人形が落ちているのを知った。私はしゃがんでそれを取った。気づくとその人形を三人の内二人は持っていた。仲良しなのだな、と微笑ましく思い、真ん中の子に手渡した。
「すみませんでした」
「本当だよ!」
そう言い終ってすぐ、右の子が雪猫に気づいた。彼はすぐに抱きつき、心底楽しそうに笑った。
「お姉さん、マルと仲いいの?」
「マル?」
「この子の名前。裁縫屋のおじさんとこ」
裁縫屋、初めて聞く言葉だった。詳しく訊こうとして、彼はお構いなしに喋った。
「マルはね。基本女の子嫌いなんだよ、男の子なのに、変だよね。ぼく、時々会いに行くんだけど、いつ見ても女の子にいかくしてるよ。ウーって」
それを耳にして、思わず口を塞いでしまった。彼女は、彼だったのだ。失礼なことをしたと、ちらりと彼を覗くと目を合わせてきて鳴いた。怒ってはいなさそうだったが、猫の言葉なんて分からない。もしかしたらこれ以上なく憤慨しているかもしれない。
「すみませんでした」
ともかく謝罪し、彼らの人形に目をやった。色違いの雪熊の人形だった。可愛らしいな、と微笑んだ。
「お姉さん、この人形はね分かっちゃうんだよ」
全く同じ声で左の子が話し始めた。
「――お姉さんさ、寂しいんでしょ?」
どん、と重い衝撃のようなものを感じた。的を射ていた。私はどう答えていいものかと迷った。
「話さなくていいよ、隠さなくたっていいよ。ねえ、寂しいんでしょ?」
彼を抱えていた子が続けた。マルは一鳴きした。
「寂しいなら、おいで。隣にいてあげる」
「おいでよ、待ってるから」
「そこの角を右に曲がったらすぐに分かるから」
「分からなかったら、きっとマルが教えてくれるよ」
「おいで」
そう言って彼らは私に背を向け、走り出し、すぐに消えてしまった。
「私、そんなに寂しそうでしょうか」
私は隣にいる毛玉に伝えた。
「興味があるので……、行ってもいいですか」
精一杯の強がりだと、雪猫でさえ分かってしまうだろうか。
――
大きな雪熊の看板が目印だった。気づかない者はいないはず。私は落ち着いているようにゆっくり入っていった。中の賑やかな声に耳を傾けつつも、目はしっかりと動いていた。目当ての物はすぐに見つかった。同じ顔でも色が違うものが何種類もあり、正直驚いたがそんな中にでも好きな色はなかった。仕方なくそれに一番近いものを手にとり、皆がするように店の者へと歩きだした。
人形に寂しさなんて分かるはずがないことも、私は理解していた。動物が喋らないことも知っていた。
しかし夢でもいい、あんな風に慰めてもらったことは覚えていたかったし、可愛らしい人形を持つのが羨ましいなと考えたのである。
少し、ほんの少しそれを思い出し、抱くことによって、気を紛らわしたいと考えたからである。私が背負うものは一生だ。その一生の中での一瞬が、どれほどありがたい事か、人には分かるのだろうか。
「お願いします」
黄色い人形を渡し、初めて手の中にあった金額を目にした。心の臓が飛び出るかと想うほどに高い金額だった。ここに来て初めておどついてしまい、こんなものを握りながらよく生きていたな、と思った。
「大丈夫だよ、お客さん」
店の人が話しかけた。「お釣り、ちゃんと返すから」
その言葉を信じられず、一枚の札を守るように左手を引くと、大笑いされた。
「じゃあ先に返すよ、はい。だから交換、大丈夫?」
文字はかけないが、計算はできる。私は何度も確認し、了承した。店の人は人形をなぜか袋に仕舞い、それを渡した。
「はいどうぞ」
変に笑いかけられ、不審に思うと店の人は、思い出したように私を引き止め、店の奥へと消えた。
「あとこれも。おまけ」
そう言って受け取った細い布に、見覚えがあった。
「リボンですね」
「そう。熊ちゃんの首に巻いてあげて。可愛いから」
何となく悪い人じゃなさそうな気がして、私は少しだけ笑いかけた。するとまた大笑いされ、やはり悪い人だと思い込んだ。でも、赤いリボンは嬉しかった。
私は店を出た。入る前には気づかなかった小さい鐘の音が、耳に入った。
……
鐘がちりん、と鳴った。男の子が一人帰ってきた。
「おかえり」
「疲れたよ、お兄さん。なんたって三人で町を三周半して、十回も人形落として十回も話したんだから。売上は?」
「残念だけど十人中二人だったよ。そうだ、マル君に会ったでしょ」
「正解。釘刺されちゃった。『犯罪に近いことをまだやっていたのか。そんなことをしても誰も良い思いはしない』って。さすが生活に一切困らない繁盛店の子だ。……ということは来たんだ、あの子」
「帽子の子ね。でも可哀想だな」
「何が」
「――ごめんね、俺は監視役なものでね。大変なわけよ」
――
店を出ると慣れない金額の金とで、妙に落ち着かなかった。彼が教えてくれた店で甘い菓子を買って、彼にあげた。大丈夫、これ位なら私にも返せるはず。
「色々なところへ連れて行ってくれて、ありがとうございます。でも、王はまだなんでしょうか」
前足をなめていた彼は急に耳をピンと尖らし、大きな声で一つ二つ鳴いた。急なことで驚いたが、すぐにまた違うことに驚くことになる。
『お待たせしました、裁縫屋のご主人』
地面が割れ、足場が崩れてよろけた。原因を探して下を向くと、大きな雪亀が顔を出していた。マルは雪亀の頭に跳んだ。うまく着地し、こちらへ来るよう目で合図される。
道の半分を埋めた大きな雪亀は、私が知っているものと甲羅の形が随分違った。甲羅は水平な形になっており、その上に座席、それも豪華そうな椅子がいくつか用意されており、それらはガラスのような物の中にいれられていた。平らな甲羅の端にはまた美しい装飾の階段があり、私はマルに助けを求めた。
「こんな素晴らしいものに、私は乗れません」
そこで初めて彼は私に威嚇した。毛を逆立て早くしろ、と怒っていた。今更どうして言葉が通じるのか、と考えてしまい、ぽつりと口を開けた。
「乗れません……。私歩きますから」
『それは困りますねえ。おお、失礼。私は運搬屋三角形の1の角でございまして、ここで言う三角形とは星の一等星という等級に似たようなものでして、三角形を一番高い位として、四角、五角、六角……と位が下がっていきます。その三角形の中での1の角とはそれはもう、最高の地位でして。つまり私は――』
マルは向きを変え、今度は喋る雪亀に怒鳴った。すると失礼、と咳払いとともに謝罪の声が聞こえた。
「そんな偉い方が私のためになんて、さらに理解できません」
『あなたのため、と言いますか正しくはサン坊っちゃん様のため、ああ、痛いですよご主人、ええと失礼。ともかく仕事をしなければ私は危ない位置になります。例えば一億角形の三千八百十一の角なんてね。ですからお乗り下さい、お願いしますよ』
恐ろしい数の話をされ、よく理解できなかったが、雪亀が困ってしまう結果になるなら、と私は汚さないように階段を上って行った。
『つま先立ちなんて、器用な方ですね』
「え、はい」
『私には到底真似できませんね。まず、階段を上ることが出来ない』
最後の段を踏むと、彼に大丈夫だと伝えた。そして入っていいのか迷っていると彼は不思議そうにした。
『お嬢さん、中には入らないのですか?暖かいですよ』
「私みたいなのがここに乗って……いいんでしょうか」
『何でいけないと思うのですか?』
出発しますよ、そう声を優しくかけられては、入らないわけにはいかなかった。私が扉を開くとマルも一緒に入ってきた。中は彼の言う通り、とても暖かかった。
『ではいきます。行き先は裁縫屋ビスです』
そう言い終えて、すぐに彼は雪の中へじわじわと潜っていった。雪が彼を受け入れているようにも思えた。何となく隣に問いかけてみると、彼は首を捻った。彼にも知らないことがあるのだ。なぜか彼は博識なのだと決めつけていた。
外は何も見えない。真っ黒な暗闇の中で、マルの光る目だけが、しっかりと形を持っていた。すると、光がどこからか出てきて、辺りを照らした。そして、彼が上へと昇っていった。
「おかえりなさいマルさん、お嬢さん」
王と話していた男が、お辞儀した。私もお辞儀し返し、扉を開けた。彼は待っていたというように飛び降りた。私は雪亀にお礼を言った。
「ありがとうございます」
『こちらこそ。では失礼!』
私が降りたのを何度も確認し、彼は再び雪の中へと消えていった。私はすぐさま王の元へと歩き出した。伝えたいことがたくさんあった。まず、お金のこと、そして熊の人形、雪亀の仕事っぷり。王はどこまで知っているだろうか。私は店へ入り、彼の姿を探した。
「王、ただいま帰りました!」
勿論彼は返事などしない。分かっていても形だけ残しておきたかった。――もしかしたら、と淡い希望があった。
彼は金を支払う場を占領するほどの、大きな布を置いてその一部を手に何かをしていた。私が恐る恐る近付いてみると、彼は針を繰り返し布に通していた。
その姿は昔見た母に似ていて、少し懐かしく思っていると、どん、と衝撃が走った。
「うそ……」
彼は針で壮大な絵を描き出していたのだ。布一面には巨大な木が一本、描かれており、彼はその枝から生き生きした緑の葉をつけていった。何色も重ねてできている刺繍は、まるで一枚の絵のようだった。いや、絵以上も美しい、言葉にならないほどの神々しさ。本物の木だってこれ程に綺麗だろうか。
気づけば私の目から、心の中の留まりきらない感動が流れ出ていた。私は何を思っていたのだろうかと思った。どうして子どものように、彼に甘えていたのだろう。あんなにも素晴らしいものを生み出す美しい彼。
「帰ったか」
振り返った王は私の様子を見て一瞬だけ無表情ではない何かの表情を表したが、すぐにそれを引っ込め再び手元に視線を戻した。
「今まで何をしていた」
「……町を、見ていました」
「話せ」
しり込みしていると、鋭い視線が返ってきた。涙ながらに事細かく語ると、彼は満足したのかしてないのか、よく分からないままに鼻であしらった。どちらにせよ、十分だということだろう。少し寂しかった。
あまりにも、喜怒哀楽を表現しなかった。最初はそこまで私を嫌っているのか、と落ち込んでいたが、私に口を開くな、と言うときに必ず感じる違和感。怒気の含まれない言葉。
冬の王様 夢を見ていた @orangebbk
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