精霊の森

夢を見ていた

第1話



 *


精霊が出る。学校には怪談といった話が付き物だが、事実それは生徒の暇潰しに過ぎない。それが国語担当のマリ・ジュアンヌの意見であり、本来ならば教師全員の意見であるはずなのだ。

「下らないわ」

生徒だけではなく、教師――大の大人までもが精霊の話を口に出し始めている。それも冗談ではなく、至って真面目に。中には震え上がり、仕事を辞めた者までいるという。マリはその者の気がしれなかった。幽霊の類なんかに職を投げ出すとは。教師としての誇りは無いのか、マリは思った。

日が沈んでも、仕事は山のように存在する。重い紙束を抱えながら階段を上る。校舎は他と比べれば狭いが、まだ建てられて間もないので、特に何もしなくても綺麗なままだ。

よって掃除の時間は真面目な子以外、ほとんど動かない。  

それについてはマリも叱れずにいた。

「こんなに綺麗だもの。汚くなったら掃除すればいいのよ」

教師の立場にいると正直にはものを言えない。マリは大きく息を吐いた。切ったばかりの髪が視界に入る。

「短いの、駄目かしら」

恋人に見せに行けば、長い方が良かったと言われた。今更元に戻るわけではないのにと、内心怒鳴る。いや、面と向かっていても怒鳴ったが。

「……次からは止めよ」

呟いて、はっとする。――こんなこと小説などの中だけにしてほしいが――背後から視線を感じた。実はこれが初めてではない。精霊沙汰になり始めてからずっと、足音を耳にしたり視線を感じたりしていた。

「いい加減にしなさいよ……。誰!」

学校は定時に外から入れなくなる。入るには暗証番号を知らないといけない。が、勿論教員しか知らない。では、誰?教員だろうか、しかし一体何の為に。黙る闇にマリは怒りすら覚えていた。

「早く出て来なさい!」


「あは」

返ってきた高い子供の声に鳥肌が立ち、声の方向を見つめる。有り得ない、その言葉が脳内で繰り返される。どうして子供がここにいる?第一、今は外から入ることが出来ないはずで――。

「お姉さん、きれいだね」

言い終わるなり、恐ろしい速さでマリに何かがまとわりついた。紙を持ってられなくなり下に落とす。反射的に悲鳴が漏れ、必死に抵抗する。始終聞こえる笑い声に、マリは言葉にならない叫びを上げた。

「ここから去りなよ!」

余裕のないマリはただ悲鳴を上げるばかりだった。が、闇は何故か笑ったように思えた。

「は、放してえ……」

この言葉により瞬時に何かが離れ、マリは自由を得た。色々と確認する前にがむしゃらに駆け出した。振り返る勇気もなかった。


「エルダー、エルダー校長……」

その名前を呟き続けることで、恐怖で遠のく意識を何とか繋ぎ止めた。

「助けて」

しかし限界。マリはその場に崩れ落ちた。 



 *


早朝、わたしは今日の準備を終えて、出ていこうとした。あまりゆっくりしていると一日籠っている羽目になる。ドアノブに手を伸ばし、後ろを振り返ると

「ルーちゃん」

お姉ちゃんの顔が巨大化していた。普段より互いの距離が狭いからだ。驚いてとっさに一歩さがると、追いかけるように一歩近づいてきた。

「お姉ちゃん?わたし、急いでるけど」

「ルーちゃん、やっぱりお姉ちゃんは良くないな、って思います、どうぞ」

「……でもこれ以外方法ないよ」

わたしは視線を落として、強く意思を込めた。

「――わたしたちの学校を、守らなきゃ」

お姉ちゃんは下がる視線に潜り込むみたいに、わたしと目を合わせる。いつもこれで逃げられなくなる。わたしは困って俯いた。お姉ちゃんは言った。

「うん、そうだね。でも人を傷つけてまでやることかしら、どうぞ」

「傷つけてない。おどかしてるだけ」

「それを何と思うかは人によるわ、どうぞ」

「お姉ちゃんはここに居たくないの」

黙った瞬間を見逃さない。いや、見逃せない。一分後にはここを出ないと一日が終わってしまう。お姉ちゃんは分かっているだろうか。仕方なくわたしは、合図を送った。お姉ちゃんの目を貫くイメージで、強く強く。

「ルーン・ハイビスの名前に恥じない行動を実行すること。今日も約束する。……どうぞ」

「くれぐれも怪我なんて負わせては駄目よ?分かるよね」

頷くと、見上げた先に同じ茶髪の女性が立っていた。同じでも、あんなに綺麗にカールしない。わたしは幽霊みたいなばさついた髪。でもこの姿でいないといけない。

「お友達探しに行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

笑った姉。胸が苦しい。嘘だよ。わたしは悲しい。ドアが開いてわたしは外へ歩き出す。

「わたしに友達も、――他の人なんか必要ないよ。家族がいれば、それでいいもの」

重い鞄を背負いながら、足早にその場を去った。足音が辺りに響いて、消えた。  


 *


珍しく落ち着きのない職員室に入ると、近くにいた職員が頭を下げて、すぐに興奮した様子で寄ってきた。

「校長、ご存知でしょうか――例の話」

「ああ、真に下らないな」

背が高い俺は、天井を伺いながら発言する。ここの天井は低く、気を抜けば頭が当たる恐れがあった。――いや、実際のところ度々ぶつけていた。顔の方はナルシストではないが、まあまあだと自負している。俺の声に恋人のマリがすぐさま近づいてくる。

「エルダー校長!無事ですか?怪我などはないですか!」

「騒がしい」

電気を意識してぴしり、と落とした声にマリは硬直する。ここ最近、マリの存在を持て余している。何が原因だろうか。飽き性だからか?と自問して、無視し続けた。本当に恋仲と呼べるのだろうか。マリは大声で嘆いていた。

「会った時から今まで、反応が何一つ変化しないんですけど」

「……それで、騒がしい理由は」

「また無視ですか!」

「お前が一番ややこしい。少しは静かにしろ」

何も言えなくなるマリを可哀想な目で見てくる同僚。マリは容赦なく睨みつけた。それに構わず俺が促すと、教員は興奮を露わにして答えた。

「出るわけです……。ここには幽霊、いや精霊様がうろついてるんです!」

「馬鹿らしい」

音量の大きさに耳を、手で塞いだまま聞いていた。

何度も謝る教員。今度はマリが馬鹿ね、と皮肉げに笑っていた。広くない背中が項垂れる。まだ若く、教師となってまだ間もない。仕方のないことなのか、と言えばそうだが――俺も甘くはない。マイナス点で評価しておく。これがある程度たまれば、こちらから辞めてもらうよう告げるのだ。

ここの学校では校則以外は俺が規則で。結構やりたい放題やらせてもらっている。

ふと気づけば、他の教師らも輪を描くように集まってきた。集まりの中の一人が声を上げる。

「校長、精霊騒ぎは怪談なんて話ではありません!私は何度もどこからの視線を感じたり――」

「それはお前が気になる男のせい、というところか?」

「まあ、校長先生ったら」

顔を赤らめる教員に、マリはすかさず睨み付け、俺にも同じ視線を向けた。が、意図的に無視する。

「――続きは?」

「ええ、僕が知っている限りではですね――、確か家庭科のリル先生が背後から子供らしき足音。被服室の扉が音を立てて揺れ、扉を開けるとそこには赤い水滴が――、信じてませんね?他にも被害がたくさん出ているんですよ……!」

一歩前に出てきた男は、音量に注意しながら、ただし興奮の色は隠さずに話し始めた。

 まず、理科の教員は精霊の存在を信じている。数学は二、三度精霊の姿を目にしている。笑い声が聞こえる。大人には決して真似できない子供、の声。

 技術は一瞬の隙に、赤い水滴が一面に垂らされていたという。鍵をかけられたり、姿を確かめようとして待機しても、感づいたように現われなかったり。

 マリは自分から話し始めた。

「私なんてしがみ付かれたんです!それで、学校から去れ、なんて、言われて……!すごく恐かったんですから!本当です、本物ですよ!」

「お前は元々が恐がりだろうが。気絶したんだろう?意地張ってるからだ」

 俺はあまりの事の些細さに、そしてそれにご丁寧に悲鳴を上げてくる大人たちに頭を抱えた。愛想どころか、可哀想になってくる。

「お前ら、一体何年生きているんだ……。そんな話、馬鹿らしいと思わないのか?子供ならまだしも、大人がびくついてどうする」

 俺は考えていたことを告げる。どうしてそこに考えが至らないのか、俺は全く理解出来なかった。

「精霊は子供が演じてるに決まってるだろう」

「校長こそ馬鹿ですか!」

 一斉に声を揃えられ、こちらが逆に唖然としてしまう。顔を真っ赤にしてまで怒りを前に押し出さなくとも――。教員らの言葉はばらばらだったが、全ては俺を批判する言葉だったのは間違いない。


「いいですか、ここのセキュリティーは万全なんです。決して子供が、入り込めるはずがありませんッ!有り得ないんです。暗証番号、校舎に住むあなたは知らないかもしれませんが、声や指紋等の厳しい審査があってこそ、ここへ入ることが出来るんです。それも体育の教師は何ですか?外に出るたび照合を受けないといけないなんて、手間以外の何物でもありませんよ!」

 日頃の鬱憤までぶつけられ、俺は苦笑を漏らした。それは初めて知ったな。最近この位置にまでのぼりつめたので、学校の詳しいことは全く耳に入っていない。いや、資料には載っていたかもしれないが。

 

ここの学校では校長はあくまで飾りでしかない。つまり、本質的に言えば教員の立場の方が上なのだ。しかし、昔定められた規則が未だに生きており、俺はかなり楽なのだ。言い換えれば、多くのことを俺は知らない、触れても、いない。しかし、わざわざ自分の身を忙しくすることもないので、この規則をいじる気は毛頭ない。このことは校長の者しか知り得ない。

 教員らが知っているのは、俺が学校に住んでいるのと、頭が余程賢いということだけだろう。校長は頭の出来で決定される。

簡単な話だ。この世界は賢い者のみで形成されており、堅物しか存在しない。よって、精霊といった怪談に耐性のない頭だけの者たちばかり、ということだった。例外はあるが。

「セキュリティーは完璧。怪談は丸々信じる。様々な可能性は、常識的に考えて有り得ない。……それがお前らエリートの考えだ、と。それでいいな?いや別に、呆れているだけだよ。そんな怒ることはないだろう?」

「――何が言いたいんですか」

「精霊はいない。正体は人間、それも子供だ。理由は明白、お前らの言葉をまとめただけだ」

 俺はその場にいるのも嫌になって立ち去る。どうしてそう大事になるのか。俺が居た学校では怪談なんて、当然のように根付いていたのに。初めて耳にしたことなのか、戸惑う顔が多すぎる。どうして。

俺は普段通り、外へ出る気もなくてそのまま部屋へと戻った。外出ならベランダで十分だ。新しい校舎は綺麗だが、どこか物足りない気がしてしまった。

 まるで、今の俺を表現したみたいだ、と自嘲気味に笑った。



 *


翌日、なんと俺の目に精霊らしき人物が映ったのだった。

自分の身分を良いことに、日課の学校巡りを暇潰しにやっている最中のことだ。

ふと、窓の外を覗けば何かが校庭でごそついていた。三階から見たのもあり、それが最初は茶色の塊にしか見えなかった。目が悪いのは不便だな、と息を吐いて階段を降りた。

近づくにつれ、丸められた背中が見えた。しかし、いくら声を上げてみても無視される。我慢出来なくて玄関まで走り、動いてくれるなよ、と願って駆けた。一度も土を踏んだことのない靴を取り出し、無茶苦茶に履いて校庭へと急ぐ。

我が生徒とすれ違っても、挨拶一つ無かったのは嘆かわしいことだ。まあ、俺を不審者とでも思ったのだろうが。

俺はこれ以上ない不細工な走りで目的地を目指した。運動不足どころではない。普段から全く、全然、動かしてない体は早くも音を上げる。息が切れ、今にも事切れそうである。首を上げて空気を思い切り吸おうとして、失敗してむせる。

心が走っても、現実は全く進まなかった。何度も立ち止まり、呼吸を整えて再び歩き出す。距離はそんなに離れていない。散歩でも息荒く帰って来るのに、急に走ればこうなるのは当然だ。

「……やっぱり、体力って大事だな」

と痛い位思っていても、苦手なマラソンや短距離その他諸々をやろうとは思えない。運動をやってるやつらの考えは分からない。何が楽しくて毎日走り回っているのか。

 意識を必死に繋ぎ止めながら、やっとのことで小さな姿の前まで辿り着くことが出来た。小さな手を忙しなく動かし、何かを作っていたようだ。完成したものを顔に付ける。

「お、おい」

 乱れた呼吸を戻す時間も惜しくて、言葉を発する。すると紙に描かれたぐちゃぐちゃの絵と目が合った。どうやらお面を作っていたようで、目の穴から茶色が覗いていた。

「なに?」

「……びっくりした」

 面の出来は正直三歳児並みであった。勿論、彼女は三歳ではない。冗談や世辞でも上手だとは口に出来ないほどだ。ともかく色をつけてみたような作品だった。

 その作品から覗いた目が、嬉しそうに輝いた。

「本当に?ね、本当に?よし、わたしこれでやつらを追い出しに行く」

そう言って立ち去ろうとした少女の髪を、つい、と摘まんで引き止めた。ぼさぼさの茶髪を前髪だけ上げていた。そこを手に取ってやれば、少女も止まらざるを得ない。少し不機嫌そうに質問してきた。

「何か用事?」

「いやいや、これと言ってはないけど――」

「じゃあ何?あ、分かった。わたしとお話したいんだ。そうでしょう?」

「ん?ん……。そうなんだよ」

「お面のことでしょう?そうよね。……わたし、戦ってるの、戦士なの」

話が掴めず、首を傾げると怒ったように頭にあった手を払われた。

「わたしはわたしを守るために戦ってる。あなたもここに住んでいるでしょう?」

「……知ってるんだ」

「ええ。よく知ってる。あまり外に出ないみたいだけど」

「本当、よく知ってるな」

 そう言うと、もっと外に出なきゃ。場所を取られちゃうよ。と注意される。照れ隠しにも見える。微笑ましくて穏やかな表情を浮かべると、彼女は丁寧に説明し始めた。

「ここには悪いやつがたくさんいるの。教師、とか言う大人たち。簡単な話しをしてあげよっか。やつら、お金が大好きで、わたしたちのようなのが嫌いなの。ここに勝手に住んでるから。お金も払わず。――でも、おかしいよ。わたしみたいな子供になんて、仕事があると思うのかってすぐ言う。なのに、お金は何としてでも欲しい。矛盾してるよ」

「――そう、だな」

 心からの賛同が出来ない。理由は明白、俺もその大人代表であるからだ。金があればある程度のものが得られる。その事実に酔っている一人だ。

 俺が黙っていると、不安と怒りを複雑に混ぜ合わせた視線を送ってくる。

「あなたも、その一人?」

「ち、違う」

「……わたしは信じていいの?」

「勿論」

 咄嗟に否定する自分に、呆れる。今この瞬間、俺は嘘を吐いたのだ。そしてふと、未来へと思いを馳せる。気づいた彼女は、どんな表情で自分を幻滅するのだろうか。しかし、今更である。これからも接する可能性も無い事はないが、半分も存在しないだろう。

 開き直り、彼女に別れを告げようとする。しかし、ここで帰してくれるはずもなく。

「あなた、大人だけど良い人っぽい。名前は?」

「――君は?」

「わたしはルーン・ハイビス」

 戸惑った。この名前で彼女は気づいてしまうだろうか。しかしここで名乗らないのもおかしい。偽名を使うのも、何故だか嫌だった。

「エルダー・バイル」

「何て呼んでほしい?」

「……名前で」

「さんは?」

「必要ない」

 じゃあまた、そう言って去った彼女に、何となくまた会いたくなってしまい。思い切り手を振る。大人らしくない。先程の可能性云々は頭のどこへやったのか。

 ルーンは笑っていた。

「あなたに教えてあげる。わたしは精霊なの」

 彼女の存在を、敵か味方かと問われれば、間違いなく、

――敵。



 *



「ご機嫌さんね」

「そんなことないよ」

 わたしが答えた。するとお姉ちゃんは静かに首を振った。

「何があったの?教えて」

「何もないよ、いつも通り」

「いつも通り、先生たちを驚かせたの?」

「違うよ。そんなことしてない」

 嘘だよ。

 いつも通り教師らを倒していった。今日の戦績は全勝。国語の教師に、何故かたくさん校舎の周りに植えてある松から、松かさをいくらか頂き、投げつけ。

 理科室の机に一杯の松かさを配置し。職員室近くの水場にここでもまた松かさを、ぎっしりと詰めてやった。あくまでも狙いは教師であり、大人であり。子供は関係ない。

「強いて言えば?」

「……味方が、出来た、だけ」

 分かりやすい答えだと、思われたかな。


 *


 騒がしい声と乱暴なノックの音に目覚める。嫌々ながらゆっくりと身を起こしてドアの前へと歩く。

「マリか」

 ノブを捻ると、ご立腹中のマリがそこにいた。これは面倒なことになってきたな、と伸びてきた前髪を掻き揚げる。まだ今一つ機能してくれない両目のために何度も瞬きをする。朝日、ではなくどうせ昼の太陽の光だろう、眩しい。 

彼女の短髪が反射した。

「何度呼ばせるつもりですか。喉が痛いです」

「朝から何の用だ」

「……貴方が外へ出たからというから、それも急いだ様子で」

 顔を伏せる。今までの勢いをどこへやった。

「またあいつか――」

 この手の話は早いからなあ。と息を吐くと、恋人を落ち着かせるためにぐい、と顔を寄せた。そしてそのまま前髪へキスを落とす。

「別に何でもない。心配しなくていい」

「何でもないなら、教えてよ」

「生徒と話してただけだ」

「……そう」

 珍しく消極的な彼女に少し驚きつつも、やっと帰ってくれるのか、と心の中で喜びつつ、悟られないよう目を閉じる。目は口ほどに物を言うからな。

「いつまでも、隠し通せると思わないで」

 冷たく言い放って踵を返した彼女に、呆れて叫ぶ。

「勘違いも甚だしいぞ!」

「も、って何よ!」

 何でこう、面倒くさいのだろうか。俺は思い切りため息を吐いてやった。正直、縁を切ってしまいたい。こういう性格は苦手であり、嫌悪感を抱いてしまうのだ。適当に付き合うことを受け入れた自分への罰だろうか。今、ここで彼女を振れば、――癇癪持ちの彼女は――脅しに入るのだ。

「私を捨てればどうなるか、知ってるくせに……ねえ」

 俺を縛ってみせたつもりか?

「そこまで簡単な男ではないんだなあ、俺は」

 精霊といい、女というものは何でこう、面倒なのだろうか。そっと意識を遠くへ押しやった。考えたくないものが、考えられなくなればいいのに。

 目を、閉じた。


 *


「あれ、噂の精霊じゃない?」

 授業が全て終わり、放課後となった時間。生徒の一人は精霊の姿を確認する。

 噂の精霊。植物のように太い茶髪を振り回し、校内を走り回る、恐怖の精霊。目が合えば死に、触れられれば地獄へ落ちるという、なんという化け物。

 しかし生徒はその話を面白がっていた。是非ともお会いしたい、そこまで思っていた。何故なら、実際に死んだ者などいないし、この話はどうせ嘘だろうという噂で持ち切りだったからだ。噂が上書きされていく。恐怖することなどない。恐怖心を振り払った生徒らは、幾度か精霊にちょっかいを出し、激怒させたこともあるという。

「私だって」

 その生徒と友達であると、好奇心も倍となる。生徒は静かに後を追いかけ始めた。丸っこい精霊は、神のお面をしながらあちこち歩いている。両腕一杯に松かさを抱えながら。

「松の精霊。格好いい」

 うっとりとその単語に酔いしれながら、精霊はふらふらと動く。生徒はぎりぎりまで近付き、飛びついた。

「うわッ」

 驚いた精霊は松かさを思い切り投げてきた。かなりの至近距離なので痛い。ここは校舎の丁度裏側にある場所で、人通りは少ない。よって加勢も助けも

呼べない。かといって放す気にもなれない。弱虫と言われたままでは帰れない。

必死にしがみ付いていると、急に精霊の動きは止まった。

「分かった、わたしが羨ましいんだ、そうでしょう」

「何、言ってるの?」

 というか精霊は喋れたのか、噂では醜い鳴き声しか口に出来ないと聞いたのに。草むらに思い切り腰をつけて話し込む精霊に、行儀が悪いな、と睨みながらも自分は腰を上げた。精霊は両手をあげて拍手しながら笑い始めた。

「わたしには家族があるもの。それが羨ましいんだ」

「……あんた馬鹿?家族なんて皆いるわよ」

 何を言い出すのかと思えば。精霊の口から出た家族という単語が、あまりにも不似合いで、こちらも笑いが零れる。一方の精霊は唖然として、言葉を発しない。

「そんなことよりもあんた、校長先生に会ってたでしょう?……いつだっけ、一週間前くらいかな。仲良しなんだねえ」

「か、家族、あなたにもいるの……?え、校長?わたし、知らないよ。そんなやつに会うわけないじゃん。大嫌いだもん。憎い、憎いやつだもん」

「知らないわけないでしょう?エルダー校長。プリントとかで配られる写真と同じ顔だった。精霊ってこの中学校について博識だと思ってたけど、違ったんだねえ」

 エルダー。道理でどこかで耳にした名前だと。精霊は愕然とした。泣きそうになった。死にそうになった。死にたくなった。

「わたしには、お金がない。お父さんお母さん、どこかに行った。おじいちゃん、死んじゃった。恐い人、たくさん来た。でも、それでも。わたしだけ持ってる家族がいるから、頑張って来れたんだ」

「ふうん。精霊って人間みたい。残念」

 蹴りの一つでも食らわせてやったと皆に言えば、皆は驚いてくれるだろうか。もう馬鹿にされることなんて、ないだろうか。生徒はすく、と立ち上がって涙ぐむ精霊に足を出した。

 軽い体が飛んでいく。唾を吐いた。汚い。汚らわしい。生徒は気づけば無茶苦茶に手足をあげ、優越感を感じながら精霊の体を傷つけた。甲高い悲鳴が心地良かった。精霊は、精霊でも何でもなかった。生徒は笑った。

「人間になれなかった、出来損ないじゃない。言葉を話すこと自体、腹立たしい、気持ち悪い」

 強い自分。小さな体が嗚咽を漏らし始めた。咳をし、唇から血が出ていた。

生徒は女だったから良かった。暴力なんて扱ったこともなかったから良かった。男なら、こんな程度では済まなかっただろう。

ただし、生徒には言葉を持っていた。今ここで何を口にすれば、この少女が傷つくのかを、よくよく知っていたのだ。

「あんたはずっと一人よ。最愛の家族をね、私が消してあげよっか?出来るよ。今の私なら、あんたよりずっと強いもの。まあでも、皆が持ってる家族を自分一人のものだなんて!……ねえ、なり損ない。どうしたら止めてもらえるか分かる?分かるよね。謝らないと、いけないものねえ」 

「うう……」

少女は悔しかった。何一つ反論出来ない自分が、裏切られた自分が、縋っていた自分が。

「無力だ、なんて……!」

 大声で叫んだ。周りは誰も何も気づきはしない。

再び腹を蹴られ、何度も何度も謝罪を述べさせられる。ようやく解放されたのは、日が完全に暮れてからであった。

動けなかった。少女は起き上がれず、涙で掠れた叫びを上げていた。

その声により、夜の空気はずっと震えていたのだった。



 *



 帰ってきたわたしを、お姉ちゃんは今までで見たことのない表情で迎えた。

「誰にやられたの」

 わたしは何も言わなかった。ただ静かに憤怒の表情のお姉ちゃんを、睨みつけていた。

「家族は、わたしたちだけの物ではない。皆、平等に存在する」

「……分かったの」

「どうして教えてくれなかったの?どうして、お姉ちゃんの口から伝えてくれなかったの?」

 わたしは揺らぐ瞳を見ていたくなくて、俯いた。そして、ぎっと目を瞑った。

顔の全てを隠してしまう程に長い前髪が、音を立てて垂れてきた。そう、これ

も、わたしたちの為だったのに。

「うそつき」

 この言葉が相応しい人物が、もう一人いることを忘れてはならない。

「貴方はもう、わたしの姉でも、何でもない」

 もう、今すぐにでも死にたくなった。顔を上げなくとも、姉が傷ついたこ

とぐらい、すぐに分かる。姉は誇りに思っていた。わたしの姉であることを。

「もう二度と、わたしの名前を呼ばないで。二度と、目の前に現われないで」

「ルーちゃん、私が今まで言わなかったのは――」

「出てけッ!あんたの顔なんて、見たくないんだから!」

 何かを胸の内に留めたような声がした。扉を開けて、駆けて行く姉の足音が

した。わたしは何も言わなかった。何も動かなかった。

「自己犠牲ほど、気持ちの悪いものはない」

 どこかの本で読んだ、難しい言葉。そんな理解のできない言葉が、何よりも

今のわたしに、ぴったりだ。



 **



「ああ、校長先生!私ね、知ってるんですよ」

 そんな気軽に声をかけられた。興味が湧いたので、マイナス点をつけながら

話を聞く体勢になる。マリとの関係のことか。それとも?

「先生、精霊と話してたでしょう?」

 出てくるとは思わなかった単語に、驚きを隠せずにいた。


 現在地は運動場で、俺は会いたい人がここにいると聞いて、仕方なしに足を

運んだのだった。時間は丁度放課後で、人込みが少なくなって来た頃である。

 ここの中学には部活というものは存在せず、運動するくらいならば、勉強し

なさい。という名門の中学校である。となれば必然的に教師のレベルが上がる。

 つまりは校長の位置にいる俺は、トップクラスであるということだ。内心で

自慢する。


 俺がどうしてだ、と尋ねる。すれば、さも当然だという風な返事が返って来た。実際に「決まってるじゃない」と言われた。

「本人に確認したの」  

「本当か」

「少しいじめてあげたの。――あいつ、生き物として最低レベルだよ、だって金もないし、家族は自分だけのものだと思ってるし、学校行ってないし」

 汚らわしいものを口にするような表情に、俺は知らずの内に睨みつけていたようで、睨み返された。

「何?先生、仲良しなの?あんな人間じゃない物に?知識もなくて、金もないとか……もう最悪だよ、よくもまあ生きてられるね」

「……その精霊は、他に何か言ってたのか」

「怒ってるわけ?」

「別にそうじゃない。早く答えろ」

「――嫌だよ!」

 そう言って走り去ろうとしたその腕を、思い切り掴んでやった。背負っていた鞄が頬を掠めた。丁度、夕日と向き合う形となり、眩しくて目を細める。その瞬間を見逃さず、思い切り振り払われて逃げられた。


「先生が訊けばいいじゃん、裏切り者」



 *



「なあ、校舎で使われてない場所って、どこだ」

「そんなの山ほどあるだろうが」

 唯一の信頼出来る人物だ。体育の教師、アフタ・ゴール。しかし、噂好きであり、マリに余計なことを教えたのもこいつである。まあ、今はどうでも良かったが。 

「手伝って欲しい」

「……給料上がる?」

「働きに応じて」

 すると、腕に抱えていた体育用具を地面に叩きつけ、近くにいた新米の教師に押し付けた。俺は構わず進み出した。後ろからアフタが黙ってついて来た。ただ事ではないことに、気づいたんだと信じたい。

「マリさん元気?」

「お前のお陰で、騒がしいよ」

「そういや、何しに走ってたわけ?あの重たい足を全力で使う位、切羽詰ってたんだ」

「少し静かにしてくれないか。急いでるんだ」

「……何で」


「急がないと、傷が塞がらない」

 我慢出来なくて、駆け出した。戸惑う声が聞こえた。それでも追いかけてくれると信じて走った。

 勿論、すぐに抜かされる結果となったが。



 *



 精霊が住み着いている場所を探し出すのは、意外なほど時間がかかってしまった。何故なら使用禁止になっている場所は、山ほどあったからだった。埃まみれの所、綺麗だが壊れている所、無駄に広いのは時として最悪だと思った。特に急ぎの場合は。

「鍵の担当が、お前で良かったよ」

「うん――、精霊探しねえ」

 何でそんなものに興味持っちゃったのか。絶対にお前が首を出さないジャンルじゃないか。そう責めるような口調に、俺は沈黙という答えを返した。

 走り続けるには体力がなくて、仕方なく歩いて回っている。アフタの足音に一本の鍵の音が合わさる。最近の技術は発達していて、鍵一本で全ての錠を開けてしまうというのだ。昔の人間から見たら、目まぐるしい進歩だろう。タイムリープしたくなるのでは。そんなことを考える位には余裕があった。体力が底ついたことによる、諦めのお陰でもある。走ることが出来ないなら、歩く以上に時間の短縮は有り得ない。近道も存在しない。


 またもや、はずれなのかと鍵が水のように変形するのを眺め、落胆しかけた瞬間、視界に飛び込んできた茶色の固まりに驚く。驚いて、すぐさま駆け出して――よくもまあ足が動いたものだ――後ろから羽交い絞めにする。

「ぎゃあ」

 と少女らしからぬ声で叫び、全力で抵抗する。落ち着くまで待っていようという策略だったが、どうやら上手くいきそうもない。仕方なく暴れる少女の上から言葉を紡いだ。

「どこを怪我したんだ」

「エルダー……!放せ、ここはわたしの場所!お前らになんか、お前らになんか」

「いいからどこを怪我したのか言え!」

「放せ馬鹿!これだから、これだから金持ちは嫌いなんだよお」

「金持ちでくくるな!」

「ええと、あのさ」

 二人の間に入るアフタが、申し訳なさそうに声をかける。

「まず、エルダーはそこのお嬢さんを放すべきでは?穏便にしよう、ね?」

 そう言って開かれたままの扉を閉じる。その音にもびくり、と精霊は体を振るわせた。

 マリさんに知られたら、色々面倒なんでしょう?と尋ねてくる。

埒もあかないので、アフタの言う通りにした。

「訊きたいことが二つ」

「……どうぞ」

「走れたんだ?あと、怪我したのはその子?というか誰?我が校の生徒とは見えないんですが」

「精霊だよ」

 ふと精霊の手元に視線を落とすと、いくつもの辞書と文字の印刷が透けている紙が机の上に散らばっていた。部屋、というよりも小さな空間には、布団が二つに机椅子が一つという、非常に生活し辛い空間が出来上がっていた。開けた窓がいくつもあり、春から夏の生温い風が辺りに充満していた。こまめに掃除をしているのか、埃っぽくない。

 紙に書いてある線を眺めると、どうやら絵を描いていたようだった。ちなみに俺は美術を少し齧っているのであれだが、恐らく素人が見たとしても、この絵画へのコメントは控えたいことだろう。頭を抱えたくなるほど絶望的、進歩の兆しが見えない絵だった。

 俺がその絵を見ているのに気づいたのか、上半身を机につけて視線を遮らせた。

「見るな」

 茶色の髪により、口しか目に出来ない。睨んでいるのだろうが、分からなかった。

「おい、アフタ。俺が抑えるからこいつの怪我、よろしく頼むわ」

「え、医療器具なんてないだろ」

「おお、忘れてた。ちょっと取りに行ってくれる?」

 給料上げる、の一言でお使いを頼まれてくれるとは、ちょろいものだ。とほくそ笑んでいると、精霊がこちらを見上げてきた。

「わたしに優しくして、何が楽しい?」

 髪の隙間から覗いた目が、恐ろしいまでの憎悪を宿していた。その目が、気に入らない。気に入らなかった。

「何都合の良いように解釈してるんだ。間違ってるぞ」

 長い前髪をまとめ上げ、額をぶつけて目を合わせた。その目が揺らいだ。

 本来の目的は精霊を慰めてやろう、と。何故かそう思っていたのだが、変更だ。こちらがわざわざ出向いてやってるというのに、その態度は何だろう。そんなに大人を信じられないのか。どうなんだ。

「大人だから、金持ちだから。そんなことで区別してどうなんだよ」

 黙っている。俺は静かに言葉を続けた。

「いいか、もう二度は教師を狙うな、その代わりに。――俺を狙えばいい」

「どうしてわたしが、あなたの言葉に従うと思うの」

 反抗の色。俺はふと、歪んだ笑みを浮かべた。そうだ、こいつにはこの手があった。

「お前の大事な家族、狙われたくないなら、言うことをきけ」

 二人だけの空間。あの甘い友が助太刀に入ることはない。俺はそのまま自分の言い分を述べた。

「俺は今日から部屋を変える。この校舎の校長室は少し狭くてな……。隣の校舎をほとんど譲り受けるんだ。俺以外、余計なことをすんなよ。何なら、お前もあちらに移るか?まあ、拒否すればお前の――」

「裏切り者、お前も同じじゃない」

 気を許していたことにより、腕が外れる。自由になった精霊は、前髪を掴む手を思い切り払いのけた。

「そうだな。お前はこの学校に迷惑をかけてる、ならず者なわけだ。裏切って何が悪い?というかお前の勘違いだろうが」

「ひひ、開き直りなんて、醜いぞ」

「もしかして、恐いのか?家族を楯に取るものなあ。恐いよなあ」

「――残念ながらその脅しは五回目、なんだよ、ね」

 俯いた。窓から入ってきた風に煽られ、見えた表情がひどく寂しそうに感じた。

「五回目?」

「そう、だからもうね、一回目の時から手は打ってあるの!お姉ちゃんならもう居ない。追い出したもの!つまり、わたしと一対一。わたしは逃げもしないけれど」

 再び顔を向けられる。外には出ないものの、内心焦っていた。理由は分からなかった。

「最初は蹴られただけだった。一人だった。でも、それからは一人増え、また増えて木の棒とかも使われた。足も痛い。うまく曲がらないの。手は青くなってるし、少し動くだけでもすごく痛いんだよ?夜になってもここまで帰られなくされたこともあるよ、硬い石を頭に何度もぶつけられたこともあるんだよ。お姉ちゃんには言ってないよ」

 今度はこちらが黙る番だった。言われてみて初めて、少女の腕が、顔が、足が、ぼろぼろだということに気づいたのだ。少女にしがみ付いた時、表情が苦しそうに見えたのは、嫌悪感ではなく、痛みによるものだったのだ。

「ねえ」

「な、んだ」


「あなたは何をするの」


すると頭に重い衝撃が走った。男の拳を思い切り食らったのだ。立っていられなくて、床に膝を着く。焼かれたように痛かった。頭に手を置き、何度も撫でた。

「何!やってんだよ……!こんな小さな子、泣かせるか?」

「へ?」

 少女の両頬から――これも言われて初めて気づいたことだが――、涙が流れていた。泣かないものだと思っていた。涙声には聞こえなかったし、何より自分のされたことを伝える口調が、どこか人を馬鹿にしてるように感じられたからだ。

「そんな趣味があったのかよ、残念だよ」

 冗談めいた言葉だが、明らかに呆れられ、怒りの対象となっている。こいつが怒れば長いからなあ、と他人事に考えていたのは、違うことで頭が一杯だったからだ。

「ご、ごめん……、泣くなよ」

 いつから泣いていたんだ?ねえ、と呼びかけた時からなのか?どんなに体の全ての部位が優れていないからといって、いきなり視力が下がるものなのだろうか?過去の自分とともに消滅したくなった。

「誰が泣いてるの……?そんなの、違う」

 わたしは強いもの。こことお姉ちゃんを守らないといけないんだもの。強くないと、いけないんだから。

そんな弱い声で、どうして強いと思えるんだよ。

俺は頭を撫でるアフタを横から押し退けて、少女と向き合った。視線を合わせるため、しゃがむ。すると、少女も逸らさずに見つめてくれた。

「すまない……、俺が悪かったんだ」

「当たり前じゃない」

「少し、意地悪をしてみたかったんだ、その目が嫌だったんだよ」

「そんなので許されることじゃない」

「そうだよな」

「……お金があるなら、助けてよ」

「金なんてなくとも助けるから、今から、必ず」

 少女の丸い拳は、震えていた。体が震えていた。

「嘘つき、裏切り者、なんで急に優しくなるのよ」

「今からは正直者だ」

「それが嘘だったらどうするの」

「……そこまで行けば、答えなんて見つからないだろう?」

 少女の前髪を上げた。茶色の両の目は潤み、涙を溢していた。顔には、小さいものから大きなものまで傷がたくさんあった。

 机の上にあった工作に使用していたのだろう、鋏を借りてその長い髪を切った。後ろで悲鳴に近い声が聞こえた。茶の髪は根元を残して切り離された。

「お前はもう、ここから引越ししよう。その内にここまでやって来る生徒がいるかもしれない。俺の所へ来い」

「お姉ちゃんは……」

「後で来るように言えばいいだろう?姉妹喧嘩なんて、可愛いものだよ」

 兄弟喧嘩に比べれば。そう言って肩に抱き上げる。今度は抵抗がなかった。疲れていただけかもしれない。けれど、それは信じてくれたことなのだと、勝手に解釈して嬉しくなった。こんなことでも人は嬉しくなれるのだと、改めて確認した。

「何か持って行きたいものは、そこのお兄さんに言え。おいアフタ、場所を変えるぞ。あとついでに俺の部屋の手伝いもしてくれないか」

「……お前、マリさんが見たらどうすんだよ」

「今日あいつは風邪で早退した。柔なやつ」

「エルダー校長に言われたら、終わりだって」

 給料、普段の百倍ね。そう笑ったアフタに、さすがに無理だと笑い返した。小さな腕が、首に回ってきた。

「おとさないでね」

 あなたは落とすの?と返って来なくて良かったと、安堵した。



* *



一緒の部屋にしないかと誘ったが、静かに首を振られ拒否されてしまった。その様子をアフタは複雑そうに見ていた。マリのことを考えているのだろう。お人好しも大変だな、と同情する。

 少女は、いけないと言っているのによく外出した。そしてたまに怪我を負って帰って来るので、何度も外出時には呼べ、と言ってるのに馬耳東風であった。

わざわざ理由を尋ねたりしない。その時必ず持って出かけるものが、何よりの理由だからだ。本人は何も言わない。今日も少女は一人外へと足を向けたようだ。俺の隣の部屋――少女の住まう部屋――はもぬけの殻だった。

 少女が来てから俺が外靴を履き替える回数がぐん、と増えた。

 蒸し暑い風が横切る。今は授業中なのだろう。外には誰もいなかった。

 こちらの校舎は生徒が入ることを厳しく禁じているので、少女の姿が見つかることはなかった。普通安全な場所にいるものではないのか。

 ――そんなに、そんなに絵が描きたいのだろうか。


 今日は比較的早く探し出すことが出来た。広い運動場にある片隅にしゃがみ込んで、一心不乱に手を動かしていた。松の木が重なって生えている場所でもあり、しゃがめば余程のことが無い限り、誰かの目に映ることはないだろう。俺が探せたのは少女が教えてくれたからである。

 松の木は葉こそ針のようで痛々しいが、重なりあえば陰くらいにはなってくれる。少し温度が下がった気がした。

「よう、ぼっくり。……暑くないか」

「その呼び方やめて。暑くはない」

「いいだろう?ぼっくり。松かさみたいな頭だから、ぼっくり」

「そんな頭じゃない」

 少女の隣に座り、絵の出来具合を見る。――やはり上手にはならないか。俺より余程鉛筆を握ってると思うが。

 こんなに技術が進んでいても、本や鉛筆なんかは昔と変わらない。妙だなと思いつつも、それに慣れているので違和感はない。

「……今日は生徒に会ってないよ」

 少女は逐一報告してくれる。何故かは分からないが、今日の出来事はほぼ必ず伝えてくれる。そのことが思っている以上に嬉しい。が、たまに一種の攻撃として靴の中一杯に松かさが入っている。

「そうか。それは何よりだよ」

「松、まつぼっくり、黄色の花、校舎」

「――を描いたんだ。手応えは?」

「――まあまあ」

 少女は素っ気無く答えた。まあ、当然の反応だろうと、俺は思う。

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精霊の森 夢を見ていた @orangebbk

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