サクラ人

夢を見ていた

第1話


            ◇◆


 牢屋番の与太が、新たに任された罪人は、一人の可憐な少女だった。

 色落ち一つない朱の着物を身に纏い、顔は白粉で化粧したかのように色白で血の気がなく、黒の髪は長く艶やかであった。中でも与太の目を惹いたのは、紅でも塗ったかのような桜色の唇であった。しかしここは牢獄。化粧品など彼女が持っているはずはない。隠し持っていてもすぐにバレるだろう。

 すると少女が上品に目を細めた。たったそれだけの動作から溢れんばかりの優雅さが散らばるように感じた。与太はふらふらと彼女の方へ近寄った。顔がだらしなく緩んでいる。そして拙い調子で自らの名を名乗った。

「今日からおれがあんたの番をする。与太っていうんだ。宜しくな」「――初めまして」

 琴の音に似た声だと与太は思った。少女は静かに一礼してみせた。それを見て与太もすぐさま礼を返す。

「比名です。宜しくお願いします」

「あ、うん……」

 沈黙が流れる。与太は居たたまれなくなって、「飯取ってくるよ」とだけ残してその場から逃げ出した。比名はひら、と手を振って送り出した。


            ◆◇


「おれが番を任された女がすごく綺麗だ」

 与太は調理場へやって来るなり、そう言った。頬は上気し、口は閉じたり開いたりしてぴったりの言葉を探そうとして、うまくゆかず、その勢いのままに話し出した。

「比名って言うんだ。可愛らしい名前だろ? おれ、あんな美人生まれて初めてだ。何か一個いっこの動きが、見惚れるくらい綺麗なんだよなあ。綺麗って言葉なんかじゃ表現できないんだけど、おれ莫迦だから他に言葉知らねぇ。それでもさ、一体全体、何であんなに綺麗な子がぶた箱の中なんかにいるんだ? あの子に何かあったのか?」

「――っ、こら与太! あんたの知ったこっちゃァ無いだろ! そうこそこそと詮索するんじゃない!」

「別にこそこそしてないし、おれだって自分の身の上くらいわかってるよオカミさん! ……まったく。そう怒鳴るこたァないじゃないか」

「ほら、これ持って早く出ていきな」

「はいよ」

 与太はちいさな手で御盆を持ち、彼女のところへと戻っていった。

「……オカミさん、言わなくてもいいのかい、あれが何なのか」

 与太が出ていったのを確認してから、女が恐る恐る尋ねた。オカミと呼ばれた女は怒りのこもった声で答える。

「上が何も言わねぇなら、あたしらが話すわけにはいかない。――全く惨いことをしてくれるよ、……まだ十もいかない子供じゃないか」


            ◇◆


 持ってきた飯は、雀の涙ほど減ってすぐに帰ってきた。与太は憤慨する。

「きちんと食え!」

「お腹いっぱいなの」

 苦笑する比名に苛立つ。与太は言う。

「遠慮してるのか? 別に罪人だから飯食っちゃいけねぇわけじゃないんだぞ! きちんと食え! 食えねぇ奴だってそこら中にいるんだぞ!」

「――でも、いいの。私元々そんなに食べないから」

「ばか! いいから食え!」

 盆の上に置かれた箸を持ち、片方の手を檻の中に入れて少女を引き寄せ、強引に口を開かせて米を入れた。

「もぐもぐって口動かすんだ! わかったな?」

「むぐ」

「ほら次だ! ちゃんとよく噛めよ、喉に詰まったら面倒だからな」

 そうして全てを食べさせて、与太はようやく満足がいったのか、にやりと笑った。「どうだ、美味かったろ」

「……」

「何だよ、――お、おいどうした気持ち悪いのか!」

 俯く彼女に困惑する与太。人を呼ぼうか否かで迷い、何かあってからでは遅いと立ち上がった瞬間。比名はぱっと顔を上げて、弾かれたように笑い出した。 

けらけらと涙が出るまで笑うので、与太は呆気に取られている。

「あなた、とっても好いひとねェ」

 零れる涙を細い指で拭いながら、比名は言った。「私あなたみたいなひと、初めて逢ったわ」

 初めて。その言葉に与太も思い出し、素直に口に出した。

「おれも。あんたみたいに綺麗な女に初めて逢った」

「ふふ。ありがとう」

 まだ収まらぬ笑いの気に、体を揺すりながら、比名は微笑んだ。与太の顔が真っ赤になる。「私も、あなたみたいに可愛いひと、初めて」

「……可愛くないやい」

「ふふっ」

 そして、両手を合わせて比名は言った。

「ご馳走さまでした」

 と。


            ◆◇


 それから、与太は比名とたくさん話をした。外の話、村や今日の飯の話、オカミさんの悩みの種など、比名を笑わせたいというただそれだけの純粋な望みの為に、彼はそのよく開く口を動かし続けた。比名はあの時ほど笑うことはなかったが、可笑しそうに彼の話に耳を傾けている。

 牢屋番は普通二人で交代して見張るものだったが、「こいつはもうここから出ようなんて思わねぇよ」という意味深に吐き捨てた取締りの男が直々に許可したことで、与太はつきっきりで彼女の世話をすることとなった。与太としては願ってもないことだった。わざわざ飯時も合わせて二人で食べるほどだった。「あんた見てると、なんだかいい気分になる」

 彼が弛む顔で言うと、比名は挑むような表情を浮かべた。

「あなた。口説いてるの」

「口説くってなんだい」

「……ふふ! あなたには縁のない言葉よ」

 そうしてまた、可笑しそうに笑うのだった。――。

 

ある時。大人たちが何やら言い合っているのが見えた。ふと耳を近づけてみると、「女」「子供」「殺す」といった物騒な単語が聞こえてきた。与太は恐れおののき、逃げるように比名の居る場所へと駆けた。

「どうしたの?」

「いやな、おっかない話を聞いただけさ」

 扉を閉めながら、与太は答えた。すると、比名が「あっ」と叫んだ。

「扉、開けておいて」

「なんだい、空気が吸いたいのか?」「春の香りがする」

 そう言ってにこにこするので、与太は思いきり空気を取り込んでみた。が、何も匂いはしない。ましてや春の香りなど。

「わからない?」

「わからない」

「春が近付いているのよ」

 あんまり嬉しそうにするから思わず尋ねた。「春が好きなのかい」

「ええ。素敵だわ」

 目を伏せて、彼女は珍しく自ら語ってみせた。

「春が近付くと、周りの花という花は一斉に咲くのよ。わたしが一番美しい、って誇りを胸に身体を広げるの。それを風が優しく弄ぶ。戯れよ。それを見て鳥が鳴くわ。そうして。そうして、人の子供が駆け回るのよ」

「ふうん」

「あまり興味ない?」

「うーん。微妙だな。おれあんまり四季気にしないから」

彼女は表情を綻ばせた。

「是非気にして。春だけじゃないわ、夏になれば草が緑に、秋になれば世界の色が移り、冬になれば温かな眠りがやって来るわ。何時だって変わり続ける世界を、あなた、ちゃんと愛して。折角、この世に生を受けたのだから」

「……比名が言うなら、じゃあちょっと好きになってみるよ」

「ええ」

 この時与太がこう言ったのは、正直に言えば本心からではない。ここでもただ、彼女を喜ばせたいという気持ちから頷いたようなものだ。比名はそれを知ってか知らずか、嬉しそうに笑ってみせたのだった。


            ◇◆


 与太は初めて、人が殺される場面を見てしまった。比名の為に花を摘んでいたので遅くなり、それを大人たちが比名のところだと勘違いした結果、それが起こってしまった。

「与太!」

彼は立ち尽くした。ここは牢獄で、罪人が罪を償う場所だ。そう教えられていたし、ちゃんと理解していた。が、まさか、こんなことが実際に行われていたとは。

 目を離した隙に、殺される番を待っていた男が逃げ出した。男は与太のいる方へと逃げた。

「ひぃっ!」

 彼は逃げることもできず、その場にしゃがみ込むこともできず、声にならない声を上げた。男は迫る。反射的に手を前に出して、男の体を押し退けた。そして次の瞬間には、追い付いた執行人が刀で男を刺していた。目を閉じることもできず、逃げ出すこともできず彼は血飛沫を頭から被った。立ち尽くす。花が、白の花が真っ赤に染まる。

 彼はその場で気絶した。


            ◆◇


ぎゃあぎゃあと頭上で言い合う声が聞こえた。全く大人たちは喚いてばかりだと夢現に思いながら、与太は起き上がる。彼の体は綺麗に洗われており、清潔そのものだった。

「与太!」

 オカミさんが彼を抱き締めた。そして頭を撫でて「怖かったろうに」と泣いた。与太は呆然としたまま、辺りを見渡した。

「ごめんオカミさん、ちょっと、外に出てくるよ」

 返事も聞かずに飛び出した。死んだ男の顔が、記憶に頭にこびりついて焼き付いて離れなかった。

 水場に行き、何度もなんども体を洗い流した。そうすることで少しでも穢れという穢れを取り除くことができると信じていたからだ。

(おれが殺したんじゃない)

 彼は自身に言い聞かせる。

(あの人はどうしたって死んでた。おれが殺したんじゃない。刀が、だって刀がすぐ後ろに――)

与太はその場に崩れ落ちた。罪の意識。幼い彼はどうしてもそれを拭い落とすことができなかった。


            ◇◆


 彼は両手をぎゅっと握りしめて、彼女のもとへと走った。

 今日の比名はとても静かだった。それに与太が気づかないはずはない。ただ、気づいたからといって何をすれば好いかわからない。

「比名。ほら」

 彼は両手を柵の間から差し入れて、彼女の頭の上で手を開いてみせた。白い花が舞い散った。比名の目が大きく開く。

「きれいだろ? 比名が好きな花だよ、白い、しろい花だ。君に似合うよ」

 そう言って、彼女の頭に積もった花に触れようとして、躊躇する。

「与太、何かあったね」

「――比名」

「話してごらん」

 比名はそっと与太の手に触れた。予想していたものよりも冷たかった。彼はたまらず檻の向こうにいる彼女の体を抱いた。柵が邪魔をする。そのもどかさも全てが彼の涙へと変わる。

「おれ、ひとごろしだ」

 ぽろぽろと、与太は涙を流した。

「おれもう、比名の前に立って逢うことができないよ。……こんなに穢くなってしまったよ、おれ――。なんで、なんでなんで! なんでだろう比名、どうしてこんな事になったんだろう、どうしてこんな事をするのかなぁ、比名、おれ、怖いよ、こわいんだよ――……!」

 比名は静かにその涙をぬぐう。

「あなたは、貴方は穢くなんかないわ」

「おれはひとを殺したんだよ? 穢くないわけないよ」

「あなたが殺したわけではないでしょう」

「殺した!」

「いいえ。殺してなんかいないわ、私にはわかるもの」

 比名は辛そうに与太を見つめた。

「かあいそうに。こんな優しい子に、こんなことをするなんて」

「比名――」

 与太は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、彼女の両手を無茶苦茶に握って、すがるように祈った。

「君だけは、どうか君だけは、殺されないで」

 彼女は何も答えない。与太は、我慢できなくなって、無理に明るい声を出して話し掛けた。

「殺される罪人ばかりじゃない。ここにしばらく暮らして、それでそのまま出ていくやつもいる。君もきっとそうだね。心配して損した。ははっ。君がここから出られたら、春を見に行こう。春だけじゃない、四季を、四季の素晴らしさを教えておくれよ。おれ楽しみにしてるからさ」

 それでも彼女は何も言わない。彼は涙で歪む世界を必死に見据えながら、話し続けた。

「もしも、もしも君が殺されそうになったら、――万一、たとえばの話だけど! ――……君が殺されそうになったら、おれが、きっとおれが守ってやるから。だから大丈夫だ」

約束。そう言って与太は小指をつき出した。動かない比名に痺れを切らして、その手を掴んで小指を絡ませた。

「約束だ」

 彼は情けなくも笑った。彼女は泣いていた。ふるふると震えながら、泣いていた。

「じゃあ私との約束もして」

「なんだい」

 彼女は泣き笑いを浮かべた。

「この約束が果たせなくても、後悔しないで」

 与太は叫んだ。

「何を!」

「聞いて!」

 比名も叫び返した。そして涙の零れる瞳を、真っ直ぐ、彼だけを見つめて言った。

「私は、あなたが、そう言ってくれたことだけでもう、これ以上の幸せはないわ」

「比名!」

「いい、与太、聞きなさい。これ以上は無いのよ。最高よ、最上よ、もう上はないの。私はこの世界で一番の幸せ者だわ。あなたよりも、幸せなの」

「比名、ひな、まってよ、ひな――」

「貴方と出逢えた、このことが何よりも、私の中の何よりも、私の誇りとなって生きる」

 比名は震える手で彼の頬を挟み込み、何よりも美しい笑顔を浮かべた。

「忘れないで。絶対よ」

 与太はむせび泣いた。比名もまた、人目を憚らず泣いた。

二人の泣く声が、夜に響いた。


            ◆◇


 涙で腫れた瞳を隠すことなく、与太は取締まりの男の前に立った。

「比名は、どうして牢屋なんかにいるんですか」

 オカミは慌てて彼のもとへ駆け寄ったが、彼は静かにそれを手で制した。与太の纏う、ただならぬ空気にオカミも口を閉ざした。

 与太は男と向かい合う。

「教えてください。――何故、彼女は死ななきゃいけないのか。ちゃんと、教えてください」

「お前の知ったことじゃ――」

「はぐらかさないで! おれは知りたいんだ……頼みます。そして出来るなら、できるなら彼女を」

 与太はそのちいさな体を丸め、地面に膝をつき、頭を地に押しつけ、叫んだ。

「彼女を助けてください……。おれ、何でもやりますから、殺さないで、頼みます」

 辺りがざわつく。男が戸惑うのがわかった。与太は何度でも頭を地面にぶつけて、頼み込んだ。気づけば涙と泥で彼の顔は汚れてしまっていた。けれども彼は少しも気にせず、ただただ頭を下げ続けた。

 

それがどれだけあったことだろう。

 ――男がついに折れた。

「あいつはここに居ちゃいけないものなんだ」

「そうですとも」

 彼は顔を上げる。首を振る男の姿が目に入る。

「違うんだよ。……あいつは、この世に居ちゃいけないものなんだよ」

「どういう――」

 男は彼の予想だにしなかった言葉を告げた。

「あいつは、人を喰らう妖怪だ」


            ◇◆


「聞いたのね」

 比名は淋しそうに、体を縮ませた。

「私の正体」

「っ、だとしても――」

「いいのよ。きっといつか分かることですもの。……じゃあ、私が死ぬ日も何もかも、知っているわね」

 与太は言い淀んでいる。それを比名は何も言葉にせず、温かな眼差しで見守っている。

「だとしても、君が何者であっても、おれは関係ないよ」

「――そうね、体裁的にはそう言わないと、いけないわね」

 そうして、彼女は立ち上がった。その足は、半分が義足であった。「奪われたの。私の家族と一緒に。貴方も家族、いなかったわね」

「ひど、い……」

「――私たちはただ、この村に静かに生きていたかっただけなのよ。なのに、殺された。だから、私も――。そうよ、仕方のないことなのよ」

 彼女は両手を前に出した。

「見て」

 彼女は顔をひきつらせながら、爪を長く変形させた。それは鋭く、刃のように鈍く光ってさえいた。

 その指で器用に前髪をすくい、彼に示した。そこにはひし形の模様がひとつ、刺青のように描かれていた。

「妖怪の証よ」

 さあ、これで話すことはないわと、彼女は背を向けた。出ていきなさいと、もう貴方とは逢いたくないのと吐き捨てるようにして、彼の姿を遠ざけようとした。一人で立っていられなくて、柵にもたれて天井を見つめた。出来るなら、最期は太陽を見て死にたいわと思った。

「比名」

 彼は後ろから、彼女を抱き締めた。彼女は身を強張らせた。

「君が、何だろうと関係ないよ」

 爪が、彼の手に触れた。細い赤の傷が走る。比名は動転し、傷が深くないか確かめようとして、手を引っ込めた。

「――みてよ、私の手は、ただ貴方を傷つけるだけだわ」

「いいじゃないか」

「……貴方を抱き締めることも、できないのよ」

「じゃあ、」

 彼は囁いた。

「おれが、抱き締めるから。何も心配しなくていい」

 取締りの男が、彼の名を呼んだ。

 それから、彼女の最期の日まで彼らが逢うことはなかった。


            ◆◇


牢の鍵を回した。音を立てて、錠が外れる。中から、彼女が出てきた。変わらぬ美しさのまま。彼は泣きながら、彼女を抱き締めた。力の限り、このまま終ってしまえと思いながら。しかし時間は止まらない。そして彼女は、彼を抱き締め返すことはしない。

「やっとちゃんと抱き締められたのに」

「一回でも抱き締めてくれたなら、幸せよ」

「――なあ」

 彼は彼女の腕を取った。

「今なら逃げられるよ。一緒に逃げよう。約束しただろ?」

 彼女は力無く笑って、外へ出た。

「ごめんなさい。私は、貴方に生きてほしい」


            ◇◆


 彼女の強い希望もあり、彼女の最期は草原の真ん中、太陽の真下で行われた。

 彼は泣き声を噛み殺しながら、彼女をその場に送った。最期まで彼女の姿を見送ろうと心に決めた。辺りには彼女を知る数少ない人間が集まっていた。与太の拳は血が滞ってしまうほどに強く握られていた。もう少しで、あとちょっと切っ掛けがあれば、彼は彼女を連れて逃げ出しただろう。けれどもそれをしなかったのは、ひとえに彼女の最期の望みの為。

「与太」

取締りの男が彼を呼んだ。

「いいか」

彼の手に、重い、何かが握らされる。彼の頭は停止する。声を失う。涙が一

滴、落ちた。

「お前が、あいつを殺すんだ」

「え」

 辺りがざわつく。握らされた何かを投げ捨てたくて、でも男の手が邪魔でそれができない。

「お前が任された女だ。最期はお前がケリをつけるのが筋だ。遅かれ早かれ、これからお前も執行人として生きてくんだ。早いに越したことはない」

 壊れた機械のように、後ろにいる彼女を振り返った。

 比名が微笑んでいる。涙ひとつ浮かんでいない。

「あなたは!」

「あなたは、今から」

「私を救うの」

「救済よ。貴方が触れた殺しとは違う。貴方は今から、その男の人ごと私を救うのよ」

「与太」

「私を助けて」

 屁理屈だ。ただ、与太がやりやすいように、罪が少ないようにしてくれているだけだ。周りにいた人々が取締役に必死に掛け合うが、男は首を縦には振らなかった。

「比名」

「与太。貴方が私を助けてくれる人でよかった」

 動かない彼の方へ、彼女自らが近づいてきた。義足が、まるで本物の足のように動いている。

「来ちゃ駄目だ」

「妖怪ってね、死んだら、花びらになるのよ」

「お願いだ」

「私のお母さんは百合、お父さんは菫。私は何かしら。――でもきっと綺麗だから、ちゃんとみてね」

「そんなの聞きたくない」

 与太の持つ刀の握りに、彼女の細い指が重なる。


「貴方の前ですもの、綺麗に散りたいわ」


 刀の先が、彼女の体へと突き刺さる。彼が抗おうとしても、力がうまく入らないのだ。彼は首を振った。体を手を刀から離れさせようとした。どれもうまくいかない。

「与太」

刃が、深く刺さった。彼女の体が消えてゆく。彼は手を伸ばす。

指先から全身へと、形が崩れてゆく。手を伸ばした。届かない。風が、彼女を吹き飛ばしてゆく。

「いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ! 届け、消えないで、比名、ひなっ!」

 手に、何かが引っ掛かった。それをただ抱き締めた。彼女が身に纏っていた朱の着物だった。彼は叫んだ。何をすれば彼女は戻ってきてくれるのか、わからなくて、また、泣いた。

 彼らの周りには、薄い桃色の花びらが、まるで彼らを抱きこむかのように散らばっていた。


「彼女の何処が妖怪なの?」

 誰かが誰かに尋ねた。

「誰がどう見てもたった一人の女の子だったじゃない……」


            ◆◇


 一年目は、ただひたすら狂ったように嘆いた。

 二年目は、涙が涸れてしまって、出なくなった。

 三から五年は、彼女の姿を探して歩き回った。何処にでもいる女までが、彼女に見えてきてしまって、何もわからなくなった。

 六年から八年は、何もせず、ただ生きた。


――そして今。

彼女の面影を探すのを、やめた。


「あんたが戻ってきてくれて助かるよ」

オカミさんは笑った。あれから、彼らが勤めていた牢屋は皆の働きかけにより消えて、その代わりにきちんとした制度を作り上げて、警察に似た組を結成し、村を守っている。

 オカミさんたちは、持ち前の料理の腕で店を営んでいる。すっかり彼の母親代わりとなったオカミさんは、行き場のなくなった彼を引き取り、根気強く世話してくれた。

「じゃあオカミさん、俺今日用事だし、行くね」

「――ああ、行ってらっしゃい」

 暖簾をくぐり、彼は歩く。朱の羽織が、風に靡いた。


            ◇◆


『みてごらん』

 オカミさんは黙って涙を落とした。

『傷ひとつ、ついてやしないよ。汚れも、何もない。ただ、ほのかに香る花のかおりだけが、残ってる』

 オカミさんは彼女の形見の着物と羽織を彼に渡した。

『まるでこれがあんたの形見になるってわかってたみたいじゃないか』

『うん、そうだね』

 彼は静かにそれに頬を寄せた。


            ◆◇


 彼は彼女の墓の前に座り込んだ。十年。欠かさずここだけは足を運んだ。

「比名。人間は、死んでいくものだし、忘れていく生き物だ」

 なのに。

「不思議だな、比名」

おれは。

「時が経てば経つほど、ますますあんたに逢いたくなるよ」


視界に薄いピンクの花びらが映った。彼はそれに愛しみのこもった瞳で見つめる。

「――比名、比名は桜の花だったよ」

 墓の後ろには大きな桜の樹が。花びらがちらちらと降り積もる。

 彼はもう、声を荒上げて泣いたりしない。その代わり、ただ膨らみ続けるどうしようもない『逢いたい』の気持ちをもて余して、ひとり、そこにいるだけだ。

「永久に、永久に誓おう。比名。――俺は、」

 おれは。

「あなたを愛し続けることを、ここに誓う」






























「私も」

 桜の舞う中、彼女の姿が浮かび上がった。墓の陰に隠れていたのだ。

「妖怪の輪廻は速いって聞いたんだけど、速すぎだよね。――きっと貴方が、私を思って生きてくれたからだね。……貴方をこれ以上独りにしたら、あんまりだと思うもの。きっと色んな何かが助けてくれたのかもしれない。――ね、見て。私、普通の人間になれたよ」


これで貴方を抱き締められるね。


彼女は彼を思い切り抱き締めた。彼は、涸れたはずの涙を取り戻した。

「もう離したりはしない」

「ええ。離したりしないで」

 与太と比名は抱き合った。

 二人の頭に桜の花びらが乗った。二人はお互い見合せて、笑った。泣いて、笑った。


 春が、また、訪れる。



            了

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サクラ人 夢を見ていた @orangebbk

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