イタリx

夢を見ていた

第1話

サン・ミレア広場にはさまざまな人が集まる。仮想19世紀後半、この広場があるラベナの街では貧富の差が大きく、浮浪者や乞食などが広場に埋め込まれた煉瓦を擦り切れた靴や素足でぺたぺたと徘徊していた。少しでも『お恵み』が欲しいが為にひとつふたつの芸を披露する者もいた。ある者は楽器片手に歌ってみたり、ある者は鋭く尖ったナイフをお手玉してみたり、金を入れるためのカップを握りしめたまま地面に倒れ伏し、そのままずっと動かないままでいるというパフォーマンスをする者もいた。芸が無ければ、高貴な人間の持つ金を狙って息を潜める者も当然いたし、地べたを這いつくばって何か落ちていないかと血眼になって探す者もいた。それは大人も子供も問わず、いたのである。広場は大勢の人間が集まり、行き交う。彼らを見下げる人間が、無慈悲にも絹の裾を、匂いのきつい香水を、皮の靴を半ば見せびらかせるように、さっと彼らの前を通り過ぎる。それを羨望と諦観と自他の境遇の差に対する憎悪をもって、じっと見つめる。喚き立てるだけ不毛である。貴族らの機嫌を害すれば、損をするのは一方的に弱者である貧しい人間であると、広場に集まる者みな等しく理解していた。

しかし、貴族らもまた同じ人間である。ひたすらに苦しくなって悲しくなって、思わずわっと泣き出したくなるような夜だってもちろんあるのである。そんな時、心を慰めてくれるのは、実は広場に集まって芸をする下賤の者たちであったりもするのだ。ある時は年老いた老人の支離滅裂でありつつも、時折さりげなく真理を突く講演だったり、酒に酔った中年男の演技であったり、道化師見習いの前狂言だったり、娼婦の子守歌であったり、何気ないものが心に語り掛けてくることもあったのだ。そういうわけで、夜の広場は傷心を癒すために、身分を隠しながら、人目を気にしながら、この場を訪れるのであった。芸する者はそんな彼らの痛みを内包するかのように受け入れる。身分を問うような無粋な真似はしない。そのことを、貴族らは静かに感謝の念を抱く。だからこそ、金を出すときはうんと盛りに盛って、彼らの前に置かれた金入れ用の器がいっぱいになるくらいに押し込むのである。……まあ、彼らの心の琴線に触れるのはなかなかに難しいことであったが。

サン・ミレア広場は昼と夜とでは姿を一転させる。この街を訪れた旅人はその言葉を口にする。そうしてそう語る表情は、どこか自らの故郷を自慢するかのように照れくさそうでもあるのだった。


今夜もまた、サン・ミレア広場に人が集まっている。月がほうっとため息をつくように白銀の光を漏らす。美しい夜である。人々の顔は闇に隠されてほとんど見えない。まさしく動き回る影のように、芸を披露する者たちの前に陣取って座ったり、様子を窺いながら近づいたりする。それらを芸する者たちは愛しい者を見るように目を細めるのだった。そんな彼らの温かな視線に気づいた旅人が、以前、近くにいた老女にそっと尋ねたことがある。「憎くはないのか」と。昼間、あれだけ自分たちが助けの手を求めて声をあげても黙って殺して去って行った彼らが、夜になれば癒しを求めて徘徊する。

すると、老女をはじめとして、周りにいた芸する者たちが一斉に笑い出した。旅人は突然のことに戸惑ってしまって、あたふたと辺りを見た。見かねた女が苦笑いを浮かべながら答えた。女は寝息をたてて眠る乳呑み児を抱いていた。

「これは彼らにとって夢なのさ」

「夢?」

「そう。見知った顔がいても、こいつらは知らないふりをする。なぜなら、彼らは今、夢を見ているから。昼の世界とは違う夜の世界を生きる、自分であって自分でない存在でいることを互いに望んでいるから。夢を見ても朝起きたら忘れちまうことがほとんどだろう? そういうことなのさ、こいつらにとってここは息をつく場所なんだ。その場所を提供することであたしらは金を稼ぐ。持ちつ持たれつというわけだ。昼にはこいつらの優遇を羨ましく思わずにはいられないが、夜になれば哀れにもお偉いさん方が慰めを求めてふらふらふらふら彷徨うもんだから、可笑しいったらないね。だからあたしたちは、ふんとのけぞって余裕をもってやさしさを振りまいてやるのさ。そうすりゃ、自分の面子も金ももらえるんだから、恨む暇なぞないよさ」

そうして一同高らかに朗らかに笑うものだから、旅人もつられて笑ってしまう。この街は不思議なところだ。

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