robotto

夢を見ていた

第1話



       ∞


歩けば、がしゃんと音がする。

走ることは、足の力や体の重さ等々の理由から不可能で。

計算が速く、正確に答えを導き出せる。涙を含めた体液は一滴も搾り取れない。人の、あらゆる不可能を可能にすることが、唯一の存在理由だ

「ここまで来れば、さすがに君だって分かるだろう?」

 僕が、ロボットだってことが、さ。


       ∞


 返答者は首を傾げた。

「わかんない。あなたはロロでしょう? リリはね、それだけで充分満たされるの。だからそれでいいの」

 わかったか、と笑みを深めながら、いつものように的外れな回答が返って来た。この問答を何度繰り返したことだろう。リリーはいつだってそれだ。僕の存在よ

り他のものを選んだ例がない。

 一人称を自身の名前としているリリ、正しく、リリーは、黒髪の中に緑が混じっている髪色をしており、身長は十三歳の標準よりはかなり低い方である。ただし、十三歳にしては、ずば抜けて頭の賢い、聡い子である。――これには深い理由がある。服装は、身軽で飾り気のないスカートを着用しており、風によって時たま大胆にも捲れる。

そんなリリーは、自分の隣に座れと、ベンチの腰掛ける部分を叩いて促してきた。それに従うつもりはなかった。僕の体重を支えきることが出来るとは、思えなかったからだ。

 僕は肩を上げて、下げた。溜め息だ。その時下げた視線で、僕の体を捉えてしまった。

僕は金属の体を眺めた。ずっと昔に作られた体。既に錆が回り、動かないところも結構ある。大きさはやっとリリーの肩に届くくらい。先述にもあるように彼女はちびで、同い年の同性と並べば百人中百人、彼女より大きい。

足はかろうじて二足であるが、歩く度に機械音や外れかけの部品が上下する。首はあることにはあるが、金属の板に覆われて分からない。体全体はだ円形で、そこに手足がつけられたような形。目は青く光っている。

それからそっと視線を遠くに向け、周りを見渡す。僕らがいる場所――公園は、木が列に並んでいて、たまにベンチなどがあり、憩いの場となっていた。

今ではもう、この公園を利用する人間は少ない。ベンチは壊れているし、道はがたがた。まあ、自動販売機や公衆トイレなど、人が生きるのに必要最低限のものが揃っているだけまだましか。販売機が売っているのは栄養バランスのとれた食料や飲み物。公園の整備はまだまだ行き届いてないが、一応それらしいことをする義務があるのだろうか、それとも、食料をむさぼるリリーの存在のお陰であろうか。――ともかく、週に一回位は人が食料の補充にやって来てくれる。

僕は次に木々を視界に入れる。まあ、これも人工樹――要は機械であるので、僕とお仲間ということだ。地面や植物を機械化することには成功し、次は海を機械化させようとしているという。何から何まで機械にしないと気が済まないのだろうか。そのせいで、この世界どこにいても、生命の息吹、というやつは感じられない。僕だけかもしれないが。ちなみに彼らに感情はない。昔から存在する植物と同じである。つまり僕とは完全一致の機械ではないのだと主張する。リリーという人の隣にいるんだから、当然別物である。

「そんなことよりも、ねえ」

「そんなことじゃない。真剣なんだ」

 動く度に騒がしく鳴る金属音が、すこぶる耳障りであって苛立った。その感情を忠実に再現した声色で、言葉を発する。

「リリー、わかってないなあ。それともわかろう、とする努力をしないわけ? 僕の話ちゃんと聞こえてた?」

 僕には、人間が音を分けるために必要な舌は、必要ではない。口として設定されている部位から音を発生させる。パーソナルコンピュータのキーを押せばアルファベットが画面に表示されるのと、よく似ている。今ではこの比喩を聞いても、今ひとつピン、と来ない者ばかりの世である。寂しいとは思わない、むしろ当然だと思う。人はいつだって成長していく生物だ。そしてまた、欲求も大きく膨らんでいく。

「僕だって一生懸命話しているんだから」

「うん。でも、でもね。ロロの話、つまらないもの!」

 そう言って弾かれたように、けらけらと笑い始めたリリーは、徐々に笑顔を消していき、最終的にすごく寂しそうにこちらを見つめてきた。先程まであんなにも大声ではしゃいでいたというのに、差が激しい。

 元気な時は拙い口調で、リリだかロロだか呂律を回して、こちらの気を引こうとするのに。自分勝手な生き物だと呆れてしまう。リリーのすべてに情報がない。無意味。発言も行動も、理解しがたい。折角、ことばというものの存在を知っているのに、リリーから出た単語は、持つべき意義をどこかへ置き忘れてきたかのように、意味不明。理解不能。

 いつもならば放っておくが、今日は何となく気分が乗ったので、彼女に付き合ってみる。

「どうしたんだよ? どこか痛いの?」

 勢いよく顔が上げられた。

「ううん、何もないよ。……ね、そんなことよりもさ、遊びに行こうよ? 何したい? 何しよっか!」

 また無邪気に笑うリリーは、人で言うと、自分で働いて稼がないといけない年齢を既に取っている。

 しかし、リリーが働くところなんて見たことも未だにないし、今となっては想像すら出来ない。いつも一緒にいる。そんな彼女の姿しか考えられない。てんで稼いでいないのに、金はたくさん持っている。財源に豊かな家に生まれたのだろうか。詳しくは知らない。

 かれこれ二年位は、僕らは一緒にいた。僕視点から考えなくとも、まだまだ浅い付き合いであった。けれど、そんなリリーの為にわざわざ用意してある場所が、僕の中には存在したりする。妙な話である。

「ね、何したい? じっとしていたい?」

 催促する声に、僕はありったけの優しさを込めて誘った。

「歩きに行こう」

「えー、またお散歩? 好きだよねえ」

 呆れる、というよりも子供相手に話し掛ける親のような口調だった。そんな様子が少し可笑しかった。

「ここ最近、瞬間移動の研究に力を入れて取り組んでいるらしいよ。でも、ここは一番、機械化が遅れてるところだから、まだまだ遠い話かな。でもその内、歓声するんだってさー。ここはもっと便利にならなきゃね。自動販売機への補充の為に、わざわざ人を寄越す時点でもう、終わってるや」

 一番、のところが、最も強調される。

「そうなんだ」

「ロロは良い子ねえ。だって、歩こう、なんて今時そんなこと言う人いないよ?」

 最終的には、それが言いたいが為にこの話を振ったのかと理解する。言い終えたリリーは、僕の金属の手を持って引っ張り、歩き出した。その姿を見て僕はまた、思う。思ってはいけないことが、頭から離れなくなる。二律背反。そう。僕らの存在はまさに二律背反だ。

思ってはいけないことを、強いて言葉で、表現してみようか。――バグだ。僕の中に現れた、いやずっと前から潜んでいた、性質の悪いバグだ。

「ね、リリー。機械は、バグだらけになったら、壊れてしまうのだろうか」

「うーん、さあ。どうかなあ。――けれど、きっと壊れてしまうと思うよ」

 僕が今、どんな気持ちでこの答えを聞いているのか、君は知っているだろうか。

「……そうなんだ」

「ロロ、大丈夫だよ。何がって、もし、その機械が壊れるのをあなたが厭うなら、ワタシが絶対に直してあげる」

 心配しないで、とこちらを振り返ったリリーに表情は無かった。ただ、その瞳の奥に秘められた思いが、ただ強くあることだけは確認出来た。

ここの人間はほとんど表情がない。そういう作りなんだそうだ。――つまり、こんな風な顔の時は、彼女が自ら作った性格ではない、本当の彼女が見えるのだ。本来の姿。

リリーという名前は、リリー自ら自分のために名づけたものだ。これの他に、数字と記号と文字とを混ぜた、個体識別番号という本当の名前がいくつかある。

 けれど何故だろう。それがどれも本当のものだとは思えない。リリーが人から与えられたものは全て、彼女に不似合いなのだ。<6-VI>や<99-99-33>といったチンケな番号を、名前とは呼びたくない。

「何考えてるの?」

不思議そうにこちらを覗き込む。僕は少し馬鹿らしくて笑えた。

「君のことさ」

「ふうん。変なの」

「どうして?」

「一緒にいる時に、一緒にいる人のこと考えるなんて、可笑しいよ」

 反論しようとして音を出そうとしたら、僕よりも先に歩いていたリリーが、何かに勢いよくぶつかった。傍から見れば、一人でパフォーマンスをしていると勘違いされても不思議ではない。――まあ、パントマイムにしてはリアルすぎたが。

事実、リリーは衝突時の衝撃を受け止めきれず、短い悲鳴とともに、僕の上に倒れかかってきた。全体重が急にこちらへかかってきたので、バランスを崩しかけて、必死に直立を保つ。僕の体が落ち着いてからすぐに、リリーは鼻を片手で押さえて、見えない壁を指差した。

「ロロ、ロロ! ここ、何か変! 何かある、絶対! どうしよう、先へ行けない!」

 そう言われて、目の機能を色々試してみて、この先にある何かを視界に入れようとした。が、上手く行かない。ついに世界は、僕のシステムを完全に越えてしまったのだろうか、と不安になる。

「うあ、ロロ、鼻血出てきた……」

 その言葉に僕の思考は一時停止し、爆発した。

「は……? な、何でもっと早く言わないんだよッ! いつも、頭を回転させて物事を考えろって言ってるよねえっ! ほら、頭部を高くして、しばらく鼻摘まんで、下を向くんだ、上を向いたら血が喉にいくから……! あああと、何か冷やすものを……」

 リリーは僕の指示にすぐに、そして素直に従ってくれた。僕の凹んだ頭にリリーの頭を乗せて、空を見上げる形を作らせた。頭をフルに回転させて、自分の体にベッド機能があるのを思い出した。

 僕の頭から、足が折り畳まれた細長い机のようなものが伸びてくるのが分かった。そしてその二本の足が自動に、地面に下りたのを感じた。簡易ベッドの完成だ。

早く乗るように促すと、

「だいじょうぶだよ」

 という間延びした声が返ってきた。同時に、ベッドを仕舞おうと、手で押してくる。そしてあろうことか、起き上がろうとした。驚愕する間を惜しんで、素早く、思い切り怒鳴ると、リリーは黙って眉を顰めた。

「もう止まったんだってば」

その言葉に嘘はなかった。なかったが、強引に拭って止めたのであろう、右腕には、なかなかの量の血が固まっていた。何故そんなに不機嫌なのかは理解出来なかったが。

「見て、人たくさんいる」

 鼻を少し啜って人差し指で指差す。透明な壁の向こうには、確かに人だかりがあった。何だか問題でも起こったのだろうか、大声を上げて叫んでいるようだった。

「壁自体は見えないけど、その向こうにいる人は見えるね……。どうしたんだろ」

「皆、何かを囲ってるみたい。……どうする? 違うところに行く?」

「リリー、興味は?」

「全くない」

「じゃあ……、中へ行こうか」

「ふうん。どうして?」

「たまには、不思議なことに絡んでおこうかな、なんてね」

 透明な壁には、空間を切り取ったかのような、綺麗に切断された扉が存在した。


       ∞∞∞


 貴方死んでしまうの。私を置いて、逝くというの。

 許さないわよ、貴方はここにいなさい。どこにもいかなくていい、私の側にいなさい。絶対に――。

 そう言って抱き締められた。力を込められた彼女の腕が、ボクのぼろぼろの体に酷くこたえた。呻くと、より一層力が入った。その姿はボクを離すまい、としているようで。

 そんな体だから――、貴方は死んでしまうんだわ。


――ダカラ、コンナ、

カラダニ――?


       ∞


「何だか、泥棒さんが作った扉みたいね」

 そう言うリリーには、残念ながら賛同出来なかった。泥棒が作成したにしては、あまりにも切り口が綺麗だし、尖った所で誰も怪我をしないよう工夫されていた。それに泥棒だったらこの壁を割ると思う。音を立てていい、という条件下であれば。

 扉をくぐると、人だかりと空まで届きそうな塔が出迎えてくれた。空に届きそうなほどに高くそびえ立っている塔。その姿がどこかバベルの塔を彷彿させる。この建物はいつ見ても変わらない。

そこでようやく、この場所が何なのかを理解することが出来た。僕らは人だかりの方へと近付いていった。ふと、その中の一人に見覚えのある顔があったので、急いで人の中を分け入っていった。

「やあ」

 下で僕が声を上げると、彼ははっと気づいてくれた。四十前の少し細めの男性だ。ふと顔を窺うと、いつもなら手入れが行き届いていない髭が、今日は綺麗に剃ってあった。少し感動する。

「まあ、これは。ロロさまではありませんか。お久し振りですね。おや、例の夫人は?」

「彼女は後ろ。どうしたの?」

「それが――」

 彼は僕の身長に合わせてしゃがんだ。別にその必要は無かったが、気にせずに彼の言葉に耳を傾けた。

「実はですね、『エデンの園』の扉が開かないんですよ」

「扉が? うーん、故障かな。個人照合し忘れてない?」

「しましたよ! 機械、……えっと、いえ。アチラ側も、認証しました、って表示してくるくせに、扉は無反応なのです」

 憎たらしげに睨む彼の隣で、建物を見上げる。その塔を見つめていると、僕は段々懐かしくなって、久し振りに入ってみたくなって、彼に問うた。 

「僕も試してみたいんだけど、いい?」

「同じ結果だと思いますよ?」

 彼の言葉は正しかった。扉はびくともしてくれなかった。

どこか服装に厳しい所からの帰りなのか珍しくぴちり、とした服装の彼に、場所を譲ってもらい、認証口へと手を伸ばした。するとどこからか、認証しました、との女性の声とともにピッ、と音が鳴った。認証音だろう。しかし待っても一向に、それからの反応が無い。代わりに背後からの、苛立ちの込められた鼻息に、リリーがぎゃんぎゃんと反応してくれていた。

「ちょっとそこのデカブツ! 何も出来ないなら、どけ!」

「そんな言い方ないよ。お前の方が何百倍でかくて、邪魔だ」

「リリー、別にいいから」

 お前とか言わない。そう諭すと、一度だけこちらを振り返り、すぐに禿頭に向き合う。あまり効果は無かったようだ。

「何がいいっていうの。許せない、謝れ」

「リリー」

 低レベルなんだってば。そう言ったのにも係わらず、二人の耳に届いても、熱の上がった頭には届かなかったようだ。

禿頭の大声に、リリーの動きが停止したのがわかった。

「そこのロボットは何にも出来ねえ、無能なんだな!」

 黙ったリリーが爆発する前に、僕は叫んだ。面倒なことは、なるべく避けたいと思うのは当然のことだろう。たとえ、それが自分を卑下することであっても、だ。それに僕は、ロボットだから。別にどうだっていい。

「そうです、無能なんですよう。やっぱり、古い型だからでしょうか、ねえ!」

 叫んで、すぐに左の手でリリーの腕を掴んだ。そしてもう一度、声を張り上げた。音量を上げたのだ。

「お邪魔でした! リリー、帰ろう!」

「――ロロ、ここの扉のシステム管理してるところ、どこかわかる?」

「え?」

 無機的に紡がれていく言葉に、多くの人は唖然としている。

「ここのシステム、かなり時代遅れだよね? 今時、ここまで厚い扉を使うなんて考えられないし、認証口狭すぎだし、認証までの時間が掛かりすぎるし、他にもたくさん問題ありすぎるし。まず、この大型機械自体、初めて見た。でも、多分、半世紀くらい前に出来た型だよね? 半世紀は少し行き過ぎかな? でもその頃の個人照合機の造りは、かなりアバウトで、外からシステム管理出来るようにして配置させてたよね、楽だから。となると、探そうと思えば探せるかな、心臓。ね、どう思う、ロロ?」

 その様子を眺めていた僕に、リリーは答えを催促した。僕はこくり、と頷いた。外からは見えない首の中のコードが唸った。

「うん、あると思うよ。あとさ、あれは個人照合って名前だけで、手をかざせばいいだけなんだ。あ、これあまり人間に知られて無いけれど――。赤外線センサーを使ってるんだ。パッと手をかざして、キュインと反射して、ピピッと受光機が感知する仕組みの。あ、もしかして興味ある? 無いと思って適当に説明してるよ。あ、あと、半世紀。正しくは半世紀前の四月六日ね」

 探してあげようか、と問うと、リリーは少し笑って

「ヒントだけ、教えて?」

 と言った。その場を離れて移動すると、他の人も一緒になってついて来た。

さすがはリリーである。彼女が見当をつけたところは、当たりであった。建物の表面を探ると、呆気なくカバーが外れて、中身と対面出来た。初対面の機械なのにも関わらず、凄い。青や赤と様々な色を身につけるコードの束たちが露になる。それを見て声を上げた人々に、リリーは鋭く睨みをきかせた。――彼らは空気を全く読めていない。リリーはずっと、それも有り得ないくらいに不機嫌であったし、憤っていた。その証拠に、先程から一度も僕と目を合わせない。勿論、理由は分かり切っている。

「無能はやはりそちらの方だ。こんなことワタシでなくとも、見つけられて当然。無能、そしてどうやら脳の力が弱っている様子。物事を考え、対処する力が残っていないようだ。人間として育てられ、生きてきたというのに、老いるということは実に嘆かわしい。そしてそこの毛根が死した者は、どうやら、ふふ、脳みそまでも――」

「リリー、何て言葉使ってるんだ。意味がわからない。そんな汚い言葉、聞きたくないんだけど」

 それに、と続ける。

「老いることは、素晴らしいことなんだ。そこを間違えちゃいけない」

「……ご、ごめんなさい。本当にごめんね。ロロ、……怒った?」

「大怒りだ。皆に謝りなさい」

「――み、皆さんごめんなさい」

 顔は僕を向いたままだった。僕がそれについて指摘しようとする前に、自ら彼らと向き合った。そして謝罪の言葉を待ったが、永遠に耳にすることはなかった。

「けれど。ワタシはそちらとは絶対に協力はしない。ワタシはね」

 心底、意地の悪い笑顔とともに言葉は続いた。

「ここの扉、二度と開かないように設定してやる」

「はあッ?」

 唖然とする者がほとんどであった。何を口にしているんだ、こいつは。そう思った瞬間に、リリーの言葉の意味を知る。それはやってはいけない、と慌てふため始めた。それを見てもまだ満たされないのか、リリーは険しい表情のまま叫んだ。

「そちらの方々は永遠に入れないようにもしよう。邪魔しないでね。そうしたら、この建物ごと崩壊させてやるから」

「何だと……!」

 人ごみの中にいた者が飛び出し、押さえつけようとした。それを咄嗟に反応した僕の体は、彼の鼻と仲良く音楽を奏でた。――可愛らしく言えばこうなるが、現実に目を向ければ、彼からは鈍い、音が聞こえた。呻き声も聞こえる。僕の背後で得意げに声がした。

「次に手を出したら、ここのコードどれかを適当に切っちゃう、十本くらい?」

 リリーの手にはペンチの形になった棒が握られていた。これは一本で工具道具箱なんて必要ないほどに、たくさんの道具の形を成せる。青色の棒尻のダイヤルを回して切り替える仕組み。ちなみに最新バージョン。流行の最先端である。

「後悔しろ」

「こら。リリー」

「……後悔しなさい!」

「立ち位置はもう悪役だね。あ、僕は中に入りたいんだけれど。どうしよう、君が全部終わってからシステム変更させようかな」

 小声で話す僕に、そっと耳を寄せてふんふんと頷く彼女は、同じく小声で返答した。

「あ、ちょっと待って。これ、内緒なんだけど裏口あったの。これ、いじくってたら発見しちゃったの。ふふ、すごいでしょ。ここでロック解除しておくから、後でさ、二人で行こう?」

「よし、待ってる」


       ∞


 罵声が飛び交う中、リリーはシステムをいじる前にそっと訊ねてきた。

「ここ、大事?」

 少し考えて、思ったことを口にした。

「大事な方」

「じゃあ、あちらの人たちは?」

「普通」

 納得したのか、リリーは何も言わなかった。ただ、隣で見ている限りでは、扉を二度と開かないようにするのではなく、あくまで一時的に閉まるようにしておき――わざわざ閉まっているものに設定するのは妙な話だ――、そして裏口のロックを解いた。彼女なりの配慮だろう。

 彼女の傍らで、やはり、その技量は確かなのだなあ、と改めて感嘆する。この短時間で初めて見た機械を、ほぼ完全に理解し、新たにプログラムしている。人間にしてはかなり高レベルだと思うし、機械よりは大分劣るけれど、ロボットの僕でも凄いと思う。もしも、僕がおかしくなったら、一番頼れるのは、彼女だ。贔屓目なしに。

「ロロ、こっち」

 そう言って僕を引っ張った。他の人たちには、

「悔しかったら、解除してみろ」

 とだけ言い捨てた。まず無理だろう。リリーは念を入れて、複雑なパスワードを設けたからだ。短時間でそこまでやるのだから、さすがというべきか。

 手を引かれるまま、バベルの塔から離れていくと、少し不安になって隣に視線を移す。信じてないわけではないけど、その迷い無い歩みが頼りになりすぎて、不安になるのだ。

そんなことを考えていると、リリーは急にしゃがみ込んで地面を探り始めた。髪を耳にかけて、視界を確保し、目を忙しなく動かした。そしてすぐに何かを見つけ出し、再びいじくり出す。それが全て終わってから、僕と一緒に飛び跳ねるように誘ってきた。

「なんで誘うの?」

「楽しいかなって思って」

「仕方ないなあ」

「やったあ。じゃあ、いっせーの」

 フライングしてしまった僕は、掛け声を無視して深い暗闇へ落下することとなった。思いの外深くて、アリスにでもなった気分であった。まあ、あれは夢オチであるが。どちらかというと、僕よりもアリス役に適任のリリーは、僕の頭上で楽しそうに笑っていた。


       ∞


「助けて……、誰か……、お願いだから……!」

 この三つの単語が、鼻を啜る音とともに辺りに響いていた。その声の主に、僕は驚きを顕わにした。



 リリーがつきとめた裏口とは所謂、非常口とされているところであった。上から衝撃を感じると蓋が開き、素早く落下。これは緊急時に備えてのことだろう。確かに緊急時、リフトなんかでおちおち降りてはいられない。蛇足だが、この塔にいる者なら簡単に開く仕組みになっている。それともう一つ。下から地上へ行くのには、着地した場所の、とある壁の蓋を取り除き、空間にぽっかりと浮かぶリフトに乗るようだった。リリーが発見したのだ。

僕らは地面に激突することもなく、ふかふかの布団の上での着地を成功させた。床一面に布団が敷き詰めてある。何故クッションなど、コンパクトで便利なものを使用しないのかが不思議だった。

辺りは自動で電気がついたことで、真っ白で無機的な壁を認められた。せめて、もっと違う色にすればいいのに、と思った。たとえば、そう、緑色とか? 目がよくなりそうだ。

「エレベーターだったっけ? これで上に行けるよ」

 現在の流行は、エレベーターではなく瞬間移動だ。分速を秒速にしようと、コンマ一秒でも速くさせようと、人間たちは日夜戦っている。

昔、よく通っていた『エデンの園』だったが、こんな場所は初めてであった。もう少し詳しく調べてもよかったが、リリーを待たせて不機嫌にさせるのも、後々面倒になってくる。それでなくとも先程まで大変だったのだから。

エレベーターへ乗る瞬間、ふと目に入ったものがあった。大きな扉だった。床から天井まで全てが銅色の扉。どこか神々しさを感じさせる佇まいであった。

「ちょっと待っ――」

「え?」

 左手を伸ばした時には既に遅かった。エレベーターは指示された通り、ぐんぐんと上昇していく。そしてここでも不思議なことが一つ。『未来』・『現在』・『過去』の三つをボタンとして、存在していたことである。彼女は『現在』を押した。理由は単純、天の神の言う通りにしたのだ。結果、それが上へ行くボタンであり、大正解だったわけだが。



「助けて……、お願い……、誰か、誰か……」

 縋りつく声に、我に返って急いで足を進めた。一切変わっていない物の配置に、少し懐かしみを感じつつも、奥から聞こえる声の下へと駆けつけた。カウンターの奥、そこには二人の人間の姿があった。

がしゃん、という不細工な僕の体の音に、顔を上げた少女は、涙で充血した目を苦しげに細めた。

少女――メルは、七歳くらいの体格で、もうすっかり消えてしまった東洋文化を唯一身につけている。淡い紅色の着物が、よく似合っていた。左右に一つずつ、団子のような髪のかたまりが可愛らしい。そして、しゃら、と鳴る鈴をこれでもかと飾り付けられた被り物を、今も変わらず被っていた。動く度に僕とは比べ物にならないほど、本当に美しい調べを奏でていた。――メルの方は現在そんなこと、考えている暇もないだろうが。

その被り物の内側から、頭全体を覆う白いベールから、黒と銀の瞳が窺えた。その目からは、涙が幾度も零れていた。

「ロロさま……、助けて……」

 珍しい姿に僕は思わず、思考が止まってしまった。メルはぎゅっと誰かの手を握っていた。それに頬を押しつけて、泣いていた。

その誰かは銀色の巨大な扉に挟まっていた。扉からかなりの圧力を受けているようで、顔中汗でびっしょりだった。辛そうなうめき声が時折、空気を震わせる。あまりの痛みに意識が飛びそうなのだろう。視線が一点に集中することなく、虚ろであった。しかし、ここで夢へと旅立てば力を入れていた腹が萎み、このままでは簡単に腹が千切れてしまうかも、という分析に至った僕は、すぐに分厚い扉の隙間に左手を挟ませた。そして、こじ開けるために左腕を変形させた。その動きに対して、僕の左手が潰れ始める音と、妙に甲高い悲鳴とが交じり合った。

「やめてっ! ロロ、私がやるから、そんなことしないでっ!」

「いたた……。じゃあ、リリー頼むから早くしてね。僕は動けないし」

 左右からT字型の太い棒を出して、扉と扉とに平らな面を擦りつける。そこから力を加えていき、彼の体と厚い壁との隙間を生み出そうとするが、上手く行かない。ここでやっと、この扉がツワモノだということを実感する。重厚にそれもかなり頑丈に造られている。この塔に住む、極度の機械音痴の家族らしくない。

「手を出してよぉ……。早くしないと腕が……!」

「……リリー。早くして?」

 こうなれば僕は最早、時間稼ぎでしかない。扉は、みしりみしり、と棒を折り曲げ、左腕を食らう。

リリーは僕の言葉で心が戻ってきたかのように、はっとして辺りを見渡した。お目当てのものがあったのだろう、扉の少し離れた壁に、突撃する勢いで辿り着いてこじ開ける。実際にぶつかった音がした気もする。

蓋はすぐに外れて、今度は薄いモニター画面と対面する。

「何でここだけ進んでるんだ……」

ひとりごちて、すぐに無駄の無い動作で、リリーは両手の親指と人差し指に青色の指サックをはめ、その指で長方形を宙に描いた。すると、そこから透明の画面が浮かび上がり、文字が表示された。起動開始の合図だ。これに酷似しているのはパソコン画面だろう。

それに一度触れ、そして壁にあるモニターにも触れて、システム内に入るための作業をし、空中の画面にパッと出てきた文字に触れてから、何かを素早い動きで打ち込んでいった。間もなく、

『扉が開きます』

 という声とともに開き始めた扉。左腕を抜き取り、軽く握ってみる。あまり、うまくいかない。これは、もう直してもらわないといけないな。ガタがきている。

ようやく自由になった体を見て、挟まっていた人は安堵したのだろう、ゆっくり瞳を閉じた。

「助かったよ……。ありがとう」

 かなり脱力している様子であった。仕方無いだろう。先程まで生死の狭間にいたのだから。僕は首を左右に振り、リリーを見つめた。僕はこれといった活躍を見せていない。

「ていうか、どうして挟まってたの」

 純粋な質問にたじろぐ彼。しばらくして、苦笑しながら簡潔に答えてくれた。

「メルちゃんが挟まりそうになって、背中を思い切り押したんだ。僕は間に合わなくてこの様。あ、でも、もう少しゆっくり助けてくれても良かったよ? メルちゃんから手繋いでくれるとか。――もう嬉しすぎるや、昇天しそうだ……」

 最後の方は僕だけに聞こえるよう囁かれた。行ってらっしゃい、とは言わなかった。

ずっと注がれていた僕の視線に、ようやく気づいたリリーは、飛びつくように僕の左腕へ走り寄り、持ち上げたり下げたりを入念に繰り返した。呆けていたのだろうか。らしくない。いつもならすぐそれこそ飛んで来るくせに。その間中ずっと、眉間に皺を作って咎めた。その発せられた音からでも、僕が思っていた以上に、心配をかけていたのがわかった。

「どうしてこんなことしたの」

「この人の英雄にでも、なってみたかったからかなあ」

「そんなことで?」

「そんなことって。人助け、いいことでしょ?」

「あなたがこんなことになるなら、全部、ぜんぶ悪いことだよ。最悪。あなたが出て行かなくても、一番初めに、ワタシに言ってくれたら良かったのに」

メルはしばらく何も言えずにいた。さすがに急には起き上がれないのだろう、彼は力無く笑った。若い男性であった。腹が痛んだのか、途中から咳に変わった。小さな手で、背中を優しく摩るメルの横顔は、ひどく安心した様子だった。

「メル、ごめん」

 まだ噎せつつも、言葉を紡いだ。メルの両手を優しく握って。メルは黙ってひたすら、安堵から生まれた涙を零し続けていた。恥ずかしくなったのか、交わしていた視線を外し、俯いた。ぽろぽろと落ちるその涙を、拭うために彼は握った手を離して、顔へと持っていく。しかし、手は顔の前で再び捕まり、また同じ位置へと戻ってしまった。息を吐いた彼は、仕方がないのでメルの手ごと、目の高さまで持ち上げて、傷つけないように流れた水をふき取った。

そっと重ねられた手を、僕らは静かに見つめていた。



「姉さん、杉田さん! 大丈夫ですか!」

 その沈黙を破ったのは、男性よりも高い体をした、けれど細く美しい女性だった。

髪は腰に達しそうなほど長く、バンダナか何かで一纏めにして、大人びた顔がよく

見せていた。女性もまたメルとお揃いの淡い青の着物を着用していた。

メルはすっかり腫れてしまった目で、辺りを見た。

「ケイ、どこに行ってた?」

「どこって……。姉さんにちゃんと言ったよ? この機械止めるために、人を呼

んでくるって――。あ! 杉田さん抜け出せてる! よかった! 本当によかった!」

 そう言ってメルを押し退けて、挟まっていた人にがっしり、と抱きついた。その時に、二人を繋ぐ手も離れてしまった。繋いでいた手に、唯一興味を持っていたリリーはふっと興ざめた様子で、僕の腕に視線を戻す。僕も何だか居た堪れなくて、視線を外した。

体勢を崩したままのメルは横倒れに二人を見つめ、またも目を潤ませていた。その様子はちょうど、杉田さんには見えないのだった。

「それよりも、ロボットさん、あとそこのお嬢さん。本当にありがとうございます。僕、もう少しで死ぬところだった……。何かお礼をさせて下さい。何がいいですか? 何でもいいですよ! 命の恩人ですからね!」

「ありがとう。店の主人の私からも何かする」

 リリーは何も動じない。要は、これらの厚意に返答することを任されたわけだ。

僕はそれらに甘えて、正直にお願いした。

「それじゃあ、僕の過去を下さい」

「へ?」

 間の抜けた声は一つだけであった。よく分からないだろう杉田さんは、こちらを見つめてきた。

一方で、メルの目は、すっと細くなり、どこか妖艶な空気を漂わせ始めた。客と接する態度に変わったのだ。メルとはあまり会うことは無かったが、これが普段の姿であるはずだった。先程の七歳の少女とは打って変わって、大人びているように感じさせた。

「確かにそれは、礼に見合う行為。だけれど、そう簡単に頷くことは出来ない」

「だと思うよ」

 メルはこちらを見上げた。

「相手を困らせても、それでも願うの」

「勿論。何度失敗したって、これだけは諦めきれない」

 リリーが少し震えたのが分かった。

「死ぬまでに、すべてを知っておきたい」

 杉田さんはどうしていいのか分からず、事の成り行きを黙って見ている。何かを口にしようとして、止める。その考えは正しい。ここで口を挟むのは、少し遠慮が足りない。そう思っているのに、メルの妹は首を傾げながら、訊ねてきた。

「あれ、ロロさま? えっとすみません、どこから入って来ました? ここ、電気系統は残らず狂ってたはずで、今確認しに行ったら入り口が全く開かなくて、私たち一生外に出られないかもって……」

「そんな大袈裟な」

 そう笑っていると、メルの顔色がみるみる蒼白になっていった。そして立ち上がり、姉妹揃って慌て始め、嘆き始めるので、静止しようとした途端、

「落ち着きなさい」

 と声が入ってきた。低い男の声だった。僕は手を挙げて、合図する。彼は会釈をもって返してくれた。珍しくぴちり、とした服装の彼は、二人の娘に向かって叱りつけた。

「お客様を危険に晒し、あろうことかお客様に救ってもらうとは、何という失態! お前たちは何をしていたんだ?」

「ファ、ファザーに言える権利ないで、すよ!」

「珍しく正論。その通りです、ファザー」

「反省の色は全く見えていないようだなあ……。よし、メルとケイの普段の仕事を逆転! 半年……は長いか、三ヶ月! みっちり働けよお?」

「そ、そんな……! 私、知識の管理とか嫌ですよ! つまんない!」

「私だって、接客なんて、嫌! つまらない……」 

「ファザーだってこんなことしたくないけどな、何で帰ってきたファザーに優しく扉を開けてあげる、という行為が出来ないのか! 寂しかったんだぞ? ――娘二人には愛されたいに決まってるだろ? お帰りなさいって言ってもらいたいに決まってるだろ? それなのに、結果自ら扉を開けるなんて、なんて悲しいことだ……。我が娘らよ、反省せよ」

「何ですかそれ! 身勝手にも程があるってば!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぐ家族に、このままでは話が進まない、と僕は彼に声を掛けた。

「あの、僕さ、過去が欲しいんだけど。駄目かな?」

「ロロさま! 貴方のお陰で、我々は本当に救われました。ありがとうございます。我々がこの仕事を続けていけるのも、貴方の救いの手によるもの。二度とこのような過ちを犯さぬように、再発防止に努めるつもりです、そして――」

「あ、うん。いいから。その代わりに僕、過去が欲しいんだ」

「勿論、いいですよ?」

 あっけらかんとした返事に、僕ではなく娘二人が驚愕し、憤慨する。

「何勝手なこと言ってるんですか!」

「じゃあロロさま、明日また来てもらえますか? 説明等、色々したいと思っているので。待ってますね」

「わかった」

 既に扉の前に立っているリリーに、彼は微笑みかける。あからさまに嫌悪感を顔に張り付かせているのに、彼は気づいていないようだ。

「先程のご活躍、素晴らしかった。さすがはロロさまのご夫人。手馴れたように機械を触る貴方を――どこかでお見かけした気がするのですけれど、どうでしょう?」

「口説かないでもらってもいい?」

 僕がそう挟むと、誤解ですよ、と同じように微笑まれた。これだから、彼は苦手なのだ。とため息。誰がどう見てもナンパの手口だ。

 僕らは颯爽と帰宅した。始終寂しそうにしていたリリーが、何となく気になって仕方がなかった。


       ∞∞∞


「ねえ、ロロ。お前は、あたしから離れたりなんて、しないわよね?」

「どうしてそんな風に思うの?」

 彼女はベッドから立ち上がり、カーテンを開けて、こちらを振り返った。黒い髪が日光を浴びて、緑色にも見える。長いながい髪を手で梳いて、目を細めた。その姿は、これでもかと上品な雰囲気を纏っていた。素足のまま床を歩くので、注意したら、怒鳴られた。

「お前に何一つ、叱られることはないのよ?」

「……すみません」

 せっかくスリッパが足もとにあるのに、と思っていると、彼女はこちらに近づき、額と額を合わせて、背の低い僕の目線の上から見下し、嘲笑した。

「お前が離れたら、あたしが虐める子、いなくなっちゃうじゃない。ふふ、安心して、飽きたら消してあげるから」

 ――オマエガ、

キエテ、

シマエ――。


       ∞∞∞


「リリー、おはよう」

「うん」

「髪、ぼさぼさだね」

「……これ、もっと早く……、伸びないかな」

「なんで」

「――秘密」

 どんなに仲が良くとも、一緒には暮らしていない。リリーもそれを提案してこないから、別にそれでいいのだ。今思えば、少し彼女らしくなくて、不思議だったが。女の子には色々あるのだろう、多分。

 リリーには、毎日どこかへ帰って寝るところがある。太陽が昇れば、僕がいる公園に訪れて、歩き回る僕を探し出すのだ。これを二年も続けてきたのだから、笑えてしまう。それにどうして僕は待っているのだろう。何よりどうしてリリーは、僕の居所がわかってしまうのだろう。機械、だからだろうか。彼女にとっては僕の思考なんて、そこまで考えて、リリーがずっと黙っているのに気づいた。

「どうしたの? 今日、元気ないね」

「嫌なこと、思い出したの」

「そうなの? そういう時って、今日という日に全く関係ないから。気にしなくていいんだよ」

「慰めてくれるの」

「うん」

「緊張してるの」

「うん」

「怖いの」

「……うん」

 リリーは少し視線を落とした。それによって、さら、と長めの髪が顔にかかった。最近の人間の髪色は、色の三原色にある緑が強く出ているようで、リリーもまた例によって緑色の髪だった。けれど、ある時から黒色に染めてしまった。少し残念でもあったが、彼女の自由なので、何も言わないでいた。

「散歩する?」

「ううん。いいや」

「左腕、そのままなの」

「うん。全てが終わってからにしようと思って。さっき見てきたら、専属医師、留守だったから」

「……あ、着いたね。大丈夫だよ? 怖がらないでいいの。リリが一緒に居てあげるから」

「頼もしいよ」

 昨日と同じように、また透明の扉をくぐった。


       ∞


 チャンスは三回であること。

一番初めにこれが彼の口から放たれた。再びエレベーターに乗せられて、『過去』と表示された場所に連れて行かれた。昨日と同じ銅の扉の前に立たされる。その時、昨日潰れた左腕が目に入った。直して、と一度頼んでみたが、黙ったまま苦しそうな顔をするので、他の人に頼もうかと放置している。リリーは僕をいじくるのが、これ以上なく苦痛らしい。あと、僕が機械らしいこと、たとえば変形だといった行為をすると、嫌悪感に苛まれるらしい。昨日改めて確信したことだ。

再び僕は覚悟を決めて、扉の中へ入っていく。そこで、少し前の出来事を思い出し、注意事項を反芻する。


      ∞


「あれ、エレフや挟まれた彼は?」

 僕らを奥の自室から出て、ずっと待っていたメルに問うと、かなり嫌そうな顔をされた。そう言えば、この呼び方はよろしくないのだったっけ。

「その名前は使わないで。色々ややこしくなるから。――ファザーと杉田さんはいない。まず、杉田さんが居ることは有り得ない。貴方だって本当は――」

「……あ、ごめん」

「謝るなら、この作業は全部止める」

「それは困る。撤回するよ」

 この過去への旅は、僕が体感したことのない痛みを受けてしまうらしい。機械の僕であっても、だ。彼は一つひとつ丁寧に説明してくれた。

 まず、チャンスは三回まで。泣いても叫んでも延長は無理。特定の客にここまで特別扱いすることは、『エデンの園』を営む彼らにとっては、かなり危険であるという。よってこのことは極秘情報。他言すると二度とここへは入れない契約を結ばされた。――そう言えば、塔の人間ではないのに、この話を聞いてしまった者が一人いる。それについて訊くと、

「あの人は大丈夫」

 と皆揃って口を開かれたので、僕は何も言えなくなった。リリーまでもそう言い切ったので、驚いた。

 時間制限は一日。これは過去内での時間を指す。ちなみに僕らが過去で一日を過ごすと、こちらの世界では一時間経過したことになる。機械がてんで駄目な家族なのに、何故かこういう類の機械だと最先端を用いている彼らに、訳がわからなくなった。意味がわからない。

 そして最大の疑問は、何故、チャンスが三回なのか。僕は一回で充分ではないのかと不思議に思ったので質問した。すると、彼ではなくメルが答えてくれた。彼は普段から娘二人に店を任せっぱなしで、家に居ることが非常に少ない。当然といえば当然か。

「私が多くの記憶、知識を管理しているの、知ってるでしょ。先代から受け継いだ知識たち。それを――私たち人間の脳にとって、莫大な量の情報を――全て私の一つの脳で管理すれば、私がとち狂ってしまう。だから、あまりこういう内側の話をするのはいけないけれど、『未来』、『現在』、『過去』。この三つの中に分けて実際にこちら側に具現化することで、脳の混乱を避けてる。勿論、今までの知識は私の中にある。要は全く同じものが扉の中、そして私の脳にも存在するというわけ」

 何故か彼がパニック状態に陥って、おろおろと皆の様子を窺うので、分かりやすく教えてあげた。

「主体はメルの頭で、扉の中のものは、あくまでコピー。けれど同等の価値がある」

 この説明でもまだ首を傾げる彼に、メルは苛立ちげに、

「また後で教えてあげるから」

と、言い捨てた。この様子を見ると、もう何度も説明を受けているようだった。

「つまり、私の脳の中身を具現化したものが、扉の中にある。だから、貴方の過去もあそこにある。だけれど、人間の脳みそがはっきりと、貴方の記憶と誰かの記憶とを、隔てていることはない。完璧に記憶していても、常に混濁。一発で貴方の記憶に潜り込めたら、それは限りなく奇跡。だけれど、そう簡単に行かない。だって、私の中には、貴方を含めて何万人の過去が存在するのだもの。まるで、宝くじ。……意味、わかる?」

 僕は頷いて、しばらく黙考した。

つまりは、メルの頭には当然入れない。が、具現化した扉の中には入れる。ただし、僕の過去がそこに必ずあるけれど、そこまでうまくたどり着くのは、奇跡――不可能に近い。そして回数制限。プラスして時間制限まである。仮に僕の過去に着いても、一日で終わりというわけだ。

「そして貴方の場合はかなりの特例。だって実際に一度、『具現化』させたことがあるもの。完全な過去としては現せない。貴方たちが入り込むことにより、変形する」 

 言い終わった後でケイが補った。

「本来ならば、過去の世界の人に話したりすることは出来ないけど、貴方たちの場合は出来るってことね。そして、本来の過去とは少し違う形のものを見ることとなる」

 それでもいいのなら、協力する、と。メルは言っているのだ。

 それでいいのか。いいけど、でも。

「……怖いなら、やめない?」

 隣で、リリーは無表情のまま、問い掛けた。

「迷っているってことは……、怖いってことでしょう? なら、ねえ、やめようよ。知らなくてもいいこと、きっとたくさんあるよ」

 しかしその目線は、鋭く直線的に、メルへと向かっていた。

「……そんな顔しないで。仕方ないでしょう。そんな便利でも、器用でもないの。私の頭は、それ専用に作られたわけではない。先代の店主の脳から、少しの成長はあっても、大して変わらない脳の働き。負担をかけて、無理をしながらも、ここ『エデンの園』を営んでた。私もそう。だから」

「言い逃れ?」

 メルは、むっと眉間に皺を寄せた。

「不可能を不可能だと、教えてあげてるの」

「姉さん、お客さま」

「……私だって、手助けしたくないわけじゃない、わかって」

 リリーはこちらを見た。優しい口調で問うた。無表情であっても、声色が変わることはない、いつだって。

「やめたいなら、やめよう。無理すること、ないよ」

「……リリーが、ここに入る前と違って、そうやって諭すのは、僕が過去を知ってほしくないから? 過去を知って変わる僕を、見たくない、から?」

「――そうだよ。ワタシも怖いの」

 そこまで言って、今日初めて笑ってくれた。

「でも、あなたが望むなら、どこでも一緒に居てあげる」

 そこで初めて覚悟が決まった。妙な話だ。何となく僕はこの笑顔を待っていたのだ。

「――メル。よろしく頼むよ」

 ほっとしたような、息をふっと吐いたような音が、隣から聞こえた。


       ∞


「扉の中にある本、わかる?」

 暗闇の中、聞こえるメルの声に従い、ぽつんとスポットを浴びて浮かび上がった本を視界に映す。丸い卓の上にある分厚い本。僕はゆっくりと、そこへ近づこうと足を動かした。手に届く範囲に着きそうなところで、リリーの声により停止する。

「待って、ロロが挟まれないようにしなきゃ」

「異物が挟まったら、一時的に開くようにインプットするの?」

「そうすると、悪意を持った人とかに、危険に晒されてしまう」

 メルの声にいちいち不機嫌になるリリー。爆発される前に僕はそっと耳打ちした。

「僕からのお願い。メルに手を貸してあげて」

「――じゃあ、機械に善悪判断させて、潰し――ぺっちゃんこにしていい人間と悪い人間とを分ける。どう?」

「機械判断はちょっと……」

「じゃあ、ここの住人の判断で決めさせる」

「ちょっと、そんなこと本当に出来るの」

 と疑うメルに、リリーは、

「出来ないなら言わない」

 と一蹴して、僕にすぐ帰る旨を伝えて出て行った。まあ、リリーなら出来るだろう、と予想通りにすぐさま帰って来た彼女に、本の下へ向かおうと促した。

「本当に出来てる――。……すごい。――うあ、えっと、本に着いたら適当なページを開いて」

 戸惑うメルに、何の反応も示さないリリーは、興味なさげに遠くへ視線を置いた。その様子に少し心細くなって、こっちみてて、と呟くと、弾かれたようにこちらを見てくれた。さっき怖いとか言ったくせに、何だ。嘘だったのか、と少しむっとする。

「その本、すごく分厚いでしょう。そのページのどこかに、貴方の過去が刻まれているから。頑張って何かを感じて」

 ぱらぱらとページを捲り、とある場所を開けた。特別感じるものなんてものは無かったが。

「じゃあ、右か左どちらかに、黒いベールを被せて、そう」

 こちらからの様子が見えるのだろう。僕はそれからの指示によって、卓の後ろにあったベンチに腰掛けた。何故かベルトがあり、それを巻きつけて次の導きを待った。

「じゃあ、行ってらっしゃい」

 ガコン、と床が外れて、気づけばアトラクションのように下へと急降下していた。


       ∞∞


「そういえば、何で杉田さん、現在の扉に挟まったんだろ」

「さあ」

「そういえば、何で彼のこと、信頼してるの? 意味わかんないんだけど」

「それはほら、あの人、大切にしてるから」

「メルを? それは見たらわかるよね」

「そう。あの子を含めて、あの子が大切だと思うもの全て、大切だと思っているの」

「……え? 何でそこまでわかるの」

「見たらわかるよね」

「いや、だからわかんないって」

 そう言うと、もどかしそうに訊かれた。

「本当にわかんないの? ロロ、本当に? あの手の扱い方から何も感じなかったの?」

「な、何だよ、その言い方。リリー、間違えてたら恥ずかしいぞ」

「間違ってないよ。絶対そう。あの人は絶対、あの子を傷つけたりしない」

「……外野がとやかく言うことじゃないよ。――そんなことより! まだ着かないね。もしかしてここが過去?」

 リリーから視線を外して、頭を回転させ、この空間を見渡した。辺りは黒一色の海だった。落ちた先は暗闇ではなかったが、薄暗く、少し気味が悪かった。とぷ、と波が奏でる音から、荒々しさは感じられないが、漂流しているみたいで嫌だった。そんな僕の思いを汲み取ったかのように、ベンチが大きく傾いた。既に足は水に浸かっていたが、足を上げた時に水の抵抗を受けなかったので、そういう風に具現化されているだけで、本物ではないことが窺えた。

「ロロ、すごい渦あるよ!」

「え、渦?」

 まだ落ちるのか。それを見た瞬間、思った。渦巻いていた所は、じわじわと干乾びるように水が消えていき、気づけばぱっくりと海面が割れてしまっていた。僕らの乗るベンチはどんぶらこっこと、そこへ向かう。まるで一寸法師の気分だ。あまりにも巨大すぎる世界である。

「ね、これ上から見たら、本を開いた形に似てない?」

 またもや落下。いい加減どこまでいけば気が済むのか。リリーが嬉しそうなことだけが、唯一の救いであった。


       ∞∞


 夕暮れであった。次の瞬間には、それが誤りだと気づいた。

「わあ、橙色の空だ」

 そう。この世界に太陽は存在しなかった。東西南北、すべての方角を一瞥するが、あの光の塊を見つけることが出来なかった。空全体が橙に染まっているのであった。

「よいしょ」

 ベンチから立ち上がったリリーは、僕へと手を伸ばした。指がある左腕を躊躇ったが、すぐにしっかりと掴み、足を地面に着かせる手伝いをしてくれた。

 僕らが立ち上がると、ベンチはそれを感知したのだろう、仕事を終えたと言わんばかりに上昇し、空を突き抜けて消えていった。この空はきっと誰かの過去が作り出したのだろうけれど。

「……大きな海を見てたからかな、ここが小さく、とても平穏に思えるよ」

 街は、空の色をもっと美しくさせようと、どこも黄色い灯りを点して、細い道を照らしていた。建物が大きくて道がやや窮屈に思えた。コンクリートではなく、赤、黄、橙、白のタイルを使って、この街の穏やかな雰囲気を生み出した。優しい色のタイルなので、目が疲れることもない。その上を歩くと返ってくるコツ、という音が心地よい。ここはとても快い。

「……全然関係ないけど、ふと、思ったんだけどね」

「うん」

「どうしてあの子から直接、ロロの過去を聞き出さなかったの?」

「結構、今更だね」

「ちょっとボーっとしてて」

「――いや、出来るなら少しでも」

 僕を作り出した僕に、会ってみたいと思って。

 そう言うと、妙に首を縦に振られた。納得してくれたのだろう。ちょっと、嬉しかった。

 街中を歩いていくと、きぐるみを着た多くの人間とすれ違った。流行でもあるのかな、と適当に考えていると、角の生えたきぐるみがチラシを手渡した。リリーは片っ端から無視であった。動きにくい左手で何とか、一枚の紙を受け取って中身を確認する。それをリリーは覗き見る。見たいのなら、自分も貰えばいいものを。

「人形店。何それ、変なの」

「人形を専門に扱ってるってことでしょ、多分。……どうする? 行く?」

 ふと白い鳥が集まっているのが見えた。一心にくちばしを上下に動かしていた。何かを突いているようだ。興味が湧いたので、そこへ足を運ぶ。

鳥たちは僕の音に驚いて、すぐさまどこかへ飛び立ってしまった。現在は見かけないが、昔で言う鴉の位置にいるのだろうか。ごみ箱でも置いてあるのか、と考えた。

確かにごみ箱はあったが、ごみを漁って啄ばんでいるわけではなかった。

『ありがとうございます! 本当、助かりました!』

 デジャビュ。こんなこと前にもあったな、と物思いに耽っていると、リリーがその声の主を鷲掴みした。空中に浮かぶ小さな人は、スカートを懸命に押さえて、助けを求めた。なるほど、鳥の鳴き声以外に聞こえた声はこの子からか。と、疑問が解決したので、リリーを制止する。

「こらこらリリー。乱暴に扱っちゃ、いけません」

「何これ、小人?」

『人形ですう! ひい、スカートが』

「ちょっと、リリー。盛大に捲れてるから。助けてあげて」

『ああ、なんてお優しいお方! うちの命の恩人さま!』

 これもまた、既視感。まさか、杉田さんの過去とか言うオチじゃないよな、と不安になる。冗談にしては全く笑えない。

 うち、と称する小人。妙にひらひらとしたドレスを身に纏う、ツインテールのビスクドール大の女の子だった。要は、ビスクドールが体を動かし、まるで生き物のように話しているということだ。鷲掴みにするのが疲れたのか、リリーはお姫様抱っこに切り替えた。そうすると、見た目だけは歴とした上品な女性に思えるのだから、不思議なものである。僕が黙って観察していると、女性二人が会話をし始めた。

『あの、恩人さんの彼女さん? お名前を聞いてもよろしいですか?』

「……リリー」

『まあ、リリーちゃん! 可愛らしいお名前。ああ、うちは、ツバキ言います。好きなように呼んで下さいねえ』

 独特なアクセントだな、と思った。

『あんさん、抱き方ごっつう上手やなあ。もしかして、人形慣れしてはります?』

 しばらく黙っていると、ツバキという人形の方はもうすっかり、加えて言えば、どっぷり、リリーを気に入ってしまったようで。砕けた物言いで、宿屋を探しているのなら、知っている所まで案内する、と申し出た。それに対しては一切言葉を返さないまま、リリーは僕を視界に映し、意見を待つ。……どうせ行く当てもないのだから。

「じゃあ、行こうか」

「ロロが言うなら。――ね、お願い、リリたちを連れて行って」

『――リリーちゃん、ロロちゃんにべったりやな。えっと、こっちおいで。この道の方が早いわ』

 そう言い終わるや否や、リリーの腕から飛び出して、とて、と道案内し始めた。けれど僕の歩みよりも遅く、なかなか進まないので、苛立った彼女が再びツバキを抱えて歩いた。確かに手馴れた感じがしないこともない。

 リリーの過去は、あまり知らない。訊けば勿論答えてくれるが、少し動揺してから、言葉選びにひどく時間をかけて、語り始めるので、あまり問わないようにしている。何より、リリー自身から自分の過去を話すことが、思い返せば本当に一度もなかったので、出来る限りは質問しないでやった。語る時、消える表情もまた、目にしていられない程だったのも、理由の内だった。

『もし、宿主に訊かれたらな、こう言ってくれへん? 〝この子は借りてきた人形です〟って』

「わかった」

 代わりに答えると、

『あんさんに言うてへんで?』

と微笑まれた。気を遣ってやったのに、最悪だ。


      ∞∞


「……へえ。わざわざお客さまを呼んでくれたんだ」

『そ。あ、別に感謝せんでええで。あんたの感謝とかいらんわ』

「じゃあ……、何も言わない」

『ついでやし、この人らの部屋案内したるわ。あっちや』

 宿主から鍵を受け取ったツバキは、リリーに抱かれたまま、偉そうに指を差す。それに従って場所を移動すると、『ゴフェル』という看板が掛けられた、木製の扉の前に辿り着いた。意味がわからなかった。まあ、どうせふざけているだけだろう。

 上へと続く階段が見かけられたが、僕らは一階の部屋で休むこととなった。

リリーは片手でツバキの体を支えて、もう一方の手でドアノブを捻った。ドアノブも、木製であった。

『まあ、ゆっくりしてってや』

 中はこじんまりとした部屋で、天井が低かった。それ以外は特に気になる点はない。普通の宿屋だ。ああ、あと機械化が全く進んでいない。古代の家に入った気分であった。リリーもそう思ったのか、どこか落ち着かない様子であった。リリーの場合は根っからの現代人なので、違和感を嫌でも感じてしまうのだろう。

『あ、そこの金色の人、ちょっと鍵閉めといて』

「なんで」

 言われたままに行動するのは、かなり癪だったので問う。

『言う通りにしてえや。大事な話するから』

 扉を閉めると、ツバキはどこか神妙な面持ちで、言葉を紡いだ。

『これから言うこと、絶対に守ってな。ええか、絶対に! 宿主には手を出さへんようにしてや』

「手、出したらどうなるの」

『面倒なことになるから』 

その宿主が切り盛りしているだろう宿屋は、他の建物と比べるとかなり大きい方であった。そしてやはりと言うか、どうして広く造る必要があったのかという疑問が浮かぶ。

答えはチラシに載っていた人形屋でもあったからだ。

 様々な大きさの可愛らしい人形――手のひらサイズやツバキのような大きさ、等身大の人形まで――が置いてあった。道沿いの壁はすべてガラス製で、人形たちは買ってもらおう、と声を張り上げて、時にはガラスを思い切り叩いて、アピールしている。

 店の中へ入ると、人形たちの服や、かつらといった可愛らしくみせるためのアクセサリー類が多様に置いてあった。そこから奥へおくへと進めば、支払い場兼作業机に辿り着く。そこにいる青年は、銀髪をえらく長く伸ばした子で、黙々と作業している。顔は窺えない。ずっと手元の木の塊に夢中だ。愛想の悪い青年だった。その作業机の上には、見本としていくつかの人形が置かれていた。

ここに来て、浮かび上がった疑問。それは、何故この世界は人形が動いているのか、ということだ。確かに現代の技術ではそんなことお茶の子さいさい、というやつだが、ここは明らかに文明が発達していない。それなのにどうして、ここまでの技術を得ているんだ? 一体誰が。

そして、ここはどこなのか。僕らの住む国にしては、ファンタジー要素が強すぎる気がする。人形が多すぎるのが最大の理由だ。すれ違った人々、大人の男性でさえも、残らず目を輝かせて店を覗いていた。……この表現は、いただけないか。男であっても、人形に心躍らせてもいいはずだ――。しかし一体どうして。

「……その服、重くないの」

『重いとか軽いとか、どうでもええんよ。大事なんはね、可愛いか。それだけなんよ?』

「……ふふ、好きの形みたい」

『え、どこ――』

「どこが?」

ツバキよりも先に問いかける。リリーの口から好き、という単語が耳にできるとは。リリーは好き、という音を大切にしている。言霊、を信じているということだろう。僕はまだ、彼女に好き、を二回しか言ってもらえていない。

「軽くたって、重くたって。大事なのは思っているかどうかでしょう」

ねえ、ロロ。

「そうは思わない――?」

じっくり考えることなく、気づけば、

「いや……僕は――」

口にしていたのだが、それとノックの音が被さり、僕はそこからすっかり押し黙ってしまった。

『すみません』

この声に、ツバキが一番驚いた。

『何であんたが……! 何の用なんやペーネ』

『……貴方に用はないの。なんて、言えばいいですか、ツバキさん。……埒があきません。早くして下さい。私の口は堅くなんてないですよ。今回のことだって、どうせまた逃げだして――』

『う、うわっ、き、気持ち悪い性格! 何でうちになんか絡んでくるねん! 心の底から嫌いやわ、ほんまに!』

「――リリー、興味あるから、扉開けてあげて」

何故かロックしていた扉を、リリーはゆっくりと開けた。予想通りというか、可憐な人形がそこに立っていた。

扉がゆっくりと開けられた。予想通りというか、そこに可憐な人形が立っていた。

丁寧に束ねられた、一本のみつあみにされた髪。ツバキと同じように、その顔は整えられている。服はワンピースのようなものを着ている様子だったが、何本ものカラフルなリボンに巻かれていることで、詳しくは窺えない。まるでリボンをドレス代わりにしているみたいで驚いた。

『こ、んにちは』

 皆黙っているので、居づらくなったのだろう、ペーネと呼ばれる人形は、おずおずと会釈した。その時に短いワンピースの裾を持ち上げたので、巻きつくリボンがいくつか緩んだ。

「これも、動きにくさよりも、可愛さを取ってるの?」

 と、リリーは何故だか僕に訊いてくるので、横に首を傾げた。中身のコードが切れた気がした。細い補助役のコードだったので、そこまで気にしなくてもいいが。 

また、直してもらわないと、と左腕も見る。こいつも――。

大分ガタがきちゃったなあ。

「何か御用?」

 扉が閉まったのを合図に僕が問うと、ひゃっ、と飛び上がられた。そして興奮したままに質問を口に出された。

『それ、中に何か入っているんですかっ!』

『ペーネ! お客様に何失礼なこと言うとんねんッ! ついにそこまで落ちぶれたか!』

『お、お客様?』

「そうそう。で、用件は? 早く知りたいなあ」

 優しく促してやると、ようやく開口してくれた。しかし視線は泳いでいる。

『先程の失言は……どうかお許し下さい。……用件というのは、貴女のことなんです』

 うまく変換出来たのは、ペーネの視線がようやく定まったからである。

『貴女は、ここの主と何か縁がおありですか……。も、もしかして、主のことが……』

「その冗談、笑えないから」

 即答。叩きのめしにかかるような彼女の声色。言葉を失ったペーネは、瞳を潤ませて、こちらへ近寄ってきた。

『じゃあ、そちらの青色のお方と……貴女は、どういう関係にあるのですか?』

「友達」

 戸惑って、僕は答えた。

『ともだち? ……ホントですか。い、一緒にいるんですか、いつも心離れず、一緒に……?』

「心どうとかはわからないけど、とりあえずいつも一緒だよ」

 これも僕が答えた。

 ペーネは、リリーの前で力尽き、崩れ落ちた。手をこちらに伸ばしたままだった。

『ツバキさん……、貴方は何でまた帰って来たのですか』

『最後のお別れしょうと思たんや』

『だれに……』

 ツバキはそれについては、二度と開口しなかった。段々鼻声に変わっていくペーネを見下ろしたまま、無言でいた。

『羨ましい、うらやましいです。わ、私だって、生きてるんですもの。大好きな人と、一緒にいて、お互いの心も、すぐそこにある位に隣にいて。好きでいてあげるんです。……でも、好きでいてはくれない』

『本来、それをうちらが望んだらあかんやん』

『それでも欲しいんです』

 起き上がったペーネはやはり、くしゃくしゃになった紙のように、苦しそうに泣いていた。人形でも涙が出るのか、と僕だけ驚いていた。

『それでも、欲しい。自分があげる分、その分返して欲しいんです。そして、出来るのなら上乗せして返して欲しい。――だって、人にして欲しいことは、自ら実行しないといけないんでしょう? してますよ。毎日、まいにち、あの人に届くようにって、いのりながら、毎日好きであり続けてるんです』

 それでも足りないんでしょう。だから叶わないんでしょう。

悔しそうに、ペーネは呟いた。

『あの人、とっても魅力的です。いつも真面目で、人形に命を注いで作ってくれて。生きる力をくれて。それから、私たちのこと、気にかけてくれる。だから皆も同じ量、気になってしまう。私みたいにあの人以上に好きをあげる子も、たくさんいる。ツバキさんも、実はそうじゃないのって思ってるんです。でもね、あの人は、いつだって平等。――そう、だから、辛い……』

「不平等を望むの」

 感情の欠片もない、リリーの声。

「じゃあ、何があってもその不平等を飲み込まないといけない。たとえ、納得出来なくっても」

起きたペーネを持ち上げて、手元へと引き寄せて、小さな瞳の高さに自身の目をもってくる。戸惑い、顔を背けるペーネの髪をそっと摘んだ。

「ちゃんと結ってある。誰がやってくれたの」

『じ、自分でやった……』

「本当に? じゃあ、このリボンは? 誰がやってくれたの」

『自分です』

「嘘。そんな小さい手で、ここまで綺麗に出来ない。誰? 固有名詞は?」

『……ベータさん。〝箱部屋〟の宿主』

 リリーはそっと手を伸ばした。そしてそのままリボンを思い切り、引っ張った。あまりに力が強いので、リボンがペーネの体をぎゅっと縛った。悲鳴が発声される。

 リボンは蝶々結びであったが、解けなかった。びくともしなかったのだ。それを目にしたリリーは、解答を得たかのように、満足した表情を浮かべた。

「ほら、解けない」

『だから何だっていうのですか! せっかく、せっかく……!』

「あのね、これが、あなたの望みの結果なの」

 そう言ってまた、リボンを引っ張ってみせた。意味が掴めない。僕が質問しようとしたら、リリーはゆっくりと床に横になって、目を閉じた。

「リリーはもう眠ります。夢見るまで側にいて?」

「……うう、リリー、僕はまだ訊きたいことが」

「またあした。おやすみ、ロロ」

 言い終わってすぐ、安らかな寝息が聞こえ始める。無茶苦茶に暴れて、蹴散らしたものを回収せず、説明せずに終わってしまった。

『案外この子、賢いんちゃうか』

 そう呟かれた言葉に、人間以外のものが反応した。どういうことだと詰め寄ると、ツバキは考えながらも口にした。

『だって、あんさんの疑問に答えたくても、当事者がおったら話せへんやん』

『いいじゃん、教えてくれたって』

『阿呆。他人の恋愛ごとについて何や悟った時は、黙ってその相手さんの動きをな、じっと待ってあげなあかんやろう?』

 当事者は、これでもかとむくれて部屋を出た。


       ∞∞


『人の恋路は邪魔したらあ、あかんのよ』

「そうなんだ」

 あんたにだけ、教えてあげるわ。

 そう囁かれ、肩まで登ってきたツバキを見下ろす。

『うちが帰って来た理由は、あの子を助けるんが最後になるからや』

 あの子がペーネを指しているのは、何となくわかった。

『人形が生き物みたいに動くんは、やっぱり珍しい。でも、あの宿主以外でも、人形に命注いで、動かせることを出来る。ニ十人は出来るんちゃう? 

ここにいる者は皆な、身分低いひくいねん。そうなると身分高い者が低い者を使うやろ? それでええ感じに借金、背負うてしもうてるわけ。貧乏くじ引いててやなあ、誰よりも借金の額は高い。勿論詐欺やで。けど、拒む権利は与えられへん。ずっと働きっぱなしや』

しかしそれにしては、洋服がぼろいわけではなく、食事が足りていない風でもなかった。そこを問えば、人形師が儲かる職業だからだと返ってきた。

『人形の存在意義は何か、わかるか? 愛してあげるんが半分、壊されるんが半分や』

「こわす?」

『紙面上で契約を交わす。新規の子以外、ここにいる子は必ず一度は、契約してるはずや。そしたらもう、判子押した瞬間にはもう、店主からその客さんへ愛が移るわけ。その契約はな、この人形は一生、貴方を愛し続けるのを約束するってことやの。一生。笑い事ちゃうで、一生や』

「それって勝手に決められちゃうわけでしょう。勝手に約束だなんて……」

『勝手や。やけど、人形ってそんなもんやし』

 その声に、落胆や怒りといった感情は含まれていなかった。さも当然。表情も何の変化もなかった。

『あんさんと、似ているんちゃいます? その中、人は入ってへんやろ?』

「うん……。必要ないと、捨てられちゃうものね」

『そう。それがうちらの言う最後。壊されて、人間の何やよう理解出来ひん欲望を満たしてあげる。勿論な、気持ち悪いおっさんとかいるよ? ヒステリー入ったおねえちゃんいるよ? ちゃっちゃと死にとうなるよ? 何で勝手に壊されて、命奪われなあかんの、思うよ? 

――でも、無条件に愛してくれる人って、人間、うまいこと探せへんやろ……? 

それにな、酷いことばっかりちゃうねん。死ぬ前にな、看取ってくれって買ってく人、たくさんおるねん。泣いてな、すがってくるねん。一人嫌やって、抱き締めてくんねん。そう言う人ら、見てたら痛々しくないか? うちらが少しでも、救えるなら、うちの命なんて、どうせ布と木と、あとちょっとの命の欠片? たったそれだけの材料で出来ちゃうんやで。そんなら、それなら、軽いもんかなって――』

「思えない。理解出来ないよ」

『そうか……、似ていると、思うたけどなあ。うちとあんさん』

 それは思う。存在意義が、少しだけ似ている。

 外の空気を吸いたくて――いやまあ、吸わないけれどさ――、扉を開けて外へ出る。ガラス越しに空を覗くと、夜の色に染まっていた。この建物には、蝋燭が存在していたが、宿主のみが使用しており、部屋の前には一切設置していなかった。よく思えば、僕ら以外客の姿は見えなかった。仕方無いと思った。

『もうすっかり暗くなったなあ。……あんさんの目、便利やなあ。光るやん』

「自動的なの」

 ツバキは、耳元で思い出すように語り始めた。そのつぶらな目は、始終宿主へと向けられていた。

『うちは幸せな方で、人の死を見送る係りやったんや。やから、色々な人をみてきたよ。うちは寂しくなったけど、でも、そのお陰でお金があの子に入るんや。頑張ったよ。――え? 契約が切れたら自由ちゃうか、って? そやよ、自由になって、自分から命絶つ子がほとんどやよ。……でも、あの子の助けなりたいし、戻ってくる。効率よく稼ぐために、うちは人の死をみずに帰って来る。追いかけへんよ? もう無視の息やもん。でも失敗することだってある。今回で十七回目やったかな。今日は鴉に突付かれて死にかけたけどな、あはは』

 白い鳥は鴉だったらしい。色は対照的だが。僕はそっと尋ねた。

「君も、ベータって子が好きなの」

『まさか。可哀想思うだけ』

 そう言って俯いたので、実際の所、ほんの少しだとしても、好きの感情もあるのでは、と勘ぐるが、問い詰めることはしなかった。ツバキがリリーの話を始めたからだ。

『リリーちゃん、ええ子やね。あんな子を味方にしたら、強いやろうね。あの子は絶対に、あんさんを裏切らんよ、絶対』

 僕が沈黙を守っていると、こちらを覗き込まれた。長い髪が視界に入った。

『あんさん、うちのことあんまり好きちゃうやろ? そりゃ、可愛い彼女の腕に居座っとるもんなあ』

「別にそんなのどうだって……」

『それが本心やとしても、うちが気に入らんやろ?』

 黙ると、ツバキは飛び切りの笑顔で言った。

『じゃあ、好きになってもらいたいし、教えてあげる。本当やったら秘密にしてるとこやけど』

「何だよ、それ」

『まず、明日――ちゃうね、今日、うちは壊れる』

「……どういうこと」

『何故か。それは、雨がな、来るしや』

「嵐? どうしてわかるの? それ、本当? 皆には教えないの?」

『最後の契約者が持ってた新聞に書いてあった。前代未聞のでかい雨雲が接近中なんや。身分低い人間は全然知らん。高いやつらだけ、もう既に逃げとる。今知ってもな、ここにいる人間は回避する場所も、身分もないからな、意味ないねん。意味ないし、教えへん。どこ行っても死ぬし、どうせ、皆ここにいるやろうし。奇跡とかないとな、死んでしまいよるねんよぅ』

 涙を堪えている気配がした。

『あんさんらは、大丈夫か? 今の内に逃げといたら?』

 過去の世界が、僕の命をどこまで脅かせるのか。興味ある。

「え、ああ、大丈夫。えっと、だから最後のお別れなの? 一緒に死ぬために?」

『……そうやで。――だからな最後に、あんさんに、大事なこと教えてあげる――。

リリーちゃんの手、離したらんといて? 一緒に居たってや? あんさん見てたら、女は非力や思うて生きたじじい、思い出すわ。それ、えらい――甚だしい勘違いやで? あの子は一人だって生きていける。たまたま、あんさんの隣にいるだけで』

「は?」

『手、離したらあかんで? 手離したら、二度と戻ってきいひんで……! ほんまやで、後悔するで』

 うちらとは、違う体やねんから、同じような目に遭ってたら、そんなんもう、やるせへんやんか。


       ∞∞


『ねえ、何作ってるの? ねえったら、そんなに大事なものなの?』

「うん……大事」

『変なの。いつもは私たち人形を作ってるのに。かれこれ一週間はこれでしょう?

どういう風の吹き回し?』『そういう気分なのよ』『だからって、箱? どうして? 少し変ですよ』『貴方は黙ってたら?』『きっと、店に飾るつもりなのよ。だから、装飾にもここまで拘ってるのよ』『そう、なのかな』『でも、暇。ねえ、ベータさん。私たちの相手もして頂ける?』

「ごめん、また今度」

『何よう、つまんない!』『そんな怒らないで、ティーカさん』『早く終わるように応援しましょうよ』『それにしても、大きな箱。私たちでも入れる大きさじゃない?』

 空が再び夕日に近い色合いになった頃――つまりは朝――、人形たちは店が閉まっているのを良いことに、ぶらぶらと色々な場所を歩き回っていた。とにかく人形が多いのは宿主の周りで、少女特有の甲高い声が耳に届いてきた。

「やあ、ペーネ」

 ぽつん、と扉の前に座り込むペーネは、僕に気づくとゆっくりと腰を上げた。近づくと、同じように、また肩まで登ってきた。それで思い出した僕は、ペーネだけに伝えてあげた。

「ツバキは外へ行ってしまったよ」

 一緒にいると、どちらかが先か後かがわかってしまう。見送るのも、見送られるのも嫌だという思いから、ツバキは行方を晦ました。たった一人、で死んでしまうのだろう、きっと。

『泣いていました?』

「多分、少しだけ」

『人形にとって泣くのはね、命削るような行為なんです。水が駄目なのに、悲しいと出てくる涙。最悪です、泣いて壊れた子もたくさんいるんですよ』

「……君は、泣かないの」

『どうしてですか?』

「仲良さそうだったから」

『自分の恋を投げ捨てて、他人に託すような人、好きじゃありません』

 ああ、やっぱりそうだったんだ、というのは、心の中だけで呟いておく。

「そう、今日、大雨が来るんだって。皆残らず壊れるかもって。だから、最後のお別れだって」

『知ってます。普段と比べられないくらい、体、動きませんから。多分、皆もわかってるんじゃないですか?』

「終末を?」

『おかしいですよね。皆、ばかみたいに冷静なんです。私も、ああ、壊れるんだって感じです。……あ、貴方たちは大丈夫ですか?』

 そう言い終えて、ペーネは体中に巻きつけているリボンを一本解いて、僕の肩に載せた。滑り落ちそうになったので、すぐに左手で掴むと、ペーネはそのリボンを僕の人差し指に結んだ。真紅のリボンだった。

『辛苦、だなんて言わないで下さいね。紅色です。あの子に……、ぴったりだと思ったので。渡して下さい』

「そんなに、リリーが気に入ったの?」

『いえ、正直苦手です……。ごめんなさい。でも、あんな真っ直ぐした所、私には無かったから。だから、あの子には幸せになって欲しい』

「自分はもういいの」

『私は、最後にあの人が看取ってくれるなら、何だって。結果の意味、わからず字舞でしたね』

 僕の体から飛び降りて、よろけながらもこちらを見上げて笑った。この言葉を最後に僕はリリーへと駆けることとなった。

『実は私、ずっとサンプルだったんです。一度も、契約したことがないんです。ここから一歩も出たことがないんです。最初で最後の場所。役に立ちたかったのに。最後まで役立たずでした。生まれてきて、ごめんなさい、ってあの人に謝ります』


       ∞∞


「リリー、お願いがあるんだ」

「うん、いいよ」

 寝ぼけたリリーは大きくゆっくり頷いた。 

「お金持ってる?」

いやな人の言いそうな台詞だ。リリーは子供のように答える。

「持ってるよー」

「たくさん? いっぱい? 借金返せるくらい?」

「何が欲しいの? お金あるよ。リリが買ってあげましゅよ」

 呂律が回っていない。そして頭も回っていない。何で急に赤ちゃん言葉になるんだよ、と、溜息交じりに僕は今までのことを簡単に話した。特に力を入れて、僕からのお願いについて。出来るだけ理解しやすいように努めたつもりだ。

「へえ。一度も。契約したことがない子。いるんだ」

「らしいよ。あと、リボン貰った」

「赤色だ」

 僕の指からリボンを抜き、自分の右の人差し指につけ替えた。僕のサイズに合わせた輪の形で、小さな指には幾分、ぶかぶかなようだった。



 部屋を出るなり、僕らは宿主の所まで一直線に向かった。そして、リリーはポケットから包みを取り出し、机へと叩きつけた。

「ペーネという人形と、契約する」

「へ? お客さま、どうなさい――」

「契約するって言ってるの。お金もこれだけある。早くして」

 言い捨てると、宿主は勢いよく顔を上げて、焦ったかのように、矢継ぎ早に言葉を並べた。

「申し訳ございませんがお客さま、ペーネという人形はサンプルのものでして、お買い上げすることが出来ません。まだ、商品となるだけのものではございませんので」

 近くで呻き声がした。そして、それを罵る声がざわざわと聞こえた。きっと一度も契約したことがないのを理由に、よく虐められたのだろう、と思いを馳せる。

「サンプルでも何でもいい。欲しいから、欲しいって言ってるの。早くお金を仕舞いなさい」

 包みの中は、思わず驚愕してしまう程の金額が入っている。全く、それを乱暴にポケットに詰める神経を疑う。ちらり、と目に入ったのか、ごくりと唾液を飲んだのがわかった。

「……他の人形をお勧め致します」

「何度言わせるの。早くして。もう、この店も終わりなのでしょう? いいじゃない、最後くらい。役に立たせてあげたら?」

「貴方はそれを知っていても、ペーネを買うのですか。自分が死ぬかもしれないのに」

「うん。だって欲しいから」 

はっと声を漏らした宿主は、もつれる足をそのままに、箱を横抱えして、迷わずペーネの所へ直行し、箱の中へ詰め込んで鍵を掛けた。そして、その箱を勢いよく置いて、土下座した。

「お待ちしておりました、使者さま! お願いします……、他の人形、ここにある人形も全て、貴方に差し上げます。ですからペーネを、どうか彼女を一番に、大切に、持って行って下さい……。よろしくお願いします……! この子は契約済みですが、すぐ白紙に戻りますし、問題はありませんから!」

 するとリリーはこちらへ笑顔を浮かべた。もういいでしょう、と。戸惑っていると、相変わらず体は僕に向けながら、質問を宿主へとぶつけ出した。

「他のは全然いらない。――契約者は誰? どうして白紙に戻るの? その子は一度も契約してないんじゃなかったの? その箱は一体何? どうして閉じ込めたの? あのリボンぐるぐる巻きの意味は何? どうしてペーネを一番にするの?」

「契約者は……、俺です」

 やっぱり、とリリーは小声で漏らした。

 箱の内側からどん、と叩いているような音が聞こえた。

「ここの人形は、僕が作っていますが……、ペーネだけは、俺が、作った人形じゃあありません。だから、契約が出来ました。俺が死んだら、契約は白紙に戻ります」

「だから?」

「――俺は今日死ぬから、ペーネを<主なる神>の所まで連れて行って下さい」

「<主なる神>……。――どうしてその名前を知ってるの?」

 割り込んだ僕が聞くと、そんなことはどうでもいいと、投げやりではあったが、返答してくれた。

「昔から連絡を取り合っていただけです。貴方たちは彼女らが送ったんでしょう? つまり、今日死なない」

「そんなことより、閉じ込めて大丈夫なの?」

「……空気は入るようにしています。――彼女をお願いします。鍵は俺が持っておきますけれど。途中で開けられたら困る。最後まで、持って帰って下さい。少し思いですけれど……。無事に連れ帰って下さいよ。頼みます、俺にはできませんから」

 すると、外が急に騒がしくなった。泣き叫ぶ声、激しい雨音。まるで地面を割るかのように叩きつけられる雫の音。ガラスの壁へ幾度もぶつかり、徐々に水かさが上がってくる。リリーが扉から手を伸ばしてみたが、その雨粒は彼女の手をすり抜けた。やはり過去のものが僕らに影響することはないのだろうか。となると、ペーネを最後まで連れて行けるのか? そう疑問に思っている間にも、恐ろしい速さで水が浸食していく。ついには店内へと範囲を広げた。宿主は僕に箱を預けて、抱えられるだけ人形を抱え、高い場所に避難させた。それを拒む声も聞こえたが、宿主は無視し続けた。

 僕らはただ突っ立っていた。水の抵抗は受けても、僕の体も、リリーの服も濡れはしない。あっという間であった。橙の空を黒く覆う厚い雲は、休むことなく雨を降らせ、店内を侵した。扉は既にそれらを残らず迎えてしまっていた。宿主の服は水を吸って、重くなっている。水は彼の腰まで上がってきていた。

「ペーネを頼みますよ」

 最後まで、そう叫んだ。

「俺の命なんですから。俺が作ってなくとも、俺の大切な命なんですから」

 ペーネは何も言わず、ひたすらに箱から出ようとした。自分だけ助かるものか、と戦っているようだった。背の低い僕に代わって、リリーがずっと箱を抱えてくれた。

「ずっと、縛られていたんです、俺。考えられない位の借金のせいで身動き取れなくて。でも、いつもペーネが励ましてくれた。小さな手で、俺の頬摘んで、『がんばって』って。俺、ばかみたいに単純だから、好きになったんだ。でも、いつ買われるかわからなかった。だから、密かに契約書を貰って、全部返金したら、二人でどこへでも行けって、約束してもらったんだけど……、駄目だった。悔しいな、二人で一緒に居たかったのにな」

「一緒にいたでしょ」

「――でも、心は一緒にいなかったんだよ。いつだって、俺とペーネは親子で、俺がずっと好きであっても、あっちは好きにはなってくれなかったんだ……」

「親子じゃないって言えばいいのに」

「言ったら! ……本当の親を探すだろ! 俺んとこから出て行ってしまう!」

『そんなこと、ない!』

 雷が落ちた。それも店の中に。一瞬、ペーネに共鳴したのかと思った。

 その光の中から、僕らの前までベンチが降りてきた。屋根は壊れてしまい、は変が水面に浮かぶ。かなりの大きさで壊れたのに、皆が無事なのはおかしかった。計算されているのだろうか。

リリーは一瞥して、僕に先に乗るよう指示した。座ると、勝手にベルトが締まった。

 水は増していく。宿主の肩まで上昇してきた。リリーも爪先立ちで、箱を高く上げた。周りでは助けられなかった人形が、水の中へと沈んでいった。

「早く行けよ! ペーネが死ぬだろうが……! そうなったら、お前、俺は一生恨んでやるからな、呪ってやるから……」

「解けないリボンの意味は、側に居て欲しいっていう思いの表れ。自分がペーネを縛ってここから動かしたくない思いから」

「わかったような口振りで……!」

「箱に閉じ込めたのは、ペーネに抗ってもらいたいから。そして、悲しみに暮れさせて、一生忘れさせないため」

 リリーは言った。

「あなた、人形でしょう」

 宿主は唖然とする。

「どうして……」

「周りの人形は水に浸かったら、そこの部位の働きが完全に消えていた。足が浸かれば、踏み込む力が無くなって、その場に崩れ落ちていた。あなたも机に凭れているようにしか見えないから」

 そして、と続けた。

「この箱がこの場で開くことはないと思ったあなたの、負け」

 手には例の青い棒が握られていた。

 リリーは箱を水面に放り捨てて、ベンチに乗り込んだ。ベンチはすぐさま上昇し、もう、何も見えなくなった。


       ∞∞


 沈みかける箱を前進させるために、右手を犠牲にした。これで、二度と右手は動かないだろう。それでも良かった。

『貴方が捨てたって、一緒にいます』

 契約は続いている。貴方を看取って、契約は終わりです。


 開いた箱は舟のように進んでくれた。短時間で開錠した彼女に礼を言う。

『ペーネ……』

 水は、呟いた彼の首をすっぽりと飲み込んでしまった。急いで腕を動かして向かうが、目を閉じたままの彼は、壊れてしまったかのように静かだった。体の下に机があって、何とか支えてくれているのがわかった。

『どうして黙っていたんでしょうね。たった一言で、後悔なんてしないのに。人形が人形を作ってるなんて、可笑しいです』

 でも。貴方だから好きになったのに。どこかへ行くつもりなんてなかったのに。

 首に巻いていたオリーブ色のリボン――あの人が似合うと言って笑ってくれていたなあ――を千切って、越えられない一線を越えようとしてみた。ここからは親子じゃないと表したかった。

『綺麗な顔』

 ペーネは箱から飛び出した。彼の顔に手を当てて、そっと口づけた。その瞬間、机に載っていた頭がずれて、水の中へと沈んでいく。

 最後に、唇に強く噛みつかれた感触が、残った気がした。


       ∞


「お疲れ様」

扉から出ると、そう微笑まれた。

神の奇跡のように溝から出て来て、水の上に浮かび、ここに戻ってくると、急にありったけの痛みが襲ってきた。金属の体でもこたえる。リリーも俯いたまま、体を抱えて苦しみから逃れようとしていた。ミシリ、と嫌らしい音まで聞こえてきた。それを隠したくて、気になることを問うてみた。

「……<主なる神>。連絡取ってたってどういうことだよ」

 メルとケイは笑った。

「人形一体持って帰って。随分昔――、私たちの代じゃない時の『エデンの園』が受けた依頼。だから、連絡取ってたわけじゃない。

まだ完了してない依頼は、次々に受け継がれていく。けれど私たちの技術では、まだ過去は変えられない。到底しばらくは未完了のまま。――でも、こちらだって苦労してるの。その過去に私は三回行った。それに、前の代や貴方たちを含めると、二十一回。その全部の回数で、人形はその過去で死んだ。だけれど、互いの思いを確認し合えたのは、貴方たちが最初だわ」

「ふうん、僕らが変えた過去なり何なり、既知ってことなんだね」

「――貴方の過去だった?」

「わかってるくせに。訊かないでよ」

 リリーはこちらを一瞥して、視線を落とした。ポケットは元通りに膨らんでいた。ただ、彼女の人差し指には、紅色のリボンが巻かれていた。


       ∞


「リリね、髪留めが欲しいな」

 公園のベンチに腰掛けて、そう呟いた。

「あのさ、普通のヘアピン? ――っていう髪留めにね、手作りの、平らで軽くって、楕円みたいな青い石がひっつけてあるの! 石はそこらにあるやつを青い絵の具で塗ったようなやつでね、あんまり上手じゃないんだけど……。でも、その人がすごい一生懸命作ったのがわかる、髪留めが欲しいの」

「ふうん。えらく細かい注文だな。うん、誕生日にでもあげるよ。いつ?」

「誕生日知らなぁい」

「知らないって……。僕が十月二十三日に誕生日だから、同じ日でいい?」

「うん! ロロ、何歳になるの?」

「えっと……、ちょっと待ってね、キリの良い数字なんだ……。あ、そうだった。明後日で九百三十歳だ」

「わ、すごい数。それなら、立ってちゃ駄目だよ。倒れちゃうよ。ほら、座って」

リリーがしつこく座るように誘うので、従って座ると、ぎしぎしと音が鳴って、足が折れた。つまりは、一枚の板の上に乗っている状態になった。僕が立ち上がると、勢いよく背凭れが地面に引っ付き、リリーの足が宙に浮いた。きゃっきゃ、と声が上がる。

「壊れちゃった」

「直さなきゃいけないね」

「うん。今度は丈夫なのにしようね」

「――じゃあ、帰ったら買い物に行こうか」

「うん」

 リリーはまだ、過去へ行ったことによる疲労が抜けていなかった。僕もそうなんだけど、あまり気にならなかった。

「大丈夫? 待っててくれてもいいよ」

「待つの嫌なの。でも、待ってって言うなら、待つよ」

「……いや、一緒に来て」

 早く帰って、このベンチを直してあげようと思った。


       ∞∞∞


「誕生日おめでとう」

「何をくれるの?」

 僕にはお金があまりないから、いいものなんてあげられないんだけど、でも、あげたかったから。ほら、これ、髪留め。長い髪が少し、邪魔そうに見えたから。手作りでごめんね、少し、みにくいね。

 そう相手の顔を窺いながら述べられた言葉。

「ええ、本当」

 彼女は受け取った箱を踏み潰した。何度も踏みつけて、窓から外へ握り潰しながら放り投げた。僕は呆然と突っ立っていた。何も言えなかった。

「ありがとう。こんな汚いものをくれて」

 髪留めにつけていた青い石が、真っ二つに割れて床の上に転がっていた。


 ――ドウシテ、

 モウ、イヤダ……イヤ、イヤ、イヤ、イヤ――


       ∞


「調子良いっすね、高さん」

 いつもの賞賛の声。飽き飽きなんだ。と、心の内で吐き捨てる。時間をチェックし、空中に浮かぶ画面を強制終了させて、立ち上がる。

「……ごめん、ちょっと帰るわ」

「また? ちょっと高さん、皆を待ってから帰ってくださいよー」

 そう言う部下の言葉も無視して、高と呼ばれた男は、早々と用意して帰った。否、違う場所へと向かったのだった。 


       ∞


ガラスの扉を通り、認証口へと手をかざし、中へと入った。

 すると、扉に挟まってからずっと、接客業に携わるメルの後姿が認められた。と言っても、皆、仕事に勤しむ時間であるので、メルしか見受けられない。




 メルとの出会いは今から三年前。仕事帰りにガラスに穴が開いているのを知り、そのまま探検家気分で中に入ったのが、きっかけである。

ガラスや認証口はまさしく、探検する時のように、わくわくして入ってもらいたいからだそうだ。

そして、中に居た少女に、心奪われることとなった。長い睫毛に、伏せられた瞳、ゆらゆらと心細げに揺れる視線。思わずその興奮した腕で、抱き締めてしまったのも無理はない、と男は思っていた。別に酒を飲んでいたわけでもなかったが。

「びええっ」

 と、泣き出したメルに惑っていると、大笑いしながら、メルとは違う涙を拭うケイがやって来た。

「えらく大胆な人ねえ、あはは! お名前は?」

「あ、こんにちは。えっと、その、そんなに泣かないで。ごめん、いや、ごめんじゃないけど。好きだ、好きなんだよ君のこと、いやあの、急で悪いんだけどね」

「ちょっと。落ち着いて、お客さんも姉さんも」

 この後彼がメルに、淡々とした、厳しい説教を食らったのは言うまでもない。 



 ここ『エデンの園』は、知識専門にやり取りされている店で、つまりはお金の代わりに知識が用いられるということになる。過去を忘れたい者、未来を知りたい者、その逆の人。そういった多くの人がここに訪れ、その願いを叶えるべく足を運ぶ。しかし、その為にはそれ相応の痛みを受けることをわかっての上である。

「痛みはね、どんなに覚悟を決めても、怖いものよ」

 会員として認めてもらう為に、薄っぺらな紙に記入させられた。紙という資源はかなり貴重なものなので、彼女らがどこからどうやって得たのか不思議だった。そしてそれをこんなことに使用する神経を疑った。売れば遊んで暮らせる、まではいかなくともかなりの収入になるはずなのに。

 そんな紙に恐る恐る字を連ねて行く。偽名でも良いということだったので、適当に思い浮かんだ上司の苗字を使わせていただく。

久しぶりに字なんてものを書いたので、妙な気分であった。我ながら蛇の抜け殻のような字だった。それを流し目で見たケイは、向きも確認せず判を押した。逆さだった。

「これが証明。私たちは商売以外での情報提供はしませんっていうことになるの。まあ絶対にそんなこと、出来ないんだけどね。外に出たら、言葉使えなくなるから」

「どういうこと?」

「私たちは外と内とで、使う言語が変わるってこと。バベルの塔の話、知らない? 一応ここ、それを模倣して作ってあるんだけど」

 後日調べた所、バベルの塔とは、人間たちが積み上げた塔で、

――知識は常に液体の形をしている。これはメルの発言だ。

それを知識管理者であるメルが、自分の体に注いでいき、知を蓄えていく。その雫を絞り出すために、人々はこれ以上ない苦痛を必死で耐える。

 その人の知識の重要さにより、渡される知識の量は変化する。知識が欲しい、となれば、自身の持っている情報を搾り取り、管理者――ここではメル――に渡す。

 雫形に具現化させることで、その人物が渡した情報内容が薄れる。思い出しにくくなるということだ。

それでも、と、ここに足を運ぶ者は少なくない。

先述にあったように、何かを忘れたい人間は、何度もここに通って、忘れたい記憶を繰り返し抽出してもらい、ほぼ完全に薄れたことを、忘れたということにしている者もいる。

この店はかなり前から密かに営まれ、場所を転々としているらしいが、形はほぼそのままらしい。この巨大な建物をどうやって転々としたかは、尋ねたがまだ聞いていない。

ただ、メルは先代から受け継いだ知識も頭にあるらしいということだけ、知っていた。

「僕は、君に二十四時間いつでもどこでも、君のことを考えてるってことを知っていて欲しいんだけど、そんなことも出来る?」

 通い詰めた日々の中での、ある日のこと――イコール最近。そう申し出ると、いつものように潤み、それを隠すかのように伏せている目で、こちらを見上げて、

「出来ないことはない」

 とだけ告げた。覗く肌は全て赤く染まったのを覚えている。

それから、『現在』の扉に入り、痛みを堪えて終了したところ、ケイが早くにボタンに触れてしまい、挟まり、ロロに会う度、挟まった人呼ばわりされる。




「――よく考えれば、メルちゃんに拒絶されても、文句言えないや」

 何で話し掛けたりしてくれるんだろ、もしかして僕、好かれてるのかな、うわ、嬉しい。

などと、一人でにやけ面のままメルに寄って行くと、メルは机の上にあるコップへ手を伸ばした。

(あれ、僕のコップじゃ?)

 誕生日にプレゼントしたコップは既に、彼専用物として使用されている。それはここの常連ならば周知の事実である。いつも頼む橙の液体も、中に注がれている。

「我が腕に抱かれ、そして眠れ」

 メルはそう惚れ惚れするように呟いて、自身を自ら抱き締めた。何かの演劇でも真似しているのだろうか。

(というか、僕の考えは二十四時間わかる訳でしょう? 何で気づかないんだ? 今から行くって言ったはずなのに)

「そう言って貰えるといいね」

 ケイが、休憩のため、ちびちびと液体を飲むメルに向かって微笑みかけた。この姉妹が仲良く和んでいるのが珍しかったので、観察してみた。

「……うん」

 コップを抱えるメルは、まるで子どものように頷いた。頬が赤くなっていると、年相応に見えて、可笑しかった。らしくない。

「姉さん、命令形の告白、好きだものねえ、ふふ」

「……私、嫌われてるかも」

「え、ちょっと、急! そんなわけないわよ、冗談よして」

「だ、だって! 誰にでも優しい、し。誰にでも笑顔、だし。――ケイと一緒にいるといつもケイのこと見てる、し……!」

「心配しすぎだって。絶対姉さんのこと好きだって」

 どこか困った表情のケイは、ふっと扉の方を見た。その視界には、丁度彼も入る

ことになるが、いつもの笑顔が引き攣ったのを、見逃さなかった。高は疑問に思っ

て、後ろを振り返った。

「いらっしゃいませ。研究員の方がわざわざ、どうしたのかしら」

 白衣を着たケイよりも背の高い男。見た目は若く、二十代前後であろうと観察する。

男は迷いなく、メルに大股で近づいて、言い放った。

「右腕に<P-400>と書かれた青いロボット。――今はロロと名乗っている機械の過去を教えてくれ。その代わりに――」

 普段通りのメルに戻った。狐の如く、惑わそうとしているのだろうか。

「見合わないと、許可出来ない。それがここのルールだから」

「わかってる。――その代わりに、識別番号<6-VI>、リリーと名乗っている者の過去を教える」


       ∞∞


「また、ベンチの上でぶらぶらか」

「見てロロ、今回は水じゃないよ。火だよ!」

「そうだね。でも、全然熱くないや」

 落下した後、辿り着いた場所は火の海であった。赤々と勢いよく燃えているのだが、熱は感じられなかった。水の時と同じだ。火の粉が飛び散り、火は暴れ狂って、僕らの足などに挑んで来るが、何も感じられない。干渉されない。

これは、メルの感情の動きが原因で起こるわけではないようだった。何故なら、彼女は誰かが遊びに来るのか、始終嬉しそうだったからだ。嬉しいと火が表現してくれるのかという可能性は、無いわけじゃないが。

「過去には、干渉出来ない。全てはリセットされる」

 メルはぽつりと、そう言った。

けれど。未だリリーの指にある赤いリボンは何だ? 

どうして手に出来ているのか。袋は返って来たのに。――それに。人形を連れて帰れ、という宿主の願いは、絶対に叶わないものだということなのか。僅かに疑問が残る。

「あ、渦。発見です、隊長」

「え?」

 心の準備もなく、ベンチは火の中へ飛び込んだ。――深く考え過ぎてばかになるなら、考えるなというお告げだろうか。


       ∞∞


 気づけば、小さな城の中庭に着いていた。どうして城とわかったのかは、背後に小規模な城が建っているからだ。どうして中庭なのか、あまり手入れされていないが、何となく憩いの場らしかったからだ。今思うと中庭、は不似合いな気がしてきた。いくら何でもこれはないか。正しく、荒地であった。草も好き勝手に茂っている。

「うわあ」

 尻餅をついた時、汗の雫が空中に散った。気温はそこまで高くはないので、直前まで運動していたことを推定する。休憩をあまり取っていないのか、上気していた。

 男は遠慮なく、こちらをじろじろと観察して来た。なので、対抗して僕もズームしたり、遠目にしたりと繰り返してみた。

男は、黒い鎧を身に纏い、両手にはそれぞれ小刀を握っていた。瞳は夕日のような橙色で、真っ直ぐ、強く、輝いているのが印象的だった。好印象。

「椅子が……空から、人と鎧が……空から」

「鎧じゃないよ」

 面倒なことを言いかけた口を、強引に左手で押さえた。ここでわざわざ訂正しなくとも、鎧を着てるということで説明が終わるなら、それでいい。ロボットであることに誇りは無い。僕は早口で言った。

「最新の鎧なんだ」

「何だ、へえ……、そうなのか。俺はサイドって名前なんだけどさ。ここの兵。結構、高い地位に居る。全身鎧とか格好良いなあ! なあなあ、空から落ちるのってどんな気分?」

 物騒に光る刀を仕舞い、近寄ってきた。

「僕はロロ。彼女はリリー。――いや、ずっと前からここに居ただろ? 疲れてるから、立ったまま寝てたんじゃないの?」

 色々と面倒になりそうだったので、嘯くことにした。単純そうな子だし、騙せるだろう。

事実、サイドはすぐに納得して、屈託ない笑顔をこちらに向けてきた。リリーに笑い返すよう合図しかけて、サイドの表情が一変して焦り始めたので、たまらず問うた。

「どうしたの?」

「ごめん、俺の王が帰ってくるんだ」

 所有物のように称された王。リリーは早くも空を仰いでいる。ここの空は僕らの世界と同じ、朝は青色に染めていた。

「王を迎える時は、正装じゃないといけないんだ。俺、行くわ!」

「あっ、ちょっと」

「何だよ? 急ぐんだけど」

「僕もその、君の王様に会いたい」

 僕の過去が、王様だということはまず有り得ないだろうが、僅かでも可能性があるのならすがりたい。チャンスは今回を含めて二回。無駄には出来ない。

「……お前ら、もしかして余所者?」

 一瞬詰まっただけだったが、肯定と取られてしまった。次第に、サイドの目が疑心に満ちてくる。さすがに無理か、と思った時であった。

「そっか。俺と同じか! だよな。余所者でも、王、見たいよな!」

 けろり、と再び笑ったサイドは、こっちに来いよ、なんとかしてやる、と僕の肩に手を回して歩き出した。リリーも後ろから追いかけてきた。こちらは何も訊いていないのに、彼は自ら語り出してくれた。その情報から、僕の過去の持ち主ではないことが確認出来た。少なくともここまで陽気ではいられないだろう。もっと、落ち着いた性格だった――、気がする。

「俺は今の王に助けてもらったんだ」

 城の中へと入ると、蜘蛛の巣までは存在しないが、結構ガタがきた建物なのがわかった。屋根は薄くなっていたし、床も汚い。掃除が行き届いていない。リリーはきっとこんな不潔な場所が初めてなのだろう、足場を探しながら前進する。脱いだ服までも置いてあるのだから、驚いてしまう。

「そん時、俺、悪ガキだったわけ。根っこがもろ腐っててさ。世界なんて狂ってる、消えちまえ、俺が壊してやる的な。要は、ものすっげえ恥ずかしい考えを持ってたんだ」

 とある部屋に案内される。外と同じくらい荒れていた。泥棒が入ったみたいだった。それからサイドは引っ張り出した赤い布を、こちらへ投げて来た。布――フード付きのマントを二着。着ろ、と指示するので、これが正装かと考えていると、リリーがこちらを窺ってきた。

「あ、ごめん、着せてくれる?」

「うん。いいよ?」

 赤頭巾のように、頭を赤色で包み、ボディの青色を少しも見せないように、布が巻かれていく。大きなボタンが一列に並んでいく。

リリーも同じようにフードを被り、首の前で紐を結んで固定した。やはり、赤ずきんちゃんといった女主人公の類は彼女で決まりだ。

「本当は俺、ここの国民じゃないんだ。お隣のエリエ国で生まれたんだ。でも、その時からやんちゃで、常に反抗してきてさ。親も放置でさ、それがまた、腹立ってさ……。無茶苦茶な話だろ? 勿論今は、本当に反省してるし、後悔もしてる。 

――だから。今までやってきたこと反省して、親幸せにしようとしたんだけど、もっと歳取って、本当に反省してからにしろって言われたんだ……。

じゃなくって、ある時、仲間無理やり誘ってこの国に喧嘩仕掛けたわけ。喧嘩なんてもんじゃないんだよな、実際。そんな可愛らしい話じゃないんだよな。今でも思うよ。本当、殺されてもおかしくなかった、ガキだからって許される範囲、とっくに越えてた。

でも、その時優しく返り討ちにしてくれた人が、王だったんだ。太陽みたいに明るい表情で、『生きていたくないのか?』って。脅された。ばかみたいに強かった。仲間は逃げてった。俺は悔しくてそのまま睨みつけて、手元にあった石、投げつけたんだ」

 鎧の下に着ていた服をベッドの上へ放る。服の山が出来ていた。締まった体だった。きっと毎日まいにち、訓練づけで鍛えているのだろう。所々傷が残っていたのが、目に付いた。

「俺、ばかだよ。石投げるとか、本当、……死にたい。……王様だって言ったって、王は――」

「おい、早くしろ! もう、王がお帰りになったぞ!」

 外からの声に、飛び上がったサイドは、机の上に、唯一綺麗に畳まれてあった服に、新しい皺を作って着込み、勢いよく扉を蹴りつけた。扉は明らかに凹んだ。

「こっちだ!」

 走り出したサイドについて行けず、大股に歩いた。リリーが小走りのまま、スピードを落として側に居てくれた。どこも曲がらずに、真っ直ぐ駆けるので、視線の先に必ずいた彼を見失うことはなかった。

 不潔から一変、だだっ広い場所へ辿り着いた。床は光を反射するほど、綺麗に磨かれており、滑りそうだった。体の向きを左にすると、玉座が一つだけ用意されていた。これもまた、どこもかしこも赤い色をしていた。薔薇の飾りで埋め尽くされているようだった。そして、扉の前には、赤い絨毯。絨毯の両端には、ここでもまた薔薇が敷き詰められていた。ここの国のシンボル的植物なのか。

 広い空間には、赤いマントの人間がかなりの数で集まっていた。男性が多いが、ぽつぽつと女性を確認出来た。皆、どこかそわそわと落ち着かない様子であった。サイドなんかは、近くで見ようと、人だかりの中へ割り込んでいった。僕がどうしようか迷っていると、

「こっち!」

 とリリーに呼ばれたので、そちらへ歩み寄る。上手に人の間を縫って進み、窓の隣まで移動した。透明な窓の外から、鎧が何かを守護するように囲みながら、進んでくる集団があった。その集団は皆、赤に染まっていた。肌や目、髪といったもの以外、全てが赤一色であった。

「あ、目が合った」

 うげえ、と顔を歪めて、嫌そうな顔を浮かべる。

「うそ。どんな感じ?」

「うーん。固定観念を感じた」

 どういう意味、という音声を飲み込んだ。え、と声が漏れた。

「ありがと、帰ってきたぞ」

 手を大きく振る女性の姿に、歓声が沸いた。その場の興奮といったらもう。熱気の篭もる、女性を称える声。呼吸をせずに叫んでいたらしく、その場で卒倒する者まで存在したので、驚愕する。

気づけば僕らは女性から大分離れた場所に追いやられており、そこで初めて一息吐けた。

女性は、凛々しく、威厳のある者のように堂々と、絨毯の上を歩いて行った。短い白髪の上に小さな帽子、そして赤い瞳。アルビノの人だ。額には赤く輝く宝石が、耳には真紅の布を耳飾としてつけていた。マントを翻し、周りに笑みを送る姿は確かに目を奪われるものであった。

「リリも見たい」

「珍しいな。じゃあ、高くなってあげようか? 確かここをいじると……」

 両足が伸びた。リリーを抱えるのを忘れたので、自分だけが高く伸びることとなった。皆、女性に集中しているので良かった。ほっと息を吐いていると、一度は驚いた女性が、にこやかに手を振ってきた。僕も手を振り返した。……さすがだ。

「ばか! ロロ、もう見たくないから! 戻って! 早く! もう、嫌!」

「ごめんごめん」

 戻ってくると、リリーの『見たくない』に反応した人が、唖然としていた。

「ば、ばけ、化物――……」

 失神された。随分弱い人だな、と思う。他の人は、叫びすぎたのだと勝手に判断して、再び視線を戻した。

「ね、あの女性が王様……?」

「そうとしか考えられないよ」

 女性は玉座の前で振り返り、叫んだ。

「ただいま。今回も上々だった。この調子で行くと明日には終わるッ! ずっと待っていた休息の時が、もう目の前にあるわけだ!」

 うおお、と恐ろしい程の音が、空気を激しく振動させた。

隣を見れば、迷惑そうにリリーが耳を塞いでいた。

「以上、報告終了。解散ッ!」

 言い放ち、玉座に座る女性。勿論、解散する者など居なかった。そのまま、玉座まで詰め寄り、騒ぎ始めた。その中心にはサイドが居たので、案の定、と思う。

 王は、女性であった。それも、熱意の溢れた、美しい女性であった。

「ねえ、顔に石投げたって言ってたでしょ? 今も残ってるのかな」

「ちょっと待ってね」

「別に確認しなくていい! ほんのちょっと、疑問に思っただけ!」

「いや、僕が気になる」

 あった。しかし、遠目ではわからなかったが、彼女の顔は綺麗であった。ただ、一つだけ大きく(実際は小さいのだが、あまりにも綺麗なので目立つのだ)存在したのは、右目のすぐ下の傷だった。形は何故かバツ印になっていた。石を投げてこんな形になるとは、思えない。一つは彼がつけたにしても、もう一つは誰かであろう。

「あったよ。でも有り得ない形してるや」

「そっか」

「珍しいね、リリーが興味持つなんて」

「……もってない」

「別に嘘吐かなくたって」

「もってないって。ただ、あんな熱心な部下を持った人はどんな人か、見たいと思っただけ」

 しばらく場の興奮は冷めなかった。冷めようとしても、また爆発するように熱くなって、静まらない。王もそれを嫌悪せず、嬉しそうに笑っていた。その笑い方がどこかサイドに似ていた。

「リリーもあんな風に笑えばいいのに」

 この喧騒の中、届かなかった言葉は幾度とある。その中の一つに入ってしまったのが、少々残念であった。二度は、恥ずかしいので口にはしないが。

 ようやく、サイドが帰って来た。言うまでも無く、興奮覚めやらぬ様子で、視線は常に天井に向けられて、虚ろであった。

「阿呆っぽい」

 彼女の言葉に、大いに賛成だった。 


       ∞


 緊張した空気の中、メルは客接待の口調になって、説明し始める。テーブルに座らされた男は、ただ睨んでいた。

「ロロさまの過去は、確かにある。けれど、実際に雫を渡すことは出来ない」

「何でだよ。条件に外れていたら、情報提供を受けられるはずだろう。<P-400>の過去は制限を設けていないはずだ」

 ケイの近くへ静かに寄って、交渉成立の意味を尋ねた。ケイは視線を二人に置いたまま、あまり口を動かさずに小声で教えてくれた。

「杉田さんには新出単語だったっけ。

――交渉。私たちが知識を預かることで、他人の知識を乱用することが出来てしまう。だから、それを制限する為に、お互いの意思を交換することよ。姉さんは瞬間的に、持っている知識に、様々なロックを掛けられる。雫として他人に渡してはいけない、他人に話してはいけない、とかね。とある人間のみ、聞かせていい、もしくは渡しては駄目とか、そういう細かいロックもたまにあるわ。ロックに引っ掛かれば、残念ですが無理です。という話になってくる。

ちなみに雫にすると、姉さんが持ってる知識より、ぼんやり薄れてしまうの。ナイフとかわかる? 刀を知識だとして、切るものを人とでもしようかしら。そうすると、使う度に微々たるものではあるけれど、刀の切れ味――要は鮮明さが消えていく。知識はぼんやりとした薄いものに成り下がってしまうの。だからといって、同じナイフをもう一度作ることは出来ない。雫化にするのは、一度が限度。ただ、他人からほぼ同じ情報で雫にすることは可能よ。一人、一情報、一雫化。一人の人間がいくつも雫化することは勿論、可能だからね。少し難しいかな?」

 でも。という逆接に、メルの説明が乗っかった。

「ロロさまは、過去を無くしている。それを、すごく嫌がっていた。そこで、三年の月日を費やして、自身の過去をすべて雫化された。そしてそれらに並ならぬ圧力をかけて一つの果実に『形成』させた。気の狂いそうな痛みを受けてまで。ここまでの痛みに耐えようとした人も、耐えた人もあの人が初めてだった」

「それでどうして、情報が出て来ない?」

「情報はある。そう言った。ただ、通常の方と大きく違う点が、『形成』なの。彼は、一度は雫として抜き取ったものを、圧縮させて一つの個体にした。これが『形成』。無条件に雫化を禁止されてしまう行為。ストップがかかるの。――液体を固体にしただけなのに、おまけがついてくるなんて……」

「本来ならば姉さんはロロさまの雫を出せるのが道理。……なんだけど、『形成』って私たちにとって、えらく状況が変わって来る。これはね、私たちの代が作った新技術なの。まだ開発途中。だからわからないことだらけなの」

 メルが隣を一瞥して頷く。それからすぐに、再び男と向き合った。

「でも、頭の中でなら、彼の記憶を綺麗に引っ張り出して、口で説明することが出来る」

「どうして<P-400>は、自分の過去を個体なんかにしたんだ」

「……ロロさまは情報を受け取れない。何故なら口が存在しないから」

「? システムに繋げればいいじゃないか」

「そこまでまだ進んでない!」

 姉妹二人に怒鳴られて、男は驚く。

「だから信頼出来る人に、自分の過去を伝えて欲しかった。――私は信頼されてなかった。雫だと持ち運ぶだけで零れてしまうから、ってロロさまは固体に……」

「固体だって落とせば壊れるだろうが。気持ちの問題じゃねえか」

 確かにその通りだった。杉田はゆっくりと頭の中を整理する。

 まとめると、――本来の雫と、『形成』された個体とは、話が全くの別であること。雫とは、飲めばその人のほぼ (薄くなるらしいのでほぼ) 知識通りに、とある場面を知ることが出来る。しかし、新技の『形成』は、雫を固めて一つの物体にする。そうしたら、雫化が出来なくなってしまった。だから、メルは知っていても、雫として受け取れない。――大体、こんな感じだろう。

 ふと、メルの声が頭の中に響いた。

(その通り)

(うわっ、聞いてたの)

 メルには、いつでもどこでも、彼の考えが送信される。返信するのは、メルの気分次第だが。

(私のよりもわかりやすい)

 褒められたのだとわかって、有頂天になって、ありがとうと笑った。

 悔しそうに俯いた男は、ぎっとメルを睨みつけた。その男に、ケイはこれからを問うた。すると、

「――すまないが、頼むよ」

 本当に嫌々ながら、といった風に頭を下げた。

「私で良いの」

「良くはない! ……でも」

 それ以外方法がないだろ。力無く言い捨てられた。

「――わかった。場所を変える。そこで詳しく説明する」

 でもその前に、とメルは言葉を区切った。

「貴方の持ってる知識、頂くわ」

 その表情は、彼から見ることが出来なかったが、目がぎょろり、と開き、唇が裂けそうなほど広がって、おぞましい笑顔を形作った。

ケイは重い溜息を吐き、男は内心で思った。

(なるほど。知識屋なんて営む理由がわかった。この小さい体には、膨大な〝知識欲〟が、底無しに存在しているんだ)

 


       ∞∞


「え、王と話がしたいのか? ええと、お前らどこ国出身?」

「未来国?」

「え? それ、どこにあんだよ……。旅人か? となると、ちょっと難しいかな、さっき王に会ったじゃん。それで我慢しろって……」

 あれ、結構、ぎりぎりだったんだぞ。そう口を窄めるサイドに、そこを何とか、と頼み込んだ。すると、ノックされた。立ち上がったサイドを目で追いかけた。

「ぎゃあ! 王!」

「その叫び方最悪だな。マイナス点をプレゼント。はて、先程の客人はいらっしゃるかしら」

「こんにちは」

 僕が挨拶すると、王は嬉しそうにこちらへ歩み寄って来た。マントがひらめいた。

「初めまして。おれがここの王です。正式名、ダレッド・ルソボアル・サディスン。好きなように呼んでくれ」

「僕はロロ、それで彼女がリリー」

「ああ、先程目が合った、可愛いお嬢さん。初めまして」

「ありがと、綺麗な王様。左足の加減はいかが」

 この中で一番驚いたのは、間違いなく僕だろう。リリーが自ら進んで話しかける人間が居ただなんて。王は動揺を悟られないためなのか、俯いて訊いた。

「どうして……、そう思うんだ」

「そんなに強がらなくても。まあ、頑張って歩いてたと思うけど。でもやっぱり、ぎこちない歩き方してたし、膝、伸びっ放しだったし」

 あと顔、引き攣ってたし。指摘されると、王は強がるように笑って、低い声で呟いた。

「嘘を言うな」

「だから、嘘じゃないって。そこで、威嚇してる時点で、本当のことをばらされたくないって意識の表れでしょ」

「威嚇……?」

 割り込んだサイドに、リリーは首を傾けて言い捨てる。

「この笑みが消えたら、本気になったって合図でしょう。その前に笑顔でワンクッション入れてるじゃない。これのどこが威嚇じゃないの?」

 微笑んで、王に問うた。

「ねえ、どうしてここに来たの? 誰に何の用事?」

「……この国では、遠距離の移動をする時、旅人を連れて出発する。帆船に設置ある船首像のように、移動の安全を願うため、同行させる。――それを貴方たちに頼もうと思ったんだ」

「え、は? お、王、どこへ行く――」

「少し黙れ」

 王は返事を促した。僕は是非とも、と答えた。出来るだけ、多くの人に出会いたかったからだ。今の所、過去を持っていそうな人物は見つかっていない。

 王はこちらを一瞥し、リリーに視線を戻して、首をかしげた。

「貴方はどうだろうか」

「あ、リリーもだよね?」

「うん、そうだよ」

そう答えた瞬間、王は、さっと表情を険しくして、僕を見据えた。その顔の意味がわからなくて、質問する。

「どうしたの?」

「……いや、気にするな」

どう考えても、気にするなと言う方が無理だ。

ずっと大人しく黙っていたサイドは時を見計らって、質問を畳みかける。その問いを、王は手早く、見事に丸め込んだ。

「そうだな。確かに急なことを言っていると思う。だけど、おれはすぐに行かなきゃいけないんだ……。わかってくれるな?

誰かに知られては困るんだ。お前だから信じて頼んでいるんだぞ? 馬車を用意して、この二方を乗せていてくれ。おれはすぐに行くから。頼んだぞ? 何度も繰り返すがお前だから頼むんだからな」

「あ、はい……」

「ふふ、頼りにしているから」

 しまり無い笑顔がそこにあった。


       ∞∞


 馬車で揺られること二、三時間。荒地を走っているので、石に乗り上げたり、凹んで硬くなった地面に嵌まったりと、なかなか尻の痛い旅だった。彼女の様子からして。

辿り着いたのは、王の城とは比べ物にならない程の巨大で美麗な城であった。庭園も庭師が丁寧に手入れしており、門には細部まで、彫り物が施されていた。神らしき人物が杖を振るう姿を中心に、太陽や月、大地、その他多くの動物が描かれている。

「天地創造を描いたのかな」

「よく知っているな。創世記第一章、天地創造だ」

 リリーとサイドがそれとなく、眺めているのを認めてから、こちらへ静かに近寄ってきた。言われてみれば確かに、右足は引きずられ気味で、力が入っていなかった。

「え、耳はここにあるの?」

「うん。大体そこら」

 屈んで囁かれる。

「お前は、リリ嬢のこと、ちゃんと知っているのか?」

「? どういう――」

「過去を含めて、把握できているのかと訊いているんだ」

 黙っていると、しゃがんでいた体勢から、膝をゆっくり伸ばしてすっと立ち上がった。その顔には苦痛と苛立ちが含まれていた。

「あの子をひとりにしては駄目だ。勝手に死ぬぞ」

「……何それ」

 ――何で皆、揃って彼女についてそう口にするんだ? リリーに何があるって言うんだよ。リリーはリリーだ。それは変わらないだろう?

 門は開かれた。

 玉座には、二人の人間が座っていた。


       ∞∞


「急にどうしたって言うのですか、ダレッド?」

「陛下、お願いがあります」

「――わたくしがそれを許すと思うのですか」

「思いません。だから、勝手にやって参りました。お願いです、おれを故郷へ帰らせて下さい」

 陛下、と呼ばれた女性は、王と同じくアルビノで、長髪だった。けれど、瞳の色だけは、女性の方が王よりもずっと綺麗な赤色だという印象を受けた。王の素朴で動きやすそうな服装とは打って変わり、女性はだらだらと長いマスカット色、宝石で言うと翡翠色のドレスを纏っていた。王冠には、真ん中にルビーの宝石がでかでかと飾ってあった。

王は一切顔を上げようとしない。何かを目にしないでおこうとしている風であった。

「ダレッド。貴方にはやるべきことがあるでしょう」

鼻であしらわれた。無情な人間だな、と思う。

膝をついて顔を下げているのは王だけである。他はどうしていいのかわからず、そのまま突っ立っていた。

「貴方の噂は届いていますよ。一糸乱れぬ、血塗れた戦いの中、蝶の如く舞う姿。この五日間で、次々と敵をなぎ倒し、土地を奪い、我が国の領地にしていく姿はまるで悪魔のようだ、と」

「そんなことありません……!」

 首を振る王から、女性の視線が下りて、彼女の耳元で止まった。

「あら、その布、まだつけていたのですか」

「……貴方への誓いの証、ですから」

「ははは! 初めはあんなに純白だったのに! ふふ、ふふ! 一体、誰の血によってそんなにも紅に染まってしまったというのです? どれ程の量の紅を吸ってきたと言うのですか! ……わたくしの命令通り、多くの人間を葬って、力を蓄えてきたのでしょうねえ。ふふ、何て忠義な駒なのかしら」

 高々と笑う姿に、狂気を感じる。本来ならば、不快とする所なのだろうが、不思議と嫌悪感は抱かず、ただ、可哀想だと思ってしまった。そこに大きな引っ掛かりを覚える。何だ、何かが、そこに。

 王は苦し紛れにまた首を振る。

「そんな、そんな不謹慎なこと……、仰ってはなりません。ひどい……」

「あら、貴方に物申されるなんて心外ですわ?」

 早く城へ戻りなさい。そう言い捨てた女性に、ずっと隣に座っている男は、何も言えずうろたえていた。その姿に、苛立ちと僅かな既視感を感じた。どうして今、既視感を覚えたのか、どうして同情したのか、わからない。わからないことが、多すぎる。

ぴたりと止まった空気を動かしたのは、サイドであった。王の前を過ぎて、女性と向き合った。

怒っているのか、そう思って観察したが、違った。――彼は微笑んでいた。

「俺、ばかなんで。何言ってるのかわかんないんだけど、とりあえず、王のお願い、聞いてあげてくれね?」

 王はここに来て初めて顔を上げた。そのどこか縋るような表情に、サイドは息を呑んだ。

「らしくありませんよ、王。王は俺が守る人なんですから。もっといつものように堂々、と。お願いですから、前を向いていて下さい。……そんな泣きそうな顔、しないで下さい」

「無理に決まってるでしょう、黒の騎士さん?」

 女性は嫌らしく笑みを浮かべた。例えるなら、悪魔的だろうか。王よりもその単語が当てはまっている。――不敵であり、尚かつ、相手を見下したようなそんな。

「前を向いているなんて嘘。後ろをずっと気に掛けながら、目前の石に気づかずつまずいて、頭から突っ込んでるだけなのに」

「どういうことだよ」

「言葉遣いを知らないお前に教えるなんて嫌」

「教えて下さい」

 透かさず割り込むと、一気に僕に注目が集まった。へりくだろうが、見下されようが、別にどうだっていい。関係ない。どうせ僕はロボットだから。

女性は目を細めた。面白がられているようだ。その証拠に笑い声が聞き取れた。「いいでしょう。そこの鎧に免じて教えてあげましょう」

「う……」

「やめて! 話さないで! ……とか、抵抗しないの? もっと楽しくなるのに。命令しないとそんなこともわからないのですか」

 まあ、いいわ。と、俯いたままの王から目線を外して歌うように語り始めた。

その際、側にいた兵士のほとんどを他所へやった。聞いて欲しくなかったからだろうか。しばらく遠くへ行っておけ、と命令した。

肩を抱いて震えている王の、過去。そして、使命。話は昔に遡った。


       ∞∞


 とても昔の話です。私のお父様が死んだ頃の話。……ああ、これだと伝わらないでしょうね、私は九歳の時の話です。お父様が死んだことが信じられなくて、逃げ出した頃の話。

ここにある庭園で、わたくしは泣きじゃくった。泣けば、何も考えなくていいと思ったのでしょうよ。不思議なもので、悲しいだけで涙は出てくる。少しでもお父様の顔がちらつけば、涙が出てくる。苛々するくらいに。

あの日からは一度も涙したことはないけど、もしかしたらダレッド、貴方のお陰かしらね。

 顔を伏せていたわたくしに、こつんと何かがぶつかってきた。何だというの、と憤慨しながら落ちてきたものを拾いました。それは、熟れたリンゴでした。一瞬、その丸い形が何かわからなかったのは、剥かれたものを普段から口にしていて、本の挿絵などでしか見なかったからです。

握り潰そうかと迷っているところ、わたくしと同じ歳くらいの子が塀を登って、ひょこりと現れたのです。

「うわ、人いた!」

 その失礼な物言いに、勿論わたくしは怒りを露にしました。そうすると、可笑しそうにダレッドは笑いました。

「何その口調! もしかしてお姫様? かわいいな」

 そう褒められたのか、ばかにされたのか、よくわからない声色で話すので黙って涙を拭うと、こちらに下りてきて、隣に座りました。恐れ多いおんなめ、と思いましたが、その時は許してあげました。

 許す代わりに、彼女のことを問い質しました。険のある問い方をわざわざ選んだのに、彼女は気づかず返答するのです、腹立たしい限りでした。樹から落としたリンゴを齧るダレッドは、わたくしに問い掛けました。

「食べたいの? いつも腹一杯食べてるんじゃないのか?」

「そんな不潔なリンゴは食べないの。清潔で、うさぎの形に剥かれたやつを食べるの」

 そう答えると、彼女は再び食べ始めました。本当は、凄く口にしてみたかったのですが、自分から言うのが我慢ならなくて、違う場所に視線を置きました。その先にリンゴの実をつけた樹があって、悔しい思いをしたのを今でも覚えています。

 ダレッドは、両親に連れられてここへやって来ていました。母方の親に会いに来ていたと言いました。金髪で、青い目の朗らかそうな子でした。

「ここにはおれと同じくらいの子、いないと思ってた。嬉しい。ずっとつまんなかったんだ」

 わたくしの涙からは、わざわざ目を背けていた様子でした。気になるのか、何度もこちらを、ちらちらと見つめてきました。

「おれ、ここ好きだ。でも、苦手だ」

 わたくしが睨みつけると、慌てて言い訳を始めました。

「違うんだ。おれは確かに苦手だけど、ここの人が苦手だからってことじゃない。おれの国は、ここよりもっと進んでる。ここよりは悪い人多いけど、鉄とかあるんだ。ここはまだだろう? だからかな、ここみたいにゆっくりしてると、暇になる。退屈だと、いつもは考えないことを考える。――たとえば、死ぬこととか」

 死、という単語に反応すると、ダレッドはどうしたんだ、と焦ったように問うた。

 わたくしは涙を隠さずに、責めたてました。

「貴方は、人の死を他人事みたく考えられるほどに、のん気な人なんですね! 羨ましい人! そんなの、実際人が死んだのを見たことがないから言えるんです! 人が死ぬのは、さっきまで動いていたものが、止まってしまうことは、とても、とても恐ろしいことなのに……!」

「別にそういうわけじゃない……。おれがのん気に、そして死をかろんじてるように思ったのなら、それは違う。おれが今日来たのはおじいちゃんが死んじゃったからなんだ」

 空を仰いで、彼女は呟きました。

「そう、人は死んだらどうなるのかな。きっと、こだわってたこととか、どうでもいいこととか、全部一緒に丸まってくしゃくしゃになって、ごみみたいになって、いらないからごみ箱に捨てる。きっとそれが死ぬことなんだ、って」

「貴方の中での死!」

 叫ぶと、頷かれました。

「うん、おれの思う死」

「死ぬなんて一瞬よ」

「それがお前の中での死?」

「……真似しないで」

 そして、気づけば自分のことを洗いざらい話していたのをまだ覚えています。お父様が死んだことによって、わたくしが女王になること。そして、女の子であることで、多くの差別を受けたこと、そしてそれがトラウマで王の地位につきたくないという所まで零しました。すると彼女は、何故か怒り出したのです。

「どうして女だからと言って、差別されなきゃいけないんだよ」

 そのようなことを話していた気がします。ただ、最後のことばだけは、聞き流せませんでした。

「おれが王なら、女だって強くあれることを証明してやるのに」

 間の抜けた声に、彼女は笑いました。

「さっきも言ったけど、おれはこの国も好きだ。守ってやりたいくらいに。だっておれの家族がいる国だもの。大事だし、好きなんだ」

 わたくしは、今までになく声を張り上げました。そしてこれでもか、と相手に問い詰めたのです。

「そのことばに、責任は持てるのっ?」

 彼女は迷わず頷いてみせたのです。


       ∞∞


「それから、わたくしと彼女は王になる為の準備をしました。この国では、白髪赤眼でしか王族と認められません。それ以外の子が生まれた場合、王落ちとしてどこかへ捨てられます。ですから、まず彼女の髪を脱色させて、死んだ父の眼球を移植して、青の瞳を赤の瞳に変えて、王の条件を形作りました。そしてわたくしの名前を貸して、この国を治めさせました」

 それは本当に見事で、夢のようでした。うっとりと過去を思い出し、そう続けた。

「ダレッドの言葉に嘘はありませんでした。元々彼女は強くあったのです。幼い時から自己流の戦術を生み出していたそうです。彼女の国は弱ければ即死だそうですから」

 王は女性の命令通り、文句一つ無く、戦い続けたという。そして、国民の心を掴み、最後の領地へと手を出すところだと語った。

 呆然としているサイドに、わざわざ歪んだ笑みを向けて言い放った。

「貴方の王は、ニセモノ。ただの、都会の子ども。わたくしが、この国の本当の王」

 大変でしたよ、色々と。でも、わたくしに出来ないことなんてありませんから。そう言う女性に、リリーは息を荒くして、鋭く睨みつけていた。

「戦続けの毎日に、勿論ダレッドは拒み出しました。何度もなんどもここへ頼みに来ました。元々が優しい子ですものね。だからこの子の両親を人質にしました」

 唇を噛み締める王の姿があった。

「そして、新たに三つの条件を与えました」

 一つは、わたくしの言う事を聞くこと。二つは、このことを誰にも言わないこと。ひとりで抱え込むこと。

そして最後に、無理をすること。

 ……どうして、というサイドの問いに、狂ったように笑い出した。

「無理をしないと、願いは叶わないじゃない。何かを犠牲にしないと、思い通りにはいかないじゃない。足に矢が刺さったのが、何だというのです。そんなこともわからないのですか」

「自分じゃないから……いいのか?」

「当然。わたくしじゃないんだもの。決まってるでしょ」

 それから、王へと目を動かせて、おかしくてたまらなくなったかのように、嘲笑した。

「貴方がいなければ、今も尚、生きている人がいるのにね?」

「……うっ」

「貴方、生まれて来なければよかったのかしらねえ!」

 一瞬だった。

 視界には、まだ赤のマントを着込んでいる後姿が、彼の鞘から刀を抜いて、そのまま座っている女性の首へ突きつけた。マントが風で揺らめいていた。女性の目には驚きと恐怖の色が見受けられた。皆の表情が固まる。

「もういい。消えろ」

「ひ、ひゃっ」

 後ろへ逃げようとしても、玉座が邪魔して逃げられない。隣にいた男は早々にその場を離れてしまった。

「不快だ。消そうか」

 おぞましい剣幕であった。その場の空気は完全に硬直し、張り詰めた糸のごとしであった。皆、小刻みに震えるのがやっとのようであった。

 リリーは本気で憤慨している。初めてだ。ここまでの殺気は。金属の体でも痛感出来るほどの、恐ろしさだった。

「王の下っ端、あなたがずっと口を出さないのは、主が怒らないからだというのか」

「……うん」

 ようやく出せた不細工な音に、リリーは何も感じなかったようで、背を向けたまま会話し続けた。

「主がここで我慢することが、大きな間違いだとしても、それを正すことはしないのだろうか」

「……お、王が全ての正しさの基準だ」

「無茶苦茶な忠誠心だこと。……愚かな」

 魚のように口を開閉して呼吸する女性は、一度大きく吸って叫んだ。

「貴方こんなことしていいとでも思ってるの……! ダレッド、何をしているんですか! 早く助けなさい、貴方の命に代えて、守りな――」

「黙れって言ってる」

 刀を握る手が、振り上げられるのがわかった。僕はその時を逃さず叫んだ。駄目だ、だめだだめだだめだ。

「リリー、そんなことしちゃ、駄目だっ!」

 ぴたり、と止まった。ほっとして息を吐こうとして、失敗する。止まった刃は、そのまま片方の彼女の腕へと下りていったからだ。

 勢いよく血が飛び散る。悲鳴が上がった。二人の女性からであった。勿論、リリーはただ自分の腕を興味なさげに見つめている。――間があいて、死ぬかも、とでも考えたのか、マントの布を破って止血する。それからまた、血塗れた刃を女性の首元に戻した。刃に零れた血の雫が、女性の至る所に落ちた。その度に高い悲鳴が上がる。

「血、血……! いや、もういやぁ! どうしてダレッド、助けてくれないの……?もういやよ、助けて、誰か、やくたたずの、あの子の、ダレッドの親を殺して…

…! 命令です、そうしないと、皆、死刑にしてやるんだからッ……!」

 定まらない目で、辺りを見渡し、一人の兵を見つけると、ぞっとするような顔で命じた。

「貴方……! か、顔を、覚えたましたわ……、早く殺せ! 逃げたら、どうなるかわかってますわね……? 何でもいい、適当に火をつけて、どうせ今日奪い取る領地だったんだから……、て、手っ取り早いですわ……!」

 兵は紛れも無く逃避のために、走って行った。その命はきっと従うだろう。恐怖とは、それだけで行動力にもなってしまう。

僕の場合は、恐怖で動けなくなってしまった。王がふらふらと立ち上がったことを認めた。

「おれの国が……危ない」

上手く発音出来ていない。視線があらぬ方向で止まっている。けれど、それがきっかけで声を出すことを思い出せて、リリーの名前を呼ぶ。

「リリー、リリー。ごめん、リリー、僕が」

「謝らないで」

 振り返った。いつもの笑顔であった、いつもの無表情であった。ただそこに一滴、寂しそうな色が混ざっていただけで。

「リリー……」

「あなたにとって、ワタシは今、悪だったんでしょう?」

 だから正義を選んだんでしょう。わかってるよ、ワタシ。

 そういった意味の含まれた表情に、逃げ出したくてたまらなくなった。何で、裏切った気持ちになるんだ。どうして、後悔を感じているんだ。僕はどうしたいんだ。

君はわかっているのに、僕はわかってないことがあるのか、まだ。

何が、足りない?

「誰か、おれの国を、母さんを、父さんを……、たすけて」

「わかりました、王」

 サイドは王を置いて、走って行った。その時、小さくどうして、と疑問を口にしたようだったが、まず届いていないだろう。

「ロロ、助けてあげて」

 この言葉は僕に届いた。他人のことで、初めて頼まれただろう。どうしてこんなにもリリーの初めてに遭遇してしまうんだ。何なんだこの過去は。らしくない

――過去は干渉出来ない。

メルの言葉を思い出して、僕は何故か必死に説得した。

助けてあげて、ってことは、僕は君から離れないといけないだろう。そんなこと出来るはずがないだろう、僕の存在意義は君の役に立つことで――あ、これだと、僕が君の願いを叶えざるを得なくなる。違う、今、目前にある過去を変えたって、僕らが出て行けば、また同じことが繰り返される。過去は干渉出来ないんだ。メルが言っていただろ? 助けたって同じだ。すぐに戻ってしまうのに、完璧に過去を変化させるなんて出来ないんだ。

「じゃあ、どうして初めから見捨てなかったのよ」

「え……」

「中途半端に関わらなければよかったのに。ここで人を殺したって、一度現在に戻れば、その人は蘇るのに。どうして止めたりしたの。どうして過去を尋ねたりしたの。その人があなたの過去を持ってないの、わかってたはずなのに」

「それは、興味が……あって、さ……」

 リリーは動こうとした女性を一瞥した。その動作は一瞬の内に止まってしまう。

「ここで助けてあげるかあげないか。過去は変わらないことから、虚しいけど、あなたの気分でこの世界を変えられるよ。人を死なせても罪には問われないよ。そういう世界にいるよ。どうするの?」

 ――ワタシは、どうだって、なんだって、いいけれど。

「……っ、行って来るよリリー。それが僕の今の気分だ」

「うん。行ってらっしゃい。馬、置いていってね。後から行くから」

 振り返らなかった。僕の中のバグが発した痛みで、それどころじゃなかったからだ。嘘じゃない。

 

       ∞∞


「くそ、キーウィー、暴れるなって!」

 馬に乗る彼は、本当の主を待つ馬に抵抗されていた。

「その馬は使わない。馬よりも早く辿りつくためには、車だけで充分だ」

 有無を言わせず、サイドを連れて馬車の中へ乗り込んだ。そして、左腕の指を

逡巡しつつも、取り外して中の空洞を露にさせた。それを前に向けたまま、馬車の後方へと進み、地面と水平にして放った。

「あ、しっかり掴まってて」

空砲によって、本来ならば得られないスピードを得た馬車は、車輪を宙で回転させながら、前進していった。サイドが柱で盛大に頭をぶつけているのが、何とか確認出来た。


       ∞∞


 リリーは王と女性とを遮らないように、場所を移動した。刀は相変わらずその場にあった。

「ここで決着つけないと、これからも同じ事が繰り返される」

 そうでなくとも繰り返される、とは言わなかった。面倒だったのだ。

「王、あなたも震えてるだけじゃ、綺麗な女だけじゃいられない。どうするの」

 早くこの場から離れたくて、でも、最後まで見届けたくて、リリーは催促した。

 ようやく王は口にした。

「貴方は、陛下を通して、何を見ているんだ」

「ワタシのことなんて、どうだっていい」

「……そうだな。――陛下、願いをきいてくれますね」

 黙っているので、リリーが刀をちらつかせた。力の無い悲鳴が耳に届いた。

「い、いやよ!」

「――だって。じゃあ行こう、王様」

 間の抜けた声が重なる。リリーは刀を捨て、王の手を取った。

「交渉決裂。これから王はこの女と全面対決。まずは、先手を取られたので、攻めに行く。簡単な話じゃない」

「え、でも、そんなの……」

 たじろぐ王に、リリーは指を突きつけて言い捨てた。

「あなた、大事なものさえ守れないのか。だったら、王なんて最初からやらなきゃよかったんだ」

「……そんな」

「きれいなおうさま、ではいられないわけ。奪われたくなかったら、守り切れ。王として、その覚悟が足りないなら、逃げればいい」

 どっちにしても、ワタシはロロの所へ行くけれど。

 王の手を離して、リリーはその場を去った。残された二人を、静寂が包み込んでいた。

「……覚悟は出来てる。おれの大切な国に手を出すのなら、戦おう」

「うらぎりもの」

「約束を破ったのはどちらなのか」


       ∞∞


『じゃあ、一旦帰るから。また来るから。その時に』

『必ず来なさい。絶対ですよ』

『わかってるって。嘘吐かないから』

『わたくしを裏切ったら許さないから』

『あ、おれも。君がおれの家族に手を出したら、許さない。だから、――気をつけて』


       ∞∞


 リリーは馬と格闘していた。どちらの馬も言う事を聞いてくれないのだ。日が落ちて気温は下がったというのに、その額には汗が張り付いていた。

 落とされたリリーに手を伸ばし、ありがと、と呟いた。返事はなかった。

 その時ふと、右手の人差し指に赤いリボンが巻きついているのが見て取れた。

「結構可愛いとこあるんだな」

「うるさい」

 馬に乗れないのだろう。繋がっていた紐を解いて、

「アプ、お前は好きな所へ行け。おれの国でもいい。どこかへ」

 そう命じると、馬はどこかへ駆け出した。茶色い毛並みであった。

もう一頭の馬に、まず王が足を庇いながらも乗り、それからリリーに後ろに乗るよう指示してきた。何度か確認してから、紐を軽く揺らして、前へ走らせた。

初めての体験なので、リリーは王にぴったりと抱きついて、落ちないようにした。しばらく間があって、ずっと訊きたかったことを質問してみた。 

「……リリ嬢、貴方どうして自分を傷つけた?」

「そうしないといけなかったから」

「どうして。教えてはくれないか……」

「そうしないと、ロロに当たってしまいそうだったから」

「そ、んなことで自分から?」

「ワタシにとってはそんなことじゃないから」

「……貴方の、心はすごい」

 言うと、王は赤い布を抜き取るなり地面に捨てて。右の耳から何かを取り外し、リリーに預けた。所々黒くなった血がこびりついていたが、質の良い金属に赤い塗装が施されている、イヤリングの一部分だった。

「礼だ。汚れてはいるが、よいものだ。売れば金になる」

「別にお金とかいらないし」

「そのリボン、気づいてもらえなかったら、そこにある輪に通して、耳飾りとしてつけろ。きっと似合う」

 ふと王がこちらを振り向いた時、二つの目が窺えた。リリーは少し驚きの色を浮上させて、見据えた。

「その目……」

 彼女の目は、白目の部分も血が塗られたかのように、紅色をしていた。リリーはそれが何を示すか、知っていた。

「ああ、お願い、リリー。おれの意思を継ぐ、彼を助けてくれ」

 そう言い残し、ばたりと倒れた。精神的にも、身体的にも限界であったのだろう。

体は汗でびっしょりだった。

 主の急変に足を止めて、心配そうにこちらを見つめる馬。リリーは力の入っていない体を馬の首と自分の体で挟んで、動かないようにした。そして、馬と視線を交わせる。手には渡されたイヤリングが、ちらりと輝いた。  

「馬、あなたも王に従う部下なら、ここで足を止めている場合じゃないだろう。あなたの大事な人、抱えて放さないでいてやるから。さあ、思いっきり、走れ」

 それから、馬の腹を蹴り上げた。馬はそれに応えようとしたのか、ひたすらに走り出した。その姿はまるで、天馬のようであった。

「やれば出来るじゃない、馬」

 風の中に、血の臭いと、火の臭いが混ざっていたのには、まだ気づかない。


       ∞∞


燃え盛る炎は、この国を侵食していた。

 真実を話せば、間に合った。馬よりも速度のある馬車は、火を放つか否かを迷っていた一人の兵士のところまで辿り着いた。

「ありがとうロロ! これで……」

「いや、奇跡だ。僕の体がここまで保ったなんて」

「えっと、止めてくれ! 早くしないと……! ぶ、ぶつか――」

 ぶつかった。やはり、機械の体は上手く機能してくれなかった。停止の命令を下しても、相変わらず、空気を放出し続ける。

馬車は兵士を撥ねた。その拍子に兵士の手から、木の棒に点火されていた火が一つの建物に触れた。そこから、自分の力を発揮し始めた火は、蛇のように侵食範囲を広げていった。火はあっという間に国を包んでいく。

「間に合ったのにっ……! 皆、早く逃げるんだ! 火が、火が来るぞッ!」

 撥ねたまま、建物にぶつかった馬車の中は、多くの物が壊れて落下してきた。その中の一つが僕の腕に当たって、故障させた。これで、本来の僕の左腕となった。

 安堵する暇もなかった。サイドはただちに人々を避難し始めた。僕も手伝おうと馬車を飛び降りる。

「くそ、火が……!」

 紅蓮の炎から大人を助けようと、もがいていたサイドの肩を掴み、叫んだ。

「火の中はいいから。君は水でも汲んで来て、それから避難させて。それが終わったら僕のところへ」

「でも、この人――」

「火は僕に触れられない。そういう設定なんだ。だから、早く」

「――う、いつもそうだ……。僕は何も教えてもらえない」

「今ここで言う? 王様に怒られるよ」 

王の名により渋々頷いたサイドは、立ち上がり、駆け出した。僕はそれを見送ってから、煙を吸って動けない人を火から救ってやった。やはり、前の時と同じく熱さも何もなかった。炎の方が僕を避けているようにも思えた。

けれど、火には干渉されず、建物といったものには干渉され、人の過去に存在する人には干渉出来て、その人の根本的な過去には干渉出来ない。とは、まあ、どのラインで区別しているのかよくわからない。何より、リリーのリボン。あれは何だ。尋ねたって答えないメルは何を考えてる? リリーに何かあったら――。

「――助けてッ……!」

 背後でガラスが割れた音がした。振り返ったが、距離があり過ぎる。受け止めることは出来ない。サイドは手一杯だろう。

 正直、こういう無駄でしかない、手助け。気乗りするはずもない。ただ呆然とここに来て初めての死人を眺めていた。

「そこの鎧、お前、火、大丈夫なんだろ! 少しでも多くの人を助けろ! あとは俺らに任せて!」

 どうして命令されているんだ、と疑問に思いつつも辺りを見渡した。すると、赤い人間たちが火の中にわらわらと集まっていた。それも皆、ここの人間を助けようと一生懸命に動き回っている。

「どうしてここに……?」

「王がいないんだから、ここか、あいつの城かのどっちかだろう。アプ――俺らの馬なんだ――とすれ違ったから、何かあったんだと思ってな。ならビンゴだ。まあ、いつかはこうなると思ってたけど」

「王は王じゃないの、皆知ってるの?」

「知ってるも何も。王族っていうのはマナーに五月蝿いのに、床に寝そべって寝たり、魚を頭から齧りついたり。王のすることじゃねえよな。それに、髪の色も、脱色し切れなかった金がかなり残ってるんだ」

「へえ」

 僕らは死の一歩手前の人を手早く救った。判断が早かった、人手が多かった、何より僕が火の中に入れることが大きかった。それでも、死んでしまった人間はいたし、それについて心を痛める時間も無かった。一人でも多く。リリーに関わるなと言われる前に、早く。

「こいつで最後だ!」

 弱々しい足取りを支えられている女性は、金髪を煤まみれにして俯いていた。今にも崩れ落ちそうで怖かった。

「よし、ここから離れるぞ!」

 そう合図して遠くへ目を移した瞬間、サイドが蹴り飛ばされるのが見えた。馬車の中に入り、意識を失った。近くには火を放った兵士がいて、今にも火をつけようとしていた。

「やめろッ、やめてくれ、ほ、本当にやめて! 彼はまだ死んじゃ駄目なんだ……! 彼は僕の――」

 ずっと遠い向こう側にリリーが見えた。駆け寄ろうとして転び、泣き叫ぶ王の姿もあった。

 点火された。兵士も恐怖と戦うので精一杯なのだろう。善悪の判断なんて出来るはずもない。

馬車は勢いよく燃え上がり、火の車と化した。僕が急いでも、リリーが急いでも、サイドは焼け死ぬだろう。時間の計算で僕が間違うはずがない。絶対だ。けれど、諦めたくない。どうすれば。そう思っていると、自分でも知らない内に、リリーの方で視線を固定していた。ピントを絞ると、彼女の口が何かを発している。リボンの巻かれた人差し指で真横を指している。


〝み、ず、う、み〟

理解した僕は素早く左にずれ、左腕をとある位置まで持っていった。

「Jを基準、Cの位置まで移動、Kに配置、角度はやや下。発射!」 

 馬車と地面との間を狙い、空気の弾を発砲した。下から潜り込ませた空気は、見事に馬車を吹き飛ばし、リリーの示す左――僕から見て右――に押し退けることに成功した。馬車は示されるまで気づかなかった崖から落ち、消えていった。――勿論、それで終わりではない。湖の深さがどれほどかわからない。火の手から免れても、水によって命を落とすこともある。それに運良く水のある場所に落下出来たのかも微妙だ。衝撃の強さに、サイドの脳が耐えられないかもしれない。そんな問題がありつつも、リリーを信じたのは――わからない。義務感に駆られたとだけ言っておく。

「大丈夫かな」

 リリーに近寄って問い掛けると、微笑まれた。

「見えなかったの、ロロ。お迎えが来てたのよ」

崖の上からそっと下を覗くと、確かに湖が存在した。その中央に馬車が浮かんでいた。あまり深い湖ではないらしい。

馬車の上に、仕組みはわからないがベンチが乗っかっていた。水の中へ上手く落としたのはそれのお陰かもしれない。空中を飛んだ馬車の上から伸し掛かったのだろう。ベンチを落としているのは、<主なる神>であり、『エデンの園』の番人であり、煌めく<炎の剣>でもあるケイが担っているはず。姉と違い、優しい心を持っているんだな、と思う。ケイの計算ならば間違っているはずがない。

湖から顔を出したサイドは、焼けた服をそれとなく着込み、陸地へ上がった。王は既にそこまで馬で駆け寄っており、他の者も下へと集合していた。

「帰ろうか」

「見ないの?」

「やることやったからなあ。……途中で捨てるならどうして、とか言う?」

「ううん。言わない」

 日の出は近かった。一日が終わってもベンチの所まで行かなかったら、どうなるのか気になってしまい、結局二人でその場にいると、ベンチの方から迎えに来て、現在へと連れ帰ってくれた。僕とリリーは同意見だった。

「あの人らを見届なくとも、幸せになるのがわかるよ」


       ∞∞

 

 石を投げて、王の顔に傷を作った。よく考えたら、女性だということを思い出し、女性に手を上げたことが恥ずかしくなって、そこからずっと後悔している。

 ある日、ずっと気に掛けていた傷のことを、ぶっきらぼうに訊いてみた。

その傷はもう痛まないのか。

もう血は固まっていたが、既に赤く痕が残ってしまっていた。そのことが酷く残念であった。王はよく見ると、美しい顔立ちをしていた。

「なんだ、まだこれを気にしていたのか」

 けろりと笑った王は、自分の小刀でその傷の上から紅の線を入れた。予想もしなかったことに、サイドは思考が停止してしまう。呆然としてしまい、言葉も出ない。

「ルーン文字を知っているか? このバツはゲーボという文字を表すんだ。意味は結合、贈り物、愛情。この傷に対して、その分おれは君へ愛を返そう」

 そんなの不平等だ。そう反論しようとして、王はサイドの頬に手を添わせた。

「出来るなら、君はおれに、忠義を返してくれないだろうか。――時間になったら、おれの王の位置を譲ろう。君の青の瞳を必ず認めさせてやる」

「――俺は王になんてなりたくない……。俺がここに居るのは王、貴方を――」

「ありがと。でも、貴方を選びたいの、どうしてって、最初からそう決めていたから。貴方以外考えられないの。どうか、どうかお願いよ」

 ……こんな時に女になるなんて、卑怯だ。


       ∞∞


 朦朧とする意識の中、王の温もりだけが感じられた。ずっと昔から、いつでも抱き合っているような感覚に陥って、幸せで眩暈がする。

 凛々しい王。けれど戦いの前、必ず涙を流して決意を固める王。そう、こんな風に小刻みに震えて、嗚咽を漏らさないよう唇を噛み締めて、涙を落とすのだ。

(その女らしい弱さが、俺は好きだ)

 女だから、男だから。そんな風に分けられるのを、王は嫌う。けれども、やはり少し違う。その違いが、きっと好きなんだ。ここにいる男は一度目標を定めたら、それ以外のものは目に入れたくない、入れない。そういうものだ。でも女は、覚悟が少しも揺るがない代わりに、常に後悔に溺れているような気がしてならない。

 人を傷つけることに快感を覚えない。いつだって後悔する。そこに王らしさを感じるのだ。味方の死だけでなく、敵の死までも背負う小さな背中を、守りたくてここまで来たんだ。

(そんな心じゃなかったら、盗賊の頭であった俺が、賊を抜けたりなんかしない)

「……王、今日からここが俺らの国ですね」

 ぎゅ、と口を閉じている王。ぷくりと膨らんだ唇に恐る恐る触れて、囁いてみた。

「今まで頑張って来たんですから。我慢せずに泣いてもいいんですよ」

 腰に回された腕に、ありったけの力が込められる。それでも、痛いとは感じなかった。むしろ、王の思いの強さだと受け取った。

「天地創造並みの早さで、国が出来上がっちゃいましたね。他の領地も合体させて、兵も置いて、王のご家族を守りましょう。ああ、あのわがまま女を傷つけたりしませんから。こちらは守るだけですよ、勿論。大丈夫、俺らが居ます」

 遠くで皆の歓声が聞こえる。言い放った言葉に対してのものだろう。嬉しいことだが、今は王の声だけを聞き取りたい。それらの音が煩わしく思えてしまう。本来ならばこんなこと、思いもしないが。

 王は静かに顔を上げた。目が、あらぬ方向を向いている。不思議に思って首を傾げると、静かに涙した。

「……お前は今、笑っているだろうか」

「ええ、笑ってますよ?」

「――ああ、ついに来てしまった」

 そうして声を上げて泣いた。ざわめく声で、王の涙ながらの訴えが、耳にし辛くなってしまった。静かに、しずかにしてくれ。

「――おれの大好きな、おまえの笑顔が――見えなくなってしまった」

 最後に、お前の笑ったところを見て、おれはここから去ろうと思っていたのに。その最後の幸せさえも、神は奪ってしまうというのか。天地創造、と謳ったのはおれではなく陛下たちだというのに。

ずっと目の調子が悪かったのだろう。けれど、誰にも相談せずに痛みと戦って、結果視力を失ってしまったのだろう。赤い目を、充血だと笑った王を思い出して、例えようのない後悔が募ってくる。

 それから、息を整えて王は、不細工に笑った。本当に不細工だった。いつもの王らしくない、崩れた笑顔であった。

「これからこの国は、お前のものだよ。サイド」

「……っ!」

 赤いマントを取って、王の顔に押し付けた。これ以上見ていたら、心が壊れてしまう。こんな顔させたくて、ここに居るわけではないのに。

「一緒に居たいなら、居たいって言えよ!」

「ここに居たら、邪魔になる、絶対に……! それに盲目の王だなんて、そんなの迷惑にしかならない!」

「勝手に迷惑かなんて決めんなっ!」

 これでもかとマントを顔に巻きつけて、頭を抱えるようにして抱き締めた。

「盲目が一生なんて誰が決めた? 今ここで逃げて、どうするんだ? 一人で目を治す方法、わかるのか? わかるなら、一緒について行く。わからないなら、一緒に探してやる。世界中を回ってでも、お前の光を奪い取ってやる。――俺が何だったか忘れたな?」

「――悪いやつ……、だろ?」

 弱々しい、笑い声が聞こえた。それだけで充分だった。

「すぐに出発だ。――おっと、その前に国旗だ。うん――、赤色にしよう。全部赤だけだ。王に似合う色だからな」

「い、いかつい旗になるじゃないか」

「やっぱり王、王に戻るまでは女言葉で喋ってください。その方が可愛いですよ」

 俯いた王から涙の気配がしたので、黙って抱き締めてやる。

 こうすることで初めて、王の痛みを分けてもらえるような、そんな気がしたから。


       ∞


「急ねえ、リリーちゃん。貴方の言う通りに全て吐き出しても、姉さんと違って貴方――貴方だけでなく私を含めて皆――は、絶対に処理し切れないわ。知り過ぎて狂ってしまった人、私が知っているだけでも、すごくたくさんいるのよ?」

 リリーは、ここで真実を耳にするために、たった一人でここへやって来た。外は薄暗く、もう直に太陽が沈むのであろう時刻だった。

 人の数は疎らで、ケイの手が空いているように思えたので問い詰めた。出来るならメルの方が良かったが、やむを得ない。彼女も塔に住む者だ。ある程度は頭に入っているだろう。

「対価がいるの? 情報って何がいいの?」

「ああ……。別にいらないよ。私は姉さんじゃないから、あまり知識欲しいって思わないんだ。結局、役割が戻っているでしょう? 我慢出来なかったのよ、お互い」

「じゃあ、教えてよ」

「ふふ、説明して下さい、でしょう?」

 渋々棒読みで繰り返すと、満足したのか紙と筆を持ってきて、首を傾げた。紙とはこの時代、かなり貴重なもので、売ればかなりの金額になる。それなのに、上から墨をつけて文字を書き出したので、止めはしないが目を丸くした。

「で、まず何から説明しましょうか、お客さん」

「……じゃあ、これの説明から」

 そう言って取り出したもの、人形の時に出した金を机に置いた。

「どうして戻ってきたの?」

「お、なかなか良い質問。簡単に言った方がいい?」

「うん」

「過去は現在、つまりこちら側に干渉出来るけど、こちらは過去に干渉出来ないの」

 簡潔な言葉に、補足を求める。すると、ケイは楽しそうに笑った。

「たとえを用いましょう。貴方が過去を思い返すとする。すると、その過去の出来事に一喜一憂することが出来る。けれど、貴方が貴方の過去を少しだって変えること、出来ないでしょう? あ、タイムスリップとかそういうのは置いといて。――まとめると、影響を与えることが出来るか出来ないかで、干渉出来るか否かが、決まってしまうの。ロロさまの腕も戻って来たでしょう?」

 そう。ロロが置いて来たはずの腕は、現在に戻った瞬間に元通りとなっていた。それも、凹んだまま。綺麗な真新しい腕ではなく、過去に行く前の状態に戻っていたのだ。直してくれれば良いのに。リリーは思っていた。勿論、彼女がつけた傷も消えていた。ただ、痛みを感じた記憶だけは残っていた。

「じゃあ、過去の人に殺されたら、殺されたままになるの?」

「そうね。だから危険。こちらだって、絶対そんなことを起こさないようにしてるつもりだけど、失敗した例もある。私たちがいつそうなるかも、わからない。だから、特例なのよ、貴方たちは。三回も過去へ行けるんだから」

 少し考える素振りをしてから、リリーは次の質問へ移った。

「<主なる神>は、あなたたちの名前なの?」

「……ありゃ、それ知ってるんだ」

「前にロロが言ってた時、ワタシもいたから」

「思い出せないな、ロロさま言ってたっけ。――<主なる神>は厳密に言うと、私たちを指すわけではないの。ファザーのみを指すのよ」

「ファザー……。ロロと親しい人?」

「そう。リリーちゃん知ってたかな、元の名前はエレフ。これ内緒ね。彼には色々ややこしい事情があるから――。どうしてこんなにも名前が多いのか、そう思うでしょう? ……ふふ、それはね、自分を隠す為なのよ」

 何を今更隠すのか。手をかざせば開く扉を設けているというのに。そのようなことを呟くと、ケイはこう答えた。

「楽しませる為にあるのは、あの扉だけ。ガラスの方は違うわ」

 これ以上は話す気配が感じられなかった。つまらなそうになったリリーの為に、慌てて元の話題へと戻る。

「私には、<炎の剣>。姉さんには本当の名前として、<ケルビム>という名前がある。私たちはここ、『エデンの園』を守る為に、<主なる神>によって作られたものよ」

「……バベルの塔だけど?」

「それは、ファザーの趣味。言語が変わるって発想が面白かったみたいで」

 そう言い終えてから、どこからかカードを取り出した。大体二十枚くらいあるのだろうカードの束。表面は隠し、その裏の、丸と線が描かれた面を向けられる。丸は黄やら赤やら白やら灰色やら、カラフルに塗られていた。薄い点線の丸も含めて全部で十一個ある丸は、やや複雑に並べられていた。最上と最下が白と四色混じった虹色のようなもので、その二つを結んだ線を軸としているようだ。その軸の両側に上から三段の丸が配置されていた。縦から見ると、左から順に三、五、三の並びで置かれている。全体的に見るとクリスタルのような形だ。

「何それ」

「タロットカード。この絵は命の木」

 身を乗り出したケイは、リリーにカードに触れるよう促した。怪訝な顔をしながらも従った。すると、手の中でカードが虫のように蠢いているように感じた。気持ち悪くなって咄嗟に手を離すと、ケイに大笑いされた。

「驚いた? これはね、オートでシャッフルしてくれるから、便利なのよ」

「オート……? でもそのカードは紙じゃない」

「まあまあ、不思議なこともあるってことで。どれ、貴方のカードは何かしら」

 一番上のカードを捲って、やっぱり、と声を漏らす。リリーはそれに対してさらに表情を険しくする。それに気づいたケイは、一枚のカードをこちらに表向けた。

「the lovers――。恋人?」

「そう。大アルカナ第六番、恋人。これが貴方を示すカード」

 リリーはじっと顔を寄せて細部まで見つめた。描かれているのは、四人の人間。配置は下部に三人の人間、上部に弓矢のようなものを手にした人間。これのみ白い羽が背についているので、もしかすると天使なのかもしれない。荒々しい光を放つ天使は、三人――左から順に女、男、女の順で――の中の、一番右側にいる女性に矢を向けている。男は左の女に視線を置いているが、何故か体だけは、右の女寄りに位置されていた。その不思議な格好が妙に気になった。

「何これ」

「この位置で出たなら、このカードの持つ意味は、多感、魅力、美、贅沢、平和等を表すことになるわ」

「……全然ワタシを表してない」

「……本当、そうかも。多感じゃないものねえ。じゃあ、違う方向から見てみましょう」

 そう言ってまたカードを裏向けた。再びあの円と線の絵と対面する。

「恋人は、ビナーって言ってもわかりにくいね――黒と黄の結合に関連づけされているのよ。黒から伸びた線によって」

 黒い丸に細い指を置いて、そこから黄の丸まで、線の上をなぞった。斜めに動いた指を凝視して、質問する。

「ロロはどこ? 何?」

「ロロさまはね……、これ。青の丸」

 黒と青は、黒と黄よりもまだなだらかな斜線で、結構近くにあった。それを見て、少し嬉しくなったリリーは、声色がロロと一緒の時のように優しいものになって、ケイに尋ねた。

「黒と青を結んだカードはどれ?」

「それはないのよ。どうしてかはわからないけれど」

「なあんだ」

 興ざめしたのか、一瞬輝いた目を再び伏せてしまった。そのまま、またカードの絵柄を見る。黒と青の間には、点線の円が挟まれていた。ずっと気になっていた点線の円について訊こうとして、遮られた。 

「ただいま、ケイ。ちゃんと良い子で店番してたかい」

「おかえりファザー。今取り込み中」

「おや、こんにちは夫人。メルは」

「きっと寝てると思う。結構な量の情報を摂取したから」

 <主なる神>のご登場だ、とリリーは思った。そう言われてみても、彼が神と称される理由がわからない。どこにでもいる男だ。男はリリーを認めると、すぐにロロの所在を尋ねてきた。

「知らない。どうしてワタシが把握してると思うの」

「いや、仲良しさんだから、かな?」

 珍しいこともあるんだね、と微笑まれて、リリーはさっと目を逸らした。彼の帰宅のせいで、訊こうとしていたことが――本当に訊きたかったことが――全て、おじゃんとなってしまった。

「帰る」

 そう言い捨てた瞬間、エレフに腕を取られた。咄嗟のことで反応出来なかった。

「そう焦って帰ることもないですよ、始まりの女・<イヴ>であり、尚且つ、<緋色の女>候補さん」

「……何言ってるの。離せ」

 エレフは意外にもすんなりと手を離した。ケイは何故か愕然とした様子でこちらを凝視していた。気持ちが悪いので去ろうとした瞬間、耳元にとある音が聞き取れた。

「貴方の過去を対価に、ロロさまの過去を知った者がいますよ」

「は……?」

 素早く振り返ったリリーは、ケイとよく似た表情をしていた。心なしか、焦っているようにも見えた。

「そんなこと……!」

 エレフは首を傾げた。その目がすっと細められた。真剣な眼差し。嘘だと疑うことも出来ないほどの真っ直ぐした目。さすが親子と言う所か、メルの視線とリンクした。

「お金、置いていかれてはいけません。お返ししますよ」

「……いい、あげる。たくさんあるから」

「たくさん? どうして?」

 本当は開口するつもりはなかった。けれど、いつが最後になるかわからない身としては、小さいことでも自分の意志で行動したかった。

「ワタシの命の代わりに貰っているから」

 そう、いつになるかはわからない。始めと最後はいつだって突然だ。

(ロロのこと訊こうと思ったのに。意気地なし!)

 チンタラしている場合ではない。ここで時間を食ったせいで、相手に先手を取られた。リリーは店を飛び出して、一目散に駆け出した。


       ∞


<主なる神>であるエレフは、神無月である十月に招集を受ける。今回はロロのこともあって早退してきたが、本来ならば一月丸々留守にしている。それでなくともそこら中忙しなく動き回っている彼は、多くの神の中でトップとして活躍している。その証拠に、『エデンの園』を任されている。

『エデンの園』とは、創世記にあるものとはまた違うものである。人類の成長を手助けするために設置されたのだ。エレフ的にはそんなもの必要なくとも勝手に生きていけると思うが。神としては、人間らをコントロールする位置に居たいようだ。いつまで上にいられるのだろうか。ちなみに、人間は神が身近に存在することを知っているようで知らない。文書等でたまに触れられるが、深く考える者は少ないだろう。

知識交換。この作業、普段はエレフが生み出した<炎の剣>ことケイと、<ケルビム>ことメルが担っている。蛇足だが、どちらも前者が本名で、後者は身を守る為に使用している。情報を扱うと、命を狙われることは多々在るのだ。たとえ情報がメルの頭にしか存在しないとしても、だ。本名を使わないことで、神々は簡単に彼女らを隠すことが出来、偽名を使う者は自身の心と遠ざかる。つまり、本心に気づかないようになりがちになる、ということだ。

知識には勿論、誤ったものも手に入る。ただし、誤りとされたものが一切使えないわけではない。メルは日々細かく管理し続ける。よって、睡眠時間の量が半端ではない。最近は異常なほど起きている、備考。

『エデンの園』に入るためにはガラスの扉を潜る必要がある。が、知識を悪用――それの定義はおそらく、神が神として存在するのが難しくなるだろうと考えられる行動だろう――しようとしていると、扉が反応し、入ることが出来なくなる。現在、二百人中二人が侵入可能。

 そして、『エデンの園』は、本来ならば、人間が管理するのが良いとされている。これは創世記通り、つまり先代を手本に、事を進めようとしている節からも推測出来る。今回の情報収集では、<ケルビム>は『エデンの園』管理者を、過去の人間から選抜させているという。彼女らは管理者を<アダム>と<イヴ>として呼称し、二人選び出す。特にリーダーの方を<緋色>と呼んで、その者に『エデンの園』を受け渡すシステムらしい。用済みとなった<ケルビム>を始め、<主なる神>らは、二人の支援役に回るということだという。

 現時点でも、<アダム>候補は変わらず、<P-400>。今後も観察を続けていく方向。

 以上、担当<Ke-sna>。――すべての知識奪回に向けて。



「こんな感じですか」

「もうちょっと、硬い表現使ってもいいぞ。報告書らしく」

「はあ」

 これ以上わかりにくくしてどうするんだ、と男は内心で舌打ちした。このまま黙っているのは悔しいので、さり気なく皮肉でも言ってやろうとしてやっと、ざわつく職場に気がついた。

無機的に作られているこの場所。いくつも浮かんでいる画面。そこから目を離さない人間ら。白い机の上で感情の無い声を出して、機械に文字を打たせていた。同じような光景はどこでも目に出来るが、間違ってはいけない、ここは技術の最先端にいる職場だ。

科学技術向上を目指す職で、エリート中のエリートがこの場に居られる。そのせいで人間の数は少なく、机と机との間は広く、通路の正面には大きな画面が映し出されていた。そこには、ここに勤めている者の脈や、居場所等がマスごとに表示されている。さすがに、プライバシーの権利から、その人物が何をしていたかは知らせなくともよいが、詰問はされる。義務はないのに、それを強いられるのだ。何の為の法なのか。ここでは、立場が上な者自身が法なのだ。最近言われた。

「まったく、誰だよ、迷惑だ」

 人知れず呟いて、画面に向き合った。再び書き直さねばいけない。青いサックをつけた指で触れて、全て消去する。何となく、そういう気分だった。書き直しても、ほぼ同じ報告書が出来上がるだろうが。――遠くでざわめきが広がっていく。

「あなたか、<Ke-sna>。ワタシの過去を使ったのは」

「お、帰ったのか、<6-VI>」

 椅子を回転させて、向き合う。男と同じ白衣を着込んだ小さな少女は、ロボットと共に行動している。それが、彼女の任務であった。

「どうして動いた。――答え次第では、許さない」

「俺のプライバシーは――。……まあいい。上からの命令だ。お前がチンタラやってるから、苛立ってるんだろ」

「ワタシはワタシのやるべきことをやっている。何がわかったんだ、全て教えろ」

 偉そうな物言いに少なからず気分を害される。――実際に偉いから文句は言えないが。仕方なくため息混じりに答えてやる。

「お前が思い出せない<P-400>の元になっている人間の過去。あれは、結構酷いな、悪いのは女の方だろうがな。それでも信じるあいつは病気だ」

 衝撃を受けた。少女が容赦なく拳を振るってきたのだ。油断していたので、口の中を噛んでしまった。やり返そうとして、面倒になってやめた。ここで手を出せば、首が飛ぶ。いや、言葉通りこの世とお別れだ。そう思って、男は押さえつけられた同僚の手を払った。

「何もしない」

「うそつき」

 別に彼女に言ったんじゃない、と彼女に視線を移す。裏切られた子どものような表情をして、彼女はもう一度殴ってきた。黙ってそれを受け入れ、ぎっと睨んでやる。少しは怯えるかと思ったが、彼女は睨み返してきた。それも有りっ丈の憎しみが込められた目で。

「うそつき、うそつき、うそつき。ワタシに任せるって言ったはずなのに。ワタシの仕事に手を入れられるなんて、屈辱だ」

「じゃあさっさとやれよ。探り入れられたくないんだろ? ならさっさと思い出して、さっさと侵入して、色んなもん手に入れて来いよ。時間無いんだから、なあ、優秀な<6-VI>さん」

「当然!」

 白衣を翻して、小さな人間は去っていった。不釣合いな体だ。一人、リリーの脈だけが妙に乱れていた。


       ∞


「ワタシの過去を、どこまで知っているというの」

 ロロに会いたくなって、堪えたくて、そのままベッドに倒れ込んだ。大きく清潔なベッド。部屋。真っ白い壁が嫌で、色を変えてと頼んだら、一面緑色にされたので、絵を描いてと頼んだ。そうすれば、黒いペンキで円周率をかかれた。緑はもう見えない。まるで黒い部屋だった。ベッドと机以外何もない部屋。ワタシの心みたいだと思うと笑えてきた。

 ロロと会える時間は定められている。

「あなたが知らないことを、他人は知っているの。ロロ、どう思う?」

 いつもみたいに、素っ気無く返事を返すのかしら。

 そう思うと、少し泣けてきた。



       ∞∞∞


 生まれた。いつかは覚えていない。

 死ぬ。それは既に決められている。


 親の顔は今でもぼやけているが、覚えている。どちらも今の人間の形をしていた。表情は必要以上に表さず、少子化を防ぐために一人以上子を成すことが、法によって定められており、作らないと一年ずつかなりの額を払わないといけない。それが嫌で早々とワタシを生んだのだ。勿論、子どもが欲しくて作る家庭は今でもある。けれど、まあワタシは違ったのだ。生まれてすぐに預けられたそういう専門の施設。暇潰しに親がやって来るから、顔は覚えていられた。

 施設では、裕福な家庭しかやっていないことをやらされた。

やっと文字を受け入れ出した頃、ワタシは人よりほんの少しだけ、頭の出来が良かった。だから、選ばれた。施設中には何千と子どもがいる。その中の百人に選ばれたのだ。選ばれなかった者は、地道に勉強を重ねることとなった。選ばれた子の親には金が入った。両親は喜んでいた。

必要最低限の知識を埋め込まれるのだ。耳にイヤホンを入れられ、頭を丸いボウルのようなもので覆われて、過去に義務教育で使用していた時間と同じくらい、眠らせたまま、ずっと情報を注いでいく。昔で言う学校代わりにワタシはその情報提供場に通っていたのだ。

目覚めた時には、たくさんの情報を頭に蓄えていた。しかし、それがワタシは恐ろしくもあった。行く度に自分が何かと入れ替わってしまったように思えた。終わった後、また行くことを思うと嫌だった。それを同室の人間に知られたくなくて、毎日白いシーツに包まって、震えを隠して眠った。まだ、恐怖を感じられたワタシは、まだワタシであった。六歳くらいまでは。

ワタシの恐怖と共感出来る者がいた。やっとのことで勇気を出して、それを管理者である大人に告げた。すると、嬉しそうに顔を歪ませて、どこかの部屋へ連れて行った。そこには、あそこと同じ機械が置いてあった。ワタシたちは抵抗した。けれど、そのまま知識を与えられた。その知識は、比べ物にならないほどの量で、気持ち悪くて少しだけ戻した。今までのが絵本だとしたら、これは分厚い辞書だと思った。それ位、重かった。

「君たち以外にはね、あと三人いたんだよ。でも、一人は発狂して、一人は立派になって、一人は自分から死んじゃった」

 一緒に連れて行かれた子は、無我夢中に泣いた。縋って泣いた。死にたくないと泣いた。色々なところから水が流れた。鼻水や涙やら。これらはワタシにとって初めてみたものだった。この子は、人間の本能から生にしがみ付いているのだと、理解出来た。けれどワタシは呆然と突っ立っていた。知識はもういらないと思った。でも、それが出来ないのが理解出来て、大人に言った。

「死をください」

 死は、楽なものだと思っていた。逃げられると思っていた。つまりは無理だったのだ。

「うん。やっぱり僕が選んだ通り、君は素晴らしい」

 ワタシはさらに次の段階へと進んでしまった。あの子がどうなったかは知らない。まあ、法では人殺しを罰するとしているので、ころされたりはしていないだろう。ワタシはそれから多くの知を得た。人よりほんの少し多く情報を入れることが出来た。脳の三分の一を使用した後、大人は言った。

「君は、奥へ真実を探すのではなくて、表面的に真実を探し出すタイプみたいだね。情報がすんなり入るから。じゃあ、理系に進もうか」

 ワタシは順に、天文学、生物学、科学、化学を学んだ。同室の子はいつも本を読んでいたが、その無意さに笑いが零れた。なんて無駄なこと。要領が悪いなあといつも馬鹿にしていた。知ることは嫌ではなかった。知ることで、自分が上にいられた気がした。大人たちも、ワタシを贔屓した。それが心底心地よかった。

「そろそろ働いてみようか」

 ワタシは大人に囲まれながら、いくつかの仕事をこなした。完璧にこなした。だから、その職場で足を引っ張っている人間と入れ替わった。それからずっと完璧でいると、どんどん位が上がっていった。面白かった。大人を蹴落としている気分でもあった。一番になりそうになった頃に、マスコミがワタシに気づいた。

 一番になって、また次の上を目指して新しい職場に就く。それを繰り返して、ワタシはかなり上まで来てしまっていた。マスコミは大きく騒いだ。正直、ワタシは少し得意だったのだ。

 ある時、立派になったという子と出会った。彼も上に居たのだ。ただ、マスコミを嫌って、彼は自身の姿を隠した。その嫌っているはずのマスコミから、ワタシの存在を知った。だから、彼は自ら話し掛けてきた。

 彼は天才だった。ワタシはここでやっと、自分は少しだけ、出来が良かったことに気づいたのだ。彼はワタシ以上に何もかもを完璧にこなした。だから、どう頑張っても追いつけなかった。差は見る間に広がっていった。

「君、少し手伝ってくれるかな」

 一度だって任されなかった雑用を、任され始めた。ワタシは悔しかった。遅れて来た子どもらが大きくなって、追いついてきた。十歳のことだ。ワタシは彼らと一緒に仕事した。いじめられた。しかしそんなことは気にしなかった。自分のことで手一杯だったからだ。すぐに飽きて、ワタシを見下した目で見るようになった。

自分は――、まだまだ上に行けると思っていたのに。悔しくて、知識を求めた。ワタシの脳は半分も使ってしまった。これ以上は危険だと止められて、そこで知った。彼はワタシよりもずっと少ない情報で生きてきたのだということを。ここでようやく自分から、負けを認めたのだということを実感した。その時ばかりは気持ちが整理出来なくて、涙を流した。

 それから、ある時機械を作ってくれ、と頼まれた。そこはおかしなところで、ある部分を手作業でやっていた。仕方なくワタシは歳のいった大人に挟まれて、仕事した。やることは、プログラムが詰まった部品を背中に埋め込む作業であった。青い機体が背を向けて送られてくる。手早くやる作業に、指先がついていかなくて、たくさん怒られた。

 隣で大人がこそこそと囁いているのを耳にした。最初はワタシを嘲笑っていたのだが、途中でこの機械が何に使われるのかを話し出したのだ。

「これ、戦道具だろ」

 ワタシは戦、という言葉を自身の頭に問いかけた。人間と人間との戦いだ。醜く、やってはいけないことだ。いけないことなのに、どうしてその道具を造るの。ワタシは不思議だった。また、指から部品が落ちて、割れた。隠すために、靴の裏で踏んだ。

(人と戦う機械ってどうなんだろう。嫌なのかな、嫌だろうな)

(あ、でも、機械が人を恨んでいたら、それは嬉しいことになっちゃうな。どうしよう、嬉しかったら、ワタシを)

「ワタシを」

 死なせてほしいなあ。そう呟いた瞬間、どう頑張っても利用されないといけない彼らが可哀想に思えた。自分みたいだとも思った。ワタシも大人たちの勝手で、知りたくないことも知らされた。

 何とかしてあげたくて、目前で止まった機械を見つめた。

「嫌って言って」

 戦いたくないって言って。ワタシは願ったけれど、何も返って来なかった。当然だ。

 でも、この一体だけでも守ってみたくて、割った部品を掻き集めて、個室へ駆け込んだ。隣に居た大人に一瞥されたので、トイレに行くと言い捨てて出て行った。

「頑張れ」

 と何故か応援されて、苛立った。

「頑張ってる」

 そう。今から初めて、頑張る。

 ワタシは自室に戻って、部品をいじった。工具は施設から貰ったものだ。もっと頑張れという意味だと思う。

これがどういう仕組みになっているのかは、時間がかかったが理解出来た。そして、戦闘のための知識だけ、抜き取ってみた。

「あなたは自由になれた。ワタシの分、自由になって」

 その後、不良品だとその機械が戻って来た。ワタシのせいだったけれど、造っていた人間全員怒られた。そして全員、職がなくなった。その機械は、破棄されるという。

「良かったね」

 あの機械は、死にたかったのだと思い込むことにした。その子がまさか、あんな形で帰ってくるなんて、思いもしなかった。


       ∞


「ねえ君、知らないと思うけど、リリー知らない?」

「予想的中ですよ、ロロさん。知りません」

 どこかからの帰りなのか、杉田さんは眼鏡を掛けたままこの場へ来ていた。服装も質の良いものなので、結構良い身分であることが伺えた。僕が黙っていると、眠ったのと勘違いしたのか、コツンと頭をノックしてきた。

「何」

「いえ……。どうして凹んでいるのかな、って」

「リリーがやったの」

 それ以上は説明する気が失せて、再び黙っていると酷く驚かれた。

「あのリリーさんが、そんなことするんですか!」

「うん。会って二回目に」

「信じられませんねえ……」 

 リリー。彼女は現在、僕の隣にはいなかった。何故かは知らない。ただ、あれから一週間は姿を見ていない。きっと、戻るべき所に戻ったのだろう、なんて思うと、心がざわつく。気づきたくなくて、杉田さんにベンチに座るよう誘った。彼女が来ないので、仕方なく僕だけで鉄製に作り変えたものだ。完璧な完成度である。僕が座っても軋んだりしない。

「では、お隣失礼します」

 今日も今日とてメルに会いに来た杉田さんは、ここしばらく眠り続けているらしい姫君と、今日も今日とて会えなかった。僕が行けば、ケイが起こしに行こうとするので、あれからあの店を訪ねていない。何よりリリーがいないのに、過去へ行くことが出来ない。

「僕は、メルさんから〝だめなこ〟って言われるのがすきなんです」

「変な趣味だね」

 そう思われますか、苦笑した彼は勝手に続けた。

「実際僕は、確かに、出来損ないだったんです。一目惚れしたあの日も、まともな職業に就いていませんでした。頭がね、悪かったんです」

「話の腰を折るようで悪いけど、君、本当にメルのことが好きなの? 正気?」

「しょ、正気に決まってるじゃないですか」

「変なの。あの子のどこがいいんだよ。君、彼女の本性わかってないでしょ」

「メルさんは素敵な方です」

 言い包められて、反論するのも面倒だったので、また黙った。

 杉田さんは自ら過去を話した。メルと出会ってすぐに、彼女が背負っている重い使命に気づき、それを肩代わりしてあげたい。そう思ったと言う。――ほら、この時点で既に違う。メルは自らの意思で背負っている。それも、そのことを嬉しく思っているし、何より誰にもその使命を渡そうとしないだろう。メルの中に潜む、すべてを知り尽くしたいという巨大な欲望にも気づいていない。

 そして、その為には賢くあらなければいけないことを悟った。だから、人生で例のないほどに猛勉強し、何とか職業も手に入れた。単純な男だ。僕には真似出来ない。

 それから、ある程度高い身分まで昇りつめたので、メルの使命を受け取ろうとした。

「そしたら、怒られたんだ、はは」

 ――はは、じゃない。彼からメルが怒った時の様子を聞く限りでは、全然笑っていられない。拒絶されたのだ。

 メルはそのことを聞いた瞬間、叫んだ。二度と来るな、と。叫んだ途端、体に雷が落ちて、動けなくなった。そして何かの力によって、外に吹っ飛ばされて、ガラスの扉を閉められて、入ることが出来なくなったと言う。

僕は常連として『エデンの園』に通っていた時期があったので、その状況が何を意味するかわかった。そうなった人間のその後も。ガラスの扉は永遠に開くことはなくなるのだ。人間は、来る日も来る日もガラスを叩き、手の形が変形するまで叩き、叩き続けるのだ。諦めるという選択肢もあるが、多くの場合使われない。

しかし、杉田さんが言うことには、全く違う結果になったそうだ。

「ちょっとその時は、頭にきちゃって。一回家に帰って、翌日もう一度ガラスをノックしたんです。何だか大人げなかったな、って。丁寧に。そうしたら、一、二回無視されたんですけど、三回目でやっと開けてくれたんです」

「……ノックの回数は?」

「三回です。どの時も」

 メルさんも、謝ってくれたんですよ。あれから、まともに目を合わせてくれないんですけどね。ずっと伏せたまんまで。

 そう照れたように笑う杉田さんに、思わずため息が漏れる。ノックで許すメルもおかしい。

「それから僕は、彼女に常に僕のことを知ってもらいたくて、思考回路を繋げることにしました。今、考えていることも、メルさんにとっては手に取るようにわかっているんですよ」

「うあ、嫌でしょそれ」

「え、どうしてですか?」

不思議そうに首を傾げる杉田さんに、呆れ果てて、ただ一言だけ告げた。

「優しすぎ」

「ど、どこが――」

 慌てる彼に同情の目を向けながら、言い捨てた。

「メルの使命を背負う為、だって? 普通の恋愛では、そこまでしない。だから、だめなこ、って言われるんだよ」

「だめなこ、って言うのは、僕が現時点で満足させないために、言ってくれるんじゃないんですか……?」

「そんなの知らないけどさ……。一途すぎるんだよ、純粋すぎるんだよ、……重いよ」

 不安になった杉田さんに、今度は苛立ちまで覚えた。どうして君は僕にそこまで尋ねるんだ。僕は君の友達か何かか? 友人なら他にいるくせに、わざわざ僕に頼るなよ、僕を何だと思うんだよ。生身の人間か、まさか。君まで同じこと言うわけないよね。

「じゃあ、リリーさんは重いと思ってるんですか」

「なんでそこでリリーが出て来るんだよ」

「答えてください、リリーさんをどう思っているのか」

「あのさ、君は僕を何だと思っているんだい? 僕は生身の人間じゃない、僕は――」


「ロボット、だろ。強制労働robotaからの派生語だ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

robotto 夢を見ていた @orangebbk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る