第6話 新たなる仲間
途中、少女は浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)という場所に立ち寄った。ゾンビの血肉で汚れてしまった体を「潮入(しおいり)の池」で洗って、感染を防ぐための処置を施すのである。ただし彼女はいちいち説明することはしなかった。
大きな池にかかる木造の橋の真ん中に立ち、腕の中の蒼汰に忠告する。
「目と口は閉じてて」
「え?どういうこと」
そのまま蒼汰は暗闇の池に投げ落とされてしまう。随分と手荒い感染予防処置だった。
「水は飲んじゃだめよ〜。溺れないでね」
「ちょっと!なんだこれっ」
溺れそうになりながら池から上がると、彼女は小屋を指差し、その中で体を拭いてくるよう指示した。(その小屋は事前に彼女が用意したものだ。今やゾンビ以外は誰もいないので好き放題できる)
言われるがまま小屋に入ってみると、乾電池式のランタンが備え付けられている。しかし豆電球式の古いタイプで、点灯させても小屋の中はずいぶん薄暗い。わけもわからず用意されたバスタオルで体を拭いていると、不意に扉が開き下着姿の少女が中に入ってきた。
「え!?」
蒼汰の反応などお構いなしに、少女は汚れた制服をかごの中へと投げ入れると、箱を開けて新しい制服を取り出した。綺麗な黒髪が濡れているので、彼女も池の中に入ったらしい。(幸か不幸か下着は濡れておらず、池に入る前に脱いだものと思われる)
「なに?ジーッと見て。なんか言いたいの?」
「な……なななな……なにって君……」
ブラウスに袖を通しながら尋ねてきた少女から、思わず視線を逸す。ただ彼女の刺激的な下着姿を一生忘れることはないだろう。
動揺を悟られまいと、ここに寄った目的を尋ねてみることにした。
「い……いや。ここってさ。君がお風呂の代わりに使ってるわけ?」
少女はかぶりを振る。蒼汰の発言に驚いている様子だった。
「まさか。頭から足までゾンビの肉片塗れでホテルに戻っちゃったら、皆に迷惑かけちゃうでしょ?だからここは洗い落とすための一時的な場所なの」
顔を拭く手が止まった。
「み……皆だって?じゃあ他にも生存者達がいるのか!」
少女はバスタオルで髪の毛を拭くと、早く小屋からでるよう促した。
「シーッ。ここも別に安全ってわけじゃない。早くしないとまたゾンビに囲まれちゃう」
「マ……マジで!?」
ジーパンもシャツも全く乾いていないのだが、蒼汰は大急ぎで外に出る。
しかし、これからどこに進むにせよ腐った野獣どもと遭遇するだろう。雲に遮られた月明かりは弱く、地上は大半が漆黒の暗闇に包まれているので危険だった。
都心部と言えども今は小笠原諸島の山奥の変わらないなと蒼汰は思う。
「ねえ。君たちの暮らしてる場所まではまだ遠いのかな?歩いてどんくらい……」
少女は唇に人差し指を当て注意する。
「だからシーッ!歩かなくていいからっ。貴方は全力で息を殺してればいいの。なんにもしないで」
そして有無を言わせずに蒼汰の腰を掴み、抱きかかえてしまう。身長175センチの男が身長160センチ強の少女に軽々とお姫様抱っこされている光景。これは蒼汰にとってはかなりの辱めである。しかし命には代えられない。
──ここは東京人の言うことを聞いておこう。郷に入っては郷に従えだ。
そう納得することにした。
「了解……それが一番安全そうだね」
静かな足音を立てて、大都会の幹線道路を走り抜けていく少女。無数の屍を踏みつけて休むことなく走り続ける。とにかく速い。あまりの速さに怖くなっている。島の道路で原付バイクのアクセルを全開にした時でも、こんな速度には達しなかった。
──なんちゅう速さだ。もしもこの子が転んだら、どうなっちゃうの俺。
風が蒼汰の髪をどんどん乾かしていくが、ゾンビ達の腐った匂いのせいで吐き気がする。
あれから10キロは進んだだろうか。靴と地面が擦れる音をさせ少女は急減速した。スニーカーからは焼け焦げたような臭いが漂ってきた。蒼汰が顔をあげると10階建のビルが正面に見える。
屋上からは光が漏れていた。
──人だ!電気だ!
人の暮している形跡に、蒼汰は涙が出そうになった。思わず歓喜の声をあげてしまう。
「やった!人だ!人がいるぜ!」
そして少女にあっさり叱られる。
「しっ!まだよ。今は死人達が集まってきちゃうから」
「はいっ……」
「後、少しだから……」
彼女は休まずにビルの屋外階段を駆け上がっていく。額から流れ落ちる汗が、蒼汰の胸に落ちる。幸い階段にはゾンビはいなかった。
7階まで階段を登ったところで彼女は足を止めた。──どうしたんだろう?と思ったら7階と8階をつなぐ部分の階段が壊れているようだ。手すり部分しか残っていない。
「階段がないのか……!」
「大丈夫。私がこの部分を壊しといたの。階段を残しておくとゾンビ連中が上がってきちゃうし」
と言うと彼女はフワリと舞う。同時に強烈な重力を蒼汰は感じる。
「わぁっ!」
そしてなんなく踊り場に着地した。
──なるほど……こりゃアイツらには上がってこれないわ。
ここでようやく少女は蒼汰を降ろした。肩が凝ったらしく、肩に手を当てながら腕を回している。
「ふぅっ。男の人はやっぱり重かったよ〜」
階段の踊り場にはビニール袋の束と箱が置かれていた。少女はここでビニール袋に靴を入れると、箱から出した内履きに履き替える。そして蒼汰にも靴を履き替えるよう指示する。これもウイルスを持ち込まないための処置だった。
靴を袋に入れながら、彼は恐る恐る尋ねた。
「あの〜。俺はもう抱っこされなくてもいいわけ?」
「うん。ここからはもう安全だよ。後は自分の足で上がっていってね。それなら貴方にもできるでしょ?」
と言うと少女は後ろに手を組んで、軽やかに階段を上がっていく。蒼汰も後について階段を上がっていくと、すぐに屋上に出た。
イカ釣り漁船のライトのような光源が屋上に設置されているらしく、暗闇に慣れた目に眩い光が入る。(これはガソリンランタンの光である)
手で光を遮ると人がいるのが分かった。
「お……おお!本当に人いるよ。万歳!助かった!ありがとう!」
ガッツポーズで喜ぶ青年をみて、少女は少し微笑んだ。
「彩奈さん!」
2人の子供が少女の傍らへと駆け寄ってくる。どちらも女の子だ。少女はすぐさま指示を出した。
「お湯を持ってきて。ちょっと体と服を拭かないとね。それから、あの人にも濡れたタオルを渡しておいてね。結構、返り血を浴びてたから」
背の大きな方の女の子が蒼汰をチラチラ伺いながら、不安そうに尋ねる。
「この人って……男の人じゃないですか。一体どうしたんですか?」
だが彼女は微笑むだけで何も答えない。背の大きな子は察したようで、それ以上の詮索はしなかった。
「彩奈ちゃん。お湯だよ」
小さな女の子から薬缶とタオルを受け取ると、彼女は「ありがとう」と感謝して塔屋の後ろへと消えてしまった。そのすきに蒼汰は子供達に尋ねることにした。
「ここには君たちしかいないの?女の子だけかい?」
小さなお下げ髪の子が答えてくれた。
「うん。今は女の子が全部で4人いるだけだよ」
「今は」という言葉が不思議だったが、すぐに理由は明らかになる。
「ちょっと前にオジサンがもう1人いたんだけど、あんまりイバリンボウだったから彩奈ちゃんがブン殴って荒川の向こうに捨てちゃった」
「えっ!捨てた!?」
「うんっ。ポイッと。それからは彩奈ちゃんは『もう男の人は助けない』って言ってたんだけどなあ……」
ニコニコと笑顔で語るおさげ髪の女の子が怖い。
──今頃イバリンボウのオジサンは荒川の向こう側でゾンビになってるんだろうな。
蒼汰の体はブルッと震える。明日は我が身ではなかろうか。
──おお……。なんとなく分かってはいたがあの女、清楚な顔をして性格はちょっとヤバイな。この終末世界を生き抜いてきただけのことはある。
今度は背の大きな女の子(小5ぐらいだろう)が薬缶を持ってきた。蒼汰にもゾンビの肉塊がついてるかもしれないということで、体と服を拭いてほしいとのことだった。
「あの……その前に質問してもいい?ここは一体なに?君たちはどういう関係なの」
「私達は皆、彩奈さんに助けられたの。そしてここで共同生活を送ってるんです。ここだけはゾンビ達が襲ってこれない場所なので」
ふと転落防止用の柵の向こうに目をやれば、遠く東京港で起きてる火災が見える。小笠原からの貨物船を焼き尽くす炎だけが微かに……。
「そうか……。ここから俺達の船が見えたんだ」
すると闇の中からメガネをかけた前髪パッツン女子が現れた。歳は中1といったところだろう。本を抱えながら、苛立たしそうな表情を浮かべて蒼汰に近づいてくる。
「愛ちゃん達と雑談してないで早く体を拭いてください。私達にまで感染しちゃったらどうするんですか!」
いきなり強い口調で怒られて戸惑ったが、正論なのでぐうの音もでなかった。
「はいはい。拭きますよ」
急かされ濡れタオルで顔を拭う。
「キレイに拭いた方がいいですよ。もしも貴方がゾンビになっちゃったら、彩奈さんは容赦なく貴方を殺しますから。それはエゲツなく!」
「わかったよ!もうっ。清潔になるからちょっと待ってなさい」
蒼汰はなるべく子供達からから離れて体を拭くことにした。
──しかし……こんな処置で大丈夫なんかな?まあ他に方法はないけれど。
すると遠くから何やらヒソヒソ話が聞こえてくる。それは眼鏡の中1の声だった。
「あの人を受け入れないほうが……彩奈さんにとって良いと思います。これは私の……勘です」
「澪ちゃん……」
蒼汰の顔が歪む。
──くそっ。助けてもらったのは良いけれど、あんまし歓迎されてないな。特にあの眼鏡の奴からは。
すると蒼汰を救出した少女が隣にやってきた。しかし彼の方はまだ半裸である。
「ちょっ。早いっての!まだズボン履けてないから」
慌ててズボンを履くと、少女は口を手で押さえて笑っていた。
「ねえ、こっちに来て。自己紹介もまだじゃない」
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