第3話 事故

 7月某日。時刻は午前10時半。一行を乗せた貨客船は無事に東京港フェリーターミナルへの接岸に成功する。上陸を任せられた決死隊のメンバー達は、デッキの手すりの前に立ち、緊張の面持ちで埠頭の様子を見つめている。


 眼前に広がる駐車場には百台以上の乗用車と、無数のコンテナが放置されている。──壮大な廃墟──これが東京港を間近でみた一同の感想だった。



 決死隊と言っても4月までは普通の大人達だったのだ。誰もこんな危険なミッションをやりたいわけではない。



「船を降りれば新黒死病のウイルスが蔓延してる死の世界ですか。全く恐ろしいところに来ちまったもんですな我々は。くわばらくわばら……」



 島で飲食店を経営していた春日という男が口火を切った。それを受けて元教師の老人がリーダーに尋ねる。



「本当に都心部は全滅してるのかね?それは正確な情報なのか」


「ああ、壊滅したと聞いてる。動いてるのは全てゾンビと見ていい」


 

 青い作業着姿の大人がタバコを咥えながら不機嫌そうに呟く。

 


「五大港の一角がこの有様じゃあ、納得だよ」



 恐るべき死の大地に直面し、隊員達の気持ちは沈んでいる。特に岩井の顔は青ざめている。顔を歪めながら、小声で蒼汰に愚痴った。



「あ〜嫌だ嫌だ。最悪だよ!降りたくねぇよ、早く帰りてぇよ。どこもここもウイルスに汚染された廃墟じゃねーか」


 


 ──こんな岩井は珍しいな。と蒼汰は思った。



 しかし父島以外の陸地を初めて肉眼でみた蒼汰の反応だけは皆とは少し違っている。ウイルスへの恐怖もあるが、圧倒的な景観への感動の方が勝っているのだ。



「そういや竹芝駅ってどこだ?お前ら、楽しそうに写真撮ってやがったよな。ちくしょー」


「今、ゆりかもめの話かよ。今はそれどころじゃ……あっ!」



 何かに気づき、蒼汰の肩を叩いてコンテナを指差す。



「向こうで人影が動かなかったか石見!?い……今のが噂のゾンビってやつか?」


「え!どこだ!?俺にはそんなの見えなかったぞ」



 すかさず先頭のリーダーから激が飛ぶ。



「お前らくれぐれもゾンビに噛まれんじゃないぞ。島でゾンビになられても困るからな。噛まれた奴はここに置いてくぞ」



 ──冗談だろ、最悪だな!



と皆が思っている。今の激でメンバーのモチベーションは一気に下がったかもしれない。でもそれが厳しい現実なのだ。


 決死隊のリーダーを任されたのは小山和夫という漁師。これは島民全員で決めたことだ。彼がリーダーであることに誰も異論はない。年齢は40代で、最年長というわけではない。しかし漁師として数々の修羅場をくぐってきたので年上のメンバーからも信頼されている。



 リーダーは双眼鏡を覗き込んでターミナルの安全性を確認する。



「ちっ。チラホラいやがるねぇ……。動く死人どもが」



 蒼汰はこれまでゾンビの存在を心のどこかで疑っていた。しかしリーダーをみているだけで、ゾンビの実在を実感できた。 ──この駐車場にいる、と。



「思ったりよりも車とコンテナが多いな……。意外に死角があるぞ」



 双眼鏡を外し、リーダーは額の汗を何度も拭う。暑さもあるのだが、それ以上に緊張している。



「搭乗口付近にはいないから安心しろ。しかし駐車場にはゾンビが3体ほど確認できた。もしもそいつらが近づいてきたら皆で潰せ。安全を確保した上でトラックを動かさなきゃならん。じゃあいくぞ!全員で生きて戻るんだ」



 全員で力強く掛け声を出す。



「おお!」



 いよいよ決死隊は本州の土を踏む。10名は感染防止用のフルフェイスヘルメットをかぶり、上陸に備える。


 リーダーの小山を先頭にして1人1人、注意深くタラップを降りた。(タラップと言っても船側で用意した簡易的な鉄板に過ぎない)リーダーは振り返りメンバーに告げる。



「気をつけろよ……。ただの死体とゾンビの区別がつきにくいぞ。倒れてる奴にも注意しろ」



 否が応でも蒼汰の緊張が高まる。


 埠頭のそこかしこに死体が転がっている。車の助手席にも白骨化した死体があった。どこも見るに耐えない凄惨な光景で、能天気だった蒼汰も今更ながらショックを受ける。



「マジかよ……子供の死体まであるじゃんか」



 後ろを進む岩井は、震える手で友人の肩を叩いた。



「なっ!なっ!だから言ったじゃん。ヤベーんだって石見!お前、反応が遅いよ!」



 ──世界はほぼ滅亡している──ということがようやく実感できた。大きく欠損している屍が多数あり、人食いゾンビの犠牲者であるらしい。凄惨な遺体を目にしてメンバー全員が息を呑む。



「ゲホッ。嫌な臭いがするもんじゃな。ヘルメットの中まで入ってくるわ」


「まったく冥土に足を踏み入れた気分ですよ」


「ひでぇ臭いだぜ。銃で両手が塞がってるから鼻もつまめねえや」



 蒼汰と岩井を除いたメンバーは長銃を構えて周囲を警戒する。(決死隊員のうち8名は長銃を所持している。その長銃は抜け殻となった父島の自衛隊基地から拝借したものである)


 残る蒼汰の武器は金属バット、岩井は刺又である。特に金属バットは頼りなかった。蒼汰は岩井に向かって小声でボヤいた。



「金属バットて……。全然リーチないよな。やっぱり交換してくれよ岩井」


「お前がじゃんけんで負けたんだろ。文句言うなよ」


「ちぇっ。刺又2本ぐらい用意しておいてほしいよな……」


 

 ボヤいてる内に、周辺を警戒しながらの荷卸作業が始まった。


 船のクレーンで甲板に積んである軽トラックと中型トラックを埠頭に降ろすのである。現地調達でも良かったのだが汚染されている危険性を考慮し、わざわざ島から車両を運んできたのである。



「オーライ!オーライ!」



 遠くフェリーターミナル駅の傍で、影のようなものが動いてるのが見える。──あれがゾンビの影なのだろうか?しかしこちらに近づく気配はなく、作業は滞りなく終わる。



 ここから先、決死隊は二手に分けられることが決まっている。大人を中心とする7人は中型のトラックに乗り込む。


○○○


 蒼汰達の任務は医薬品の回収だが、別働隊の任務は貨客船への燃料補給だ。これに失敗すると父島に帰ることはできても、二度と本州には来れなくなってしまうだろう。



 ただし燃料を補給するには、バンカー船と呼ばれる小型タンカーが必要になる。しかしバンカー船を見つけた上で、さらに製油所に寄ってC重油を満タンにしておく必要もある。本来なら甚だ達成困難なミッションとなるはずだった。ところが6月に無線を通じて父島に吉報が届いた。


 (島のアマチュア無線家が、都心で生存していたアマチュア無線家から貴重な情報を得たのだ。これは都心部壊滅前の話である。今は呼びかけに応じないので都心部の通信相手は死亡していると思われる)



 それによると、東京フェリー埠頭の西側岸壁には重油が目一杯積み込まれたバンカー船が放置されているというのだ。別働隊のメンバー7人の役目は、このバンカー船を奪取し、貨客船に燃料を補給することなのである。


 それ故に船の操縦に精通しているメンバー(漁業関係者、貨客船の船員)が選ばれている。



○○○


 別働隊が乗った中型トラックを見送ると次は3人の番だ。小山隊は軽トラに乗って芝浦埠頭に向かうことになる。


 

「石見、岩井!行くぞ。はやく荷台に乗れ」



 リーダーの指示に従い、車の荷台に飛び乗る蒼汰。ところが岩井はなかなか上がってこようとしない。何故か一点を見つめて固まってしまっている。



「い……石見。あれ……あそこ……」


「な……なんだよ。早く乗れよ」



 岩井が何を言いたいのかはもう分かっている。



──ついにゾンビですか。



 恐る恐る岩井の指差す先をみると、遠くのワゴン車の陰から、真っ黒なゾンビが現れる。そのズタボロの服から察するに同世代の男らしい。しかし顔面には目と鼻が見当たらない。



──な……なんだ、この『のっぺらぼう』は……。



 

 不気味なゾンビはゆっくりと軽トラに近づく。



「な……なんでアイツは顔がないんだよ石見……」



 岩井は震えながら尋ねた。



──俺が知るかよ。



 と言おうとしたが恐怖で声が出てこない。



 フラフラと歩いていたゾンビだったが、奇声を上げると一変。突如として陸上短距離選手のように腕を振り、スピードをあげる。



「ふら……ふらビィビィぇぇぇぇぁぁ!」


「な……なにっ!」



 意味の分からない奇声を発しながら、あっという間に迫ってくる。



「コ……コイツ荷台に乗り込む気だぞ。岩井!刺又で押さえろ」


「お……おお!」



 2人も荷台から降りてゾンビに立ち向かう。


 まず岩井がリーチのある刺又をゾンビの胴体に押し当てる。所詮はゾンビ。真正面から突っ込んでくるので、刺又をかわせない。それでも顔無しゾンビは腐った腕を振って前進を続けようとする。



「リィぃヨンにょドオピンげベラ、バーシュッ」


 

 ゾンビは体の損傷も厭わずに力を増していく。



──ちょっ……嘘だろ。こんなに力あんのかよ!



 気を抜くと岩井の方が後ろに倒されそうになる。



「石見ぃぃぃ。早くっ、早く」


「ずあああっ!」



 蒼汰は渾身の力で金属バットを振り下ろす。グシャッという音がして『のっぺらぼう』の頭部は裂けて2つに割れる。次に水平にスウィングするとゾンビの頭部は首から千切れて、皮一枚つながった状態で背中側にぶら下がった。


 しかしこの時、多量の返り血が2人のヘルメットに付着してしまう。この血には致死性のウイルスが含まれているのだ。



「うええぇぇぇっ。おえええぇっ」



 蒼汰はシールドを上げて戻した。頭蓋骨を潰してしまった感触に耐えられないのだ。岩井はどうにか『のっぺらぼう』を押し倒すと、早々と軽トラの荷台に上がって撤退してしまった。



「ひゃああっ!」



 『のっぺらぼう』は倒れながらもがいている。なんという生命力。頭部を潰されても失っても活動をやめない……。ゾンビの腕が蒼汰の足を掴もうとしたので、再び金属バットで叩き潰す。恐怖のあまり滅多打ちにしてしまった。



「やめろぉ!近づくなぁ!」



 動かなくなるまで腕を潰すと、血液と吐瀉物塗れのヘルメットを路上に投げ捨てた。口元を拭い、急いで荷台に飛び乗る。



「リーダー!リーダーッ!はやく車を出してくれ。ゾンビが来やがった」





○○○


 『のっぺらぼう』は地べたを猛烈に這いずり回って蒼汰達に迫る。あれだけ体を損傷していても、生者の臭いのする方向に突き進むのだ。しかし車はなかなか発進してくれなかった。



「早く!もう来てますよ」


 

 荷台からリアガラスを何度も叩いたが車は動かず、動揺する小山の声だけが返ってくる。



「分かってるっ!分かってるんだ!」



 気づけば車体の前面側からも別のゾンビが迫っていた。──その服装から生前は港湾関係者だろう──



 ようやく発進したものの、すぐにエンストを起こしてしまう。久しく運転してこなかった勘を取り戻すべく、島で十分にマニュアル車の運転を特訓していたのだが、この修羅場では焦って上手く発進できないのだ。



「くそっ!クラッチの加減が……。だからオートマ車にしてくれつったんだよ!」



 4度めのトライでようやく発進する。──助かった。蒼汰は胸をなでおろす。



「いくぞぉぉ!掴まってろよ」



 リーダーは軽トラを急発進させる。危うく2人を荷台から落としそうになるほどに。

そのまま前方から猛然と迫っていた港湾関係者のゾンビと激突。勢いよく跳ねる。



「うわぁっ!なんて運転だよ、荷台の俺たち忘れてんのかよ」



 後ろに倒れたゾンビは下敷きとなり、車体に上下方向の衝撃が走る。タイヤが死体を乗り越える感覚が伝わってくる。荷台の蒼汰と岩井は、振り落とされないよう側アオリに掴まるだけで精一杯だ。



──初っ端から最悪だよ。



 もう一回、大きな音がして上下方向への衝撃が走る。しかし何を轢いているのか分からない。正直、もう何でも良かった。



 最初の危機を乗り越え、車はは埠頭を進んでいく。コンテナ集積地を抜けてエリアを北上するにつれて、思いの外に平凡な景色に変わっていった。


 道路の街路樹は真夏の日差しに照らされて青々しく、道路に沿って並び建つ運送会社の倉庫は全く廃墟には見えない。それはただの港湾の日常風景だった。


 

 海風が心地よい。蒼汰はようやく気持ちが落ち着いてきた。



「はぁ……はぁ……。いきなり酷い目にあったな。ていうか先に逃げんなよ岩井」



 岩井は透明シールドを上げて顔を出した。その目は蒼汰を心配している様子だった。



「お前、ヘルメット捨ててきて大丈夫かよ」


「もういいよ。汚れちまったし」



 車はこのまま青海コンテナ埠頭に向かい、医療品その他生活必需品を探しだすはずだった。だが有明埠頭橋が見えてきたところで異変が起きる。




──な、なんだ!?



 車体が大きく左右に揺れ始め、運転席から小山の叫び声がした。



「うわぁっ……。ハンドルが動か……なんでだ!」



 次の瞬間、急ブレーキとともに軽トラックは突然に激しく横転し、1回転してそのまま電柱に激突。天と地がひっくり返った。



「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」



 これ以降、何が起きていたのか蒼汰には記憶がない……。



 気づけば路傍に仰向けに横たわっていた。



「う……いててて」



 目を開けると紫がかった黄昏の空が見える。どうやら夕方になってしまったようだ。ゆっくりと体を起こすと軽トラの無残な姿が見えた。



──事故ったのか。



 左肩が少し痛んだのでさすってみる。しかし他はどこも痛くない。どうやら大した怪我はしていないらしい。車から投げ出されたにもかかわらず、幸運であった。



「ふうっ……」



 足を動かしてみると多少痛む。しかしこの感じならどうにか動ける。



「リーダー。岩井。どこだ……」



 落ちていたバットを拾いあげ、ヨロヨロと車に近づいて、中を確認してみる。割れた窓ガラス越しに、ハンドルに頭部を打ちつけて動かなくなっている男が見えた。それはリーダーの小山だった……。



「リーダー!大丈夫ですか」



 窓ガラスを叩いて起こそうとするも、小山は反応しない。


 運転席のドアは開かないので、やむを得ず金属バットでフロントガラスを叩き割る。そしてリーダーの体を無理やり引っ張りだし、路上に寝かせた。ヒビの入ったヘルメットをつけたまま首が折れているようだ……。死後硬直だろうか、体も不自然な体勢で固まってしまっている。



 干からびた血に塗れたその体は恐ろしく冷たい。蒼汰の体はワナワナと震えた。



「し……死んじまってる……。こんなバカな……」



 小山の生存は絶望的だ。遺体をそのまま道路に置き。岩井を探すことにした。しかし軽トラの荷台には誰も乗っていない。



「岩井……。岩井どこだ!返事しろよ」



 いくら探しても友人はどこにも見当たらない。苦し紛れに助手席側に回ってみると、後輪の下でなにやら黒いものがモゾモゾと動いている。



「ま……まさか岩井か……」



 すぐに屈んで車体の下を確認すると、正体は滅多打ちにしたはずの『のっぺらぼう』であった。



「な……なにっ」



 首無し『のっぺらぼう』はシャーシにしがみついたまま、軽トラックの後輪に右足を巻き込まれて動けなくなっている。これが事故の原因だったようだ。


 (つまり車がゾンビと衝突しスピードが落ちたところで『のっぺらぼう』がシャーシの下に潜り込み、そのままシャーシに掴まっていたのである)



「車の下に潜り込んでたのか……。いつの間に……だよ……」



 再び運転席側に回ると車内からリーダーの長銃を取り出す。──安全装置は外されている。



「くそっ!」



 蒼汰はもう何も考えず、車体の下のゾンビに向かって銃を撃ちまくった。だが全弾撃ち込んでも『のっぺらぼう』は動き続けている。



「なんだよ!銃なんか役に立たねえじゃねえか!」



 蒼汰は怒りに任せて銃を投げ捨てる。岩井を探し出したいが、一人の力では無理だと判断し、貨客船に戻ることを決断する。



 軽トラに背を向け南バージに向かって歩きだすと、車は炎上しはじめた。



 ゾンビがその後、どうなったのかは誰も知らない。

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