第8話 Rainy Lady

仕事が早く終わった。珍しく、皆定時に帰ろうと努力していた。私もマグカップに入った、残り半分くらいのコーヒーを飲み終えたら、帰ろうと考えていた。


数分後、マグカップを洗い自席に戻り、隣の同僚に、「もう集中力切れたから帰るね」と一言告げると、私は身の回りの物を鞄に詰めた。


目の端に彼が帰り支度をしている様子が見えたが、私とまた同じタイミングになってしまうのを考えて、思いとどまるかもしれないと思った。それでもこれ以上私もとどまることはあまりにも不自然だったので、あっさり周りに挨拶すると、ドアを開けた。


そのドアが閉まる瞬間に、内側から低い声で「お疲れ様です。」と言う声が聞こえた。彼が同僚に挨拶したようだった。私は振り返らず廊下を歩いたが、ドアの音が聞こえた瞬間、廊下の電気が消えた。


私ははっと振り向くと、彼がバツの悪そうな顔をして、間違えて消したスイッチを点けた。電気がついた。


「あ、見たぞ!」

「間違えて消しちゃっただけですって。」


彼はそう言いながら私の横に歩いてきて、一度私たちは別々に更衣室に入った。もちろん彼がさっさと帰ってしまうかもしれない。実際ドアを開けると、先に出た彼は既にそこにはおらず、私はちょっと急ぎ気味で下に降りた。


彼はまだ靴を履き替えていた。私は彼と話しながら自分の靴を外に出すと、


「あの、傘取ってください。」と、強請った。


「どれですか。」


確かに何の特徴も言わなければ分からないか。自分の傘の柄の色をなんと形容したらよいか分からず、もたもたしていたが、彼は私が「えーと・・・」と言っている間に、私の傘を指さして、


「これですか?」と差し出してくれた。


「ありがとうございます。」


私たちは外に出た。


「思ったよりがっつり雨だ・・・湿気が増して、少しこの状況が収束しないかしら。」


世の中は前代未聞、正体不明の疫病が蔓延り、私たちの身近にもひたひたと忍び寄ってきていた。インフルエンザと同じく、湿度や気温が高いと弱まったりはしないものか・・・。


「それいつも思ってますよ!流れないかな~とか。本当参りますよね。」


彼は私が何気なくつぶやいた疑問に、珍しく親身になって同意してくれた。


庇があるところまで出ると傘を広げた。私が傘を差して門を出るまで彼は待ってくれた。そこそこの雨の中、私たちはいつものように並んで歩き始めた。彼の傘は機能性が高い良さそうな傘だった。こういう所にこだわっているのも、私が彼を好きな理由の1つだ。


私たちはそのまま駅に向かい、5分程度電車が来るのを待った。4月にしてはまだ寒く、雨のせいで体感温度はより低く感じられる。傘の柄を持つ私の指はどんどん冷えてきた。


最近、ネットの記事で「脈ありなら彼のつま先はあなたに向いているはず!」みたいなのをよく見かけることが増えた。そのためちらりと目線を足元に落としたが、彼は体もつま先もまっすぐ前。これじゃあ全く脈なしだろう・・・一方で、彼は私と喋るとき、しっかり目を見て話してくれる。その目から嫌悪感は全く感じない。誠実さと穏やかさを時々感じることができた。


電車に乗り、いつもより空いていた座席を目にし、


「座りますか?」と、声を掛けた。


私たちは3人掛けの席に腰を下ろした。彼は私との間にちょっとだけ隙間を作り、肩が触れないような位置に落ち着いた。ちょっとショック・・・このご時世だからくっつかないようにしているのか、社会人として女性と密着しないよう意識しているのか、はたまた単純に私が嫌いで避けているのか。


それから他愛もない仕事の愚痴や休日に何をするかなど、主に彼が色々と話してくれた。実家に帰ったこと、予定よりも早くこちらへ帰ってきたこと、家が新しくなり、とても快適なこと、仕事の上司が優柔不断でストレスが溜まること、世の中の流れで家で過ごすことが増えたけど、逆に出勤する理由がなくて困っていること・・・。今、冷静に思え返せば、結構多くの話題を提供してくれていた。前は天気の話と仕事の話が多かったけれど、それから比べると大躍進だ。


「でも、本当に寒いですよね。元々冷え性だから体温もなかなか上がらないし。低体温だと免疫力が弱いから、本当はもうちょっと高くしたいんですけどね。」


私はかじかんだ手の感覚が辛く、そんな話題を振った。そしてその瞬間、思いついてしまったことを、咄嗟に行動に移した。


「手が冷たすぎて・・・ほら。」


そういうと私は左手を彼の前に差し出した。彼はそれとほぼ同時に右手の甲を私の左手の下に滑り込ませ、私はそのうえに軽く手を置き、すぐに離した。


「うわー、冷たい・・・でも分かります。うちの親も冷え性でそんな感じだし。」


彼は私の手の冷たさに心底驚いて、そう述べた。


正直彼がどう思ったのかは分からない。もしかしたら好きでもない女性に触られて嫌な気分だったかもしれない。なんだかソワソワしてこちらも見ないが、声のトーンは特に変化がなかった。


つま先の件にしても、目を合わせる件にしても、彼は私を嫌いなのか、普通なのか、それ以上に思ってくれているのか、全く何を考えているか読めないのだった。


内心、私が彼に意図的に触ったことで、ドギマギしてればいいのに、と思った。雨の力を借りないとボディータッチもできない。だけどもう1度くらいどこかでさりげなく、挑戦してみようかな。その時はもっとしっかり彼の反応を見て、作戦を練らなきゃ・・・一緒に帰るだけじゃそろそろ物足りないな、と少し欲深い気持ちが顔を覗かせた春雨の夕方だった。

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